海の話 海だ。
轟々と耳元で音を立てる海鳴りに混じって潮騒が聞こえてくる。ブーツの先端が柔らかい砂浜に沈みかけたところで松井ははっと顔を上げた。
空は曇天。白い砂粒と小さな貝殻に混じって細い木の枝が所々から生えた砂浜に松井は一人ぽつんと立っている。ザザーン、ザーン、と押し寄せる波が呆然とする松井の足元を濡らし、そしてまた引いていった。
「ここ、は…」
海から吹いてくる強い風は容赦なく松井の髪や服を巻き上げては逃げていく。バサバサと自身の頬に当たる髪の毛が痛い。風と踊るように暴れる重たい外套をそのままに、松井は目の前に広がる光景にゆっくりと目を見開いた。
「海だ…」
「海だね」
潮の匂いはしない。
ぽつりと呟いた声に予想外の返事があった。びくりと体を跳ね上げたその隣で、いつの間にか主である女性が松井の隣に佇んでいる。靴が波に飲み込まれるのにも構わず遥か地平をぼんやりと眺める彼女はやがてその顔を松井へ向けた。
「ここは静かでいいね。松井くんもそう思わない?」
飽きることのない海鳴りと潮騒、太陽も昇らない薄暗い空に覆われた砂浜は確かに静かではあったけれど、しかし何処までいっても寂しく孤独だった。ザザーン、ザーン、と酷くうるさい海鳴りに紛れて波の音が留まることなく耳に届く。
どう返事をしようか迷って、結局出来なくて松井は風に遊ばれる髪の毛を押さえることで彼女への言葉を誤魔化した。砂浜に打ち上げられる波が幾度も綺麗な白い模様を松井たち二人の足元で彩る。
けれどそれだけ。ここはどこまでいっても寂しい場所だ。
ほう、と吐き出された松井のため息に気付いた彼女がするりと松井の外套の下に潜り込む。轟々と喧しい海鳴りから隠れるようにすっぽりと松井の体に収まった、遥かに小さく華奢な体がまるで慈しむように松井の体をゆっくりと抱きしめた。あやすように背中に回された細い腕がぽんぽんと松井の体を叩く。
「…僕はまだ、貴方に言えないことがたくさんあるよ」
風に巻き上げられた砂が目に入ったのかもしれない。体に感じる彼女の体温の温かさに目頭が熱くなるのを感じながら、松井はおずおずと彼女の体にゆっくりと腕を回した。
「いいよ。言いたくなったら言えばいいし、言いたくないのなら言わなくても。松井くんの好きにしていいんだよ」
松井は彼女に触れたことさえない。足元に寄せては返す波に温度はない。冷たいはずの爪先も、身に当たる厳しいばかりの海風も、松井の体に寄り添う彼女以外に今何も温度はなかった。
なんて都合の良い夢だろう。なんて都合が良くて、浅ましい夢だ。
喉の奥から嗚咽が漏れる。ぽんぽん、ぽんぽんと波の音と海鳴りに紛れない温かな温度は優しく松井を抱きしめている。
「私ね、海が好き」
「……僕も、好きになれたらいいな」
宝物を明け渡すようにはにかみながらこっそり囁かれた言葉に松井もそっと思いを返す。
松井の記憶にある海はこんなに穏やかなものではない。穏やかなものではなかったのだ。壊さないように優しく彼女の体を抱きしめればその下で小さな笑い声が弾けた。
貴方の好きなものなら僕も好きになりたい。そう願う事だけは許されるだろうか。松井の震える体に寄り添う温もりを抱きしめながら見下ろした海はいつか見た赤色ではない。
轟々と、耳の奥底へ響くように届く海鳴りはまだ止まない。