肥前くんのえっち まずい、と思った時にはもう言葉が飛び出していた。
「ひ、肥前くんのえっち!」
「………へぇ?」
「ひっ」
怖いくらいにすとんと抜け落ちた表情。口角だけが僅かに上げられた口元に、たっぷり三秒を置いてから吐き出された地を這うような低い声。
違うのだ。言い訳をさせてほしい。決してこんなことを言うつもりではなかったのだと。けれど口から飛び出てしまった言葉は到底取り消せるわけもなく、背中には嫌な汗がダラダラと伝っていく。
じゃあ私はこれで、とは勿論ならなかった。何故ならそもそもの話、私は今肥前くんに進路を塞がれている。進路というか何というか、言ってしまえば廊下の片隅で少女漫画よろしく壁ドンされている真っ最中だったのだ。
肥前くんは脇差だけれど、思っている以上に背が高い。他の脇差はみんな私と同じくらいか、ほんの少しだけ背が高い程度なのに比べて肥前くんは頭一つ半は高いところに顔がある。だからそんな人に壁際に追い込まれるとそこそこ圧があるし、何より距離の近さで私の心臓は大変なことになってしまうのだ。
「なんかちょっと近くないですか…?」
蚊の鳴くような声で抗議しても肥前くんは離れてくれないどころかむしろ一歩分距離を詰めてくる。だから私は上がりそうになる悲鳴を必死に飲み込むしかできないのであった。近いんだよ、距離が。物理的に。私が少し顔を上げたら肥前くんの顎にキスしてしまいそうな程には今私たちの距離は近い。
いやまぁ一応お付き合いをしている間柄ではあるのでどれだけ距離が近かろうが壁ドンされていようが問題ではないのだけれど。要するに恥ずかしかったのだ。私が。誰もいない廊下でそれとなく距離を詰められ恥ずかしさのあまり逃走、壁際まで追い詰められて壁ドンされた上での「えっち」発言なのである。肥前くんは悪くないのに酷い言われようだ。
「えっち、ねぇ…」
「あっいや、えっと、違うの…そういう意味で言ったんじゃなくて…!」
じゃあどういう意味で言ったんだと問われたら答えられないので聞かないでほしい。咄嗟に口を衝いて出た言葉に意味も何もないだろう。どれだけ肥前くんの腕の中から逃げ出そうともがいても所詮は人の子、ぴくりとも動かない彼の体の前では無力なのである。
今まで肥前くんにここまで距離を詰められたことはない。それは私があまりにも照れて逃げてしまうからかもしれないし、彼も彼で距離感を測りかねていたからなのかもしれない。ともあれ私が少しでも逃げの姿勢を見せれば深追いはせずそっと離してくれていたのだ。そう、今までならば。
わたわたと己の腕の中で暴れる私をどう思ったのか、先ほどよりも吊り上がった口角と細められた目が恐ろしい。どことなく楽しげな顔をしているから機嫌が悪くなったわけではなさそうだ、と安心したところで自分の状況が少しも安心できるものではなかったのだと思い出す。肥前くんが離れてくれる様子は今のところ全くないし普通にピンチだ。
何度も言うけれど肥前くんとの距離が本当に近い。さっきからずっとうるさいくらいに鳴り響く心臓はそのうち過重労働で止まってしまいそうだし、いつになく近い距離に動揺しすぎて視線はずっと明後日の方向を彷徨っている。
だというのに肥前くんは追撃を止める気は更々ないようで、真っ赤に染まった私の頬を手の甲でそっと撫でてきた。恐ろしすぎる。これ以上の過度な接触はご遠慮願います。
けれど割と切実な私の震え声は彼の笑いでなかったことにされてしまうのだ。蛙が轢き潰されたような呻き声が喉から出たとして、肥前くんはそれすらも楽しそうに見下ろしているのだからタチが悪い。
「おれがえっち、っつったか」
「い、言ってないです……」
「嘘つくなよ」
つぅ、と指先で耳から顎先までなぞった肥前くんはそれはもう今までにないくらいに楽しそうな顔をしていた。
「どんな想像したのか、これから部屋でじっくり教えてもらおうじゃねぇか」
この助平娘、と耳元で囁かれた私の腰が抜けてしまったのは言うまでもない。