カンフェス無配
「これ、ハヤトの分な」
俺の分。そう言って渡された箱はいつもの箱よりもずっと小さいものだった。ふたつかみっつくらいしかドーナツが入らないような気がする。でも俺の分ならそれでいいのか。
ハルナが俺にドーナツをくれるのはいつものことだけど、わざわざこんなふうに渡してくるなんて珍しく思えて、不思議にも感じた。
「早く開けてよ」
箱を観察していると、なんだか落ち着かない様子でそう急かされる。そんなにイチオシのドーナツなんだろうか。
「もしかして、期間限定? CMでやってたやつ」
「うーん……ちょっと違うけど、絶対に今日食べてほしいやつ、かな」
ハルナがそんなふうに言うドーナツはどんなものなんだろう。それも、俺にって箱を分けたりだなんて特に気になって、ワクワクした気持ちで箱を開けた。すると、そこに入っていたのはドーナツじゃなくて。
「……指輪?」
「知ってる? 今日プロポーズの日なんだって」
指輪。プロポーズ。と、いうことは。
理解しようとする前に視界が滲む。ハルナを見上げると、ぼやけた向こう側で微笑んだのがわかった。いつも朗らかに笑っているのとは違って照れくさそうに眉尻を下げて、優しげに細めた瞳は俺の表情を伺っているようだった。
「ハヤト専用ドーナツ、気に入ってくれた?」
***
「な、嵌めてみてよ」
ハルナの優しい声が聞こえる。
震えた手から箱が取り上げられ、俺から中が見えやすいようにとこちらへ向けられた。ハルナ曰く"ドーナツ"に触れると、初めて触れたそれは少し冷たさを持っているように感じた。右手でゆっくりと拾い上げるようにして、落とさないように大切に反対側の指へと近づける。
その間も目から溢れた涙は止まらなくて、時折上手く息ができなくなる。しゃくりあげると、指輪は俺の指から離れていく。何度挑戦しても指が震えて、上手く嵌めることができない。
俺が困っているとき、ハルナはいつでも助けてくれる。こんなときでもそれは変わらなかった。貸してという優しい声とともに、指輪がハルナの手の中へと入る。代わりに俺の右手には箱が戻ってきて、それを胸に抱えながらハルナが指輪を持ち直すのを見つめた。
手をとって指輪を嵌めるその様は、何度もドラマやプロモーション映像で見たものと同じだ。でも、指輪を嵌めているのがハルナの手で、嵌められているのが俺の指だということは他のどこにもない。そのことにまた胸の奥が熱くなる。
「でーきた。ってハヤト、まだ泣いてんのか?」
「だって……っ、うれしく、て」
ぐす、と鼻をすすると、ハルナの指が絡められる。額を合わせて覗き込んでくる瞳は俺の大好きな柔らかい色をしていた。なかなか泣き止まない俺を落ち着かせるかのようにきゅっと握られた指の間には、"ドーナツ"がきらりと光っていた。
「これ、ハヤトの分な」
なんの前置きもなく、小さな箱を手渡した。見た目通り中に入っているのがドーナツならふたつかみっつくらいしか入らないくらいの大きさで、外見はドーナツショップのものそっくりな箱。
ハヤトは何の疑いもなく受け取ってくれたけれど、不思議そうな顔でその箱を眺めていた。あまりじっくり見られると中身がバレてしまうんじゃないかって不安になる。それと、ハヤトがちゃんと喜んでくれるのかという心配もあった。もちろん、遊び半分で用意したわけじゃない。オレなりにきちんと考えて、これを渡す覚悟もして、その上でこれを用意したのだ。
「早く開けてよ」
大丈夫、きっとハヤトは喜んでくれる。根拠のない自信が湧いてくると、早くハヤトの反応が見たくなって催促してしまった。
「もしかして、期間限定? CMでやってたやつ」
「うーん……ちょっと違うけど、絶対に今日食べてほしいやつ、かな」
そう言うと、ハヤトの表情が少し変わる。視線を箱からオレに一瞬だけ移すと、中身がドーナツだと信じきっているのか機嫌のいい顔で箱の蓋に手をかけた。
「……指輪?」
中を覗き込んだハヤトがぴたりと動きを止める。
入っているものが何かは理解できても、その意味は理解できていないようだった。
「知ってる? 今日プロポーズの日なんだって」
大成功とばかりに笑いかければ、みるみるうちにハヤトの瞳が濡れていく。これは、泣くほど喜んでくれたと思ってもいいだろうか。
「ハヤト専用ドーナツ、気に入ってくれた?」
***
「な、嵌めてみてよ」
ハヤトの大きな目からは次から次へと涙が溢れて止まりそうにない。それでも、今日のために用意した大事な贈り物を付けてみてほしくてハヤトが泣き止むのを待てずにまた催促してしまう。
ハヤトが指輪を嵌めやすいようにとオレが箱を持って、中から指輪を取ってもらう。右手の指先で大切そうに拾い上げられたそれはゆっくりと左の薬指に近づけられるが、ハヤトが鼻をすすったりしゃくりあげたりするたびに上手く嵌まらずふらりと離れていく。
何度かそれを見ていたけれど、待ちきれなくて思わず声をかけていた。貸して、と言えばハヤトは素直に指輪を渡してくれて、支えていた箱の代わりにオレの両手には指輪とハヤトの左手がおさまる。軽く握った左手は震えていて、その震えはハヤトのものかオレのものか、よくわからなかった。どうかオレのものではないと信じたい。だって、そんなのかっこつかないじゃないか。
ハヤトの薬指にゆっくりと指輪を通していく。きっと二度とないこの瞬間を、記憶に焼き付けておきたかった。ハヤトも同じなのか、瞬きさえ忘れているんじゃないかと思うくらいにじっと手元を見つめていた。
「でーきた。ってハヤト、まだ泣いてんのか?」
「だって……っ、うれしく、て」
ぐす、と涙声のままハヤトは鼻をすする。まだ手を離したくなくてそっと握ると、少し落ち着いたようなハヤトと視線が絡んだ。照れくさそうにはにかむのが可愛くて、目がそらせなくなる。
やっぱりハヤトの笑った顔が大好きだ。一生隣で笑っていてほしいと、心からそう思った。