恋情と呼べる日の訪れは遠い 昼の晴れ空にて鳶が鳴く。乱世と呼ばれる最中、陣触れの大人しい日々は大変貴重なもので、民草は田植えと商いと見世物と喧嘩と恋と……当たり前のことを営んでいる。一国の主の下に仕える武士と言えば、軍内談を開いては計略と政務に忙しい者もいれば、丹念に武具を磨き、心置き無く武芸に励む者もいる。それもまた平和の証の一つ。戦の始まりとなれば、誰彼構わず血を流すことだけに集中しなければならないのだから。
が、この珍しい平穏にこそ佐助は何となく落ち着かない。天守台の屋根にしゃがみ込み、見張りの真似事をしていた。近隣の森に怪しい影は見当たらず、仕掛けた罠に傷んだ様子も無く、慣れた忍具の手入れに時間はかからない。平和の一時で軍内談が行われる今、本来なら偵察やら使者やらで働かされる機会だろうに、稀なことにその用事も与えられない。領主たる信玄の元へと自ら出向き、小事の一つはあるまいかと自ら問うも「休息にでも充てるが良いわ」と労われた。
「平和だねェ……。調子狂っての」
普段なら給与以上に扱き使われる苦労に嘆くこともあるが、いざ休息の時間を与えられてしまうと物足りない。
相変わらず鳶は呑気に鳴いている。遠い空を眺めるのは飽きたので、曲輪内を見下ろすことにした。今日は双虎の愛の殴り合いも繰り広げられておらず、静寂の庭だけが広がっている。宥める役割にもなれないので、また暇になる――と、屋敷の縁側で腰を下ろす赤い衣装の男を見つけた。主の幸村だ。二本の槍を脇に置き、腕を組んで座り込んでいる。これまた面妖な光景。信玄と殴り合いをしないのなら、槍の鍛錬に取り組むわけでもなく、考え事をしている様子だった。
佐助はひょいひょいと屋根から屋根へ飛び移り、幸村の方に近付く。
「おーい、真田の旦那。何やってんの」
屋根の上にいても縁側まで声が届く距離になったので声をかけてみると、幸村は驚きながら顔を上げた。が、一瞬にしてにこやかな表情に切り替わる。……その絵に描いたような笑顔に、佐助はどこか不穏さを感じた。忍の勘――身に染み着いた精密なそれが明確に働いている。
「おお佐助、丁度良い所におった! お前に話があるのだ! 下りて来てくれぬかー!」
「話?」
地から空へ、相変わらずよく通る声で招かれてしまう。その大声は広い範囲まで響き渡るに決まっているのだが、すなわち密談というわけでもなさそうだ。訝しみながらも主に応える為、ぴょんと石畳に下り立った。
「珍しいじゃない。あんたが槍振り回してないなんてさ」
「うむ。少し考え事をしておった」
「考え事……あんたが?」
主に対するとは思えぬ小馬鹿な物言いも幸村は平然と受け入れる。「そうだ」と大きく頷くと、今度は神妙な面持ちになる。
「実は、お前のことで……いや、お前とかすが殿とのことで思う所がある」
「え」
「お前達の仲についての話だ」
その切り込んだ語調に、おやおやと佐助は目を丸くする。この主たる若き虎にも理知がついてきたらしい。
我ながら幸村に仕える臣下の中で最も信頼されていると、佐助は自負している。勿論信頼はありがたく、それに見合う――いや、見合う以上の働きをしていると胸を張って言える。しかし、あまりにも純粋すぎて危ういと思う時もある。群雄割拠と権謀術数の世で武将として長く生きていけるとは思えない……。故に臣下として戦場を走り回っているのだが。子を持ったことも無い、持ちたいとも思わないのに、何故か親心という言葉が浮かんでしまう。それが妙な気分で仕方なかった。
しかし、ようやくここで成長を感じられる展開が訪れた。
「あー、同郷だしぃ? 忍同士だしぃ? 武田と上杉の交渉事で使いっ走りの仲間だしぃ? もしかして俺様疑われてちゃってる? かすがとの……内通、とか」
ぴくりと幸村の眼差しが揺らいだ。佐助は冷ややかに唇の片端を吊り上げる。
「あのさ、旦那。忍を舐めてもらっちゃ困るよ。甲斐の虎と軍神……特別な繋がりを抱いてらっしゃる酔狂なお二人が、今は俺達を丸っきり信頼して下さってるからやり取り出来てるだけさ。主君をお守りするのが仕える者の役目だ、もしもの時は命令無視してでもやっちゃうよ」
「いや、そんなことよりかすが殿とはいつ祝言を挙げるのだ?」
「……はあ!?」
とんでもなく恐ろしい言葉で一蹴された。
そんなことより、と佐助の絶対的な忠誠の声明を軽々しく跳ね除けた幸村に、佐助は動揺を禁じ得ない。
「何、祝言って」
「お前、祝言を知らぬのか!?」
幸村はがばりと飛び上がり、佐助との距離を一気に詰める。避けようと思えば避けられたが、これは避けている場合ではない事態である。真正面から迫る熱気を留めようと両手を上げ、「旦那」の「だ」の一語を発そうとしたものの、幸村の方が早くに口を開いた。
「佐助ェ! 祝言とは男女の契りを認めることだ! そ、その、俺にも父母がいる以上、いくら色恋に疎い身とは言えそれくらい分かるぞ! 武家においては政略故の結びが常、しかし心から陸み合う仲となる者達もいる……と、風の噂で聞いた。何よりお前達は忍なのだから武家の法など捨て去って――」
「ねえ待って、待って旦那。暴走しないで。話が見えないよ」
風の噂とやらを流した張本人――情報収集を技の一つとする生業の者として、どことなく心当たりがある。疼くこめかみを堪えつつ、とにかくまずは論点を正すことにした。
「祝言の意味は分かってるから。そこじゃないから。何であいつの名前が出てくるわけ?」
「何を馬鹿なことを! 今更照れ隠しはよせ。お前が言ったのではないか、かすが殿はお前の許嫁だと」
「いや、あの……旦那?」
背筋がぞくぞくする――あ、やべ。言ったわ。言ったけど。
今、この時まで完全に忘れていた。多分、いつかそんな法螺を吹いたかもしれない。正確には覚えていないが、この堅気な幸村が言い切るということは、そういうことなのだろう。
「あの……旦那、違うよ?」
「何がだ?」
「別に許婚じゃないよ?」
幸村はきょとんとした。自分の行いに何一つ間違いは無いと言わんばかりの、純粋な眼差しが佐助を射抜く。
「既に書状を出したぞ」
「な、何の書状だろうなぁ……」
そう言いながら当然答えは分かっている。声の震えを抑えられない。
「当然、かすが殿がお前の許嫁である旨を伝える謙信公宛の書状だ。あの者は謙信公の臣下、ならば慶賀の辞を送るは道理。先日使者を出した故、もう届いているだろう」
「そんな重要な書状出すなら俺様に一言声かけてくれませんかねぇ! 俺様何の為の軍神とこのと繋がり深い忍なんですかねぇ!」
「お前を驚かそうと思ったのだ!」
怒りと呆れが入り交じった佐助の叫喚よりも、臣下を想う幸村の一本気にも程がある咆哮が勝った。
佐助はついにしゃがみ込んでしまった。
「あんたって人は……」
「佐助、何か不満があるのか?」
「あれは口任せ」
「何だと?」
「許婚、俺様の作り話だよ。面白いだろうし、思いついたから言ってみただけ。同郷だけど、かすがとはそんな関係じゃありませんって。旦那ってばすーぐ真に受けちゃうんだから」
幸村の頭上には疑問符がぽんぽん浮かぶ。まだ事態を呑み込めていない主の姿に溜め息が出る。
「大体さぁ、乱世だよ、今。色恋なんざ耽ってる場合じゃないって。今日はこんな馬鹿話出来るくらい平和ですけどね」
佐助は何とか腰を上げ、雲が緩やかに流れる空へと視線を向ける。鳶は去ったらしいが、晴れ間の暖かさが戦気を奪おうとする。それを戒める為にも見張りの真似事をやっていたのだ。お天道様に身を委ねていたせいで奇襲されるのなら、この乱世にて天下を競う大国の恥晒しとしか言い様がない。
色恋というものを佐助は知っているかもしれない。いや、本当は知らないのかもしれない。恐らく初心な主よりは知っている。けれど、抱いていても無意味なものだということの方を理解している。この主なら色恋の何たるかを嘯けばまた信じるだろうけれど、結局談義にも中身は無い。
「しかし先程も言ったが、お前達は忍だ。武家に倣わずとも良いではないか。例えお前達の仕える先が甲斐と越後に分かれた身であっても、同郷の男女とあればご寛容なお館様も話を聞いて下さるはず!」
「あのー、旦那、そもそも何で俺達が想い合ってる前提で進めてんの?」
「お前、かすが殿の名をよく出すだろう」
「そ、そんだけで……?」
「忍ぶ恋ならばそれだけで充分ではないか」
大真面目な顔で言い切られると、また腰が抜けそうになる。生一本な幸村の理論としては正しいのだろうが、佐助は呆れるばかりだった。確かに雑談の中でかすがの名前を出している自覚はある。同郷の身でありながら、それぞれ好敵手として認め合う領主に仕えるそれぞれの忍……面白おかしく軽い話題として挙げるには最適だ。大体乗っかって求めてくる幸村も悪い。
「いいかい、旦那。越後とは一応同盟関係にあるとは言えさぁ、いつ敵に戻るか分かんない国の主に仕える忍同士の祝言って、冷静に考えて笑えないよ。いや、ま、忍ぶ恋とやらにマジになれる旦那のそーゆーとこ、面白くて好きだけどね」
からかわれたことをようやく理解してきたらしい幸村だが、それでも前のめりになって口を開こうとする。その熱意がどこから来るものなのか、佐助には分からない。いや、主なりの臣下に対する気配りなのではという推察は出来る。しかし主の目前に手の平を突き出し、それ以上は言わさぬと留めた。まじろぐ幸村に構わず続ける。
「俺様のことより自分の嫁さん候補でも考えなよ。旦那にこそそんな話いくらでも来てんじゃない? 覚悟しときなさいってね」
そう諫められると、どうも幸村は口籠ってしまう。本人自身が言ったように、武家においては政略の縁談から逃れられない。決まる時は決まる。そしてまた色恋に疎いと自覚があり、こんな話題を振っておきながら、一番は自分に当てはまる内容なのだと今更気付いた。
弱々しく縁側に座り直した幸村の姿を見ると、何となく気不味くなる。自分のからかいがこんな展開を作ってしまうとは。何だかんだで、良くも悪くも毎日勢い盛んな主の世話が馴染んでいるのだ。
「まあまあ、旦那の心遣いはありがたく頂戴――」
あやそうとしたものの、ふと思い出した。書状。書状の件だ。それは越後の領主の元へと着いている。その領主に仕え、心酔して止まない同郷の忍――苦無を構える鬼の形相のかすがが目に浮かんだ。
「つーか俺様、誤解解かないと誰かさんに殺される予感しかしないんで、訂正します的なお手紙書いてくれません?」
全身から大量の冷や汗を流しながら切望し、腑に落ちないという顔付きのままの幸村をとにかく急き立てた。
こうして、先の件について取り消すという旨の書状を届けに行く羽目となった。こんなくだらないお使いに出されるくらいなら、冗談など言わなければ良かったと後悔する。生真面目な主をからかい、その度に返される言動が面白くてついやり過ぎたのは己の責だ。しかし、忍の許婚や祝言など冗談以外の何物でもないのに、まさか信じるとは……。
大木から大木へ、太い枝を感覚的に見つけては飛び移り、森の奥へと進んでいく。木々の形や風の吹き込む方向から通じる越後領。往来にはすっかり慣れた。そろそろ野が見える頃だろう。
突然――ひゅう、と冷たい風が吹いた。なびいた髪が鬱陶しく、掻き上げてから目を凝らしてみる。暗い森の出口に当たる方向から、例えば満月をも覆い尽くすような禍々しい闇が漂っていた。
(うわあ、殺気が凄まじい……)
心当たりがありすぎる空気の流れ。相変わらず忍らしくないが、最早今は正体を隠す気が無いと思える。これならいつも以上に挑発に乗ってくれるだろうと見込み、佐助は枝の上で足を止め、幹に寄りかかりながらわざとらしく緩い語調で声をかけることにした。
「おーい、そこの金髪のお姉さーん。お迎えご苦労様でーす」
その瞬間、四本の苦無が三連投で飛んできた。おっかない。最初の四本を片手で捕らえると、それを使って残りの二連投を弾く。散った苦無は地面へと落ちていき、せっかくの忍具が勿体無いと案じるのも束の間、全速力で女の影が佐助の方へと迫ってきた。案の定鬼の形相である。
「猿飛佐助ー! あの書状は何なんだ!」
叫ぶかすがの片手に握られた一本の鋭い苦無の切っ先が、佐助の喉元に宛がわれる。
「よっ、かすが。相変わらず殺気消すの下手だねェ」
「うるさい! 書状に次いでまだ愚弄する気か!」
戦場ですら見せない眼光。噛みつくかすがとは裏腹に、苦無が肌に食い込みそうになってもなお佐助はへらへらとする。
「えーと、んー、うちの旦那が面白い勘違いしちゃってさァ」
己の冗談が始まりではあるものの、とりあえず主君のせいにしておくことにした。
「何をどうすればあんな勘違いを……!」
拳と声を震わせながら憤るかすがの姿は当然だと思いつつ、からかってやりたい気持ちの方が強くなる。
「でもほら見て見て、こっちだってほら、あれは誤解でしたって書状、ほら、ね、旦那直筆のやつ持って来たから。しかもご大層な真田の印付き。どうよ?」
「よこせ!」
得意げな顔をする佐助に苛立ち、かすがは直情的に彼が持つ書状へと手を伸ばす。その動きを読んでいた佐助は、一層涼しい様相で軽く身をひねってかわした。
「もー、そんな怒んないでよ。こんな騒動に馬鹿丁寧な文だぜ? 切れ者の軍神なら事の顛末なんて理解してくれるだろ。だから大丈夫だって」
「何が……何が……何が大丈夫だ、この大馬鹿者ー!」
全く忍ばない、森に響き渡る絶叫。驚いた鳥が次々と羽ばたいていく――そういう所が忍に向いていないのだと指摘してやりたいが、遠慮の無い怒声はどんどん続く。
「お前のせいで謙信様に誤解されるどころか、『お前に幸い有れば私にとっても至上の喜びですよ』などとお言葉を頂いてしまったのだぞ!」
「えー、マジで? うちの旦那と負けず劣らず、軍神も価値観おかしいよねェ」
「この絶望と屈辱と辛苦、どう落とし前をつけてくれる!」
「言い様がひどーい。俺様拗ねちゃう」
何度も伸びてくる細い手を上下左右に体をひねって簡単に避けつつ、佐助は謙信の意図を考えた。
花々が咲き誇るような謙信とかすがのやり取りを時折目にするが、佐助にとってそれは我が家の燃え盛る双虎が殴り合う光景とある意味等しい。どちらも絵面が濃くてずっと眺めていると疲れる。しかしどちらにも言えるのは、どちらも心底主君と臣下の迸る想い合いが顕になっているということだ。
それにしてもまさか、かすがを慈しんで止まない謙信公から、そんな返答を頂くとは。どうやら軍神も興に乗ったらしい。武田の使いとして赴くか、主君に付き従うか、戦場で顔を合わせるか、佐助と謙信との関わりはそこまで深くなく、懇談のように語り合った機会は無いが、やはり甲斐の虎と通じ合う者だけあって物好きな一面を感じさせられた。
延々と続く佐助の身軽さと余裕さが益々腹立たしくなり、かすがの動きは子供のように短絡的なものへと崩れていく。その合間にも佐助は軽口を叩く。
「ねえねえ、かすがは祝言挙げたい?」
「だ、誰が貴様なんかと……!」
「いや、俺様相手じゃなくて。あのお方と」
かすがの頬は赤くなった。当たり前のように勘違いをしたことと、真に望む相手を思い浮かべたことで羞恥心が激しく揺さぶられる。
「あれ? 今の問いかけで真っ先に相手を俺様として見たんだー。やっぱ心のどっかでは想っててくれちゃってたりして」
黙れ、という言葉の代わりに一本の苦無が飛んできたが、頭を傾ければ避けれる程度の勢いだった。ガッと幹に深く突き刺さる。「わー、ごめんごめん」と誠意の無い謝罪を口走り、未だ自分の手にある謙信宛の書状をちらつかせた。
かすがは息を整え、とりあえず今は佐助との無駄話に付き合うしかないと悟る。
「お前は馬鹿か……」
「そう? 我ながら結構花のある話題だと思うけど」
「どこがだ。祝言なんて出来るわけがない」
「ま、そーだね。いくらあの軍神に寵愛されてるお前さんでもさ。高嶺の花……で、いいのかな? うちにも美人なお姫様いっぱいいるし、見蕩れちゃうけど、みんな俺様達みたいな下っ端の手が届くような存在じゃないのよね。あの方々の為に働いてるってのに」
「そういう意味ではない」
不意にかすがは語調を静め、佐助を見た。その目は寂しく、己の生を憂いていた。
「私達のような忍には意味が無い。お前もそう思っているのだろう、佐助」
「ああ」
当然のこととして即座に淡白に頷く。武家に生まれた己の若い主は、政略結婚という将来は頭にありながらも、忍として生きる者の今生をまだ理解していない。それほどまでに自分達は俗世と切り離されているのだと、今回の一件で改めて思い知らされた。
「夫婦だの閨事だの、枷にしかならねえよ。せいぜい任務かね。忍なんざ拾ってきたガキに最低限衣食住与えて鞭打ってりゃあ出来上がる。身に染みて分かってるさ」
お互いに戸隠の里で生まれ育ち、忍の世しか知らなかった。そのうち任務を与えられ、いくらか外が見えるようになった頃、佐助は人の営みを見下ろし、かすがは人の営みを見上げた。そうやって二人は別々の道を歩んだに過ぎない。
「私は……あの方のお側にいられさえすればいい」
「へえ」
「あのお方は、何も無い私を認めて下さったのだ。だから、あの方の為なら私は……」
忍は道具だ。陰に潜んで生き、そして孤独に死ぬ。けれどかすがは忍として育ちながら、まるで忍として似合わなかった。叩き込まれたからには技は使える。ただ、隠し切れない生得の優しさが才覚よりも上回る。だから二度と帰郷出来ないような理由で今は謙信の配下となったのだ。
されど、どこまでも愚か者ではない。気高き主君へと己の想いが真っ直ぐに届くことは無いと、本心では知っている。宿命の好敵手である虎を見る眼差しと、武神たる毘沙門天への厚い信仰心。戦と仏に一生を捧げる為、妻帯の気有らずという噂さえ聞く。例え寵愛する忍であろうとも、誰であろうとも、謙信は添い遂げる者を必要とはしない。
それでも謙信はかすがの存在意義を認めてくれる。忍として生まれ育ちながら、忍ではないかすがを認めてくれる。不完全な道具を、ただの娘として慈しんでくれる。かすがを死へと導くような扱いはしない――だから佐助は謙信を信じていた。同盟国とは言え、領主同士の好敵手とは言え、いつか必ず殺し合う相手に信頼を抱くことはおかしいかもしれない。それでも完全な忍という道を選んだ佐助には、不完全な忍であるかすがが望むような認め方をしてやれないのだ。
「……忍ぶ恋、か」
幸村が使った言葉を思い出す。彼女にとって全く相応しい言い回しだ。花々を咲かせるような画という意味では相愛を隠す気が無い二人であっても、その相愛には叶わないものがある。謙信に仕える限り、かすがは耐え忍ばなければならない。
いつか虎が神を食い殺す日が訪れたなら――その時独りになった娘はどうなるのか、考えれば考えるほど不安になるくせに、慰めは陳腐なものしか思いつかない。一緒に里へ帰ろう、一緒に甲斐で暮らそう、どれだけ言い聞かせても己の言葉など届かない。主が望まぬはずの後追いを選ぶ姿は鮮明で、忍の自死の報せなど入ってこない。もしも介錯を任されたのなら――その時は受け入れる。そして、せめて、今はささやかな虚ろの祈りを捧げてやろう。
「来世ってのがあるなら」
「え?」
「今よりはさ、大っぴらにのんびりと、色恋に耽られる時代に生まれ変われたらいいね。お前も、俺様も」
佐助の口振りにかすがは目を見開いた。
「お前も恋に憧れるのか」
悔しいが、佐助の忍としての腕は自分よりも上だとかすがは常々思い知らされている。感情の無い道具を育む里から抜け出した己の理由は、あまりにも幼稚で人間臭い。佐助は真の才能を見出されたからこそ大国の主に取り立てられた。偶然にも、自身の主が唯一無二の好敵手と認める、あの甲斐の虎に。飄々とした態度と悪ふざけに呑まれながらも、かすがにとってこの男は一流の忍者と見える。つまりは、正しく作られた道具。そう思っていたが――人のように、来世だの色恋だのと口にするものだから意外だった。
呆気に取られたという、分かりやすい様子をするかすがが面白かった。暗殺対象だった軍神に一目惚れして寝返ったような人間には、生にも死にも無頓着な天性の道具に見えるだろう。勿論そう務めている。それ以外の生き方を今更出来る気がしないから。
「えー? 憧れてるっつーか、こうしてかすがと顔合わせる度に熱情を伝えてるつもりなんだけど。だからこんな色恋沙汰になっちゃったんじゃない」
「ふ、ふざけるな! 何が色恋沙汰だ! そもそも真田幸村の字面からしてうるさい意気衝天の長文、お前が何か吹き込んだような気がしてならないぞ……」
「あーあー聞こえない」
「図星か!」
そこでようやく佐助の手が緩んだので、かすがは書状を奪い取った。すり替えられてはいない、確かに真田の印が成されたものであると認める。しかし目的のものは手に入れたが苛立ちは収まらなかった。
「全くお前は頭に来る……。仮に来世があるとしても、決してお前と同じ時代に生まれてやるものか」
「そこに軍神がいたら?」
「え……う、それは……」
反射的に思いを馳せてしまった。ふと隣を横目で見ると、明らかににやにやしている。苦無を投げたくなるが、段々と力が抜けた。こうやってこの男の調子に取り込まれる。こんなちっぽけなやり取りすら負けるのだから、忍としての実力差は明白だ。気付けると途端に馬鹿馬鹿しくなるのに、気付けるまでが遅すぎる。感情さえ制御出来ぬ未熟者。慕う主を守る者としての腕にいつまでも不安があり、そして本来敵対するはずのこの男にいつまでも守られる。断ち切れぬ縁は、自分を、自分達を弱くさせてしまう。それは忍の腕としても、また人の情としても。いつか互いの生死を分かつ時、慈悲はどのように惨い結末を辿らせるのだろうか。
隣から戦意喪失の気を察した佐助は、ひょいと座り込んで幹に背中をもたれさせ、昼寝でもするかのようにくつろいだ。
「んじゃ、とにかく書状宜しく。こんな野暮用で疲れちまったんだね、俺様はちょいと一休みするよ。お前の愛しの軍神に宜しく言っといて」
「……佐助」
「何?」
ふと頭上からひらりと白い紙が落ちてくる。取ってみれば上杉の字が記されている書状だった。やはりかすがも佐助と同じ理由でのお使いだ。
「お前の、私に対する情は……恋なんかじゃないだろ」
そして、答えなど欲していないと言わんばかりに姿を消した。
吹いた風で森は閑散とする。木立の中に哀れな風声が残るのを感じながら、佐助はぽつりとこぼした。
「それ言っちゃうなら、お前のあのお方に対する情も恋じゃない気がするけど」
反論も気配も無く、やはり独り言で終わった。
口実の一休みも止めようと腰を上げた佐助は、上杉の印が成された書状をちらりと見やる。かすがは早急に真田の印の書状を届け、聡明な謙信は受け取って理解するし、幸村に対しては口頭で伝えれば充分だ。これで事は片付く。つまり、これは無意味な紙切れと化した。好奇心が疼くのは当然で、指は自然と封を切り始る。
開けば越後を治める者としての見目と風格に似つかわしい、繊細な筆遣いが並んでいる。どれどれと文の一行に目を向けた瞬間、息を呑んだ。
「やれやれ……。流石は大将の見込んだお方だ。こりゃあ敵わないね」
最後まで読み通し、苦笑を漏らしながら書状を懐に仕舞う。帰路に就く間、影を孕む彼女の眼が過るばかりだった。仮に乱世で生きる身でなければ、お互いに抱く情の真を考えられる時間も今ばかりはあるだろうに――そんな馬鹿げた夢想まで浮き上がった。
佐助がその書状を読んだのは一度きりで、しかし生涯手放さなかった。
たけだのつかいへ
このたびのけんで、おまえはわたくしのうつくしきつるぎとでくわし、ことばをかわすことでしょう。そして、もはやしょじょうをむようとみなし、わかきとらへととどけるつもりはありませんね。すると、いまはこれをよんでいるはずです。ですので、おまえにあてるものとしてつづります。
くだんのしょじょうをはいけんしました。わかきとらのほのおがごとくおもいは、じのひとつひとつからつたわってきました。きっと、わかきとらはおまえになにもしらさなかったため、いちぶんすらよんでいないかとおもいます。どのようなないようか、すこしだけおしえてやりましょう。おまえをおもい、つるぎをおもい、ひたすらにおまえたちのなかをよろこび、ゆくすえのこうじんをいのるものでしたよ。わたくしのきょだくなどはなからねんとうにおいていないほどで、わかきとらのちょくじょうはいさぎよいものです。かいのとらがそそぐたけりはたしかにうけつがれていると、このようなきかいであじわえるとは、まことおもしろきこと。
さて、おまえたちのはなしをしましょう。かすがはわたくしのうつくしきつるぎです。それはいっさいゆるがぬじじつ。しかし、このらんせにて、つるぎとしてふるわねばならぬひびにくしんするばかり。つるぎのこころはあまりにもやさしく、ひとをあざむき、ひとをあやめるにはそぐわない。そのことは、おまえこそがよくわかっていますね。また、もしかすると、おまえにはじかくがないのかもしれませんが、わたくしからみれば、おまえもつるぎのそばにいるときは、じょうをすてられぬただのひとですよ。ほんらいそのてにあるべきは、いのちをけずるためのやいばではなく、いとしきひとにふれるためのあたたかさなのでしょう。
わたくしたちのいきるいまがたいへいであればと、これほどまでにねがうようになったゆえんのひとつは、つるぎとであいをはたしたというものです。あわれなつるぎは、つねにおのれをそまつにしようとする。あわれなつるぎは、いのちでもっておのれのかちをみいだそうとする。わたくしがのぞんでいないのにもかかわらず。あのようなものがうみおとされてしまううつつを、つるぎとであってしりました。つるぎをつるぎとしてふるいたくはない。つるぎがかなしむすがたをみたくはない。おまえたちを、てきとてきではなく、あたりまえのように、ともにすごさせてやりたい。いかり、なき、わたくしにとらわれておのれをみうしなってしまう、やさしさだけでないつるぎのほんしょうは、おまえにしかまかせられないのですから。おまえにとって、かいのとらにとって、しゅくてきとなるさだめのわたくしが、こうしておまえにむねのうちをさらけだすのは、おかしなはなしかもしれません。それでも、おまえならわかってくれるとしんじています。
じょうとは、ぶしにとっても、しのびにとっても、ただのひとであっても、のがれられない、やっかいなもの。おまえたちのいだきあうそれがなにをいみするのか、みきわめてほしいとせつにねがいながら、おまえたちはそれがかなわないことをしっていますね。
あえてきびしくも、おまえたちのしゅうげんはゆめものがたりといいましょう。けれど、わたくしのほんしんはすべてつづりました。さるとびさすけよ、かすがをよろしくおねがいします。そうまことのこととしておとずれるひが、わたくしはまちどおしい。
完