物思いと釣りに耽る エリーは父と共に隣町へと赴いていた。革職人の父曰く、この流通の良さから栄えた隣町では上等な馬革が売り出されるようになったらしく、それを手に入れる為に馬車を乗り継いでやって来たのである。ついでに日用品などを買い込むのがエリーの役目だ。
蝋燭や精油、香辛料、縫い針などを揃えて昼食に焼き菓子を買い食いし、あとはぶらりと街をうろつく。流行りの装飾品や精巧な石細工を並べる露店がいくつもあったが、財布と相談して眺めるだけに留まり、舞台で繰り広げられる芸人や踊り子の華やかな演技を鑑賞する。
新鮮な街は見て回るだけで楽しくもあり、少し疲れた。がやがやと賑わう広場の中心から外れて宅地に続く道へとずれる。丁度鎧をまとった衛兵が通り過ぎる様を横目で窺ったエリーの脳裏に、ふと思い出が過った。喧嘩ばかりの両親に嫌気が差し、家出を決行したあの日。慣れない山道を歩き続け、疲れ果てた先に見つけた森深くの小屋。そこで出会ったのは魔術師と名乗る謎の男。髑髏の仮面があまりにも恐ろしく、最初はお化けかと思ったが、風変わりな彼は何だかんだで見ず知らずの自分を迎える優しさを見せてくれた。今思えば、彼でなければ惨い仕打ちを受けていたかもしれない……。
だが、程なくして誘拐事件として扱われるわ、衛兵が出動する騒ぎにまで発展するわ、更に彼はその場から跡形も無く消え、別れは唐突に訪れてしまったのだ。魔術師と過ごした奇妙で楽しい日々は僅かだったが、未だ忘れられないでいる……と、エリーは思い返す度に不思議な気持ちになる。忘れられないと同時に、魔法にかけられていたような非現実感もあるからだ。
偉大なる魔術師と名乗った摩訶不思議な男――オロバス。彼との再会を期待し、月日が経つ。
思わず呟いた。
「オロバスに会いたいな……」
「おや、エリーじゃないか。奇遇だね」
「!?」
振り向くと、そこには髑髏の仮面を被る青いローブ姿の男が平然と佇んでいた。
「オ、オロバスなの!? 本当に?」
「自分で言うのも何だけど、こんなにも奇異な見た目の紛い物がいたら笑えるねえ」
不気味な頭部とは不似合いな、おどけた口調で懐かしい声が聞ける。今し方望んでいた所に予想外の再会が叶い、唖然とするエリーの足は竦んでしまった。
硬直するエリーの前へと、オロバスは興味深いと言わんばかりの視線を向けて忍び寄る。
「ふむ……」
「……」
「以前より背丈が伸びたと見える。充分な栄養が行き届いて発育に好影響をもたらしたということか。やはりヴィータの子供にとって成長期とは肉体の変化を左右する重要な機会らしい。今すぐにでも記録しておきたいところだが、生憎ノートもペンも無い。残念だ」
「その感じ、正真正銘オロバスに間違いないわ。……ちょっと! じろじろ見ないで!」
足の竦みは解かれ、青いローブのなるべく高い位置を何度も叩く。待って待って止めて止めて痛い痛いと急に幼稚な抵抗を始める男に、エリーは最後のパンチをお見舞いした。全然効いていないようだが。
「はあ……。せめてお世辞でもレディになったねとか言えば良いのに。相変わらず変な奴なんだから」
「その変な奴に会いたがっていたレディはどこの誰かな」
エリーは唇を噛み締める。頬が仄かに赤くなるのを感じる。口振りからして独り言を聞かれていたということだ。
オロバスはくつくつと笑ったが、あの時のように忽然と姿を消そうとはしない。
「せっかくの巡り合わせだし……そうだね、お喋りでもするかい?」
そう持ちかけられたら断る理由も無い。エリーは大きく頷いた。
「オロバスと話したいこと、いっぱいある」
「それなら私のお気に入りの静かな場所に行こう。市場じゃ寛げないからね。ついでに気分転換に付き合ってくれないか」
馬革の吟味と商人との交渉で忙しい父に、偶然再会した顔見知りと遊んでくると告げたエリーは、夕暮れまでには帰って来るようにと忠告されるも、娘の休みを慮ってか快く見送られた。
あの騒動以来、両親の夫婦仲は円満なままだ。家で待っている妻の為に土産を買おうと意気込む父の姿は微笑ましかった。馬革の吟味よりも土産の吟味に時間をかけそうな気さえする。
こうしてエリーはオロバスに先導され、市街地を離れるようにして歩き続ける。喧騒が遠ざかる頃合いに石畳から外れ、茂みを通り抜けると、やがて二人は川辺に着いた。橋も見当たらない小さな川だが、木漏れ日に照らされる澄み切った水面は美しい。
「たまに二人組がいたりするけど、出会すと逃げられるんだ。今日は私達だけのようだね。ありがたく独占しよう」
(それって多分、デート中のカップル……)
エリーは心の中でカップルと思わしき二人組を慰めた。真っ昼間だとしても、髑髏の怪物と遭遇したら悲鳴を上げて一目散に逃げ出すに決まっている。……そうすると、闇夜の森深くにある山小屋で髑髏の怪物と対峙した時、逃げ出さないどころか、家出を理由にしばらく転がり込んだ少女の肝っ玉とはいかほどなものか。
不意にエリーに差し出されたものは釣り竿だった。
「さあ、やろうか」
市場で釣り竿と桶を買い、まさかと思ったがオロバスは本気で釣りをするらしい。
「私、釣りなんて全然したこと無いけど……」
「おや、そうなのかい。ヴィータであれば誰しも馴染み深い採集方法かと思っていたが」
「うちの街は酪農とか革細工が盛んだから、釣りに行く人って珍しいんだ。パパは革職人で、私は職人仲間に配る食事作りをしてて、毎日大鍋を掻き回さなきゃいけないの」
「ほう、君も黒魔術に……」
「え、何?」
「何でもない。で、その口振りからして、君がこの街へ来られたのは珍しい機会なのかな」
「そう、パパの仕事があってね。私はたまたまお休みに出来ただけで、いつもは釣りの暇なんか無いよ。別に魚が売られてないわけじゃないから、魚料理は時々食べるけど」
「なるほど。では、今日の献立を左右するのは君の腕次第というわけだ。不慣れなら私が針をつけてあげよう」
しゃがむオロバスはエリーが支える釣り竿に触れ、邪魔そうな長い爪が生える手先を上手く動かして糸と針を括りつけていく。エリーは自分の足元で揺れる髑髏の仮面を見下ろしながら、改めてこの奇妙な風貌が気になって仕方ない。が、それについて言及してもどうせ実のある話にはならないことを知っている。だからひとまず彼の意外性に触れる。
「オロバスって釣りが好きなんだね」
「好きか嫌いかの二者択一なら前者としよう。実はね、ある時市場で魚の死体を眺めていたら、冷やかしはお断りだと怒られてしまったんだ。でも生態や形状は興味深いし、自ら捕獲を試みた。そして、この通りというわけさ」
すっくと立ち上がったオロバスは既に自分の釣り竿も整えていたらしく、早速釣り針を川へと投げ込んだ。それから顎をしゃくってエリーが自分と同じことをするようにと促す。死体だのと地味に引っかかる言い回しが挟まれたが、最早それくらいならエリーも受け流し、彼を真似て糸を垂らした。
「とは言え、釣りを始めたのは君と暮らしていた山小屋を処分してからだよ。あの頃は木の実や山菜ばかり食べていたから、煮ても焼いても美味い魚の虜になったのかもしれないな」
「うっ……」
誘拐ではないが誘拐事件の顛末――エリーをさらった犯人だと勘違いされたオロバスは、衛兵が小屋へと突入する前に何の仕掛けだか忽然と消え失せた。山小屋に篭もり、おかしな研究に耽る魔術師と暮らした、まるで魔法にかけられたような非現実感――そう思っていたのに、ここに来て現実を突きつけられる。
「そのことをずっと謝りたかったの! ごめんなさい。私のせいでオロバスはあの家を失ったよね。大事なものとかも……」
「はっはっはっ、謝る必要など無いさ! 標本も書物も薬品も家具も器具も何もかも、充分に記録し、活用し、堪能してきた。故に再現だって可能だ。何より私の家財がどうなろうが、世界の巡りから見ればちっぽけな事象に過ぎない。いや、認知される意味すら無い。私は今、君と共に釣りをしている。それが確かならば、それでいい」
気さくに笑ってくれるのはありがたいが、どうも小難しいことを合間に挟んでくるせいでエリーの頭上には疑問符が浮かぶ。片手が釣り竿で塞がれている為、頭を抱えることも出来ないし、もしそれをやったとしてもオロバスにからかわれるかもしれない。何せ観察対象の習性として記録されたのだから。そもそもあの爆発は本当に魔法だったのかとか、色々訊ねたいのに、彼のペースに呑まれてしまってそれどころではなくなる。
もやもやするエリーのことなどお構い無しにオロバスは続ける。
「君と過ごした経験から人里に興味が沸いたのだよ。思い切って引っ越したのも正解だった。息抜きに街へと繰り出すのも一興。……おっと」
不意にオロバスが軽く手首を捻るようにして釣り竿を上げると、針に捕らわれた活きの良い魚がびちびちと跳ねた。そして特に自慢げでもなく、淡々と口から針を外した魚を桶に放り込み、また糸と針を括り直して竿を振る。
「今はどこに住んでるの? この街じゃないんだよね」
「ああ。君と同じように偶然立ち寄っただけさ。住まいは前とは別の山だ」
「……具体的には?」
「知ってどうする?」
「遊びに行きたい」
再びオロバスの竿が緩やかにしなる。小さな水音を立てて浮き上がった魚は貧相だった。彼の手はそれを桶には入れず、川へと戻した。
「しかし、今の住処は恐ろしいよ。煮え滾る毒沼に囲まれ、血に飢えた獣という獣が牙を剥き涎を垂らし眼を光らせ這い回り、植物は軟体動物のようにぬめぬめと蠢き悪臭のする汁を滴らせ刃物にも似た枝や蔓を振り回す、おぞましき邪気が漂う暗黒の森の奥深くにあるからねえ」
「どうせ冗談でしょ」
「うん。でもまあ、蛇や蛙なんかの有毒動物がうろついているし、君が行き来するには危ないんだ。それに先程の市場での様子だと、今は家族仲良くやっているんだろう? 私の家にわざわざ来るまでもない」
「んー……」
唇を尖らせ、しょぼんとするエリーの顔付きはいかにも不服そうだ。オロバスは首を傾げる。観察対象として定住させていたあの頃に分かったのは、互いの知性が全く異なっているということ。エリーにとって理解し難い空間は今も代わり映えしないし、訪れたところでエリーが目を輝かせるものなど何も無い。それなら今のように、彼女に馴染む人里での一時の方が似合う。
それに、毒を持つ生物がいると偽りでもなく誤魔化したが、そもそも己が王に仕える悪魔として真の目覚めを果たしたことが何よりの危険だ。例えばそれを理由に我が家ざ襲撃された時、その場凌ぎで一人逃げ切るのは可能だろうが、か弱い少女を守りながら対処するにはヴィータ体では無力だ。二人の王が食い止めようと奔走する世界の滅亡も、異世界から湧き出す凶暴な獣も、人里に相応しく擬態しているに過ぎない異形の存在が目前にいる現実も、彼女は深く知らないままの方がいい。
だが、二人で過ごした僅かな日々を懐かしく思わないと言ったら嘘になる。
「そうだねえ。今度こそ世捨て人になりたいと君が強く望んだ時は、快く迎え入れるとしよう。あの山にも帰るよ」
「本当?」
「ただし私の元にいると決めたからには……その後は一生我が家から出してあげなかったりしてね」
「観察対象とか言ってまた変な記録つけるんでしょ」
「それもあるが、君との生活は面白かったと今でも思うんだ。大事なものはいかなる時も自分の側に置きたがるのがヴィータの価値観だろう」
けろりと言い切るオロバスに少しの動揺を覚えながらも、エリーは再び訴えかけようとした。
「だったらまた遊びに――」
「エリー、竿がしなっているよ」
「えっ、わ、わ、どうしよう!」
水面を揺らす影に気付いたエリーは両手で竿の持ち手を握り締める。そのあまりにも分かりやすい力み方にオロバスは苦笑した。釣りの経験は無いと言ってはいたが、まさかこうまで緊張するとは。
「まあまあ、慌てない。ここいらの川魚は小さいものばかりだから、根比べせず力勝負で一気に引っ張り上げればいい。ひょいっとね」
オロバスの指示は軽々しいが的確だった。エリーが己の細腕に意識を向けた途端、呆気無く水飛沫の中から一匹の魚が現れる。ぶらんぶらんと揺れて水滴を飛ばしながら地面に着地したものをエリーは手に取り、喜びに満ちた顔でオロバスへと見せつけた。
「やった、初めてなのに釣れたよ!」
「お見事。私も負けていられないな」
それからも二人は釣りの最中に言葉を交わした。エリーはオロバスの近況を――いや、前と変わらず謎に包まれた正体を知りたかったが、のらりくらりとはぐらかされるので自分の身近な話をする羽目になる。しかしいざ口を開くと止まらない。オロバスが度々投げかけてくる質問にも出来る限り答えた。
オロバスは喋り続けるエリーの内容にも、仕草にも興味を抱いた。職人仲間の前でやらかした笑い話。酔っ払い同士が暴れたせいで自宅の花壇が壊れたことへの怒り。何気無い日々の出来事。誰かが噂する終末論についての不安をこぼした時は素知らぬ風に宥め、安堵した彼女は再び顔を明るくさせて釣りに励む。体付きは変化しても内面は当時のままであると知り、何故か胸が高鳴った。手元にノートとペンがあれば、観察対象としてのエリーの全てを記録していたに違いない。だが、別にそれらが無い今でも言い様の無い充足感を覚えている。この気持ちを形にする為には、自分自身を観察しなければならないとさえ思った。
やがて陽光の位置を窺ったエリーは釣り竿を上げ、オロバスに対して寂しそうに向き直る。
「そろそろパパの所に戻らなくちゃ。心配してるかも」
「では私も切り上げるとしよう。街中で誘拐騒ぎになられちゃ流石に困る」
エリーは吹き出した。一応前例があるので冗談にしては質が悪いのだが、オロバスのひょうきんで真面目な物言いにどうしても耐え切れなかった。
「もう! 仮面を取っちゃえば怪しさも軽減されるのに」
「ふふふ。いくら言われようと個性を失いたくないのでね。……今日は気分転換に付き合ってくれてありがとう。中々面白かった」
「私も面白かったよ。それにオロバスって釣り上手だから見直しちゃった」
見直されなければならない過ちを仕出かした覚えは無いが、とりあえず褒め言葉として受け取っておくことにした。そして桶をエリーへと差し出す。
「ささやかだが君へのお礼だ。受け取ってくれたまえ」
ちゃぷんと水音が立つ桶には多くの魚が入れられている。まだ未熟な個体は逃がしたものの、それでも釣りの成果としては充分の量である。しかしエリーが釣れたのは二匹でしかなく、幼魚こそよく釣ったオロバスだが、桶を埋めているのはやはり彼の技量によるものだった。
差し出された桶をエリーは躊躇いながらも受け取る。
「ほとんどオロバスが釣ったのに。食べたかったんじゃないの?」
「いいんだ。君と再会出来たものだから、何だか木の実のスープが恋しくなってね」
「……やっぱり変な奴。でも、優しい。ありがとう」
「どういたしまして。さあ、お帰り。道は分かるね。君が使った竿も土産の一つだ。機会があったら好きに使えばいいよ」
頷いたエリーが竿と桶を持って背を向けたのを見届け、オロバスも立ち去ろうとした――が、その瞬間。
「待って、オロバス!」
茂みの向こうに行く直前の、上擦る呼びかけがオロバスを留まらせた。
続きを促すまでもなく、どこかで予感していた問いかけが投げかけられる。
「また会えるよね?」
少女の口振りは確認ではなく確信を求めていた。だから彼もまた、その通りの言葉で返す。
「会えるとも」
たった一言の答えに安心したエリーは、あどけない笑みを浮かべて立ち去った。
天真爛漫な少女の声は消え去り、オロバスの辺りに残ったものは川のせせらぎと風に吹かれて起こる葉擦れだけとなる。
「またね、エリー」
見えなくなった少女の名残りに別れを告げた後、ふうと息を吐く。その手にあったはずの素朴な釣り竿は、いつの間にか魔術師の杖へと形を変えていた。
「さて、と……いい加減召喚に応じなければ。寛大な彼はこちらの事情を優先してくれるけど、あまり待たせてしまってはいけないし。戦闘準備の最中だといいが」
つい先程までの安らぎが嘘のように、オロバスは自身の内側にて宿るメギドとしての魂の鼓動を感じ始めた。
ヴィータの身へとやつしても、結局王の命令の下であれば衝動を抑えられない。争いは好まないが、それでも争いの果てに得られる万理の欠片があることを期待してしまう。そんな己の本性を無垢の少女に晒したら、どんな表情を見せてくれるだろうか。驚愕。困惑。恐怖。どれでもきっと面白い。それこそ魔術による七変化のように顔色を変えるかもしれない。だが――己の身勝手な好奇心よりも、やはり彼女の慎ましくも穏やかな日々を優先せねばと理性が諭す。
魔を統べる者たるソロモン王の使いとして義務的に応えているに過ぎないオロバスには、ハルマゲドンがどうなろうが正直知ったこっちゃない。時の果てまで傍観し、やがてヴィータとしての生を全うするであろう定めにも不満は無い。しかし居場所が無いと悟っていたはずの自分に、そうではない可能性を教えてくれた、あの少女が滅びに巻き込まれてしまう未来を考えると、何だがやるせない。
(うーむ。上手く言えないが、これが……ヴィータらしさ、なのかな。やれやれ。面倒な情に感化されてしまった。しかし切り捨てるには惜しくもある……)
街をぶらつく彼女の気配を感じた時に速やかに隠れれば、自ら声をかけなければ、きっとこんなにも悩まずに済んだものを。
せめて彼女が本物のレディになるまでは――あるいは、彼女が本気で我が家への来訪を望むまでは、巡る世界を維持してみるのも悪くはない。世捨て人を自称しておきながら、偉大なる魔術師には死ねない理由が今日もまた一つ増えた。
完