蜃気楼を掴む叔父の命日の日、渡辺みのりは吸わない煙草に火をつける。昔はふかしていたが自身がアイドルになってからはそれも辞めて煙草の香りを楽しむだけにしている。銘柄は叔父が愛煙していたもの。一年に一度、一本だけ使うのでここ何年も経過している物だが相も変わらぬ香りがみのりを包み込む。
懐かしさと後悔は何年経っても色褪せることなく彼の中にあり続けた。
「隣、いいですか」
「プロデューサーさん…」
缶コーヒーを二つ手にしたプロデューサーが現れて少し驚いたがそう言えばレッスン直後に事務所の屋上に来たのを思い出した。何食わぬ顔だがきっと心配させてしまったのだろうなと思いながら差し出された缶コーヒーを受け取り隣に並んで空を見上げる。昼間は快晴だったのに夜は雲がかかって星も禄に見えない。
「煙草、吸われるんでしたっけ」
「ああ、いや。香りを嗅ぐだけなんだ。叔父の命日でね、親代わりしてた人だったんだけどこれは俺が初心を忘れない為に勝手にやってる儀式みたいなもので」
「…すみません、踏み込んだ事を聞いてしまって」
「もう随分前の事だから気にしないで。それに俺の方こそ謝らなきゃ、心配かけちゃったよねごめん」
「それは恭二さんとピエールくんに言ってあげて下さい。お二人共みのりさんの事とても気にかけていたので」
自覚していた。初心を忘れない為にと言っておきながら今日のはどこか胸に引っかかっていて、そんな事を考えてばかりだったせいで目の前のレッスンも集中力が続かずいつもはしない凡ミスも多くやってしまっていたし心配もされたし、特に鷹城恭二の方は察しが良く聞いてはいけない事だといつもより遠慮がちになっていた。変な気を使わせてしまった事を反省し後で謝っておくよと目を伏せた。
そこから暫く沈黙が続いた。
いつもなら他のユニットや他事務所アイドルの魅力について一アイドルファンとしてプロデューサーと会話が弾むのだが今日はそんな気持ちにもなれず、けれどこの沈黙が決していやなものでも無く不思議な感覚だった。
過去について知っている者はほとんど居ない。話していないと言うのもあるが別に話さなくても良い事だからだ。大切なのは今をどう生きるか、どんな時間の使い方をするか。
携帯灰皿に煙草を押し付けて火を消す。香りを楽しむだけとはいえ副流煙のリスクはあるし何より自分以外の人間もいる、来た時にでも消すべきだったなと後悔する。
「もういいんですか?私の事ならどうかお気になさらず…」
「うん、もういいんだ。あと気にするななんて寂しい事言わないでほしいな。貴方が俺を心配する様に俺にも貴方の事心配させて欲しいから」
貰った缶コーヒーのタブを開けて一気に飲み干す。砂糖の入っていない珈琲は昔は嫌いだったのに今は問題なく飲めるようになった。
『甘いのが好きたぁ、お前もまだまだ子供だな』
『うるせぇなほっとけ』
茶化す様な声に何度も反発した。何度も家を飛び出し仲間とつるんだ。時々帰れば変わらない態度で何度も出迎えてくれた叔父。
彼と今生の別れをし色々失った後に得た物は予期せぬものばかりで悪ぶってた頃には想像もしなかった未来を今、掴んでいる。
今度は自分が他の皆を心配して困っていたら手を差し伸べて一緒に悩んで歩んで行く番。
「珈琲、ご馳走様。……え?」
「返さなくて大丈夫です。なのでこれで拭いてください」
上手く笑えていると思ったのにプロデューサーの表情は険しく差し出されたハンカチの意味を察するのに少し時間を要した。溢れ出る涙が頬を伝わるまで自分が泣いている事に気付けなかった。
無言で受け取り目に強く当てる。奥からどんどん溢れてきて止まらない涙をハンカチは吸い取ってくれる。人前で泣くだなんて一体いつぶりだろうか。その記憶を思い出せない代わりに叔父の事が思い浮かんで来てしまって立っていられなくなってしまいしゃがみこみ静かに声を殺して泣いた。
「みのりさんの居場所はここに確かにあります。なので遠慮なく頼って下さい」
優しい声が降って来る。狡い人だとつくづく思う。
居場所、温もり、言葉、立ち入り過ぎない絶妙な距離感をプロデューサーは自覚があるのか無いのかどちらにせよ欲しい時に与えてくれる。
涙で濡れたハンカチからその人の香りがする。煙草にはないまた別の安心感を覚える香り。
「はー…俺も涙脆くなっておっさんになったなぁ…」
「全然おっさんに見えない人が何言ってるんですか」
「内面的な話だよ」
「次郎さんと同じ事言ってますね…」
「あ!ハンカチごめんね。新しいの買って返すよ」
「さっき返さなくて大丈夫って言いましたよ?それに、私のわがままみたいなものなので気にしないで下さい」
「わがまま?」
オウム返しの様に復唱するとプロデューサーは気まずそうに視線を逸らす。
「……」
「何で黙っちゃうの?」
「あ、いえ、そんな特に深い意味はないので…」
「へぇ?嘘ついちゃうんだ、さっき遠慮なく頼ってって言ったのに」
意地の悪い聞き方だとは分かっているが、どうしてもプロデューサーの口からその真意を聞き出したかった。芽生えた悪戯心は次何も言わなかったらどうしてくれようとムクムクと育っていたのだがプロデューサーはあっさり降伏してしまった。
「……似合わないなって思ったんです。みのりさんにそんな悲しそうな、寂しそうな顔は」
「…プロデューサーさん」
「私は出会ってからのみのりさんの事しか知りません。朗らかで温かくて素敵な笑顔を持ってるみのりさんしか。もちろんお仕事とかで見せる顔は別ですけど、でもやっぱり私が見るに堪えないって思ってしまうんです。貴方にそんな顔は似合わない、笑って欲しいって」
これで勘弁して下さいと夜であるにも関わらず赤いのが分かるくらいに耳を真っ赤に染め我ながら臭いセリフを言ってしまった事に対し羞恥心に駆られたプロデューサーはまたそっぽ向いてしまう。らしいと言えばらしい答えなのだが、その”わがまま”の内容にみのりは思わず言わずにはいられなかった。
「この人誑しっ…!」
「正直に言ったのにこの言われよう」
「正直すぎるの。全く、おかげで涙ひっこんじゃったよ」
「なら良かったです」
笑みを零したプロデューサーを見て一歩近付く。
「みのり、さ」
「ちょっとだけ黙って」
腕を掴んで引き寄せて肩に頭を埋める。ハンカチと同じ香りがする。柔らかな包まれるような安心感する香り。あんな事を言われて黙ってはい終わりで終われるほどみのりは大人ではない、が今出来るのはここまでだ。
時間にしてみれば一分にも満たないような僅かな時間だったが二人にとっては今日一番に時の流れが長く感じた瞬間。
「よし!これで上書き完了!」
「う、上書き?」
「煙草臭いままピエール達の所行けないからね。あ、コレはちゃんとお返しするから楽しみにしてて」
「え?あの、みのりさん!?」
「プロデューサーさん、ありがとう」
ばっちりアイドルスマイルを決めてお先にと言って屋上を後にする。残されたプロデューサーはとりあえずすん、とみのりに擦りつけられた残り香を嗅ぎながら天を仰いだ。
「結構強いな煙草って…」
引き寄せられた時、抱きしめられるのかと思って不覚にもドキッとしてしまった自分を恥じた。深い意味はないと自分で言ったのにこれでは始末に負えない。
でもあの言葉に嘘偽りがないのもまた事実で。
それはみのりも充分分かっていた。
他意はない、そう思わなければきっと自惚れてしまう。
みのりは階段を降りながらもう一度手にしていたハンカチの香りを嗅ぐ。
「…狡い人だ」
正直にものは言えてもまだ素直にはなれない。
届くはずなのに掴んでも掠めとってしまいそうな曖昧な距離。それでも掴んでみたいと思わずにはいられない。
香りを名残惜しみながらハンカチをポケットの中へとしまい込んでその場を離れた。