箱庭の斜陽 頼まれモノの香水をいくつか知り合いのショップに運んだ、その帰り道。
今日はもう店じまいだと、黄昏色の空の下で大きく伸びをして、その店に足を向けたのは、久しぶりに仕事終わりの時間を、まったりと過ごしたくなったからだ。
マスターがじっくり淹れたコーヒーが飲みたい。
この時間だ。ついでに夕飯をいただくのもいい。
マスターの奥さんが作るナポリタンにハンバーグはどれも絶品なことは、この舌が十二分に知っている。
そういえば、はじめて味わったのは、最初にこの店に足を運んだ時だった。
あの時は、店が軌道に乗りはじめたばかりで。昼夜休みなく走り回っていたおかげで、食をおろそかしがちだった頃だった。
自宅を改良して作った工房兼ショップの知名度はまだまだで。今日商品を納品してきた店を中心に、いくつかの雑貨店やら。化粧品販売の代理店やら。持てる人脈を駆使した納品先に頼み込んで、頼み込んで。なんならちょっぴり値引きもして。商品を置かせてもらうことが大半。
おかげで、朝は納品に外を駆け回り、昼はちらほら足を運んでくれる人に向けて店を開け。夜は新商品の開発に、工房へと引き籠るなんて生活を繰り返す日々。
忙しさにかまけて、食事を何度抜いたことかわからない。
心配した幼馴染がかわるがわる顔を出していたような気がするけれど、その忠告さえ右から左へ聞き流して。まともに記憶に残ってやいなかった。
この店に足を運んだきっかけだって、そうして朝に納品へと駆けまわった帰り道のことだ。
ふと鼻先を掠めた芳しい匂いに、足を止める。コーヒーの香りだと気づいたのは、その少しあと。気休めの眠気覚ましくらいにはなるか。なんて、それくらいの気持ちで足を向ければ、辿り着いたのは、思っていたよりもこじんまりとした一軒家を改造したような店構えの喫茶店だった。
一見が入りにくい店構えに、足を踏み出すのを少しためらう。
どうしよう。眠気覚ましのコーヒーなんて、家に帰ってから適当に淹れて飲めばいいんじゃないか。それで、事足りるんじゃないか。そう店先から少しずれた場所で悶々と考えていたところで、不意に空気が揺れた。
カラン、コロン。鈴の音が耳に触れる。
ギィと軋んだ扉が開かれて、はた、とその内側に居る女性と目が合った。
いらっしゃい。柔らかく和んだまなじりが、下がる。不思議と、躊躇いは消えていた。
促されるまま足を踏み入れて、いっそう濃く香る芳しい匂いに息を吐く。
小さな店内に、常連客らしい客が数名。各々席に座ってコーヒーを楽しんでいたが、店の中は静かなものだった。
案内された席に腰を下ろし、メニュー横目で舐めてからブレンドコーヒーをひとつ注文する。
穏やかな声がカウンターの向こうへ届けられて、その後はまた静かな時間が空間を包んだ。
居心地の良い店だ。
ふぅと一息ついて、深く椅子に腰かけなおす。
耳を澄ませば、こぽこぽとフラスコの湯が沸く音に重なって、誰かが新聞紙を捲る音が小さく聞こえた。
目を閉ざし、頬杖をつく。
まるで、慌ただしく過ぎ去る喧騒から切り取られたような場所だ。ここは。
コーヒーが運ばれてきたのは、そんな店に流れる穏やかな空気に、眠気を誘われはじめた時だった。
どうやら、あの時の自分はよっぽど疲れた顔をしていたらしい。
奥さんは、ちょうど余り物で作った賄いでよかったらと、眠気覚ましのコーヒーにサンドイッチをテーブルに並べ。食べきれなかったら残してくれてもいいのよ。と、細やかな気遣いまで添えてから、また軽やかに踵を返した。
やわらかなスカートの裾が、宙に躍る。
遠ざかる足音とその背を見送って、向かい合ったサンドイッチは、なんだかいつもより格段に美味しそうに見えた。
――あの時のサンドイッチの味は、いまでも忘れられないな。
空腹は最大の調味料と言うけれど。それ以上に、あの時口にしたサンドイッチは美味しくて。美味しくて。優しい味で満ちていた。
後にも先にも、あの味に出会えることはないだろう。そう思えるほどだった。
くぅとガラにもなく主張する腹をなだめながら、年季の入った扉をギィと開く。
カラン、コロン。来客を告げる鈴の音が思いのほか大きく店内に響き渡って。追いかけるように、ふわりと変わらぬ芳しい匂いが鼻腔を掠めた。
「あら、いらっしゃい。アロマちゃん」
仕事は終わったのかい。と、人好きのする笑みを浮かべて声を掛けてくれる奥さんに応えながら、もともとそう広くはない店内を見渡す。
通い慣れたその店に、珍しく人の気配は少なかった。
なるほど。通りでベルが響くわけだ。
きっと、ちょうど夕食時に差し掛かったところだからだろう。
好きなところにどうぞ、と促され、半ば定位置になりつつある窓辺の席に腰を下ろす。
注文は、コーヒーと、それからサンドイッチ。夕飯替わりかと問われて頷けば、じゃあおまけもつけちゃうわね。とウインクをした彼女は、柔らかなスカートの裾を翻して、カウンターへと足を向けた。
お客さんの前で。なんてカウンターの向こうから飛んでくる小言は、ここじゃ空間の一部。
肩を竦め、席を立つ。とたん、こちらに向いた奥さんの眸がぱぁっとが輝く気がして、ほんの少しの気恥ずかしさが頬に昇った。
待ってましたと言わんばかりに、こちらへ身を寄せた奥さんが、店の一角にある座席を選んで腰を下ろす。
その向かい。ちょうど窓から射す光に当たらぬ位置に置かれたグランドピアノの前に立って、ゆっくりとその蓋を開いた。
白と黒の鍵盤が、今日も今日とて綺麗に並ぶその光景に、自然と頬がほころぶ。
親指でひとつ。白鍵を押し込めば、ポンと澄んだ音が店に響いた。
いまかいまかと待ちわびた様子の奥さんにリクエストを募りながら、備え付けの椅子に腰を落ち着ける。
いつの間にか。店に漂っていたレコードは、その鳴りを潜めていた。
大きく息を吸い、吐き出す。鍵盤に指を添えれば、自然と背筋が伸びた。
瞼を閉じ、開く。聞こえてきたリクエストに、ひとつ。頷きを渡して。深く、深く取り込んだ呼気が肺を満たすのを合図に、鍵盤へ指を滑らせた。
ピアノを弾きはじめたのは、まだ字を覚えたばかりの、本当に小さなときだった。
きっかけは、女の子らしいことをさせたい。そんな母の願いという、ありふれたものだ。
習うことを辞めたのは、それから数年後。
別に、ピアノが厭になったというワケじゃない。ずっと師事していた先生が、亡くなったのをきっかけに、コンクールの舞台から去ることを決めた。それだけの話だ。
ちょうど、よかったんだと思う。
才能と努力を兼ね備えたラヴァを傍でみていたから、自分があの境地に至れないことには、早々に気づいていた。
だから。というのは、また少し違う気がするけれど。ピアノを辞めることは、予定調和だったようにも思えた。
実際。ピアノを辞めたことを後悔しているかと問われれば、自分は迷わず首を横に振るだろう。
後悔はない。ただ、時折こうして鍵盤に触れたくなるくらいには、ピアノを弾くことが好きなのも事実だった。
余韻を残して終止符へ辿り着いた旋律に、息を吐く。
ゆっくりと鍵盤から指を離せば、惜しみない拍手が店にいるふたりから贈られた。
少し早い調子と、ゆっくりと。けれどしっかりと。調子の異なるふたつの拍手が重なる。
そうして、奥さんから向けられる感想に、少しの気恥ずかしさを覚えながら応えるのが、いつもの流れ。だのに。
「は? なッ!? ルー?!」
傍らに向けた目に、映る幼馴染の姿に目を見張る。
驚いて立ち上がった拍子に、ピアノ椅子が盛大に音をたてたけれど。気にしている余裕はなかった。
一息に顏へせりあがってくる熱が、顔を赤く染めていくのがわかる。
なんで。いつのまに。
そんな思いを込めて奥さんの方へと目を向けたところで。返ってくるのはいつも通り。穏やかな笑みばかりで。頭が痛い。
どうして。さっきまでここには居なかったはずだ。
店内にいたのは、自分と。それからこの喫茶店を営むマスターと奥さんの夫婦だけ。
だから、いつもみたいにピアノに触れていた。弾かせてもらっていた。
ちょっとした息抜きだ。誰に聞かせられるようなものでもないから。弾くのは決まって、この店に三人のときだけ。なのに。なのに、なんで。
「随分と久しぶりだな」
お前のピアノを聴くのは。なんて、何気なくいう言葉に、きっと他意はない。
そうだろう。だって、ここ以外でピアノに触れることはなかった。しなかった。別に、嫌いになったワケじゃない。弾きたくない、ワケじゃない。
ただ、わざわざ聞かせるまでもない。そう思っただけ。本当に、ただ、それだけで。
「もう終わりか?」
「あ、いや。えっと」
「なら次は、俺からのリクエストでもいいか」
口元に傾けられたコーヒーカップの中身は、当然。マスターが丁寧に淹れたもので。ソーサーに戻された陶器が小さく打ち合わさった。
いや、それ。私が注文したやつじゃないの。なんて言葉は脳裏に過ろうとも、声にならない。
緩慢に立ち上がったルナが、こちらとの距離を縮める。
思わず半歩、足を引いたところで。背に当たるのは、壁だ。逃げ場は、ない。
「いいだろう」
「え、いや。ちょ」
「久しぶりに聞けたんだ。もう一曲聞かせてほしい」
ああ、もう。まったく。普段は無口なくせに。こういうときだけ、雄弁なのだから、勘弁してほしい。
まっすぐ向けられた藍色の目から、目を逸らす。
もう一歩。縮められていく距離に手のひらを掲げて。やっぱり今日も。折れるのは自分の方が先だった。