ライラック
「すっかり夜になっちゃったね」
己の右肩にちょこんと乗った使い魔の呟きに、死神はおかしそうに答える。
「まァ、本来は深夜までかかる予定だったのだがね」
死神キルバーンは大魔王から請け負った「仕事」を終え、帰路の途についていた。
「もう少し切れる男かと思っていたけれど、あんなに思惑どおり動いてくれるとは思わなかったよ」
面白いようにことが進み、ターゲットはあっさりと死の淵へと落ちた。
頭で練った策がピタリピタリとはまっていくのを見るほど面白いことはないと死神は思う。
上機嫌の相棒に、ピロロはひとつ提案をした。
「もう遅いし、バーン様への報告は明日でいいんじゃない?」
太陽のない魔界にも昼夜の区別はある。
地上の空と照らし合わせれば、曇天と夜の闇程度の微細な違いではあるが。
「ミストのところへは顔を出しておきたいな。いいよね?ピロロ」
「もちろん、おっけーだよ!」
つい先ほど無慈悲に命を奪ったとは思えぬほど明るい様子で、ふたりは顔を見合わせて笑った。
「--この時間なら、邪魔なあの子も眠っているだろうしね」
ミストバーンが少し前に拾ってきた人間の子どもを思い出しつつ、死神は忌々しげに零す。
あれ自体に大した興味はない。キルバーンが気に入らないのは、
その養育に手間を取られミストバーンとふたりで過ごせる時間が減ったことだ。
「!あれ、あれ!!」
何かに気づいてピロロが地上を指さす。飛行呪文を使用していたキルバーンは足を止め、そちらを見た。
大魔王の宮殿に従うように広がる城下町。その一角にある狭い路地を誰かが駆けていく。
見間違うはずもない、それは確かにミストバーンの庇護下にある銀髪の少年だった。
はるか上空から見失わぬように死神は彼を追う。背に乗ったままでピロロはキョロキョロとあたりを見回した。
「ミストバーンがいないけど、どうしたのかな」
「ミストがあの子をひとりにするはずはないからね、おそらく部屋を勝手に抜け出したのだろう」
あの子ども……ヒュンケルの目的は父親の仇を討つことだと親友から前に聞かされたのを思い出す。
まだ年端もいかぬ故の軽率さか、それとも早く強くなりたいという気の焦りか。
夜中に城を抜け出し、ひとりで秘密裏に特訓でも行っていたのだろう。
「……どうやら、追われているようだね」
彼の少し後ろを数名の魔族が追いかけているのが見える。
個としては知らない顔だが、近年バーンの支配下に置かれた種族であると死神は気づいた。
魔界の王宮に人間が存在することそのものが気に入らない魔族や魔物はごまんといる。
普段は重臣であるミストバーンの庇護下にあるため手が出せないが、
おそらくはひとりきりでいるのを発見した輩がこれ幸いと追い詰めようとしているのだろう。
「あ、あ~ッ、追いつかれちゃうよォ~~?!」
切迫した場面だというのに、実況さながらにピロロの声は弾んでいる。
死神は何も言わず、少年が追い込まれた路地が見える場所へと足をつく。
冷ややかな視線を送り、ことの成り行きを見守っていた。
「囲まれた!囲まれたよ!!殺されちゃうかな、あの子?」
「殺されはしないさ、連中も大魔王の片腕を正面から敵に回したくはないだろう」
ただ、と死神は紅い瞳を皮肉げに細める。
「残念だけど、綺麗なカラダのままでは帰れないだろうねェ」
死神の想像どおり、魔族たちは子どもを抑えつけその衣服をビリビリと破りはじめた。
(輪姦するつもりか。……やはりね)
命を奪わず屈辱を与え日頃の鬱憤を晴らすのが目的なら、うってつけの方法だからだ。
そしてレイプされてもこの子どもはミストに言いつけたりしないことも分かっているのだろう。
(頭の弱い連中が考えそうな策だな……全く、穴だらけで浅はかで、下らないね)
心のなかで唾棄するが、もちろん死神はあの子どもを助ける気など全くもってなかった。
人間がひとりで魔界を出歩くことがどれだけ危険か分かっていなかった彼の自業自得だ。
「痛い目に会ったらボウヤもミストの有難みが身に染みるんじゃない」
独り言のような冷たい呟きに、ピロロはそうかもねェと相づちを打つ。
そうしてる間に、止めろと抵抗する子どもの甲高い声が闇を切り裂く。
パァンと平手を打つ音とともに、荒い息づかいと嘲るような野太い声が響き渡った。
「うるせぇ、弱っちい人間風情がッ」
「こんなガキを育ててるなんて、ミストバーンの奴も大概イカレてるぜ」
刹那、
己を掴んでいた腕が目の前で千切れ飛び、ヒュンケルは大きく瞳を見開いた。
何が起こっているか分からないという表情で、
自分を取り囲んでいた連中がバタバタと血を吹き倒れ伏していく。
暗闇の奥にギラつく紅い「何か」が目に入り、慌てて顔を逸らす。ごくりとつばを飲み込んだ。
「ああ、しまったな」
「思わず殺しちゃったよ」
聞き覚えのある声がして、ヒュンケルは顔を上げる。
投げつけられた血の匂いのするマントを受け取り、そちらのほうを無意識に見た。
「……あんたは、」
「その恰好じゃあ帰れないだろう?君にあげるよ、返さなくていいから捨てたまえ」
闇に紛れて姿は見えないが、師の元によく現れる黒衣の男の声だと、ヒュンケルは気づく。
「城まで送ってあげるほど流石にお人好しじゃないんでね。じゃあ、バイバイ」
別れの言葉を投げつけたとたんに相手の気配が完全に消える。
ヒュンケルは警戒しながらもゆっくりとあたりを見回した。
自分を襲った連中は調べるまでもなく全員事切れている。
「アイツが助けてくれなかったら、今頃オレは……」
自らの身体をぎゅうっと抱きしめ、ぐらつく足を奮い立ち上がった。
(いや、助けてくれたわけじゃない)
たまたま連中がミストバーンを馬鹿にしたからだ。
それがなければ、あの男……死神は、暴漢どもを殺す手出しなどしなかっただろう。
(--まだオレは、無力だ)
ギリッと歯を食いしばるとマントを身体に巻き付け、ヒュンケルはよろよろとした足取りで歩きはじめた。
「キル、お前に返すものがある」
ミストバーンから几帳面に畳まれたマントを渡され、キルバーンは仮面の下で目を丸くする。
「……捨てちゃっていいよっていったのに、馬鹿だなァ」
「ヒュンケルが世話になったようだな。あれに代わって礼を言おう」
ミストバーンの口ぶりだと、ヒュンケルは夜抜け出したことと悪漢に襲われたことは伝えたが、
どうやら輪姦されかけたことは話していないようだ。
(単に殺されそうになってたあの子をボクが助けた、って話になってるわけか)
……まあ、わざわざ否定する必要もないかな。
そう考えた死神はとりあえず、気にしないでくれたまえと適当に気のない返事をする。
一呼吸おき、ミストバーンはお前には伝えておかねばと思ってな、と前置きしつつ話を続けた。
「今回の件でヒュンケルの修行と養育は離宮で行うことにした。バーン様には既に許可を頂いている」
「え、じゃあ君も……?」
「当然、あ奴に同行する。しばらくは城を離れることが多くなるだろうな」
「……ふーん、そうなんだ……」
全くもって面白くないことになってしまったものだ。
平静を装いながらも死神は心の奥で思わず愚痴りつつ肩を竦める。
(やっぱりあのまま見捨てるか、便乗して殺しちゃった方がよかったなァ)
死神がため息を吐く理由が分からず、影は不思議そうに親友の顔をただ見つめていた。