セーラー服に純情を描いた
ep1 校庭から屋上を見上げた。やはり彼女はそこにいた。紺色のスカートを風にたなびかせ、彼女は空を見つめていた。彼女は空が好きだ。
閉鎖的な学園の中でも彼女は異質だ。成績は優秀だけれど、こうして授業中にも関わらず平然と屋上にいたり、授業中にトイレに行くと告げたきり、その時間は教室に帰ってこなかったり。彼女は自由だ。
かく言う僕は真面目に体育の授業を受けていながらも時折、視線は彼女に向かう。友人は僕が彼女のことを心配しているとでも思っているのだろうが、そんな綺麗なものじゃない。
そんな、綺麗な感情じゃない。
禁欲的な、けれどどこか艶美にも映るセーラー服。風に煽られ見える白い肌は僕を落ち着かなくさせた。視力が良いのも考え物だ。
僕は思想を散らし、授業に集中した。その内、彼女も空に飽きたのか、僕が見える位置にはいなくなっていた。おそらく教室に戻って寝ているか、給水塔の上か裏にでもいるのだろう。彼女がどこにいるかなんて簡単に想像できる。幼なじみだから。
それでも僕のこの思考を彼女に悟らせるわけにはいかない。
□
結局その日、彼女が教室に帰ってくることはなかった。屋上に行っても彼女はいなかった。どこに行ったのだろうかと考えてふと目に入ったのは校庭の隅にある桜の木々。まだ花弁をつけたそれは青い若葉を携えながらも美しく、彼女が気に入るには充分だった。
案の定、桜の木々の奥まった場所に行くと、そこに彼女はいた。ぼんやりと、風で散っていく桜の花びらを見つめていた。長い黒髪が花弁と共に風に流れ、まるで一枚の美しい絵画のようだった。
景色にオレンジが増えていく中、彼女をそのままにするわけにもいかず名前を呼んだ。返事はなかったが、声で僕だと分かったようだ。ゆっくりとした動きで立ち上がると、彼女は僕の前に来た。
僕らの身長差はあまりない。僅かに高い彼女の視線と眼を合わせ、帰るよう促す。コクリと小さく頷くと彼女は僕に続いて歩き出した。彼女は無口というか、普通に喋るけれど、基本面倒臭がりだ。だから、喋らなくて良いと判断すると彼女は喋らない。
小学生の頃、この街に引っ越してきてあまり時間の経たないうちに、彼女と友達になった。回りは親友だと言うが、友人と親友に大きな違いを持たない彼女と僕にとってはどちらでも良い。
幼い頃から彼女は自由で。でも、やっぱり今と変わらず成績優秀でスポーツも万能。サボり癖がついたのは中学の辺りからだ。それでも彼女が許されるのは成績故だろう。僕が彼女と出会ってから今まで、彼女がトップから落ちる姿は見たことがない。最近も今期の生徒会にと勧誘は受けたらしいが、進路に有利なその名誉は、彼女には価値がなかったらしい。本当に、彼女らしい。
だから、僕は彼女に……。
彼女に聞いた。
帰ってから何をしようか。
課題をする。彼女は答えた。
じゃあ僕も。そう返した。
家に帰ったら、彼女か僕の家で課題をすることになるのだろう。そう考え、歩みを進めた。僕と彼女の家は隣。それこそ家族ぐるみの付き合いだ。互いの家を行き来することに今更、遠慮もためらいもない。
家につき、じゃあ、と言ってお互いに別れた。部屋に入り、私服に着替える。
セーラー服の赤いタイを解く。何故だか、自由になれたと、ふと思った。紺色のスカートも脱ぎ、シワにならないようにハンガーにかけておく。仮初の僕が消えた気がした。
馬鹿馬鹿しい思想なのだけれど、彼女と同じ格好している時の僕は、僕でないような気がしてたまらない。ふさわしいとかどうとか思うわけではない。
ただ、堪らない。堪らなくなるのだ。その姿で、その顔で、その声で、僕は彼女に一生拭えない強欲を擦りつけている気分になる。
彼女のその姿が、その顔が、その声が、僕をおかしくしていくんだ。
玄関の方で彼女の声がして、僕は思考を止めた。どうやら今日は僕の家で勉強するようだ。部屋まで来て、と少し大きな声で言うと彼女は僕の部屋にやってきた。勉強道具を剥きだしのまま、鞄にも入れず訪れた彼女は何とも彼女らしかった。クスリと僅かに苦笑を洩らし、彼女のためにクッションを用意する。飲み物を持ってくるから先に始めるよう伝え、部屋を出る。彼女といないと僕の思考は迷走するのに、彼女といると僕はひどく冷静だ。僕と彼女が好きなグレープジュースをグラスに注ぎ、部屋に戻る。先に始めていても良いと伝えたものの、僕を待ってくれていたのか課題をするペースはいつもと比べると遅かった。
コトリ。小さな音と共にグラスをテーブルに置いた。濃い紫色の液体がユラリと揺れた。
ありがとう。そう言うと彼女は嬉しそうにグラスに口を付けた。その口を、コクリと小さく音を奏でた喉元を盗み見たのは不可抗力だ。
誤魔化すように課題を広げ、問題を解いていく。彼女ほどではないが、成績は悪くは無いのでお互いに教え合ったりというのはない。僕の場合、成績が彼女ほどではない理由はひとえに暗記が苦手なせいだろう。授業をしていて問題に詰まったことなど数えるほどしかないのだから。
一時間も経たない内に課題を終わらせると、お互いに読書をした。幼い頃から一緒にいるせいか、彼女と僕はよく趣味が合う。彼女が読んでいるのはこの前買って、既に読み終わっている本だ。どうやらお気に召したらしい。
白く長い指が一定のペースでページを捲っていく。その指は時折、零れ落ちた横髪を耳に掛けていた。既に読んだことのある本に手持無沙汰な僕は、彼女に気付かれない程度に彼女を見ていた。
オレンジに照らされた彼女は美しかった。ふと、その言葉が零れてしまいそうなほどに。手を伸ばせば触れられる。触れても彼女はきっと何もおかしく思わない。だからこそ、僕は彼女に触れられない。触れてはいけない。
オレンジが薄れかかったことに気付き、カーテンを閉め、電気を点ける。
光の中では彼女の黒が際立って見えるのはきっと気のせいではない。だからだろうか、暗い場所は嫌いだ。彼女の黒が見えないから。僕のお気に入りの黒い眼と黒い髪。その言葉を伝えられたのは幼い頃までで。けれど彼女は今でも稀に、僕の色素の薄い眼と髪が好きだと言う。そこに他意はないことが分かっていても、舞い上がる僕を消したい。僅かに高揚する期待を深く、深く沈めたい。
彼女に出会うまで、からかわれる対象でしかなかった僕の目と髪。幼い彼女の言葉に僕は不思議と笑えた。
綺麗。大好き。
家族以外に言ってくれたのは彼女が初めてだった。ハーフという言葉が誰もが分かるような年になってからはからかわれるようなことはなかったし、僕自身も思い悩んでいたわけでもないのだが、僕が彼女の言葉を忘れることはなかった。それほど彼女の言葉は僕にとっては鮮烈だったのだ。
彼女が顔を上げた。
そろそろ帰る?僕は聞いた。
うん。また、本読ませて。彼女は言った。
いつでも読みにおいで。僕は答えた。
ありがとう。じゃあ。彼女は返した。
玄関で彼女を見送り、小さく手を振った。彼女も僕もクスクス笑った。隣同士なのに昔からしてしまう、いつもの見送りと挨拶。やめようとしない理由は分からない。でも、やめない自分にお互い笑うのだ。
独りきりになった部屋に戻り、グラスを片づける。元に戻そうと手に取ったクッションは本を読んでいる間抱えてられていたせいか、まだ僅かに彼女の温もりが残っていた。
思わず、小さく彼女の名を呼んだ。
当然答える声は無い。それにこんな情けない声を彼女に聞かれたくない。
堪らなくなり、彼女がしていたようにクッションを抱きしめた。堪らない思いが、さらにどうしようもなくなった。
僕は立ち尽くしていた。
□
次の授業のある教室にクラスメイトが移動している中、担任に呼びとめられた。放課後に職員室に来るよう彼女に伝えて欲しいと言われた。指導をする雰囲気ではなかったので了承した。どうやら彼女と一番仲が良いのは僕だということは公認のようで、こうして色んな人に伝言を頼まれることがある。曰く、自由奔放な彼女を捕まえられるのは僕だけなんだそうだ。
ちょっとした優越感を抱きながらも、僕は昼までの授業を過ごした。因みに、彼女はホームルームにだけ参加すると、一限が始まる前にフラリとどこかに行ってしまった。今日は春にしては肌寒いから図書室だろう。この学園では図書を管理する教員が、教師と司書を兼任しているため、授業中の図書室は無人であることが多いので彼女はたまに図書室にも行く。
昼休みになった。
昨日は珍しく一日中教室にいたんだけどなぁ。そう思いながら、図書室に向かう。
彼女が本を読んでいたら悪いと思い静かに扉を開ける。すぐに本棚の間から彼女の姿は見えた。けれど、彼女の前に立つ別の人物の姿も見えた。知らない人だった。
彼女よりも高い身長。胸元は赤いリボンではなく赤いネクタイ。彼女に向けて話しかける声は低い。
少し近付くと二人の表情も見えた。彼女に話しかける人物の顔は紅潮していた。それに、ひどく緊張していた。胸の辺りがざわついた。けれど、彼女の表情がいつもと変わらないことが僕を安心させた。
一歩立ち入って分かっていた。僕はこの二人の話を聞いてはいけない。きっとこれは僕の聞きたくないものだ。
彼女に話し掛けようとする前に僕は何でも無い風を装って二人に割って入った。彼女に話しかけた人物は驚いていたが、彼女はいつも通りだった。
わざわざ割って入ったくせに僕は担任からの言葉を伝えただけで、彼女をこの場から連れ出そうとしなかった。
速すぎず、遅すぎず、図書室から出ていく。けれど、内心ひどく焦っていた。また、彼女に話しかける声が聞こえてきたからだ。
僕はこの話を聞いてはいけない。聞きたくない。
扉に手を掛けた一瞬、僕の動きは止まった。それこそ、心臓までその動きを一瞬だけ止めてまったんじゃないかと感じるほどに。
アナタガ好キナンデス。
低い声はそう告げた。
図書室から出てすぐ、僕は走り出した。とにかく逃げたかった。どこでも良い。彼女から遠い場所に。僕が見えない場所に。
錠が錆びてとっくに機能を果たしていない屋上に続く扉をバタンと大きな音をたて開ける。息が上がっていたがそれどころじゃなかった。
蹲って耳を塞いでも、低い声が彼女に告げた言葉が消えない。耳を塞ぐ僕の手を無駄だと笑うかのように頭の中で何度も何度も響くのだ。
やめて。
もういいから。
ジワリと涙が滲んだ。
目を開き見えるのは、赤いリボンと紺色のスカート。彼女と同じ、赤いリボンと紺色のスカート。
視界に映るもの全てが僕を否定する。
視界に映るもの全てが僕の感情を否定する。
僕では駄目なのだと分かっていた。彼女に相応しいのは〈これ〉じゃない。彼女よりも高い身長や、低い声、それに赤いネクタイ。彼女に相応しいのは〈それ〉だ。
それでも僕はこの感情を消すことができない。
それでも僕は彼女を視界に映さないでいることなどできない。
それでも僕は彼女を友人として見てはいない。
いつから、なんて無い。きっかけを挙げるなら初めて出会った時。彼女が僕の目と髪が好きだと言ったあの時から。
僕は彼女に恋をしていた。 この感情は決して綺麗なものではない。イノセントな感情でもなければ、望んでいるのはプラトニックな関係でもない。僕はそんなものは望んでいない。彼女の赤いリボンをこの手で解き、紺色のスカートの下に隠された肌に触れたい。もっと、もっと触れたい。彼女の長い黒髪を指で絡め取りたい。澄んだ音を紡ぐ唇を僕の唇で塞ぎたい。
僕の感情は綺麗じゃない。
僕の感情は正常じゃない。
彼女を愛おしく思うこの感情は一般論では認められない。マイノリティで劣等な感情だ。
それでも、分かっていても、この感情を消す術を僕は知らない。
どうして僕は彼女と同じなのだろう。
どうして僕は赤いリボンと紺のスカートなのだろう。
どうして僕は彼女と違わなかったのだろう。
どうして、
どうして、
どうして。
彼女と向かい合っていた低い声は僕とは違う。彼女とも違う。僕が喉から手が出るほど欲しいものを全て当たり前のように持っていた。
それでも僕は男になりたいわけではない。僕は今この姿この心、このままの僕で彼女に恋をしたのだ。この感情を簡単に諦めることはない。諦めることはできない。それでも、この姿ではどうにもならないのだと、彼女を目の前にする度に感じさせられる。どうにもならないそれが、悔しくて仕方ない。
でも、この姿だからこそ僕は彼女の傍にいることができる。隣に立つことができる。誰にもおかしいと思われない。誰にも僕と彼女を否定されることはない。僕はこの立場に甘んじている。微温湯に浸るかのように今の関係に溺れている。無条件に彼女に愛されるこの立場に、狡賢い選択肢だと分かっていながら居続けている。
狡い。
僕は狡い。
本当に狡いのは彼女に劣情を抱いた愛情を持っていようともその思いを告げることのできる赤いネクタイや低い声や高い身長じゃない。本当に狡いのは、思いを告げた彼らを狡いと思いながらも、彼らが居たいと望んだ場所に平然と居る僕だ。
ギィ……と鈍い音を立て、屋上の扉が開いた。ビクリとして扉の方を見ると、そこには彼女がいた。泣き顔を見られたく無くて咄嗟に俯いたけど、止まらない嗚咽や震える肩は隠せなかった。
澄んだ声で彼女が僕を呼んだ。そして、蹲る僕の前に座った。
泣き虫さん。どうしたの。
彼女が僕に問い掛けた。僕は小さく頭を振ることしかできない。
まるで拗ねた子供みたいだね。
彼女がクスリと小さく笑って言った。 泣きじゃくる僕を彼女は抱きしめた。赤いリボンが目の前にある。
こんなことをしてもらえるのは、僕が僕であるからだ。もう、涙を止める術は無い。
僕は彼女に縋りついて泣いた。僕が僕であることが悔しくて、この感情を伝えるわけにはいかないことが苦しくて、彼女から注がれる無条件の愛情が嬉しくて、僕は声を上げて泣いた。彼女は子供のように泣く僕にその理由を聞こうとはしなかった。だから僕は泣きながら言葉にせずに叫び続けた。
どうして僕は貴女と違わなかったの。
どうして僕は貴女と同じなのに貴女を好きになったの。
どうして僕は貴女が好きなの。
好きだ。
貴女が好きだ。
僕は貴女が大好きだ。
僕は貴女を愛してるんだ。
嗚咽を漏らしながら彼女を見上げると、彼女は困ったように、けれど、綺麗な笑顔を浮かべていた。まるで、聖女のように微笑んでいた。僕の大好きな彼女の笑顔。僕が大好きな彼女の笑顔。
貴女が好きなんだ。
彼女を抱きしめて、僕は泣いた。
黒と赤と紺の中で僕は泣き続けた。
□
彼女は貴い。
とても、とても。
END
ep2 この感情の何が悪い。この思いのどこが悪い。
そう、叫びたかった。
あの子を思う感情に何一つ偽りはない。何一つ、嘘はない。けれど、それを肯定して生きれるほどこの世界は甘くもないし、僕は強くない。
嗚呼、でも今こうして僕に笑いかけるあの子を見ていると苦しくて、心臓の辺りが痛いんだ。目を合わせると心拍数は高まるばかり。ちっとも役に立たないポンコツな心臓め。
私、──のこと好きだよ。
そう言って、あの子は僕を惑わせる。貴女と僕の“好き”は違う。
あの子の言葉から逃げたくて僕は走った。息を乱して走る最中、あの子の戸惑った顔がやけに脳裏をチラついた。
また、感情が僕の身体を乗っ取った。悲しいでもない、苦しいでもない、嬉しいでもない。この感情は“悔しい”。
悔しい。悔しくて堪らない。マイノリティだから、あの子は僕とは違うから、そんな沢山の言い訳をして逃げる僕が悔しくて堪らない。
そこからは意地のようなものだったのだと思う。
兄の部屋に勝手に入って押入れを漁って、勝手に服を取り出して、着ていた服を投げ捨てて、兄の服を着て外に出た。
そして、無我夢中であの子の元に向かった。
二人でいつも通る登下校の道に彼女はいた。隣にはいつも僕がいたから、一人で歩く姿は不自然にも思えた。たった少しの優越感。
「──!!」
俯くあの子が気づくように叫んだ。僕の声に顔を上げたあの子は、僕の格好を見ると目を丸くした。
高い声には似合わないこの格好。長い髪には似合わないこの格好。初めて着た服は思いの外、襟のあたりが苦しかった。僕には 少し大きいこの服は、不恰好にも程がある。けれど、これは意地なんだ。学ランなんか着たって僕が男に見えるわけはない。それでも、意地だったんだ。
あの子に言葉を紡ごうとすると、声がうまく出なかった。みっともなく口をパクパクとさせるばかりで、溢れるのは躊躇いと掠れた息だけ。
焦りに合わせて視界が歪んでいくのが分かった。駄目だと思った時には、涙がこぼれ落ちていた。頬から顎を伝う涙は止まらなくて、あの子の戸惑った顔にさらに涙は溢れてしまって。
「僕は……っ……」
ポンコツな身体が動き出す。
「僕は……──が……」
「僕は──が好きだ……!!」
どうしたの?私も好きよ?
あの子が言う。
違う。違うんだ。
「僕の好きは“それ”じゃないんだ……」
あの子はどうしていいのか分からない、そう言うようにボクを見つめた。だからボクは言葉を続けた。
「僕は──が好きなんだ。恋愛感情で……」
言ってしまった。
後悔と喜びがポンコツなボクを麻痺させていく。甘い背徳感じみたものが僕を満たしていく。
あの子は、どんな顔をしているのだろう。歪む視界じゃ分からない。
END