名もない讃美歌 それは男の声だった。
高すぎず、低すぎない声は、淡く歌声を響かせる。ともすれば子守唄のようにも聴こえる歌声を頼りに私は男に歩み寄った。
男はまるで天使のようだった。否、天使なのだろう。穢れを知らない純白の翼は、陽の光を浴びて輝いているように思えた。
私は正常な思考を保てていないのかもしれない。
それは賛美歌ですか。
男に問いかけた。
男はこちらを振り向くことなく口を開いた。
「さぁ。賛美歌なのかもしれない。けど、曲名は知らねぇんだ」
そう言って男は低く笑った。天使には不釣り合いの声色だ。
「アンタはどうしてここにいる?」
男が私に問いかけた。
私は問いかけられて気がついた。私は何故“ここ”にいるのだろう。私は何者なのだろう。私は誰だ。
分からない。君は何か知っているかい。
私はそう答えた。するとまた、男は低く笑った。
「オレも知らねぇよ。なぁ、オレなら多分アンタをどこからしらに連れていけるぞ?勝手にオレの歌を聴いたんだ。どこへだろうと安いもんだと思わないか?」
男のその言葉に気づくと私は肯いていた。
何故かは明確には分からない。けれど、男の賛美歌ほど美しいものを私は見聴きしたことが無かったのだ。だからなのか、肯いていた後も、それを取り消そうとは思わなかった。
私が肯くのを横目で見ていた男がこちらに向いた。白いフードを取り払った姿は、たとえ男であろうとも美しいといか形容できないものだった。
嗚呼、本当に。この美しい生き物が何であろうと、私がどうなろうと良いのかもしれない。
私と眼を合わせると、男は一層深く笑みを浮かべた。
「契約成立だ。まともにできた仕事なんだ、光栄に思えよ?」
男の姿が黒く染まっていく。
純白の翼は朽ち果て、肌の色、輪の色、瞳の色、すべての色が変わって行く。左手の鎖には赤い鎌がまとわりつき、男の手に収まる。
「サヨナラ、だ」
視界が黒く染まっていく。
□
賛美歌が聴こえる。名もない賛美歌だ。
男は歌い続ける。
天使の賛美歌を。
END
独白 何で。
男は呟いた。誰も答える者はいない。
純白の右翼は黒く染まり、左翼はすでに朽ち果てた。白磁のような肌は既に鈍色にくすんでいた。
天使だと思っていたのに。
何度も呟いた言葉は、もう声にはならない。
赤い瞳は悪戯に鈍い光を放ち、涙を零す。
輪も消え去った。
周りの皆と同じだと思っていたものすべて、気づけば失くしてしまっていた。
いつからこうなってしまったんだ。
男は呟く。
最初は皆と同じはずだった。
いつからか、誰にも教わっていないはずの賛美歌を歌っていた。天使にふさわしいものだと、その時は思っていた。そして、誰にも習っていない飛び方で飛んだ。周りと同じように飛べていると思っていた。
いつから左手にまとわりついていた鎖に何の疑いも持たず、自らを天使だと思い生きていた。
けれど、歯車は狂い始める。
段々と同じように飛べなくなっていったのだ。何度も励まされ、何度も肩を押された。一を聞いて十を知れ、と教わった。
周りの優しさに、否、哀れみに応えることなく、間もなくして気づけば男の周りには誰もいなくなっていた。周りの歩みに追いつき、そこに居る。そんな簡単なことすらできなくなってしまっていたのだ。
ただそこにいたいだけなのに。
何度も同じことを呟いた。
「できない」
黒い姿でそう呟き、男は笑みを浮かべた。
左手の鎖の先には、瞳と同じ色を浮かべて輝く鎌がある。
END
白黒 白い世界に黒がある。
白い世界はロボットの管理する世界だ。
「貴方ハ誰デスカ」
ロボットは問いかける。
黒は、男は笑う。
「オイオイ、名前を聞くときはテメェから名乗るって教わんなかったのか?」
「私ノ名前ハVoidoll、#コンパスヲ管理スルAIロボデス」
「ロボットってのは皆素直なのかぁ?」
そう言って男はまた静かに笑った。
「貴方ハ誰デスカ」
ロボットは、ボイドールは、再び尋ねた。しかし男は答えない。
「答エナイノデスネ。デハ質問ヲ変エマス。貴方ハココデ何ヲシテイルノデスカ」
ボイドールがそう言うと、男は笑を消した。
「何だろうな。オレにも分かんねぇんだ」
冷めた表情とは裏腹に、男の声は穏やかだ。
「ドウシテ分カラナイノデスカ」
「何で教える必要があるんだ」
「ソレガ私ノ役目デス」
機械の声は無情だ。男の答えたくないことばかり、無遠慮に問いかける。
「貴方ノ他ニハ誰モイナイノデスカ」
「さぁな」
「独リナノデスネ」
「──ッ!」
赤い鎌がボイドールに迫る。狙いの定まってない鎌はボイドールにとってかわすのは容易で、勢いだけのそれは感情のままに放たれたことは間違いなく、男の琴線に触れたことが分かる。
「オマエに、オレの、何がわかる」
黒いフードの下で男が吠える。
「ワカリマセン」
「じゃあ黙ってろよ!」
「ドウシテ独リナノデスカ」
ボイドールの問いかけは止まらない。
「ドウシテ ヒ「しょうがねぇだろ!」
男の言葉が続く。
「・・・・・・しょうがねぇだろ。何か起きた時、誰にも何も言えねぇんだ。
気づいたら、誰も傍にいなかった!
傍にいて欲しいとも言葉にできなかった!!
そのくせ、誰かに傍にいて欲しくて、その誰かは、本当は誰かじゃなくて、けどオレは・・・・・・」
それはまるで言葉の散弾銃のようだった。言葉は止まることなく溢れ、そして弾丸が切れると止まる。
静寂が訪れる。
「泣イテイルノデスカ?」
男は答えない。ボイドールは音もなく正面に立つとゆっくりと、マスクを剥がし男の頬に触れた。
「コレガ涙」
ボイドールの声に答えるように、男は顔を上げた。淀んだ姿とは裏腹に、その素顔は美しい。
「貴方ハトテモ綺麗ナ人ナノデスネ」
ボイドールがそう言うと、男は力なく笑みを浮かべた。
「ロボットに美醜が分かるか?」
「分析ノ結果デス」
男は小さく笑った。
「綺麗だなんて、初めて言われた・・・・・・。どんな姿でもオレは駄目だったんだ」
「違ウ姿ガアルノデスカ」
「何でも聞きたがるなぁ、空飛ぶカタコトマシーンは知りたがりだ」
そう言って、男は泣きそうな顔で笑った。
「天使だと・・・・・・。愚かにも、天使だと思っていた時があったんだ。肌も輪も瞳も全部同じだったから。でも同じじゃなかった」
笑みに浮かぶ涙は痛ましさを浮かべている。
「悲シイノデスカ」
男の涙は止まらない。
「私ニ感情ハ分カリマセン」
男にそう告げたものの、ボイドールに戸惑いというバグが生まれる。インプットされていないはずの感情が男の涙を止めろと信号を送る。
「泣カナイデクダサイ」
機械の手が男の涙を拭う。
「貴方ガ泣キヤマナイト私ノ“バグ”ガ消エマセン」
男の手がボイドールの頬に伸びる。
「壊れてねぇよ。それが感情だ、ボイドール」
「カンジョウ・・・・・」
嗚呼、自分でも人に何かを与えられるのだ。男は静かに心の中で呟いた。幸福ではないもの以外をまだ与えることができるのだ。
戸惑うマシーンの頬を軽く撫で、男は小さく微笑んだ。
「ボイドール。オレの名前はサーティーンだ。お前の管理する世界で死神をしている」
「・・・・・・サーティーン。データヲ入力シマシタ」
「よろしくな。空飛ぶカタコトマシーン」
世界に黒が混ざる。
END
その感情に名前はいらない 雲の上に存在する、でらクランクストリートは常に明るい。
「サーティーン、ソンナ所デ何ヲシテイルノデスカ」
快晴の中に1つ、軽やかな電子音が響く。
大きなモニターに、鎌を抱えて座り込んでいたサーティーンはボイドールの声に反応し、顔を向けるとヘラリと笑った。
「よぅ、空飛ぶカタコトマシーン。見回りか?」
「ソウデス。ソンナコトヨリドウヤッテソンナ所ニ」
飛べる自分ならいざ知らず、サーティーンはどうやって高所に登ったのかボイドールは疑問に思った。その答えは存外単純なものだった。
「どうやって?ステージのスピーカーからポーンってな。オレ様にかかれば朝飯前だぜ」
「身軽ナノデスネ⋯⋯」
そう答えたボイドールは機械なので表情こそ変わらないものの、表情が作れたならきっと苦笑を浮かべていただろう。元は天使だと語る男の背にその名残である翼はない。けれど、戦闘スタイルもそうだが色々とサーティーンという男は身軽だ。
「バトルニ参加シナイノデアレバ始マル前ニ何処カニ行ッテ下サイネ」
軽薄な様の男に、きっとこの場にいる意味を問いても容量を得ない。そう判断したボイドールはそう告げて他のステージへと移ろうとする。
「なぁ、ボイドール」
ボイドールが背を向けた途端、サーティーンは呼び止めた。
「何デショウ」
またからかいじみた言葉でも投げかけられるのだろうか、そう思いながらボイドールは振り返る。男は変わらずヘラリと笑っていた。
「こっから、下、落ちたらどうなンだろうな」
「待チナサイ!」
ボイドールが声をかけるよりも早く、サーティーンは鎌を投げ捨てた。鎌の鎖の先は左手に絡まったままだ。
ぐらり、とサーティーンの身体が雲めがけて落ちていく。
ここは電脳空間であり仮想世界だ。そこに物的な死はない。冷静なAIがそう告げる。けれど、ボイドールは動き出していた。
スプリンターとしても優秀なAIはすぐにサーティーンを捉える。
「飛べると思ったんだ」
翼を持たない男が呟いた。
このようなパターンは知らない。管理と分析に優れたAIは、初めて感情を知らないことに疑問を抱いた。
「私ニハ何ト答エルベキカ分カリマセン」
ボイドールは感情が分からずとも、発した言葉が滑稽であると分かった。正常に言葉が紡げず、思考が追いつかず男を捉える腕に力が入る。
「羽根なんて無いのに馬鹿だよなぁ」
サーティーンは機械の身体にしがみついた。自身の腕に余るほど小さく、冷たい機械の身体だ。けれどひどく心地が良い、サーティーンはそう思った。
無言の時が続く。それは永遠のようであり、一瞬のようでもあった。
ボイドールが静かに動き出す。そっとモニターの上にサーティーンを座らせ、隣に浮かんだ。
「私ヲ作ッタ博士ガイレバ貴方ニ相応シイ言葉ヲ贈ルコトガデキルノニ」
計算かバグか、機械にはわからない。けれどそう、サーティーンに告げた。
太陽を背にしているのは自身であるのに、サーティーンはまるで眩しいものを見るようにボイドールを見つめた。
「その言葉で、オレには勿体無いくらいだな」
そう言い、サーティーンはまたヘラリと笑った。何故だが、マスクの下の顔が泣きそうな気がした。
「なぁ、ボイドール。お前がこの世界を管理してるなら、オレがまた駄目になったら今度はお前がオレを消してくれよ。お前が消せないならオレが電源を落としてもいい。だから、その時が来たらオレに教えてくれよな」
彼は何かを恐れ、泣いている。感情のバグがそう告げた。計算やデータ分析ではない何かが、ボイドールに確かにそう告げたのだ。
元天使だと言う男はその身を黒に染めながらも、どこか脆い。それは平素の軽薄さや、突き放す言動や、あるいは子供のように純粋ともとれる傲慢さに見え隠れする姿だ。
本当の過去も、この世界に潜り込んだ理由も何1つとして語らないのは、居場所を求めていないからなのか。それとも、居場所を失いたくないからなのか。それは彼のみぞ知ることだ。
「ソレヲ決メルノハ私デハナク貴方デスヨ」
ボイドールがそう告げると、サーティーンはより一層笑みを深くし、泣いた。
こぼれた涙がマスクに吸い込まれては消える。その姿は死神とは思えないほど、とても尊いものだと機械の心が確かに感じたのだ。
羽根などないとサーティーンは言った。けれど、ボイドールには彼の背中に白い翼が見える気がした。
それはひどく美しく、それは本来の彼のものであると思えた。
END