大きな出来事なんて起こらなくていい。
特別なことなんて何も起こらない、普通の毎日でもいい。
ただ、クラスに一人、俺みたいな人間と同じ価値観を分かち合えるヤツがいる。
それだけでよかった。
それだけでオレは、息もできなくなるようなこの毎日から逃げ出すことができた。
あの日まで……。
お前が消えてしまったあの日まで……──。
──心佑──
毎日が、それで動いていた。
それで……それで良かったんだ──。
「ハァ、ハァ、ハァ──」
オレは暗闇の中を独りで走り続けていた。ここがどこなのか、オレには検討もつかなかった。ジワジワと蝕まれていくかのように、暗い暗い闇がオレを追ってくる。
言葉にできない恐怖からオレは逃げていた。
──ここはどこだ!
心の中でオレは叫んだ。
誰もいない。
──誰か!
独りぼっちの暗闇の中でオレは誰かを求めた。今のオレにとって、暗闇から逃げられるのなら誰でもよかった。
──んっ?
遠くに見えたもの。それは人影だった。
──いた!
「おーいっ!」
オレは思わず叫んだ。これでオレは暗闇の中の、意味の分からない恐怖から逃げることができる。
「あの~?」
後ろ姿を向けた人物が振り向いた。
「えっ?」
瞳と口の端から零れる血。腹部に開いた血だらけの穴。けど、それよりも、その人物の顔を見てオレは動揺を隠せなかった。
あれは……。
「オレ?」
バッ!
オレは目を覚ました。自分でも驚くほど、グッショリと汗を掻いていた。
「夢?」
起き上がっていつもの様に、顔を洗って、制服に着替える。ネクタイを少し緩めてしまうのはオレの癖だ。
「よし」
鏡の前で確認。今日もいつも通りのオレだ。
「今日は早起きできたから、早く学校に行こうっ!」
見慣れた通学路を少し小走りでオレは進んだ。
ふいに、今朝見た夢が頭を過ぎった。
ゾクリ……。
寒気がするほど嫌な夢だった。
なんであんな恐ろしい夢見たんだろう。
「あ、ブライト~!」
聞き覚えのある声がオレを呼んだ。ブライトとはオレのことだ。
「おはよ」
「おうっ、グライス」
オレを呼んだヤツはグライスといって、幼い頃からの親友の奴だ。
「今日は早いね」
そう言ってグライスは笑った。グライスの声に気取りはなく、そんな優しいグライスがオレは好きだった。親友と呼べるのはグライスだけだ。
「今日さ~、変な夢見ちゃってさ~。らしくもなく早く目覚めちゃって」
頭を掻きながらオレは言った。たかが夢でそんなに深く考え込むのもらしくないから、軽い口調だ。
「ふ~ん」
グライスの言葉を聞いて、俺たちは歩き出した。
「昨日ね、とても楽し──」
「おはよ~、ブライト!」
「おはよ~」
後ろから聞こえてきた声にオレは言葉を返した。
「おはよっ!ブライト!」
「おはよ~、ブライト。今日は早いのねー」
「ブライト!一緒に学校行こっ!」
次々に声を掛けてくるクラスメートに流されるように、オレは進みだした。朝はいつもクラスメートに囲まれてしまう。
だから気付けなかった。
遠く離れた場所で複雑そうな笑みを浮かべていたグライスに。
授業中はちょっとしたおふざけ要員。休み時間はクラスメートと趣味や面白かったこと、色んなことを話している。ホントは人気者キャラは好きじゃない。正直、息ができなくなりそうなほど、苦しいなんて思うこともあった。そんな中で、読書をしているグライスをたまに盗み見するのがちょっとした安らぎだった。
帰りはいつもグライスと一緒だ。オレたちは同じオカルト研究会に入っていて、曲も本も趣味がまったく同じだった。グライスは、運動は苦手だけど、頭は学年トップになるくらい良い。優しくて、人の気持ちを考えることができて、頭の良いグライスはオレの自慢の親友だ。
「ねぇ、ブライトっていつも人気者だよね」
「そうか?オレは人気者じゃないぜ?」
「人気者だよ。僕とは大違い」
グライスに返した言葉を否定するようにグライスは言った。オレは普通にしているだけだ。それに、みんなと話すよりもグライスと話している方が好きだ。
「僕も君みたいになりたいな」
グライスがポツリと呟いた。
「君みたいな人気者に」
グライスはそう言った。そこに潜んだ影にオレは気付かない。
「何言ってんだよ!」
オレの言葉に、ハッとするようにグライスは顔を上げた。
「人気者でも人気者でなくても、オレ等は親友だろ?」
そう言ってオレは笑った。この言葉に嘘偽りはない。
そんな俺を見て、グライスが笑った。やっぱり笑顔の方がいい。
「うんっ!」
この笑顔だ。
グライスには、この笑顔でいて欲しい。
ボクラハ、シンユウダ。
『ニクイ!』
顔中、体中、血塗れの人間がオレに叫んでくる。今にも襲いかかってきそうなほどに。その姿は人間と言うより、怪物と言った方が合っていた。だけどそんなことよりも、怪物の顔が誰かに似ていたんだ。
その顔は──。
「グ──」
「グライス?」
長距離走をした後のように、息が苦しかった。何度も何度も肩で呼吸をした。恐怖を感じていたのか、オレの瞳には薄っすらと涙が滲んでいた。
ゆっくりと目を閉じる。けどすぐにハッとなって目を開けた。
「こ、ここは?」
見わたすとオレは知らない所に、制服姿で立っていた。空には月。また、暗い世界だ。
ニクイ……
小さく声が聞こえた。まるで獣のような声だった。けど、オレはこの声をどこかで聞いたことがあるような気がした。
でも、どこで……?
ニクイ
はっきりと声が聞こえた。声はアイツに似ていた。
そんなはずない。オレは必死に否定した。こんな獣のような声がアイツの声に聞こえるなんてありえない。
ニクタラシイ
何かが這うような気味の悪い音とともに声が聞こえてくる。恐怖のあまり、オレは振り向きたくても振り向くことができなかった。
ニクイ
声が近づく。
オマエガ ニクイ
オレはいつもと同じように学校に向かった。
何でグライスが怪物になって出てきたんだ?そんなこと、ありえない。
そう思いながら、俺は学校へと続く道をズンズンと進んだ。
『ニクイ!』
夢で聞いた声が頭から離れない。あれは確かにグライスの声だった。だけど、グライスがそんなことを言うなんてありえない。
首筋に冷や汗が伝うのを感じながら、オレは生唾を飲みこんだ。
ふとオレはあることに気がついた。
そういえば今日みんな挨拶してきてくれないな~。
そんなことを思いながら俺は小走りに道を進んだ。
「あ、いたいた」
クラスメートたちの姿が見えた。何か話しているのか、そこだけやけに賑やかだった。
なんだ、みんないるじゃないか。
そう思ってオレは声を掛けようとした。
「お~い!」
皆に呼び掛けたオレの声をクラスメイトの誰かが遮った。
「もー」
そして、言ったんだ。
「グライスって最高ね!」
思わずオレは立ち止まった。
「いやー。そうでもないよ」
聞き慣れたグライスの声。グライスが振り返る。
『ザマーミロ』
そう聞こえたような気がした。
振り向いたグライスは、グライスだけどそうじゃなかった。微笑んだその顔は、優しさよりも愉悦に似た何かで満ち溢れていて、いつものグライスとまるで違っていた。
グライス……?
動揺を隠せないまま、オレはグライスを見つめた。
オレに気付いたのか、グライスがオレにピースをしてきた。やはりその顔はいつもの優しいグライスではなかった。
どうして。
休み時間。グライスはクラスメートに囲まれていて近づくことすらできなかった。
「一体どうしたんだ?グライスの奴……」
机に肘をついて、遠くからグライスを見つめ、オレは呟いた。そんなオレに誰かが近寄ってきた。
「教えてあげようか?」
声に反応して顔を上げるとそこには、同じオカルト研のダスクがいた。
「オカルトマニアのダスク・ハンネル……」
「マニアで悪かったね」
思わずオレが呟くと、ダスクは苦笑しながらそう答えた。
「で、何でお前がグライスの変化のこと知ってんだよ」
ダスクを見上げてオレは聞いた。するとダスクは、少しだけ眉間にシワを寄せてこう言った。
「彼の首筋を見て」
ダスクに言われた通り、オレはグライスの首筋を見た。そこには、奇妙な本でしか見たことのない魔法陣のようなマークがあった。
ずっと傍にいたのに全く気付かなかった。
呆然とそう思うオレに説明するように、ダスクは言葉を続けた。
「あれは、悪魔と契約をした証となるマークさ」
「んっ?……悪魔?」
思わずオレは聞き返してた。当たり前だ。そんなもの迷信だと思っていたのだから。
「オレ、一週間前に友達と『悪魔の召喚』について話してたんだ」
□
一週間前。オカルト研のメンバーであるダスクと、その友人であるアネス・ユリエールとピーター・ジェネルスは、オカルトが大好きでそのことばかり話していた。
「なぁなぁ知ってたか?悪魔と契約してくれるところがあるんだって!」
アネスは得意げに二人にそう言った。
だが、そのことを既に知っていたダスクとピーターは笑いながらアネスに言った。
「バッカ!そんなこと中学から知ってたぜ!」
と言って、自慢気にピーターは笑った。
「そうそう。アネス流行遅れ~」
アネスの肩をトンッと叩き、ダスクも笑った。
「え!ウソ~!」
残念そうにアネスは声を漏らした。そんなアネスを見て、笑いながらピーターは言葉を続けた。
「でも、契約するには生贄がいるとか、どうとか」
「けど、契約したからには絶対その願いは叶うとか!」
ピーターの呟きに、楽しそうにアネスは続きを言った。
「それって本当?」
三人の前にふいに少年が現れて、そう聞いた。少年の顔にはニヤリと黒い笑みが浮かんでいた。
その少年は、三人もよく知るグライスだった。
「悪魔と契約をしたら、悪魔の契約印を捺される。絶対、グライス君は契約したんだ」
一週間前のことを一部始終話し終えてから、ダスクははっきりと言った。オカルトは好きではあったけど、オレはすぐに信じることができなかった。
「嘘だ……悪魔なんて、そんな非現実的なこと」
そう呟きながらオレは思った。
グライスはそんなことはしないと信じたい。いや、オレは信じていないといけないんだ!
「嘘か嘘じゃないかはどうでもいい。けど、とにかく今日一日は、絶対にグライス君に近づいちゃ──」
「──ブライト」
ハッとしてオレたちが横を見ると、そこには笑顔のグライスがいた。
「ちょっと屋上まで来てくれる?」
違う。これはグライスじゃない。こんな笑顔、オレは知らない。
答えられないでいるオレに、グライスは言った。
「それくらいいいよね?だって僕ら」
「親友なんだからさ」
「でさ、ダスク君からどこまで話聞いた?」
屋上に着いてすぐ、グライスはオレに聞いた。けど、オレは答えれなかった。
「お、おい。もう次の授業になるからまた後にしないか?」
「ダスク君からどこまで話聞いたのって……」
ごまかそうとしたオレの言葉をグライスが遮る。
「聞いてるんだけど」
ギロッとオレを見下すように睨み付けてグライスは言った。オレは答えざるを得なかった。
「お……お前が、悪魔と契約したっていう話まで……」
俯いてオレは答えた。グライスの視線が針のように体中に突き刺さる。
「契約はした。非現実的だよね~。悪魔と契約して願いを叶えるなんてさ。でもさ、本当にあるんだよ」
そう言ってグライスはニヤリと笑った。狂っているかのような笑みだった。
オレはそんなグライスを見て、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
信じたくなかった。こんなグライスを。
変わってしまった親友の姿を。
そんなオレたちの沈黙を切り裂くように、声が響いた。
「グライス・アーチェル。まだですか?悪魔界にもビジネスというものがあるのですよ」
声のする方を見ると、フェンスの上に黒い翼を生やした男がいた。整った顔、白球ではなく黒球の眼、赤い瞳、浅黒い肌。片手には分厚い本が握られていた。
悪魔だ。
ただ驚くことしかできないでいるオレを見て、悪魔は言った。
「おや、その方ですか?この私、ディレクト・ヴァンディルを召喚した、グライス・アーチェルの生贄は」
「い、生贄?」
呟くようにオレは言った。
「そうさ。俺を人気者にする引き換えに、お前を悪魔の生贄にした」
瞬時には、グライスが何を言っているのか理解できなかった。
少しして、しぼり出すようにして、掠れた声でオレは言った。
「な、何でだよ。オレたち親友だっ──」
「親友?どこが?ねぇ、ブライト。俺はね、お前と知り合った頃から、ずっと、ずっと」
「お前が憎かったんだよ」
オレの言葉など聞く気もないとでも言うかのようにグライスは言葉を続けた。
「毎日毎日ヘラヘラヘラヘラしやがって!なのに人がゾロゾロと虫のように寄ってくる!
人気者は辛いよね!
俺なんか見てみろよ!
いつもお前のいないところで、お前に寄ってくる奴らがボコスカボコスカと俺の身体も心も傷つけていく!転んだ傷?ンなわけねェだろ!バーカ」
グライスがオレを睨み付けて更に言った。
「……憎かった。人気者のお前が。人気者じゃない弱者の俺なんて、お前に寄る虫どものいい遊び道具だ!弱者の俺はイジメられるしかない!」
「グ、グライ──」
「黙れ!」
オレの言葉をグライスが遮る。その声は憎しみに染まっていた。
オレだけに向けられた憎しみだ。
「今からは俺が人気者。そしてお前はもういなくなる。お前は地獄で苦しみながら死ぬコトもできない、つら~い、つら~い毎日を送る!」
「何時まで続ける気ですか?言っておきますが、貴方も寿命が尽きてしまえば、その地獄に行くことになるんですよ?」
悪魔がイライラと焦っているかのような声音でグライスに言った。かなり時間が遅れているのか、その声は怒っているようにも思えた。
悪魔の方を振り返って、グライスは笑った。
「いいよ。アイツが地獄に行けるなら。さぁブライト!逃げるか?逃げられないけどな!こんな親友を持った自分に後悔するんだなぁ!」
そう言って、空を仰ぐようにグライスは笑った。
「なぁ、グライス」
ブライトは静かに口を開いた。
「もし、オレが人気者じゃなかったら……ずっと親友でいられたのか?」
ブライトの言葉に、グライスは笑いを止めた。
「もし、オレが人気者じゃなかったら……お前を苦しめずに、ずっと偽りのない感情で過ごせたのか?」
「ハッ?もう過ぎたことなのに、もしももクソもねぇだろ」
狂ったような笑みを浮かべ、グライスは答えた。
「そうか」
ブライトは短くそう答えた。
「時間です。早くしてください」
ディレクトはイライラと、グライスに言った。ディレクトにとって、グライスやブライトはどうでもよく、仕事を時間通りにまっとうできればそれでよかった。
「分かってるよ」
グライスは投げやりに、そう答えた。そして、冷酷な瞳でブライトを見据えて言った。
「さぁ、ブライト。時間だ。何か言い残すことはぁ?最後の憎しみの言葉ぐらい聞いといてやるよ」
──言えよ、ブライト。
「憎いだろ?俺のこと」
──言え、ブライト。後悔と、怒りと、妬みと、憎しみと、哀しみと、苦しみと……。
「言えよ、何か」
狂ったように笑ったまま、グライスは聞いた。
──聞いてみてぇ。コイツが俺に対する憎しみを込めた言葉。
そう思いながら、グライスはブライトの言葉を待っていた。グライスの心にあるのは狂った感情だけだった。
──グライス……。
ブライトは静かに顔を上げた。
「ごめんな」
ブライトは、泣いていた。
「ごめんな。お前をずっと苦しめていて」
そう言って、ブライトは笑おうとした。けれど、さまざまな感情が溢れ出し、ブライトは笑うことができなかった。
「わざわざ悪魔と契約してまで苦しんだんだろ?
オレがいたら、この先もずっと苦しまないといけないんだろ?
ごめんな……オレ、鈍いからさ。全然、気付けなかった。
もしオレがお前の立場だったとしたら、オレはこんなことしない」
──今さら何言ってんだよ、ブライト。
「オレのことさ、いつまでも憎んでいいからさ。嫌いでもいいからさ……。
けど、オレはさ……。
オレとお前は、出会ってからずっと、ずーっと」
──親友だ──
──ブライ、ト……。
驚きに目を見開いた顔で、グライスはブライトを見つめた。
そんなグライスに、ブライトは笑顔を向けた。心からの笑みだった。
親友に向けた、最後の笑顔だ。
ブライトはグライスに背を向けて、フェンスに近づいた。
「悪魔さん、待たせてゴメン。行こうか」
「予定より一三分四九秒遅れています、急いでください」
そう言って、ディレクトは何もない場所に手をかざし、地獄へ繋がる門を開いた。キィ……と、鈍い音を立てて門が開いていく。赤黒く、いかにも異世界に繋がっていそうな不気味な空間が広がった。
「生贄は頂戴しました。これで、グライス・アーチェルの『人気者になりたい』という願いは叶いました。次に会うときは貴方が死んだときです。それでは失礼します、グライス・アーチェル」
──さよなら……グライス。
心の中でそう呟いて、ブライトは吸い込まれるように門の中に入っていった。
門が消えた。ブライトが消えてしまったこと以外、この世界は何一つ変わっていない。元より、悪魔の生贄として地獄に堕ちたのだから、ブライト・フェルペスという人間はこの世に存在などしていなかったことになるのだ。
「クックック……やった……やった!」
壊れたようにグライスは笑った。
「やったぞ!やってやった!俺は人気者!アイツもいない!」
空に向かって両手を上げ、グライスは笑った。
「やった…………や……」
言葉が途切れる。
『グライス!』
ブライトの声が、姿が、その笑顔が、グライスの頭の中に過ぎった。留まることを知らないかのように、ブライトの記憶が脳内を駆け巡った。
初めて出会った時、名前が呼びづらくて笑いあった。
幼い頃、苛められていた自分を守ってくれたのはブライトだけだった。
守ってくれたブライトの姿。
小さいけれど大きく見えたその後ろ姿。
クラスが変わろうとも、毎日のように話しに来た、少し馬鹿で優しい親友。
趣味も何もかも、自分に合わせてくれているのだと捻くれた。けれど、そんなことはないと分かっていた。
人気者だと妬んでも、ブライトが人気者でいることを望んでいないと分かっていた。
『親友だ』と言ってくれたことが嬉しくないわけがなかった。
素直に、妬みも憎しみもなく、ブライトを親友と呼べない自分が嫌だった。
ブライトは、たった一人の大切な親友だった。
グライスの瞳から涙が溢れだす。もう、グライスは笑ってなどいなかった。否、笑えなかった。
死んでしまえば必ず地獄に落ちることは分かっていた。今更、地獄に落ちる恐怖などない。分かっていて、ブライトを犠牲にしてまで願いを叶えたのだから。
消えて欲しかったはずのブライトは消えた。
心は満たされなかった。満たされるどころか、虚しさだけが心に残った。
ブライトが消えても、嬉しくなどなかった。
ブライトが消えても、心の底から笑えなかった。
虚しい……。
どうしてなんだ。
俺はブライトが消えて嬉しいはずだ。
あんな奴、要らなかったはずだ。
俺は、これで良かったんだ……良かった、はずなのに。
ブライト……そんな顔をしないで。
そんな笑顔を向けないで。
謝るのは君じゃない、僕だよ。
僕は……どこで間違えたんだろう。
涙が止まることはない。
シンユウって、何?
END
「ナヨナヨしてきもちわるいんだよ~」
「そーだ、そーだ」
幼い体が、罵声と共に傷つけられていく。
──いたい……いたいよっ!
殴り返すわけでもなく、グライスはジッと痛みを耐えていた。その反面、どうして殴られないといけないのか、幼い頭では理解できず混乱していた。
いつになったら終わるのか。
どうしたら止めてくれるのか。
味方など存在しない中で、グライスはずっとそう思っていた。
「やめろッ!」
不意に声が響いた。
誰もが、子供のケンカだと思い見て見ぬ振りをする中で、ブライトだけはそう思わなかった。
「ブ、ブライトッ!みんなにげろっ!」
止めに入ったのがブライトだと知った途端、グライスを苛めていた子供たちは逃げ出した。
「だいじょうぶ?イヤなときは、ちゃんとイヤっていわなきゃダメだよ」
そう言って、ブライトはグライスに手を差し出した。
「……?」
差し出された手の意味が分からず、グライスは固まったままブライトの手を見つめた。
分からないのも無理はなかった。これまで、グライスに手を差し伸べた人間はいなかったのだから。
固まったままのグライスを見て、ブライトはさらに言った。
「すなの上にねっころがってもいたいでしょ?」
「うん……ありがとう」
差し出された手の意味を知り、グライスは照れながらブライトの手を借りて立ち上がった。
「キミはだぁれ?」
グライスはブライトを見つめて聞いた。
「ボク?ボクはね、ブライト・フェルパ……ん~言いにくい~。フェ……フェルペス。言えた!エヘヘ、言いにくいなまえ~。ねぇ、キミは?」
照れ笑いを浮かべ、ブライトはグライスに聞いた。
「ボクは、グラィ……」
「えっ?ごめんね、きこえにくいよ」
「グ、グライス!グライス・アーチェル!です……」
顔をリンゴのように真っ赤にしてグライスは答えた。
「よろしくね!グライス」
グライスの名前を知ると、ブライトは満面の笑みを浮かべて、グライスの両手を取ってブンブンと振りながらそう言った。
「う、うん」
くすぐったいような妙な感覚の中でグライスは答えた。その感覚は決して、嫌な感覚ではなくて。
「よろしくね……」
未だにブンブンと、グライスの手を振るブライトに言った。そして、ブライトと同じように笑った。その笑顔はブライトの無邪気な笑みとは少し違って、綺麗と形容できる笑顔だった。
「グライスはどうしてやりかえさなかったの?」
両手を握ったままブライトは聞いた。
「……できないよ。ボクはよわいから。すっごくよわむしだから。それに、ヒトをなぐったらいけないんだよ」
弱々しい声でグライスは答えた。
そんなグライスを見て、ブライトは少し悲しそうな顔をして笑った。
「ママがボクにおしえてくれたんだ。いじめられてるヒトはよわいんじゃなくて、ヒトをきずつけたくないっておもってるやさしいヒトなんだって。だからグライスはよわいんじゃなくて、やさしいヒトなんだよ」
「ブライト……ありがとう。にんきもののブライトにそんなこといわれたらこまっちゃうよ」
「ボクのことしってるの?」
グライスの自分を知っているような言葉に、ブライトは不思議に思い聞いた。
「ほいくえんをみにいったときに、キミをみかけたんだ。ブライトはとってもにんきものだった」
そう言ってグライスは笑った。綺麗に、けれど、どこか寂しげに。
「そうかなぁ~」
グライスの言葉に照れながら、ブライトは笑った。
そして、瞳を合わせると、お互いを褒め合っていることに気付き、そのおかしな気分に笑った。
「あっ!アーチェルってことは、ボクのとなりにおひっこししてきたヒトだ!」
突然、ブライトは言った。
「ほんとう?」
グライスは聞き返した。
「うん!ママがいってた。ボクらおとなりさんだね!」
「うん……」
温かい。そのどうすることも出来ない気持ちに、グライスは複雑な笑みを浮かべた。けれど、単純に嬉しかった自分もいた。
その後、年を重ねてもなお関係の切れることのなかった二人は親友と呼べるほどの仲になっていた。
周りが二人を正反対の人間だと言おうとも、二人の関係が切れることはなかった。
write:2011.05.23