The greatest thing you'll ever learn 初めて半田が部屋に上がった時に出た言葉が「きれいにしているな」だったことをサギョウは覚えている。
狭い寮の一室は、残念ながら心地よい暮らしなどとはほど遠い、ただ必要最低限の寝食のみを保障するだけの代物だった。そうした部屋にありがちな間取りとして、玄関に入ってすぐに最低限のキッチンがあった。部屋に入って最初にそこが目に入るのは道理だった。
だが、そのキッチンが綺麗に保たれていたのは、特段にその部屋の主が玄関脇の衛生に気を配った結果などではなかった。そのため、少々居心地が悪くなったサギョウはすぐにそれを訂正しようとした。しかしサギョウが口を開くまでもなく、清潔に保っているのではなく、単に使用してないだけだということを、半田はすぐに見抜いて笑った。
そんなに昔の話ではないその日のことは、すぐにでもサギョウは記憶の引き出しから引き出せた。さすがに観察力があるのだな、と感心したりもしたあの日のことは。
あの日の評価を取り下げるべきだろうかと、そんなことを玄関をくぐってすぐに香味の強い野菜の匂いを嗅ぎとったサギョウは考える。
半田が恐ろしいくらいの執着を見せるその野菜の匂いを、サギョウはそれからこの部屋でも何度も嗅ぐ羽目になった。
「来てたんですね」
「お邪魔してるぞ」
ただいま、の言葉を口にしようか、サギョウは一瞬迷ってやめた。
狭い台所は申し訳程度の調理台しか置けず、ダイニングスペースなんて気の利いたものもない。そんな部屋で半田はといえば、テーブルの上に持ち込んだ新聞紙を広げて、サギョウがほぼ寝るためだけに使っている部屋を占拠していた。
数ある趣味の一つだという料理の腕を、半田は自炊をサボっている後輩に時折振るってくれるようになった。
時にはこうして人の部屋で下拵えから始めていることもある。
使われていない台所が勿体無いと、そんなことを言って。
面倒見が良いだけで片付けていいものだろうか、と最初のうちは戸惑い、回数を重ねていくうちに、変わった人だからな、と納得することにした。
迷惑なわけではないから困るのだ、とサギョウは思う。
しかし暗闇が去りきる前に一人で帰る部屋が、冷え切った暗いものではなかったことに安堵を感じる自分もいて、同時に不甲斐なさも覚えてしまうのだ。
「罠の工作なら自室でどうぞ」
我が物顔で上がり込んだ男は、ラジオなどを流しながら上機嫌な様子で手を動かしていた。
この男が何を作っているのか程度の知識はあった。しかし、この深夜の訪問を歓迎しきれない気持ちがそんな言葉を吐かせる。
「これが罠に見えるのかお前は」
呆れ果てたという顔をした男に余計に苛立ちを感じた。
「ブーケガルニくらい僕だって知ってますよ」
セロリを中心にハーブやその他の野菜をまとめて、器用に縛り上げる指先を見つめながらサギョウは言った。
調理の下拵え中のその男が、とぼけているのか本気なのかの判断がつかないと、サギョウはこっそりとため息をついた。こうした家主のもやもやに気づくそぶりも見せない先輩に、後輩は先にした評価をやはり取り下げることにした。
「こら、邪魔をするな」
くるくると野菜に巻かれる凧糸にじゃれつく吸血野菜を半田は片手で軽くいなし、優しい顔で笑う。自分のかわいがっているその野菜がやけに男に懐いていることももやつく気持ちに拍車をかける。
いつまでこうした訪問は続くのだろう。
自活もできない人間をこうやって甘やかすのは決して優しさなどではないのではないか。
浮かぶ疑問や言いたいことは、いつだって上り切る前に喉元にへばりついて消える。
「……何か手伝いますか?」
代わりに思ってもいない当たり障りのない言葉が代わりにするっと出てくるのもいつものことだった。
「いや、特に必要ないな。こっちはいいから風呂に入ってこい」
深夜も回り、しかしまだ夜明けには遠い時間に流れるラジオからは、切なくなるようなメロディが聞こえてくる。ラジオから流れる歌は、愚者と王について語らった日のことを歌っている。
「サギョウ?」
動かないサギョウを訝しんだ半田が立ったままのサギョウに声をかけた。
「どうした?」
サギョウの口が、小さく息を吸い込んだ。言えない言葉がモヤモヤと溜まって、ついに耐えきれなくなり今になって決壊したのだった。
「こんな風に甘やかされる理由がないです」
サギョウが咄嗟に思ったのは、こんな言い方は卑怯であるということだった。
そうして、口に出してから理由なんていくらだって導き出せるのだと気がついた。
後輩の面倒を見るのは当たり前のことだからだ、とか。本当に料理を振る舞う先を探していただけだとか。そんな答えはカケラだって返ってきて欲しくはない。そのいじましさがこんな言葉を選ばせ、そしてそれは決定的に間違っていたと、口に出して初めて気がついたからだった。
ラジオから流れる歌が、優しい気持ちを思い起こさせるような声で人生の内で得難い大切なことは何かと歌っている。その歌を聞くともなしに聴きながら、気づいたばかりの感情が、サギョウの芯を冷えさせていった。
「馬鹿め」
サギョウの心臓は再び跳ねた。
気づいたばかりの感情が殺されることを覚悟して。
「意味なんて、そんなもの」
しかし応じた半田の声はどこか得意げで、サギョウの引いた血の気を戻させる効果があった。
「下心というやつだ」
「……そう……なんですか……?」
やっぱりこの人は変わった人で正解だったとサギョウは思った。変わっていて物好きな人物が、悪戯を明かした顔で得意げにこちらを真っ直ぐに見ている。
一気に巡った血のせいでふわふわとした頭がラジオから流れる歌を拾う。
人生でもっとも得難き経験は、人を愛し、その人からも愛情を返されることだと、歌うその歌が。
期待を込めたような強い光を孕んだその目から視線を逸らすことができないでいるのはそのせいだと、この期に及んでそんな風に思うのだ。