君のかわいい願い事「先輩のこと嫌いになりたいんです」
後輩はそんなことを真剣な顔で言ったのだった。
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待機ポイントであるビルの管理人にはあらかじめ話を通して鍵を明けてもらっている。
屋上に続く鉄製の重いドアは、軋んだような音を立てて開いた。
到着した時刻は陽こそ傾きかけてはいるが、吸血鬼が暗躍するにはまだまだ早い時刻だった。それでも少し前までは、同じ時刻でももう少し日差しは遠慮の色を見せていたはずだ。
ドアの隙間から強いくらいに差し込んできた陽の光から目を逸らすついでに、後ろを歩く後輩を半田は見遣った。階段を数段降りたところにいるサギョウは、当たり前だが常より低いところにいる。自分が特に気に入っている頭頂部の双葉のようなつむじの強い癖と丸い後頭部が目に入った。うっかりと気持ちが緩みそうになったが、これから仕事なのだからと気を引き締めた。
新しくできた職場の後輩が、自分の中に線を引いた『かわいい後輩』というラインから一歩踏み出しつつあるのは偏にこの後輩の質によるものだと先輩である半田は思う。
ごく真面目で平凡に見えたその男は、その実自分も面食らう程度には中々に個性的が強く、段々と目が離せなくなり、今では完全に内側に巣を作り始めてしまった。一度気に入ると執着の湧く性質である自身を重々承知しているが、それを表に出さないだけの分別はあった。
あくまでも気に入りの後輩の一人で止まっている。──はずだ。
少なくとも、これ以上踏み込まれない限りは大丈夫だという自信が半田にはあった。
そんなかわいい後輩に、もう直に誕生日だなと、ふと思いついて会話の水を向けた。
かわいい後輩に何らかのプレゼントを贈ってやるのも悪くはない。そんな軽い気持ちで聞いたのだ。『何か欲しいものはあるか』と。
「んー、欲しいっていうか、相談ならあります」
かわいい後輩に頼りにされるのは正直に嬉しいと思い半田は先を促した。
「相談? そんなものは誕生日に限らずいつでもかまわんぞ」
「それもそうですね」
そう言ってはにかんだように笑う顔は胸の辺りがざわつくほどあどけなかった、のに。
「僕先輩のこと嫌いになりたいんですけどどうしたらいいですかね」
返ってきたのは、実に頓狂な回答だったので半田は一瞬言葉に詰まった。
「……具体的にはどうしたらいい?」
少なくとも今は嫌ってはいないのだという告白も同義の事を言ったのだとこの後輩はわかっているのだろうかと、少しだけしづらくなった呼吸の間に考え、しかしそれを口に出すことは憚られ、思わず方法の方を問うていた。嫌っていないと言うことは、イコール好かれているという意味ではないこともまた解っていたからだ。そうして、決定的な言葉を回避したいほどには半田はこの後輩の事を好いていたので。
一生黙っている心づもりではいたが、嘘の苦手な自分のことだ。何の気なしの眼差しや言動にその色が漏れでいていて、今改めてそれを迷惑だとこの後輩は遠回しに伝えているのかもしれないとも考えられる。先ほど盗み見るようにした視線にも気がつかれていたのかも知れないと。
もう日が暮れる時間にもかかわらず時折強くなる日差しが、夏の訪れを否応なく予感させる。
芽吹いた緑が色濃く増す、そんな季節に生まれた男は茫洋とした瞳を、目の前の話し相手ではなく、沈みかけてより一層輝きを増した陽光に向けている。眩しくはないのか、目を眇めることもなく、ただ沈む白い光を目で追っていた。
「先輩が考えてくださいよ」
一日の終焉を告げるように一際強く光った光からようやく目を逸らすと、サギョウはかがみ込んでライフルの設置の準備を始めた。
「誕生日のプレゼントを本人に考えさせるなんて気が利かないですよ」
黙々と手際よく手を動かす傍らそう言って口を尖らせるのだから始末に負えない。
「……なんで俺を嫌いになりたいんだ?」
辺りを見回しながら半田が問うた。当然の疑問だと思うのに、スコープを覗いて調整していたところをわざわざこちらに向けた瞳には、なんでそんなことを聞くんだといったような色が浮かんでいる。半田は何もかもを投げ出したくなった。
そもそも決まったターゲットの定まらない今日の任務に随伴の必要はあっただろうか。
それよりも走査の足を一つでも増やした方が効率が良かったのではないか、上司の判断力に疑問を差し挟むつもりはないが、そんな事を今更ながらに考えずにはいられなかった。
監視場所に設定したここは残念ながらベストポイントとは言えず、しかしながらここしかなかったという場所だ。辺りの視界を遮るものがなく、怖いのは一般人の視線だった。その為にサギョウだけでは足りないと監視役として経験値を買われた半田が駆り出されたのだ。そんな経緯を思い起こしつつ諦めのため息を噛み殺した。
「嫌いになったら、少しは楽になるじゃないですか」
「楽、とは」
陽光が沈んで行き、辺りは徐々に夕日の色に染まり始める頃合いだ。
「あんたみたいな変な人を嫌いになれないんて僕困るんですよ」
状況は判っていても、今すぐ何かにかこつけて今来たルートを引き返せないだろうかと半田は遠い目で思う。
「僕、先輩のこと尊敬してたんです」
「それは、どうもありがとう……?」
そんなことはお首にも出さなかった後輩の告白はまた唐突で半田は面食らう。
自分の何をどう見て尊敬の念など抱かれて、それをいかに自分が壊したのかは知らないが、嫌いたいとまで言わせてしまうような事をしてしまったのだ。せめてそれが知りたいと思うのは贅沢だろうかと半田は思いはしたが、結局は素直に口に出した。腹芸がどこまでも不得手な自分に呆れながら。
「で、尊敬してたという俺を嫌いになったのは何でだ?」
遠回しに避けていた、真っ先に浮かんだ疑問をようやく投げる。
「だから、嫌いになれないから困ってるんですよ。話聞いてました?」
「サギョウ」
空気が抜ける風船のような気持ちだった。半田は呼気が大半の声で相手の名前の呼ぶ事しかできなかった。
「はい」
呼ばれた相手はきょとんとした顔をこちらに向けている。一切の邪気も感じさせない顔だ。
「サギョウ……俺は、今、すごく……困っているぞ」
「そんな感じですね」
飄々を答える男を少し憎たらしく感じる。
「じゃあ、逆にだ、俺がお前を嫌いになったらいいんじゃないか」
「先輩が僕を?」
「そうだ。お前だって自分を嫌いな人間を好きになったりしないだろう」
「それは、いいアイディアかもしれないですね」
まるで何かの作戦会議のような神妙さで応える後輩の様子にこの後に及んでふつふつと笑いが込み上げてくるのを感じたが、真剣な様子の相手に合わせて半田はそれを抑えつけた。
「そうだろう? じゃあ、質問なんだが、俺がお前を嫌うにはどうしたらいいと思う?」
眠たげな瞳がぱちぱちと瞬きを繰り返す。夕陽の色が照り映える黒い瞳が目に焼き付いた。結局は何をしても好ましいのだ。また一つ諦めの境地で思う。
「えー? そんなの無茶苦茶簡単じゃないですか?」
しかし、答えに詰まるかと思い投げた質問にはあっさりと回答が返ってきた。
「どの辺りが?」
「今だって僕、先輩の足を引っ張ってますし」
本当は捜査に加わりたかったでしょう? そう悔しさを隠さない声が続くのを、半田はただ聞くことしかできなかった。
「スナイパーなんて、標的が定まってなきゃ役立たずなんです」
そもそもこの場に今いるのは、頼りない目撃情報のためで、信憑性はかなり低いとの見当だった。数少ない隊員を一箇所に二人も割くよりは、捜査の手を広げるべきなのではないかとは先に半田も考えたことだ。
「お前が役に立たないなんて思ったことはないし、功を焦る気持ちもわからないではないが……」
ふと、この天才的な腕前を持つ男がどこか自虐的な言葉をよく吐く意味を知った気がした。
おそらくこれは誰か他人が言葉を尽くしてどうにかなるようなものではないのだろうということも同時に悟り、場当たり的な説教を述べようとした自分を恥じて半田は口を閉じた。
「俺はお前が好きだぞ、サギョウ」
その代わりにまた言葉を紡いだ。場当たり的に放った言葉ではないとどうか伝わりますようにと、半ば祈るような気持ちで告げた。このまま殺すしかない気持ちなら、少しでも表に出しても良かろうというずるい気持ちも半分で。
「嫌ってくれるんじゃないんですか」
そんな風に、どうせ届かないと思いきって口にした言葉はしかし、意外なことに目の前の男の表情を照れ臭そうに笑わせたのだった。もはや自分には何一つこの男の行動が読めないと、半田は完全に諦めて自分の表情が笑み崩れるのを許した。こいつがこういう人間だからうっかり内にやすやすと入られてしまったのだと。
「あ、ほら」
陽光にも目を細めなかった後輩が眩しそうに目を細めた。
「ずるいんだもんなあ」
「何がだ」
「教えませんよ。それより」
陽が長くなった分待機時間も長くなるものだ。それでも後輩が完全に気を抜いているわけではないことも判る。
「先輩が僕を嫌いになるか僕が先に嫌いなるかの勝負しませんか?」
「しない」
スコープの調整を続けながら性懲りも無くそんなことを持ち出す後輩に呆れながら半田は即座に却下した。
「僕は先輩が僕を嫌ってくれるように頑張るので、先輩は僕に嫌われるようにしてくださいね」
「人の話を聞け。……というかプチプチを捨てるのはどうだ?」
却下した口で結局は付き合ってやるのだから自分は人がいいのだろうかと半田は思い、すぐにそれは言い訳だと否定した。
「それはもうやられたし怒りましたよね」
「だから、怒られるということをわかっていてわざわざそれをやるのはなかなか嫌われポイントが高いんじゃないか?」
「確かに、想像したら胸がギュッとなりました……。そんなの、僕のことものすごく嫌っていないとできませんもんね……」
想像にダメージを受けたと本気で痛そうな顔を見せる後輩がかわいくて仕方がない。
そうだ、結局自分はこの後輩がかわいいのだ。堂々巡りの話を楽しんでしまうほど、私用にも連れ回してしまうほどに。ほとんどは我慢して十回に一度程度に抑えているのだから褒めてもらいたいくらいなのだ。
「で? その想像の結果お前は俺を嫌えそうか?」
「わかりません……今はダメージが大きすぎて……夢に見そう」
鮮やかだった夕陽の色も褪せ、代わりにピンクや紫のグラデーションに染まっていく空を見た。ダメージを受けている様子の人間をからかうのは趣味が良くないとわかってはいたが、それでも口を開くことは止められなかった。
「お前は俺が好きなんだな」
「は?」
そうして最初に思ったずばりそのものを口にした。
「嫌いになりたいのになれないだなんてまるで熱烈な告白じゃないか」
「え?」
常識人面をしてその実どこかふわふわと自分達よりよっぽどずれたところを歩いている。いつかその事を思い知らせてやりたい。そんな欲がどこかにあり、今がそれを開示するチャンスなのだと天啓のように閃いたのだった。
「そんなつもりは……なかったです……よ……?」
サギョウから常のどこか飄々とした表情が消え失せ、顔には動揺が走っている。狙いを定めるのが常の立場の男を追い詰めているという愉悦を感じるのを覚えた。
「僕が先輩のこと好きなわけないじゃないですか……?」
自分の中の常識を揺さぶられた男の語尾はかわいそうなまでに震えていた。
「俺がお前を嫌いになった想像だけでダメージを受けてたのは誰だ」
ぐう、と猫のように喉を鳴らしたと思ったら、サギョウはそのまま頭を抱えてしまった。
「嘘だぁ……そんな馬鹿な……」
「嫌か?」
「だって、そんなの……先輩みたいな人好きになったら僕が普通じゃないみたいじゃないですか」
大概失礼なことを言っている自覚はあるのだろうかと思い、当然ないのだろうなと結論付けた。
「普通ってなんだ」
「僕みたいなのです」
堂々とそれを言い切る不遜をかわいそうだと思いながらも、もはや下手に出る気持ちは毛頭なかった。信じたいものを信じるがままにさせてやりたい気持ちもあるが、それではどうやらこの目の前にぶら下がったご馳走は自分の手に落ちてはこないようなのだ。
「俺にはお前は普通じゃないぞ」
「ひどくないですか?」
「ひどくない。だって俺みたいなのを好きなるのは『普通じゃない』んだろう? じゃあ、とっくの昔にお前は普通なんかじゃないじゃないか」
これでも大分追求の手は緩めている。この男が『普通』じゃないことなんて山のようにあげられる。それでもそれをしないのは別に追い詰めたいわけじゃないからだ。
「僕が先輩のこと好きなのは確定なんですか⁈」
「違うとは言わせんぞ」
追い詰めるのではなく、自分の元に追い込みたい。
サギョウという男は変わってはいるが愚かではないので、自分の思考を辿って解答を導き、半田の言うことに間違いがないという結論に達していた。達してしまった。認めたくないので遠回りした挙句に本来なら蓋をするはずの感情を曝け出してしまったことにもついでに気がついた。
「復水盆に返らずを体現してしまった……」
呆然とつぶやくサギョウの言葉を耳が拾い、その言葉から認めると早いのだな察した半田は男の切り替えの早さにまた笑う。
「……じゃあ、先輩だって僕のこと好きだったりしませんか?」
おずおずとさっきまでの堂々とした態度が嘘のように自信なげに男が言うが、その瞳にあるのは伺いではなく確信だった。それでも夕陽のせいだと誤魔化せないほどには顔は赤く染まっていて、自分と同じくらいに胸を緊張と期待に高鳴らせているのだと思うと面映ゆい。半田自身も降って湧いた僥倖で、おそらくは物分かりの良い顔で諦めようとしていたものが今まさに手に入るのだろう予感に打ち震えた。
この少し変わった思考回路のこの男が、どう筋道を辿ってその結論に至ったのかは気にかかったが、自分は腹芸が苦手であるしと、その通りだと早々に肯定してやった。もう隠しても仕方がないと開き直ると同時にここまで隠しきった自分を褒め称えたい気持ちだった。
しかし今は仕事中で間も無くターゲットの行動時間だ。まだ誕生日のプレゼントの希望すら、ちゃんと聞いていなかった、今日の任務を終えたらまずはそこから話してみよう。
そんな事を思いつつ半田は気を引き締めて辺りを再び警戒し、サギョウも粛々とそれに倣った。