Marble 毒性のある物質というのは必ずしも無益なものであるとは限らない。上手く使えば病を癒す薬となりうる反面、使い方を誤れば体を蝕み殺める
刃となる。森羅万象のいずれも、思想や感情の動きも含め、えてしてそういうものなのかもしれない。私は意を決して毒を持つ花に手を伸ばした。
Marble
ヌメロンコードが起動したのち、バリアン世界との統合を進める中でアストラル世界は新たな脅威に直面していた。人間界から九十九遊馬をはじめとする勇敢な決闘者が援軍として駆けつけるも、状況は芳しくなく苦戦を強いられていた。そんな折、エリファスはカオスを排斥した潔癖なランクアップを根源とする自分の力に限界を感じていた。自分自身もカオスを受け入れることが状況を打開する鍵と信じて彼が向かったのは旧バリアン世界。ひときわ強大なカオスの気配に導かれた先には古びた城が
佇んでいた。
紅き世界の片隅に
聳える朽ちた城跡。その内部は禍々しい気配を纏う
歪な球状の物体と玉座へ至る階段の他には床から不規則に大小さまざまなバリアライトの結晶が突き出しているばかりで、“城”と呼ぶにはひどく
寂れた場所に思えた。表面に無数の濃灰色の触手を這わせ複数の真空管を抱えた球体からは光が失われ、獣の牙を思わせる曲線を描いた鋭く巨大な赤い岩に挟まれた階段にはところどころひびが入っている。四方を取り囲む乱雑に色がちりばめられたステンドグラスには大きく亀裂が入り、いつ崩れてもおかしくないほど劣化している。もはや
何人たりとも足を踏み入れぬはずの空間で鼠色の玉座から愉悦に満ちた表情をしてこちらを見下ろすその存在に、秩序の神は目を疑った。そこにいたのは、闇を
象る黒い体、月の光を写し取った淡い金色の長髪に、満たされぬ魂の輝きに染まる紅色の前髪、そして清き世界と
穢れし世界の空を宿した
二色の
眼――他ならぬ混沌の神、ドン・サウザンドだ。珍しい来訪者の姿を捉えると、ドン・サウザンドは口角を釣り上げ小さく喉を鳴らして笑った。
「よもや、キサマがここを訪れるとは。面白いこともあるものだな。」
紅き世界の神は頬杖をつき、組んだ脚をゆらりと揺らして青き世界の神へ視線を投げかける。彼は薄ら笑いを浮かべたまま、ただ相手が口を開くのを待っている。自身とは対極に位置する存在が
狼狽えるさまは、それほど滑稽なのだろうか。いささか不愉快さを感じて、エリファスは眉間に皺を寄せ尋ねる。
「ドン・サウザンド……遊馬たちに敗れ消滅したのではなかったのか。」
これほどの強力なカオスを秘めた存在となれば納得は行く。けれども、ヌメロンコードにより書き変わった世界で再び彼と出会うとは思いもよらず、私は驚いた。
確かにアストラル世界はカオスを受け入れる方向へ舵を切った。けれどもアストラル世界の未来を思えばカオスの化身であるドン・サウザンドを生かしておくのはまずい。彼の思想はあまりにも邪悪で、彼の存在自体がアストラル世界と人間界に災いをもたらすことはほぼ間違いないからだ。それでもアストラルと遊馬はカオスの供給源としてかの邪神の生存を許したというのか。なんとも分の悪い賭けに出たものだ。
私の抱く不安を知ってか知らずか彼は表情を緩め、迷子を
宥めるような
声音で答える。
「ふっ、案ずるな。確かにあの戦いで我の本体は消失した。キサマの目の前にいる我は、我自身の未練がこの地に
蔓延るカオスと結びついたかりそめの魂、いわば残留思念だ。」
立ち尽くすエリファスに、ドン・サウザンドは目を細める。混沌の神の真意を測りかねて、秩序の神は問いかける。
「未練、とは?」
「なに、今さらキサマらに危害を加えるつもりなど毛頭無い。」
ドン・サウザンドはゆったりと腕を上げ、宙を軽く手で撫でる。指の軌跡からは
朧げな光が薄い膜を形成し、やがて横長の長方形になった。彼の指が触れるとそれは秩序の神の手元へ素早く降りてきた。そこに映し出されていたのは、まさに今アストラル世界を襲っている脅威だ。紅き世界の神の眼つきは険しく、声は一段と低くなる。
「我以外の者がアストラル世界を滅さんと企てている。ただ、それだけが気に食わぬのだ。」
邪神はゆっくりと瞬きをしてため息をつく。彼が右手の指を鳴らすと秩序の神の手元から画面がたちまち消えた。
「随分と、くだらない理由だな。」
かつて青き世界を害そうとした者の抱く
歪んだ独占欲に、清き神は呆れたように笑った。かの神の発言が気に障ったのか、混沌の神はわがままを一蹴された幼子のように頬を膨らませる。
「何と言われようと構わん。とにかく、キサマらが奴相手に苦戦するのは我にとっても都合が悪い。ゆえにキサマらに我の力を託そうと考えていたところだ。そういう意味ではキサマと利害が一致しているのではないか?」
自分の考えを見透かされ、エリファスは目を丸くした。他人を小馬鹿にした笑みは癪に障るが、ドン・サウザンドに先見の明があるのは確かなようだ。巧みな策略でアストラル世界と人間界を破滅寸前まで追いやったのもうなずける。戸惑いながらも感心しているエリファスをドン・サウザンドは冷めた目で見遣る。
「高潔なる神が目的も無く我が王宮へ立ち寄る道理もなかろう。大方カオスの力を求めてここへたどり着いたであろうことくらい容易に想像がつく。しかし、キサマも知っての通り、ひとたびカオスに溺れれば理性を持たぬ獣と同じく自らの欲求のため周囲の者を傷つけることさえいとわなくなるやもしれぬ。その上、キサマはその身にカオスを宿したことなど一切無かったであろう。恐ろしくはないのか、わが身をカオスに侵蝕させることが。」
先ほどまでとはうってかわり、邪神の顔からこちらを蔑むような笑みが消えた。真剣な眼差しに思わず目を背けそうになったが、私は
半ば睨みつけるようにして彼を見つめ返す。
「正直なところ、恐ろしくないと言えば嘘になる。もしも私がカオスに飲まれ暴走すれば、カオスを排斥していた頃と同様にわが世界の民を苦しめてしまうだろう。私の力をもってしても、これほどの強大なカオスを飼い馴らすことができるかは未知数だ。だが、今のままでは真の意味でランクアップを果たすことはできない。カオスとオーダーが融け合った先にこそ、ランクアップの理想形があるのだから。」
私が拳を握り締め覚悟を伝えると、彼はわずかに口角を上げた。
「やれやれ。自明の理を解するまでに、随分と遠回りをしたものだな。」
数千年前に目の前にいる神に楽園から追放されたことを今なお恨んでいるのか、ドン・サウザンドはかの神の愚頓さを嘲る。だが同時に、ようやく自らの存在を許されたと感じてか、その顔からは安堵が読み取れた。彼は満足そうに続ける。
「まあ良い。コスモとカオスは表裏一体。今のキサマにならばこのカオスを御することができよう。」
紅き世界の神は玉座を降り、青き世界の神の元へ歩み寄る。そして青き世界の神に右の手のひらを出させ、その上へ自らの右手をかざす。すると二人の手の間に赤い光の粒が集まり、数枚のカードとして実体化した。
「くれぐれも、無様な姿を晒すことの無いようにな。」
「心配には及ばない。必ずや、この地に平穏を取り戻してみせる。」
秩序の神は託されたカードを手に城跡を後にした。再び静寂に包まれた城内で邪神は玉座へ至る階段の最下段に腰を下ろし、心地良い静けさに身を任せてまどろむ。
あれだけ憎んでいた存在に未来を預けるとは皮肉だが、案外悪くないように思えた。あの時ミザエルが九十九遊馬にヌメロン・ドラゴンを授けた理由も、今なら理解できる。相手を信頼して自らの運命を託すこと。これが、人間たちの言う“希望”というものか。……、さてエリファスは我の期待にどれほど応えてくれるのであろうか?
おわり