マドモアゼルは決める ホリデーが間近に迫って、ナイトレイブンカレッジも浮かれ気分がまん延している。そわそわとした生徒たちを見ていると、彼女もなんだか少し浮かれた気持ちになってしまうのだから不思議なものだ。図書館で歴史書を繰りながら彼女はトレインから出された課題に丁寧に取り組んでいた。
学生のときの宿題なんて、遊ぶ時間を邪魔する悪い奴だった。レポートはデートのお邪魔虫でしかなかったし、彼女はさぼることはしなくても、それでもいい気はしなかった。宿題がない週末を味わいたいのに、先生たちは意地悪するみたいに彼女たちにあれもこれもと課してくる。そんなふうに考えていた少女時代が確かにあったのに、人間というのはまったく不思議で。大人になった彼女は自ら課題をもらいにトレインの元へ通い詰めるようになっていた。
基本的には自力で、図書館の書物を読み漁りながら取り組んで。分からないところや気になったところをまとめてトレインへと聞きに行く。そんなやり取りを幾度か繰り返すうちに、彼女もこの世界の魔法というものについて少しばかり詳しくなっていた。もちろん毎日授業を受けているユウには遠く及ばないのだけれど。
彼女はキリのいいところでぐっと背を伸ばした。あと一時間もしたらオンボロ寮へと戻って仕事の続きをしなければ、なんて思いながら。
「休憩か、レディ」
突如かかった声に彼女はびくりと身体を震わせた。隣りを見れば、一席空けたところにクルーウェルが腰掛けていた。彼女が持ってきていた本の一冊をつまらなさそうにページを繰って「これは情報が古い。参考にならないだろうな」と呟いた。
「クルーウェル先生……いつから?」
「さあな」
怒っているのだろうか。それにしては酷く落ち着いた顔で答えたクルーウェルに彼女は言葉に詰まる。どくどくと嫌な緊張を感じながら彼女はクルーウェルを見つめた。
クルーウェルは見られていることなんてまったく気にしていないような顔で、また別の本を手に取ると「これはレディにはまだ早いと思うがな」と呟く。たしかにその本は、なんだか難しい単語が多くて、よく分からず少し読んだだけでまったく使わなかった一冊だ。
彼女はなんて答えていいかわからず、口を開きかけては閉じて、また開きかけて、と繰り返す。それに気付いていないクルーウェルではないだろうに、彼は視線を合わせることなく「それで」と切り出した。
「レディ、これはどういうことか、オレは説明を聞きたいな」
分厚い本を片手で持ち上げてクルーウェルが言う。ようやく彼女を映した瞳は、静かで、そして驚くほど冷たい温度をしていた。
「その……ここで暮らしている以上、やっぱり、ここのことを知りたいと、思って」
気まずさから彼女は視線が手元へいったり、クルーウェルの瞳へいったりしながら答える。今日も今日とてきっちりと締められたネクタイは鮮烈な赤であった。
クルーウェルは彼女の言葉をじっと聞いていた。静かに、一言も発することなく。その威圧感を本人は知っているはずなのに、それでもクルーウェルは何も言わなかった。だから彼女は誤魔化すように話し続けるしかなかった。
「く、クルーウェル先生が博物館で色々教えてくださったでしょう?
そのとき、その、面白くて。それでトレイン先生にお願いしたんです」
一度口が回りだすと、彼女自身にもどこでどう止めていいのか分からなかった。酷く喉が渇いた気がしながら彼女は言った。
「この世界で暮らす以上、この世界のことを何も知らないって、それは勿体ないでしょう?だから」
薄墨の瞳が、そのときチリリと燻ぶった気がした。それに彼女は息を止める。ゆっくりと、クルーウェルがその口を開いた。
「それは、元の世界を諦めて、この世界を生きるということか、レディ」
ふるりと彼女の唇が震えたのをクルーウェルは見逃さなかった。内心で「あぁ、やはり」と呟く彼の声には静かな怒りと、憎しみが込められていたことなんて、クルーウェル自身にも分からなかったことであった。
「どうして……どうしてそうなるんです?」
必死に感情を抑えようとしているのに、震える唇が、声が、瞳がどうしようもなく溢れさせる。それでもクルーウェルは表情一つ変えずに彼女を見ていた。きっと、我慢の限界だったのかもしれない。彼女も、クルーウェルも。
「クルーウェル先生、あなた、残酷な人よ」
「本気で言ってるのか?」
クルーウェルはつまらなさそうに頬杖をつきながら、彼女の手に己のそれを重ねた。細く、しなやかな指はクルーウェルの手にすっぽりと隠れてしまう。ぴくりと震えて逃げようとする手を、クルーウェルが許すはずもなく。
強引に彼女の手を取って、その指先に掠めるようなキスをする。やめてください、と堅い声で囁く彼女の声なんてまるで無視して。
「レディ、貴女だって残酷だ。
オレを見ようともしないくせに」
クルーウェルの瞳が彼女を貫く。冷たいのが表面だけだったと彼女が気が付いたのはそのときだった。内側から燃え上がるような熱を感じ取って腰が引ける彼女に、クルーウェルはぐっと手を引いて近寄せる。自分も身を乗り出しながら。
「貴女はどうしたらオレを見てくれる?」
息と息が混ざり合う距離で、それでもクルーウェルは彼女の手以外に触れようとはしなかった。だから彼女は拒みきれずに、ただ息を飲んでクルーウェルの瞳を見つめるしかできなくて。それでも心の中に浮かぶあの人の顔が、彼女を許してくれなかった。
「クルーウェル先生だって、私のこと、きっと見えていないでしょう?」
その時はじめて、クルーウェルの右の眉がぴくりと跳ねる。不快だ、とでも言いたげな様子で。
「異世界から来てちょっと珍しいから……だから気になるんです。
きっとクルーウェル先生にはもっと素敵な方が」
「レディ、それ以上は聞きたくないな」
彼女の手を掴む力がほんの少し強くなる。クルーウェルは静かな怒りと、それから大きな悲しみを湛えていた。罪悪感が彼女を蝕んでいくことすら、クルーウェルの策略なのではないかと、彼女は現実逃避のようなことを考えた。
「どれほどオレが言葉を尽くしても受け取ってくれないなら、いっそこのまま唇を奪ってしまおうか」
ほんのわずか。少しでも身じろぎすれば触れてしまうような距離までクルーウェルは詰める。それに彼女はぎゅっと目をつむったが、クルーウェルは何もしなかった。何もしない代わりに、彼女の耳元へ唇を寄せて囁いた。
「オレがどれだけ貴女に焦がれているか、貴女は知るべきだと思わないか?」
熱い吐息が彼女の耳をくすぐる。恥ずかしさと罪悪感で何も考えられなくなっていく頭を、クルーウェルの低く、甘い声が静かに侵していった。
「レディ……オレに最後のチャンスをくれ」
ゆっくりとクルーウェルは彼女から距離を取る。その目は「これで諦めるから」と切に願っていた。その願いを無下にできる人間がどこにいるのだろうか。彼女はこみ上げてくる感情を必死で飲み込む。
「一日、一日だけでいいんだ。オレを男として見てくれ。
そうしたらきっとオレは諦めるから」
彼女の手を丁寧に両手で包んで、クルーウェルは軽く額をつけた。懇願するようなそれに、どうして否と言えるだろうか。
「君の一日を、哀れな男に与えてやってくれないか?」
彼女は震える声で「はい」と呟くように返事をする。一日だけなら、と。掠れていて、聞き取りにくいはずのその声に、クルーウェルはゆっくりと顔を上げると微笑んで。だけどどうしようもない哀しさを隠そうともしないで。
「約束だ、レディ」
男の人の泣きそうな顔って、どうしてこんなに心を打つのだろうか。彼女はまるで、映画でも見ている気持ちでそんなことを思ってしまった。
姿見の前で何度も何度も彼女は身だしなみを整えた。その度にやっぱりこっちのワンピースがよかったかな、それともいつもみたいなパンツスタイルがいいかな、なんて思って服を当てて。それからハッとした顔で頭を振って、何を浮かれているんだろう、と溜息をつく。
そんなことをずっと繰り返しているのに、心臓の微かに跳ねる鼓動は一向に静まってくれない。とくとく、とくとくと、くすぐったいほどに主張している。ドアがノックされるから、どうぞと言えばユウがひょっこりと顔を出した。それから少し眩しそうな顔で「おはようございます」と笑う。
「おはよう、起こしちゃった?」
「ふふふ、いいえ?」
含み笑いをしながら、それでもユウは首を横に振る。にこにこと嬉しそうな顔に、彼女はばつが悪くなって「なぁに」と拗ねたように呟いた。
「寮母さん、綺麗だなぁって」
「……からかわないで」
つん、とそっぽ向く彼女に、ユウはふにゃりと笑った。時々彼女はひどく子供のような言動をする。そこがユウにはどうにも憎めなくて、素敵なところのように思えていた。
「もう時間ですか?」
ユウの質問に彼女は少しだけ躊躇って、それから「まだ……一時間くらいは時間があるの」と囁く。早くから支度を済ませているのは、きっとそういうことなのだろう。ユウは呆れたような、でもちょっと嬉しいような気持ちで「楽しみですね」と言った。
彼女が小さく頷くのを見ながら、じゃあ私とお話しでもしながら待ちましょう、とユウが提案する。きっと一時間なんてあっという間だ。そうすれば、彼女と約束していたクルーウェルが迎えにくるだろう。
「そう、ね……ソファがないから、ベッドでもいい?」
「もちろん!」
彼女とユウは朝日を浴びるベッドに並んで腰かける。授業のこと、魔法のこと、先生のこと、友達のこと、サムのこと。あっちこっちへ飛んでいく話題は、まさに女の子らしい会話だった。あはは、と彼女が笑うのを見ながら、ユウは少しだけ声を潜める。
「あの……私、気になる子、がいて」
ユウの言葉に彼女はゆっくりと目を見開いて。それから出てきたのは「まぁ」という声だった。面白がるような、嬉しがるような、からかうような。いろんな感情が混ざった「まぁ」にユウは小さく俯いた。
「私の知っている子?」
「……それはナイショですけど」
「じゃあ知っている子ね」
彼女は意地悪な大人だから、ユウの言葉に分かっているわ、とでも言いたげな顔で微笑んだ。エースか、デュースか、ジャックか。きっとその三人の誰かだろうな、なんて思いながら。
多感な少女が、かっこよくて優しくて、自分を持っている男の子たちに囲まれて恋に落ちないなんて、そんなのは嘘だ。彼女は大人の傲慢さで納得しながらユウの頭を優しく撫でる。それにユウは居心地悪そうにしてから、だから、と小さく呟いた。
「寮母さんが苦しそうにするの、ちょっとだけ分かった気持ちです」
ユウの気まずそうな顔に、彼女は言葉を無くして見つめていた。なんでもないような顔をしていたつもりだったのに、どうしてこんなに暴かれていくのだろう、と思いながら。
だけど残念なことに、ユウは少し思い違いをしている、とも思った。彼女が苦しいのはそれだけではない。元の世界に帰るかもしれない不安だけが、彼女を苦しめている訳では無いのだ。
「……私ね、お嫁さんになりたかったのよ」
彼女は小さく呟いた。夢見るような、でもどこか諦めの混じったような声音で。
「白い綺麗なお家で猫か犬を飼って、旦那様を想いながら家事をして、今日は早く帰ってきてくれるかしら、なんて考えて。
旦那様が朝出ていくときにはいってらっしゃいの、帰って来たときにはおかえりなさいのキスをして出迎える」
歌うように語る彼女は「そういう、お嫁さんになりたかったのよ」と小さく囁いた。過去形のそれは彼女の痛みを表すようで、ユウはなんて言っていいのか分からなくて。そんな顔をしないで、と笑う彼女の心の内を知れたら、と思ってしまう。
「でも、彼には仕事を続けたらって言われて――」
「お客さんだよ~!」
ゴーストの陽気な声がオンボロ寮に響き渡る。クルーウェルだろう。彼女は少しだけ晴れた顔で立ち上がった。
「せっかくだから楽しんでくるわ。
……最後になるでしょうし」
彼女の中で、何かが決まったのだろうな。ユウはそんなことを思いながらその背中を見送った。