飲みたい日もある
無糖ラテの缶を酒のグラスさながらに持ち、勢いよく呷る。どんな飲み方をしてもコーヒーはコーヒーで、当然ながら酔えるものではない。
担当月の後半戦という、目の回るような忙しさもようやくゴールが見えてきた。けれどまだひと月の約四分の一、一週間ほどがスタンバイしているのだ。そして物事は例外なく、終わり間際が忙しい。
「……はあ」
休憩室でSNSの画面を眺めつつ、始はため息をひとつ吐く。先輩ユニットは真昼間からハイボールで乾杯だ。特別な日の特別な時間に羽目を外すのはとても楽しい。自身もこれ以上ないくらいにその遊びの楽しさを知っているから、微笑ましい気持ちになる。
手持ちのラテを撮って投稿する。昔の自分ならこんなことは気軽にできなかった。それも遊びを覚えた今の自分だからこそ為せるのだろう。
「人はそれを、現実逃避とも言う」
「……うるさい」
一瞬考え事を口に出していたのかと思い、ハッと顔を上げたらニヤリと笑った相方と目が合った。バツが悪くなった始はテーブルの上へ突っ伏す。
「さすがにお疲れだね、始。息抜きを覚えた王様も、容赦なく襲いかかってくる担当月の忙しさの前には疲弊せざるを得ないのでした」
「頭の中を読むな。黙れ」
くぐもった声を返せば、春が苦笑する。
「あれ? 普段ならここで拳か足が飛んでくるのに」
「……」
テーブルに寝そべったまま察しろよ、と無言の圧力を掛けても、始のことを嫌というほど分かっている相方には何の効力もないのだ。それでも拗ねる気持ちが止まらない。
仲間はずれにされた気分になって拗ねるなんて、この歳になって我ながら恥ずかしい。だけど年相応の頃の自分なら、こんな気持ちになど決してならなかっただろう。本当に幼い子供の頃はたくさんイタズラをしたし、その都度母から逃げ回っていたし、世間の子供と変わらないくらい、下手をすればそれ以上に遊んでいたと思う。ワンパクだと言われていた。それが年より大人びてしまったのはいつの頃だろう。中学生の頃には既に、達観した物の考えた方をするようになっていた。
周囲に集う人間こそ多かったが、すべてが始から一歩どころか半径十メートルくらいは離れていたように思う。好意の眼差しや尊敬の念は散々送られていた。でも、隣に立ってくれる人など誰も現れなかった。あの日、春を運ぶ風に出会うまでは。
むくりと身体を起こして、始は再びスマホを手に取る。あまり見ないようにしていた別のSNSのトークルームを表示させた。グラビとプロセラのグループトークだ。
そこに写っているのはプロセラの宴会風景だった。つい先日、海がロケ先で変わった酒を入手してきたというので、なるべく仲間が集まれる日に開封して飲み会をしようと言っていた。
それがまさしく今日で、ハイボール! と叫びながら祝福という名の乾杯を唱えていた。
変わった形の酒瓶に紛れて、始が最近好きな日本酒もあった。あれはそこそこレアな品で、購入するには敷居が高いものだった。置いてある居酒屋もあまりない。もう一度飲みたいなと思っていたところだったので、この状況は思いのほか始にダメージを与えた。
仕事なんだから仕方ない。タイミングが悪かっただけで、全員揃うはずもないのだから、ハブられているだなんて考える方がおかしい。理屈では、そうだ。でも感情は理屈じゃない。
(……隼、楽しそうだな……)
写真に写る彼は、海とバカ騒ぎをしてはしゃいでいる。たった数枚の写真で、その場の情景がありありと伝わってくる。彼は散々笑いたおしたらしく、目尻には涙が滲んでいた。そんなところまで見えるくらい、写真を拡大して見てしまった自分が嫌だ。まるで面倒くさく執着してるようで自己嫌悪が起こる。
「うわあ。面倒くさい彼女みたいなことしてる。……あいたッ!」
いつの間にか始の背後に立ち、ボソリと呟いた春を床に沈め、始は先日の配信に思いを馳せる。隼と二人で放送した番組だ。生放送の時間自体は長くはなかったが、その日はほぼ丸一日二人で一緒にいた。そんな時間は久しぶりで、とても楽しかった。あの時もほろ酔いの心地良さに溺れていた。
「飲みてえ……」
「ガラ悪いよ! それから、テレビ収録のある日に殴るのやめてくれる?!」
「顔は避けた」
「DV旦那の常套手段!」
今回は絶対に謝らない。だって春が悪いのだと、子供みたいに心の中で反論する。今夜は歌番組への出演があるのに、メンタルがすごく低い。プロ失格だなと自重しながら、始は名残惜しく写真の隼に目をやった。
お酒を呑みたい。決して強い方ではないが、酒精にほどよく溺れる遊びをもう知っている。呑んで呑まれて、ふわりと気持ちのいい酩酊に誘われて、軽口を叩いて、ふざけて馬鹿なことをしたい。
(……隼)
彼と、他愛ない言葉で戯れたい。
「貸りるね」
「あ、」
突然春が、始の手の中からスマホを奪う。素早く何かしらの操作をすると、呼出音が鳴り響く。今は休憩の時間で周りには誰もいない。だから電話をしても迷惑にはならないのだが。
「始?! お仕事中の君が僕に掛けてきてくれるなんて嬉しいよ! ご指名のコールありがとう! 僕の全力で君を癒すよ!」
ワンコールで相手が出る。スマホからけたたましい早口が鳴り響き、始は唖然として春を見た。何故今ここで隼に電話を掛けた? はいどうぞと変わられても、何を話していいのかなんて分からない。
焦る始を差し置いて、春は始のスマホを持ったまま涼しい顔で対応する。
「残念。始じゃなくて春さんでーす。隼、今いいかな?」
「おや、春? 始のスマホからのコールだったのだけど」
「今、仕事先で始と一緒なんだ。楽しそうなプロセラルームの宴会を見て、うちの王様が仲間はずれにされたーって拗ねちゃってね」
「なにそれ尊い」
「待て春。いい加減なことを言うな。俺は拗ねてない」
「あっ、その声は愛しい始! 会いたかった! こちら僕です! 僕だよ! 僕、僕!」
「隼、興奮しすぎてオレオレ詐欺みたいになってるよ」
「お布施するのは僕の方だけどね! 振り込みさせて! 推しに!」
「つよい」
春が音声をスピーカーにしたらしく、始の声に隼が反応する。うっと言葉に詰まった始へ、いつもの怒涛のような言葉が降り注がれた。
「……隼、」
「あぁっ、始! スピーカー越しでも尊い声! 愛する始の声が聞けて僕は幸せだよ! 今夜は歌の生番組で君と春のデュエットが聴けるから、それを楽しみに今は皆でゼロ次会をしてるところさ! 本番はサインライトをスタンバイして全力で踊って応援するからね!」
「まだ六時間以上先の話だろうが! 今からライト床にばら撒いてんじゃねえ!」
ガラガラという何かがたくさん転がる音と共に、陽のツッコミが飛ぶ。
「う、うわあ……。何本あるんですかコレ。しかも地味に始さん仕様にカスタマイズされている……!」
「隼さんってぬいぐるみも作れるし、手先器用なんだよなあ。俺ももっと小物とか上手に作れるようになりたいっていうか、器用な方がデザインが捗る気がして」
郁の焦った声に続き、年少組の話し声が聞こえてくる。
「恋。志は立派だけど、俺的には隼さんを目標にするのはちょっとやめた方がいい気もするなあ」
「ウケる」
「おー、始、春ー! 聞いてるかー? 番組始まったら皆でテレビの前で踊るからなー! 応援なら任せろー!」
「はーいはーい! 俺も! 俺も踊りますよ始さん! 最前列はこの俺、卯月新におまかせください! 完コピしてみせます!」
「さすがは新だねえ、とっても頼もしいよ。さあ二人とも、夜に向けて練習だー!」
「やめろ隼、酔っ払い共を焚きつけるな! 郁も見てないで止めろ!」
「陽、ごめん。俺にはもうこれ無理かな……?」
「おー! まかせろー」
「了解です、隼さん!」
やたらと陽気な海に、同じくらいテンションの高い新の声。二人とも昼間からベロンベロンになっているようだ。葵と夜は仕事のため、現場のストッパーが足りてないのだろう。
「う、うわあ……。思ったより会場ができあがってた」
ちょっと引いたような春を見て、一体こいつは何をしたかったんだと始は疑問に思う。パーティー会場から実況されても、正直言って余計気分が下がるだけだ。
「新、駆、恋。三人とも程々にしろよ?」
はいっ、とお行儀よく返事が返る。そろそろ次の場所に移動しなければならない時間だし、始は通話を切ろうとした。
「始! 僕は今日も君の色を纏って晴れ舞台を応援するからね! 今夜楽しみにしてる!」
「……っ」
思わずこの前のことを思い出して、始はごくんと喉を鳴らす。紫です、と今思えばとんでもないことを全国へ向けて公開していたアレだ。
彼は今日も、紫なのだろうか?
急に耳が熱くなって、始は軽く首を振る。ありがとう、と答えた声は震えていなかっただろうか。どうにか通話を切って安堵の息を漏らすと、春が隣でニヤニヤしていた。
「元気になった?」
言われて初めて気づく。気分は確かに晴れていた。
しかしそれとこれとは別問題であるわけだ。
「そうだな、気分が良くなった」
カタンと席を立ち、春の前に仁王立ちする。春はあれっ? と冷や汗を流しながら後ずさった。
「はぁる、まだ少し時間があるよな? 少し俺と遊ぶか?」
「いやいやいや、春さん草食動物だからね。肉食動物と遊ぶとちょっとパワーバランスの問題でね、遠慮したいっていうか」
「問答無用」
「待ってはじ、アーーーッ! ギブ! ギブーーーー!」
相方を血祭りにしたあと、すっかり気分が晴れた始はようやく顔を上げた。
次に隼と直で会えるのはいつになるだろうかと考えながら、仕事へと向かった。