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    迷宮ヨリコワイ ふっと目を開けたら、時計が目に入った。
     このタイミングで見てしまうなんてと不満に思ったが、もう既に真夜中だった。そういえばここへ来たのもそれなりに遅い時間だったことに気づく。
     隼は名残惜しげに腕の中の始を離した。彼だって明日の夕方には仕事がある。午前中だけでも彼にとって久々の休みだったからこそ、当初の予定では楽しくお部屋デートをするつもりだったのだ。それがあの鏡のせいで、時間は削られに削られて、恋人との逢瀬はほんのひと時になってしまった。けれど駄々を捏ねるようなことは勿論するわけがない。何しろ隼は、アイドルの始を見ることだって大好きなのだから。
     始はそもそも寝不足で、ここできちんと寝ておかないと体調不良を起こすかもしれない。これ以上彼の睡眠時間を削るわけにはいかない。隼だって明日は昼間に仕事がひとつ入っている。ゆっくりなんて最初からできるとは思っていなかった。少しだけでいいから一緒にいられれば。そんなささやかな願いだったはずなのだ。
     思わずまた少し、ほんの少しだけ怒りでチリリと神経が焼けた。始へ見せるために持ってきた鏡は箱に入れられ、テーブルの片隅に無造作に置かれている。ちらりと視線をやれば、箱が小さく震えた。
     これ以上はいけない。後ろ髪を引かれながらも隼が立ち上がろうとすると、始の温かな重みが身体に乗っかかってきた。
    「……始?」
     僕はもうそろそろ行くよ、とは言わせてもらえなかった。始は隼の腿を跨いできて、隼と向かい合うように座り直す。両腕を肩の上から回して、隼にしがみつくようにする。隼は驚きながらも、始が落ちないように咄嗟に彼の背中へ腕を回して支えてやった。
    (こ、この体勢は……! ソファが邪魔になってさえいなければ、だいしゅきホールドというやつでは……?!)
     ラブラブな恋人同士がやるという伝説の、と考えたところで、隼の首元に顔を埋めていた始が少しだけ離れ、隼の方を見る。あまりの至近距離に、顔がぼやけてしまう。間近でキラキラと煌めく紫の瞳に魅入られてしまう。
    「帰るとか言わないよな?」
    「帰りません!」
    「なら、いい」
     そんなことを訊かれたら即答するしかない。無論答えはイエスの一択だ。
     隼は明日(もう日付は越えていたが)の自分を諦めた。始のためなら寝不足はチートでどうにかしよう。海、ごめんね。起こしに来てね。遺言をする気持ちで呟き、始の背中を撫でると、彼は猫のように機嫌よく喉を鳴らした。正確には喉を震わせて笑ったのだが、もう猫ちゃんでいい。可愛い黒猫ちゃんだ。
     くあ、と無防備にあくびをするのも可愛くて、今度は首の後ろを撫でたら、始は満更でもなさそうに微笑んだ。胸が甘くときめく。ときめきしかなかった。
    「……さすがに眠いな。ベッドでちゃんと寝るか」
     眠気でとろんと溶けた目は今にも閉じてしまいそうで、気怠げだ。やはり限界だったのだなと色々と反省した隼は、始から少し身体を離すと、彼へ立ち上がるように促す。
    「ここで寝ちゃダメだよ。疲れが取れないからね。お風呂はまだかな? 疲れていてもお風呂に入ってから寝た方が絶対いいから、頑張って、始」
    「う……ん、まだ、だ。……面倒だな」
     まだ、と言われて密着している始の身体のにおいを意識してしまい、隼は内心で慌てる。隼のために走ってきてくれた彼は汗を掻いただろうから、きっと普段より強く汗のにおいがする。その人のにおいというものも、存在を強く意識付けるファクターなのだ。嗅覚は大脳辺縁系へダイレクトに伝達される。だからこそ理屈じゃない興味を持ってしまう。
     決して変態じみた欲じゃないんだ、と否定しながら、隼は始の首元をじっと見つめてしまった。けれども彼は特に気にした様子もなく、隼の膝の上で身体を軽く揺らす。目を覚ますためなのだろうが、膝の上で座ったまま動かれると、お尻の形を意識してしまって、余計に隼を混乱させる。
    (もしかして、もしかしてだけど僕、今、誘われてる……?)
     そんな可能性に辿り着いて、ぼあっと耳が熱くなる。この前付き合いだしたばかりなのに、早いよ、でも今時の恋人はそんな感じなのかな。年齢的にも全然おかしくないし、とまた思考のループに陥っていると、始がようやく立ち上がった。
    「フラフラする……」
    「大丈夫? どうしてもダメそうなら無理に入らなくてもいいよ。危ないからね」
    「ん……、平気、だ」
     いつものキリっとした姿を捨てた今の始は、ふにゃふにゃしていてとても可愛い。隼だけがそれを見られることの優越感や喜びは計り知れなかった。
    (でも危なっかしいな。こんな状態でお風呂に入ったら溺れてしまいそうだ。始がちゃんとお風呂から出て、ベッドに入るのを見届けてから帰ろうかな)
     若干ふらつきながらも始はキッチンまで行き、冷蔵庫を開けてペットボトルの水を取り出す。一気に呷ると多少すっきりしたのか、先ほどよりもしっかりとした足取りで今度は浴室へと向かう。風呂を沸かすためのスイッチを入れると、お風呂を入れます、と平坦な機械音声が流れた。
    「隼は?」
    「え?」
     ぼうっと始の動きを眺めていたら突然話しかけられて、隼は何のことかと首を傾げた。
    「風呂は?」
    「僕? 僕もまだだよ。夕ご飯をいただいたあとに事件が起こったからね」
    「じゃあ、前がいい? それともあと?」
    「うん?」
     再び何のことか分からず隼が聞き返せば、始はちょっとムッとした。
    「だから、風呂が。……それとも、俺と一緒がいいのか?」
    「……へっ?」
     ぴぎゃっと喉が変なふうに鳴った。隼は言われたことが理解できたはずなのに飲み込めなくて、目を見開いて始を凝視した。そんな隼が面白かったのか、始は楽しげな顔になり、「どうする?」と言って目を細めた。くるくると変わる表情に再び隼は混乱して、その場に固まることしかできない。
    (誘われてるの? 試されてるの?! どっち? ねえ、どっちなの?!)
     間違えたら死ぬ。唐突に人生の岐路に立たされてしまった。月並みな言葉で言えば崖っぷち。警鐘が脳内を駆け巡る。変な勘違いをして嫌われるようなことだけは絶対に避けたいから、できるだけ受け身を取ろう。この付き合いが始まる時にそう思っていた。始優先。始ファースト。お姫様を一歩下がって守る王子様のように傅こうと、心に決めていた。
    (僕は魔王様で始はヒロインだけどね!)
     自分に自分で訂正を入れつつソファから立ち上がれないでいると、今度はお風呂が入りました、と単調な電子アナウンスが流れた。
     始はそれを聞くと寝室へ行き、着替えを持ってきた。一人分にしては量が多いなと思っていたら、その半分をおもむろに隼へと渡してきた。思わず受け取ると、それはTシャツとトラックパンツだった。勿論始の物だ。それから新品の下着もある。受け取った形のまま、隼はさらに固まった。
    「着替え。俺のだけど、お前なら着れるだろ」
     隼と始は体格が全く一緒なので、無論サイズに問題はない。しかし問題はそこじゃない。始はなかなか動かない隼の腕を掴んで立たせた。抵抗する間もなかった。そのまま手を引いてどこかへ向かう。どこかって、この状況で行き先など当然ひとつしかない。バスルームだ。
    「ま、待って。始が大丈夫そうなら僕はそろそろ帰」
    「帰るとか、言わないよな?」
    「帰りません!」
     先ほどと同じように即答すれば、始は満足げに頷いて歩いていく。
    (えっ、ええええぇぇぇぇーーー!!)
     声に出さずに叫んだ自分を褒めてやりたい。隼は連行されるまま浴室に放り込まれた。始はすかさずドアを閉めると、服を脱ぎだした。
    「えっ、ちょ、な、なんで脱いじゃうの……?!」
     さすがに展開についていけず、そんなことを訊いてしまう。浴室に来たらすることなんてひとつしかない。始は不思議そうな顔をして隼を見た。
    「何って、風呂に入るからだろ? お前も早く脱げ」
    「ですよね! って、えっ、ええっ……、え……?! キャーーーッ! 待って始! お戯れを!」
     まごついている隼に痺れを切らしたのか、始が乱暴に隼を脱がし始める。キャアキャアと騒いでいる間に裸にされて、脱衣場から風呂場に放り込まれる。呆然としている間にシャワーを掛けられて髪や身体を洗われて、バスタブに放り込まれた。さっきまで半分寝かけていた人とは思えないくらいの手際の良さだった。
     浴槽は身長のある成人男性二人が入るにはさすがに狭いので、隼が湯に浸かっている間は始は髪を洗ったり身体を洗ったりしていた。とてもじゃないが、彼の方なんて見られない。
    (平常心、平常心……いや、無理でしょ?! 何これ何これ。どういうこと?! 上を見ても横を見ても始の部屋の浴室で隣には裸の始が……って見ちゃダメだ、僕! 見たら死ぬ! ここでジ・エンド! いや、むしろここが終着点なのか……?!)
    「隼、交代してもらっても? それとも自分で身体が拭けないか? それなら一緒に」
    「大丈夫です! 自分でやれます!」
    「そうか? ドライヤーは洗面所にあるから」
    「ワカリマシタ!」
     始の方をできるだけ見ないようにして、隼は脱兎のごとく浴室をあとにした。自分に出せる全速力で、用意してもらっていたタオルを引っ掴んで身体を拭く。始が風呂から上がる前に、脱衣室と一体となっている洗面所から逃げなければいけない。
     おざなりに髪を乾かし、借りた服を身につける。始の服だと意識してしまう。下着は新品だけれど、元々始が自分で着用しようと思って購入したものだろうから、と考え出すと深みにハマりそうで、必死に邪念を払う。自分の本体以外は全部正真正銘始の物だなんて、そんなことがあって許されるのか。ひどくいけないことをしている気分になってくる。風呂上がりの熱も相まって、脳が茹だるようにくらくらし始めた。それに堪えながら、隼は何とかソファまで逃げ切ることに成功する。精神的な意味で疲労困憊になりながら、どうにかソファへ座った。
    「……夢、そうだ、これはきっと夢なんだ」
     カタン、とテーブルの上で鏡の入った箱が揺れた。あのおどろおどろしい迷宮なんかよりも、この部屋の中の方がよっぽど危険地帯だ。迷い込んではいけない大型の獣の巣。このまま食べられてしまうのだろうかと心配になる。そうしてまとまらない頭のまま、隼はしばらく意識を半ばほど飛ばしていた。
     やがて浴室のドアが開く音がして、すぐにドライヤーを使用する音が聞こえてきた。彼が戻ってきて、そのあとはどうなるんだろうと考えれば心臓が急にドキドキしてくる。どうしよう、と隼がまた意味もなく箱を見れば、箱は今度はカタカタと明確に揺れた。
    「隼」
    「ハイッ」
     思わず元気に返事をしたら、始がぷっと吹き出した。彼は隼の前に来ると、放置されたままだった隼の残した紅茶を、トレイに乗せて運ぶ。
    「あ……、せっかく淹れてくれたのに」
    「気にしなくていい。いつでもまた淹れればいいさ。そもそも飲むのを邪魔したのは俺だしな?」
     悪戯っぽくウインクした風呂上がりの始の頬は血色が良くて、隼はそのあえかな表情に見惚れた。始はキッチンへ行ってカップ一式を片付け、冷蔵庫からまたペットボトルの水を取り出すと、隼の前へ戻ってきた。ごくごくと飲み下す時の喉の動きを眺めていたら、半分くらいに減ったそれを差し出された。
    「お前も飲むか?」
     誘われるようにそれを受け取って口を付けると、何だか甘い味がした。それは気持ちだったのかもしれない。風呂上がりの上、変な緊張を強いられていたので、喉は自分で認識する以上に乾いていたらしい。残りを一気に飲んでしまった。始は空のボトルを受け取りテーブルに置くと、また隼の腕を引っ張って立ち上がらせる。既視感に目眩を感じていると、再びどこかに連れて行かれる。
     行き着く先なんてそれこそ決まりきっている。決して広くはない部屋だから、目的地へはすぐに辿り着く。そこは始の寝室で、カーテンが閉じられた部屋は静かだった。リビングとの間を仕切る引き戸が閉じられてしまえば、ぽっかりと切り取られた気持ちになる。始と二人きりで閉じ込められるなら、そこに始がいるのなら、隼は何だって構わないのだけど。
     ベッドの前まで歩き、始はサイドランプを灯す。室内灯を消せば、やわらかな仄明るいオレンジだけが光源になる。ごく普通のシンプルなライトなのに、そこはかとない怖さが小さく沸き起こる。あの不気味な行燈の光には、なんとも思わなかったのに。
     始は隼を先にベッドへ上がらせて、壁際へと追いやる。隼がされるがままにしていると、彼はどうにか空けたスペースに潜り込んできた。しかし大人二人で使うシングルベッドはまあまあ狭い。仰向けでは落ちてしまいそうだから、隼は壁の方へ向いて横たわる。始は隼と背中合わせになり、床側の方へ横向きになった。
     しばらくごそごそと動いていたが、しっくりくる位置を見つけたのか、静かになった。背中が遠慮がちに重なっている。温かい。始は何も言わない。隼も何も言わなかった。あれほど緊張していたのに、今は何故か心は穏やかになっていた。きっとそれは、始がこんな態度を取った理由の答えが、ふっと今、頭の中に降りてきたからだ。
     鏡のせいだ。それでも起きた事実だけを見れば、隼のせいだ。許されない過ちだった。
     理由が分かったから平気だと始は口にした。それは真実で、嘘じゃない。そして一瞬でも彼がひどく傷ついたこともまた、真実だった。あの時の表情を思い出す。それと共に、眠れないほどの後悔をしたというのに。事件が解決したからといって、始が許したからといって、この短時間の間に記憶から飛んでいたことが心底信じられない。気軽に浮かれていい理由などない。
    (淋しい思いをさせたから)
     今日の想いを分かちあったとしても、それは永遠ではない。翌日には無くなってしまうこともある。ごく短い期間か、はたまた人生を全うできる日までなのか。
     死がふたりを分かつまで。ではその死はいつやって来る? 明日、明後日、それとも何十年もあとのこと。今日を生き延びられる命の保証なんて何処にもない。そんな怖さを知る程度には、彼は大人なのだ────とても、怖がらせてしまったのだと知る。胸の奥がひどく痛む。後悔が、どっと押し寄せる。それと同時に、そこまで求められたのだという実感とともに、湧き上がる重い喜びに浸る。始は隼を失って傷つき、悲しんで、淋しさを覚えた。自分の服で隼を包んで、ベッドの中という自分だけの巣の中へ連れ込んで閉じ込めようとするほどに。
    (始が、僕に執着している)
     脳内で言葉にした途端、足元から震えが走った。後悔を塗り替えるほどの喜びにめちゃくちゃな罪悪感を抱えながらも、生まれた歓喜は瞬く間に全身を支配した。
     隼は壁際に向けていた身体をゆっくりと反転させて、始の方へと向き直った。後ろからその背中に寄り添っても始は動かない。背後から両腕を回して、彼の胸と腹の辺りを抱えるようにした。
    (心臓の音が、聞こえる)
     早い鼓動は、彼が寝てなどいないことを教えてくれる。どきどきと逸る鼓動が、隼を掻き立てる。胸元を撫でるように手のひらを動かせば、くすぐったかったのか始の肩が微かに震えた。彼がちゃんと生きていることを確かめるように心臓の上を何度か撫でていると、始の手のひらが隼の手の甲を包んだ。熱を帯びて軽く汗ばんだそれはしっとりと温かい。拒絶の意思ではない。その手のひらは、意志を持って隼の手を自ら胸元へと押し付けた。
     その反応に、隼は無意識に唇の端を上げた。より一層身を寄せると、始の身体にぴったりと隙間なく寄り添う。同じように早く動く隼の鼓動が、彼にも伝わっているだろう。やがて音が重なって、ひとつのものであったように溶け合っていく。分かち合う熱も、溶けていく。とくとくと、混じり合う音と一緒に何もかも溶けていけばいい。少しでも長く、怖いことが起きないように、全部溶けてしまえ。
     ふ、と始の吐息が聞こえた。隼の方へ背中を押しつけるようにしてきた身体をしっかりと抱き留めて、彼の耳の後ろに顔を埋める。シャンプーの奥に仄かに香る、始のにおいがした。それをあと何回、隼は感じることを許されるのだろう。一時か、しばらくか。永遠はなくても、十分な猶予は与えられるのだろうか?
     大きく息を吸い込む。腕の中には始がいる。隼に心身をゆだね、息をしている。抱き締める腕に力を込める。熱が溶ける。鼓動が聞こえる。全部全部ひとつになって溶けていく。
     始の浅い吐息が、やがて穏やかな寝息へと変わる。隼もあとを追うようにして、彼の夢に溶け落ちる。

     どんな場所だって隼にとっては怖くない。鏡の迷宮なんて玩具に過ぎなかった。
     でもただひとつ、この部屋だけは、始の隣だけは、世界中の何処よりもこわい。尽きぬ不安と背徳的な喜びに満ちていて、澱んだ心の成れの果てが、魑魅魍魎の如く跋扈する。呪いの鏡よりもよほど業の深いものだ。けれどもそれと同時に、何処よりも光差す、美しくて愛しい大切な場所だった。


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    2024/05/06 22:51:31

    迷宮ヨリコワイ

    #隼始
    魔王様と鏡の迷宮の幕間SS。隼始の一夜。
    *とても薄暗い話。重め。

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