ほんの少しだけ、その先(太極パロ)
「金色の夢を、終夜」より未来の話
*金色の星と、いつまでも
旅を、している。
どれくらいの時が過ぎたのか、もう数えてはいない。朝と昼が均衡になり、人族はどんどん発展を遂げた。
邨は町になり、町は集まり、やがて国になる。かつて住んでいた邨は今では古都と呼ばれている。古い、古い歴史のある都だ。
勿論、もう知っている顔はない。とっくの昔に時の流れに埋もれてしまった。睦月の邸は形を変えつつも未だそこにあるようだが、最早始が帰る場所ではない。さすがにこれだけ時が過ぎれば自分自身にも色々と思うところもあるし、何よりも、必要以上に人間と関わることをしたくなかった。
金蘭となった世界の柱が、不用意に営みを乱すのはいけない。人の輪からは外れてしまったと考えるのは寂しいが、かつて年下だった者たちが歳を取らなくなった自分を追い越し、そして寿命を全うしていくのを何度も見送った時に、そうなのだと受け入れた。すべては自分が望み、選んだことだから、寂寥感はあれども後悔はしていない。それに、始にとって何よりも大切な金色の光は、今も隣にあるのだから。
「……寒いな」
「こんなに寒いのは僕も久しぶりだよ。見渡す限りの白銀だ。……とても、懐かしい」
白一面の世界の中で、きらきらと輝く光が隣にある。もう数えるのも億劫なくらい二人で過ごしてきた。生まれ育った邨を出てからこれまでずっと、始と隼はその日暮らしの根無し草をしている。まとまった期間を人里で過ごすこともあるが、長くてもひとつの季節を越える程度だった。ひと所に定住せず、大切な対と気ままな二人旅をしている。
昼夜が逆転してからというもの、人族の文明は劇的に発展した。夜に明かりを灯し、邨の外には街道が伸びた。深い雪に閉ざされた幻の国への道は、再び拓かれたのだ。
寒いということは話に聞いていたけれど、始の予想よりも遥かに過酷な寒さだった。それでも比較的軽装でいられるのは、金蘭としての力の循環のおかげだった。元々健康優良児だった始の身体は、ますます耐久力が増していた。陰陽の気は寒さなどものともせず、身体中に熱を伝えて駆け巡る。
「始、大丈夫? 休憩するかい?」
黙ったままでいるのを、疲れたと誤解されたようだ。物思いに耽っていた自分に苦笑して、始は首を振った。
「全然平気だ。足元は悪いが普通に歩く分には気にならないな」
「わお、頼もしい言葉! 始カッコイイ!」
笑顔の絶えない彼は、今何を思っているのだろう。かつて二人は、雪に埋もれた幻想郷へ行こうと約束した。それが今、長い時間を超えて実現しようとしている。
あれから長い長い時が過ぎた。国の存在など跡形もなく消えているだろう。それを目にした時、彼は、隼は、何を思うのだろう。
(連れて行きたいと思ったのは俺のエゴだ)
何も無い白銀の世界を見せても、古い傷跡を引っ掻いてしまうのではないかとも考えた。しかしどんな姿になっても、故郷とは愛しいものではないかと始は思う。自身が失ったことはないから、ただの想像に過ぎないのだけど。
そして何よりも、始自身がこの地を見たいと思ったのだ。隼がかつて幸せに過ごした、夢の跡先を。だからこそ約束を果たすのに、こんなにも時間がかかってしまった。
始がぐずぐず悩んでいる間に、いつの間にか街道が作られていた。こんな北の大地にまで開拓の手を伸ばせるほどに、人族は発展した。少ないながらも、獄族と契約する者も増えた。世界は明るい未来へ向かっている。かつての自分が願った世界がすぐそこにある。
この場所への街道が完成する前に、閉ざされた幻の国を誰かが再び開拓してしまう前に、隼を連れて行こうと決めた。
ちらりと隼の様子を窺えば、憂いなどない横顔がそこにある。ただ懐かしい眼差しで、目の前に広がる白一面をためつすがめつしている。
そこからさらに歩き続け、とうとう開けた場所に出た。おそらくはここが、求めていた終着点だ。
立ち止まった隼は何も言わず、じっと前方を見つめている。その背中を眺める始には、彼の浮かべている表情は分からない。掛ける言葉も見つからなくて、静かに白い息を吐いた。
静寂が広がっている。音さえない真っ白な世界で、時間の感覚がなくなっていく。時の流れが緩くなっていき、停滞さえしてしまいそうだった。
「…………始」
どれくらいそうしていたのか分からない。
隼が前を向いたまま、始の名を呼ぶ。
何と答えたものかと言葉を探していたら、彼は小さな声で呟いた。
「花が、咲いてる」
「……え」
不意に彼がしゃがむ。足元の雪を掻き分ければ、その下から雪と同化したように白い、小さな花が顔を出した。
「見て、始! 僕が以前君に話したのは、この花のことだよ!」
振り返った隼は、幸せでたまらないといった笑顔を浮かべて始を呼んだ。胸が痛むのは、嬉しいからなのか、それとも切なくなったからなのだろうか。
「早く! こっちに来て!」
「わかった」
早く早くと急かされて、隼の元へ行く。彼と同じようにしてしゃがめば、雪の下には一面の花畑があった。
「これは、すごいな……。雪が溶けたら壮観だろう」
「ふふ、来るのがちょっとだけ早かったね。でも一面の銀世界っていう景色も大好きだから、どっちも捨てがたいなあ」
「溶けるまでここに居るか?」
「うーん。まだちょっと時間がかかるし、さすがにそれは厳しいかも。いくら金蘭とはいえ、ここは本当に寒い場所だからね」
立ち上がると、隼は名残惜しげに辺りを見回して、そろそろ休める場所に移動しようと始を促した。これより先は氷に閉ざされた海があるだけらしい。当然何も無いこの場所で休むことはできず、来た道を戻らなければならない。
ほんの僅かな里帰りだった。それでいいのかと視線だけで問えば、隼は頷いた。
「……なら、また来よう。それとも、もういい?」
始の言葉を吟味するように彼は視線を彷徨わせる。問われた意味を、考えているのだろう。
「もし僕がまた来たいと言ったら、君が連れてきてくれるの?」
「お前が望むなら、何度でも」
「……始、約束を守ってくれてありがとう」
泣き笑いみたいな顔をした隼は、すぐにいつもの笑顔へと戻る。
「ここにかつて国があった跡が残っているだなんていうのは考えてなかった。それだけの時が経っているしね。でも、まだ花は咲いているのかもって思ってたんだ。この地に咲くのは、極寒に耐える強い花だから。両親が好きだったこの花を、始にも見せたいなって思った。僕が好きだった一面の銀世界を、君と一緒に歩いてみたかった」
「……隼」
「願っていたこと、二つとも叶っちゃったね。君といるとどんなことも叶うんだ。だから次は、雪解けの頃に、君と視界いっぱいに広がる花畑を見に来たいな」
手を取れば、握り返してくる。冷たくはない、温かい手だ。始はそれを、熱を分け合うようにしっかりと握る。
「君はいつだって、僕を照らしてくれる金色の星なんだね」
「……暗い道を照らしてくれるのは、お前の方だろ。昔、初めて外で一晩過ごした時、夜を照らすお前は金色の星のようだった」
「お互いに同じことを思ってた?」
「どうやらそうみたいだな」
かーっと突然頬を染めた隼を見て、随分と恥ずかしいことを言ったのだと自覚した。その途端始も自分の顔に熱が上るのを感じた。誤魔化すようにくるりと踵を返すと、隼の手を引っ張って来た道を戻っていく。
「日が暮れないうちに行こう」
「うん!」
次に来られるのがいつになるかは分からないが、もしかしてその時には開拓が進み、新たな町ができるかもしれない。幻の国が、形を変えて再び姿を現すのだ。花はきっとそこでも力強く咲き誇るだろう。
繋がれた手に力が込められる。しっかりと握り返せば熱が伝わる。
二人はどこへでも行けるが、戻ることはできない。けれど、二人ならそれでいいと思えた。
(アオハル・裏アオハルパロ)
「ミューテイション・ストレイン」の後日談
*リバース・ミューテイション
(痛い……!)
手足がちぎれるほどの痛み。
実際に四肢を引き裂かれたことなどないが、ちぎられてバラバラにされるなら、これがその痛みだろう。それと同時に、大切な、ずっと心の傍にあって満たしてくれていたものが消えていく感覚。喪失感に悲鳴を上げそうになる。
しかしそれは、全部自分の意思で行ったことだ。自分を制御できない。壊れてしまう。非常事態を察知した本能が、今取れる最前の手段に踏み切ったのだ。感情はもう振り切れてしまっていて、理性など飛んでしまった。
だけど自分に何かあっても、彼が無事なら。対が自分の影響下から逃れてくれれば、きっと何とかなる。助けてくれる。
離れていく。根を同じくしていたものが、分かたれていく。それはもう二度と元には戻らない。それでも、彼は彼のままでいてほしい。
確かに感じていた存在の重みが消えて、完全に分離したことを知る。心が苦しくなる。しかし悲嘆にくれる暇はなく、始はその存在を、自分とは違う別個の存在へと変化した隼を、世界の壁の外側へ押し出した。
「楽しかったねえ、始! 全身びしょ濡れになっちゃったけど、濡れた僕もカッコいいと思わないかい?」
「……それにどうコメントしろって言うんだ」
乗り物は楽しかったな、と呟けば、隼はきらきらと笑った。いつも曇りのない笑顔を見せる彼だが、水しぶきを盛大に浴びたあとなので、雫が太陽光で輝いている。物理的な意味でキラキラ度が増している。
デート当日は晴天に恵まれた。待ち合わせ場所に行った時にはまだ隼の姿はなく、待っている間、始は柄にもなくどきどきした。見慣れた姿が自分の名前を呼びながら大きく手を振り、小走りに駆けてくるのを見た時は恥ずかしすぎて、思わずつっけんどんな態度になった。
おそろしいほどに注目の的になった恥ずかしさを思えば、勢いで殴らなかっただけ褒めてほしい。危うくこんな場所でジャーマンスープレックスをかますところだった。
休日に彼と二人きりで出掛けるのは、実は初めてだ。複数人となら何度かはあるが、まだ見慣れたとは言いがたい隼の私服姿を眺めて、始は急にデートなのだと自覚した。
隼が好きだ。散々悩んでいた時期を思い返せば、結論はそれしかない。そして隼は始が好き。紛れもなく両思いというやつで、冗談でもなんでもなく、これは恋人のデートなのだ。
ただし告白はまだだ。明確にこの気持ちを告げてはいない。きっと今日、告げることになる。そして返答は訊かなくてももう知っている。そう思えば期待感と高揚感で胸がいっぱいになる。それなのに、何故か心のどこかが泣いているような気もするのだ。
一本の小さなトゲがどこかに刺さっているのに、その場所が分からない。幻肢痛のようだと考え、手足はちゃんとあるのに、と苦笑する。何故かやたらとナーバスになっている。
身の回りの状況が変わると人間は得てしてストレスを感じるものだ。きっとそれなのだろうと、そして恋人ができるくらいでと考えたところで始はまた猛烈に恥ずかしくなった。ジェットコースターに乗るよりも気持ちの上下の方が余程ひどい。濡れた服を不快に感じる暇もなく、頭の中がぐるぐるとした。
「疲れちゃったかな? こういうアトラクションは苦手だったかい?」
「いや、平気だ。今日は天気もいいし、こうやって座ってればすぐに服も乾くだろ」
「そうだね。何か食べ物でも買ってくる? あちこちに屋台があるから目移りしちゃうよ」
人混みの中、運良く空いているベンチを見つけ、二人で座った。朝から立て続けに乗り物のアトラクションに付き合っていたので、何か食べるかと問われれば急に空腹を覚えた。
どうやら夕食はレストランを予約してくれているらしいが、昼間は気になったものを片っ端からというスケジュールらしい。
(絶対海の案だな。レストラン辺りは陽か)
デートコースを相談したと隼自らが言っていた。つまり二人のお付き合いはフルオープン、筒抜けということになる。それもまた恥ずかしいが、力強くもある。
何より、自分の方だって仲間たちには応援されている。春には、未成年は節度を保ってお付き合いしてねと言われたが、不良教師が何を言ってると鼻で笑った。
そんな、スケジュールがあってないようなデートに不満を覚えたのかといえばそんなことは全くない。緻密に計画を練るのも楽しいが、自由気ままに好きなことをするのは大好きだ。それが大切な相手とならば、どこにだって行けるのだから。
(大切な相手……)
自分の言葉に赤面する。朝からそんなことの繰り返しだ。隼のことばかりを考えてしまう。隼のことで頭がいっぱいだ。彼は何故始が好きなのだろう。始のどこが良かったのだろう。それは一過性のものじゃなく、この先もずっと、一緒に居てくれるのだろうか?
ずきん、と痛みのような鼓動が鳴った。
さすがに心配しすぎでは、と自分でも思う。二人はまだ高校生で、人生の大きな通過点とも言える結婚なんて遠い未来の話だ。今のところ結婚する気もないし、そんなこと考えられないというのが現状だ。
付き合う付き合わないなんて、それほど深刻になるような時期ではないはずなのに、一度隼と付き合えば、もう二度と離れられないような気さえする。
(俺は、もしかして重い、のか……?)
言葉にすれば、ヘビーな愛だ。激重というやつだ。下手をすれば依存にもなりそうな、そんな気持ちを隼へ向けていいものなのか。
「始? さっきから百面相してる。何か気になることでもあったのかな?」
「……っ」
急に隼が横から始の横顔を覗き込んできたので、視界いっぱいに映ったその顔に驚いてしまう。
「……覗き込んだのは僕だけど、そんなにまじまじと君に見つめられると心臓が破裂しちゃいそう!」
キャッと悲鳴をあげて隼が顔を逸らす。いつもの見慣れた隼の態度に安心する。そして、隼の方は平常心なんだなと不満も沸いてくる。自分は一体隼にどうしてほしいのだろう。
「君はそこで待ってて? 飲み物と、何か食べ物を買ってくるね」
「お前、一人で屋台で買い物できるのか?」
「始のためなら何だってするよ!」
またどきんと心臓が跳ねる。何だって。それなら、本当にずっと傍にいてくれるのか?
食べ物なんかより、欲しいものはお前だ。そう口に出してしまいそうで、始は口を噤んだ。その態度が少し具合悪そうに見えたのか、隼はおどけていた雰囲気を切り替えて、待っていてねと屋台へと向かった。
隼はあっという間に戻ってきた。両腕にたくさんの飲み物やら食べ物やらを抱えている。始の隣に座ると、腕に抱えた成果を見せた。
「お腹が空きすぎると力が出なくなっちゃうよね。美味しそうなものがたくさんあったよ! 何にするか悩んじゃった。どれがいいかな? 君が欲しいものを選んで?」
今度こそ『お前』と言いかけて、自分はどうかしていると首を振る。始は冷静になろうとして、そんなに隼が欲しいのかと自問自答する。そしたらそうだ、と真っ先に頭に浮かんで、始はそこで考えることを放棄した。
始は隼が好きで、隼は始が好き。それなら何も問題ないのだ。隼を自分のものにしても。
「これ、がいい。こっちも美味そうだけど。……半分こしよう」
隼はキョトンとしたが、すぐにパッと頬を赤らめた。
「は、はははは半分こ。シェア? 始と僕で、半分こ! なんて恋人らしい響き……むぐっ」
若干周りの視線を集めたので、始は隼が抱えていたチュロスを奪って彼の口へと突っ込んだ。隼がひと口齧ったのを確認すると今度は自分の口元に運び、噛み付いた。
甘い匂いと、砂糖の味がする。甘く甘く、甘ったるい。空腹に糖分が染みる。思ったより腹が空いていたようで、残りを一気に食べてしまった。食べ終わって顔を上げれば、隼は顔を赤くして固まったまま、じっと始を見つめていた。
「人が食べてるところをじっと見るのはマナー違反だと思うが?」
「いや見るでしょこれは! これをガン見しなくて何を見るの?! 僕の目は君を見つめるために付いてるんだよ?!」
「何を言ってるんだ」
こんなやりとりをいつかもしたような、と思いながら始は次に隼の手から飲み物を奪い、一気に飲む。水分も足りてなかったようだ。五月とはいえ日差しの下にいれば暑い。暑ければ当たり前に水分は飛んでいく。
「飲むか?」
隼も欲しいだろうと思い、今しがたまで口をつけていたそれを隼へ渡そうとしたら、彼はヒェッと悲鳴を上げた。
「始と、か、間接キッ……は、始と、僕が」
「関節?」
またしてもキャーっと叫んだ隼を黙らせるようにカップを彼の口へ押し付けたら、今度は完全に固まってしまった。相変わらず忙しいヤツだなと思いながら、始はふと去年のことを思い出した。
去年の今頃は何をして過ごしていただう。春たちとどこかしら出掛けていた気がする。何だか記憶が朧気なのが気になったが、今は過去のことより未来のことだ。
「そういえば、今年の文化祭はまたあれをやってくれと要望があったんだが」
「アレ? 文化祭……ああ、僕たちが歌って踊ったダンスライブのことだね」
去年の文化祭で、始と隼はそれぞれユニットを組んで、ダンスライブに参加した。何が切っ掛けだったのかはやはり朧気な記憶だったが、いつもの六人で歌って踊ったのは覚えている。
グラビ、プロセラというユニット名で、全校生徒からは大好評だった。今年も是非ダンスライブを開催してほしいという要望が、生徒会へ多数来ているのだ。
「とっても楽しかったよね。僕はグラビの箱推しだよ! 始はとってもカッコいいし、皆も最高だった。僕も皆とまたやりたいなあ」
「お前の振ってたうちわは覚えてるな……」
「夜なべした力作でした!」
一際人目を引く大きなハートのうちわがブンブンと振られていた。その光景だけはよく覚えている。恥ずかしいような、嬉しいような。いや、きっととても嬉しかったのだ。
「前向きに検討する、だな」
「グラプロ復活! 楽しみだね! 今度はユニットシャッフルとかも楽しそう。そしたら僕が始と二人で歌って踊れるチャンスが……!」
「はいはい」
その後は買い物をしたり、園内をゆっくり歩いたりした。夕方には隼が予約してくれた、ミステリアスな雰囲気のあるレストランで食事をし、日が沈む頃に園をあとにした。
疲れてはいたが、このまま帰ってしまうわけにはまだいかない。大事な大事なイベントがこの後に控えている。
港をぶらぶらと歩けば、隼は静かに始の後ろを着いてくる。なんでもないふうを装っているが、緊張で両手両足が固まっている。空はすっかり濃藍へと変わり、星の代わりに街灯が夜を照らす。適当な場所まで歩いて、始は隼を振り返った。
正面で目が合う。少し前にもこんな状態で対峙したことがあった気がしたが、それがいつなのかは思い出せなかった。
「始」
口を開いたのは隼が先だった。
彼は表情を若干強ばらせて、持っていたバッグをごそごそと漁り、小さな箱を取り出した。
「これを、君に」
白い指がぎこちなく蓋を開ける。そうして差し出された箱の中身は、始が想像したものと違わなかった。小さな箱に仲良く並べて入れられた、銀色に光る二つの輪。
ペアリングなんてベタだろ、とか本当に指輪をくれるとは、とか頭に浮かんだ言葉や感想は山ほどある。しかしそのどれよりも強い感情が、心の奥底から湧き上がった。
これでまた、繋がれるのだと。
黙って左手を差し出せば、隼はちょっと驚いた顔をしたあと、ふわりと微笑んだ。恭しく始の手を取って、リングをその薬指に嵌める。もうひとつのリングを取ると、今度は自分の左手の薬指に嵌めた。サイズはピッタリだった。
「そんな気はしてたが、薬指用なのか」
「君に指輪を贈るなら、ここしかないよね?」
リングを嵌められた手を頭上に翳し、きらきらと輝くそれを眺めた。なんの飾りもないそれは至ってプレーンだ。だけど、それが良かった。
「材質はシルバーだけど、バイトで精一杯がんばりました!」
チケット代を稼ぐにしては(決してそれも安くはないが)期間が長いと思っていたが、そういうことかと納得する。
「……ありがとう。大事にする」
右手で大事そうにリングを嵌めた左手を包めば、隼は一瞬泣きそうな顔をしてから穏やかに笑った。その表情は、確かにどこかで見たことがあるのだ。でもこれもやはり思い出せない。
始は隼へ近づいて、その背に両腕を回す。
自分のせいで分かたれてしまった大事な相手なのだと、心のどこかで誰かが叫ぶ。おかしな話だった。それなのに、そうなのかもしれないなんて妙に納得した。そして今また、再び繋がれようとしている。
そっと唇を寄せたら、隼の両腕がしっかりと始を抱きしめた。唇の表面を触れ合わすだけの接触で、今は十分に満たされた。
「ずっと君のそばにいるよ、始。この先も、何が起こってもきっと大丈夫だから」
またあの切なさが湧き上がり、不意に涙が溢れた。嬉しいだけの言葉に悲しみを感じる意味が分からない。けれど、彼がそう言うならもうそれで良かった。
離れないでくれ、と小さく伝えたら、あやすようにぎゅっと抱きしめられた。
これでまた、繋がれた。
始は心から安堵して、隼の体温に頬を擦り寄せた。
(メリバラビキン)
「階はもう辿れない」のその後の二人
*きみの手のひらから
「グラビの皆、タコパ会場へようこそ!」
プロセラルームに香ばしい音と香りが漂っている。頭にバンダナを巻いた海が、屋台の店主さながらにたこ焼きピックを回す。隣にはそれを手伝う郁。キッチンの方では夜が料理を作り、涙は食器や飲み物の準備をしている。美味しい匂いが幾重にも重なって、誰かの腹の音が鳴った。
リビングの中央には大きめのテーブルが設置され、その上には所狭しとたこ焼きの材料が置かれている。三人だけで開催した時とは規模が全然違う。さすがに海だけでは手が足りず、郁に手伝いを頼んだのだった。陽は仕事が入ってしまい、本日は不在だ。全員揃わなかったのは残念だが、職業柄よくあることなので、こればかりは仕方ない。
約束の時間通りに顔を出したグラビの面々を迎えた隼は、にこやかに彼らを会場へ案内した。既に海の手元に視線が釘付けの駆に恋、それから新の三人だ。
「お招きありがとうございました、隼さん! 隅から隅まで余すところなく美味しくいただきに来ました!」
「おおー! 思ってた以上に本格的! ゴチになります!」
「いいにおいだなー。来られなかった葵と春さんに悪いから、写真だけ送っとくか」
「うわ。それ余計にひどくない?」
新の本気かどうか分からない言葉に恋がしかめっ面になる。春と葵の二人はスケジュールが直前に変更になってしまい、こちらも残念ながら欠席となってしまった。だから二人の姿が見えないのは当然なのだが、もう一人、隼にとっては非常に肝心な相手の姿も見えなかった。
「あれ? 始は?」
まさか始も急な予定変更なのだろうか。
「始さんはちょっとだけ遅れます。急に書かなきゃいけない書類ができて、事務所でそれを片付けてから来るとのことですよ」
キョロキョロした隼へ、恋が丁寧に答えてくれる。予定変更で来られない可能性も考えてはいたので、それなら良かったと隼は安心した。
「そっか。急なお仕事とかじゃないんだね」
「はい。簡単なものらしいので、終わり次第すぐにこちらへ来てくれると思います。ご本人もタコパを楽しみにしてましたし。それと、始さんから先に始めていてくれと伝言お預かりしてます」
「うん、わかった。じゃあ皆、始めようか?」
「はーい!」
隼の合図に、元気な返事が一斉に返る。駆が真っ先に海の対面を陣取り、その横に恋と新が座った。
「残暑の厳しい秋の夜長に、エアコンの効いた部屋でタコパ! 食欲の秋最高! とっても贅沢!」
うきうきと海の手元を見やる駆に、海が破顔する。
「最高の贅沢だよな。夏祭りで食べるのもいいけど、室内で思う存分騒げるのも楽しいよな」
「あはは、そうですよね。陽は来られなくて残念がってましたけど」
「あいつ、何だかんだで魔界タコのこと気に入ってくれてたからなあ」
「へ、へえ~、そうなんですね。俺はその現場に居なかったので、話は本人からうっすら聞いただけなんですけど」
しみじみと呟きながら手はしっかり動かす海を横目で見つつ、郁は「陽がいなくて、俺一人でツッコミは間に合うんだろうか」と呟いた。
「へ? 魔界タコ?」
恋が素っ頓狂な声を上げる。
「そんなに美味しいタコなんですか? 初めて食べる食材があるだなんて、これはますます楽しみですね!」
「駆さんの食に対する飽くなきチャレンジ精神!」
不穏な言葉に目を丸くさせた恋、期待感に目をきらきらさせる駆。そこへ、夜が大皿を持ってやって来た。
「これ、タコのマリネとタコの唐揚げです。タコが沢山あるので、色々アレンジしてみました。味変にもなるから、たこ焼きの合間にどうぞ」
「わー! 美味しそうですね夜さん! それに色とりどりですっごく綺麗です! では早速! いただきます!」
見た目も華やかに盛り付けられたマリネがテーブルに置かれると、駆はすかさず箸を持って一切れ摘み、口に運んだ。
「うんまあぁぁぁぁい! コリコリとした程よい弾力に、噛めば噛むほどじゅわっと滲み出る、まるで肉汁のような旨み! いや、これは甘みにも感じる……? それを纏めるマリネ液の絶妙な酸味! 口の中で合わさってほっぺがじんわりとくすぐられるような美味しさ……!」
「俺もいただきます! んっ、……美味しいです夜さん! 味わい深いっていうか、不思議なタコですね」
「んー、こっちの唐揚げも美味しいです。やばい。これ、いくらでも食べれちゃいそう」
グラビ三人が口々に褒めるのを聞いて、夜は良かったと笑顔を零す。
「美味しそうに食べてもらえて、俺も嬉しいよ。でも主役はたこ焼きだから、そっちもたくさん食べてね」
「はい喜んでー!」
「皆、お待たせ! 主役が焼けたぞー」
「やったー!!」
海が焼きたてのたこ焼きを次々に皿へ盛っていく。
「郁、お疲れさん。お前も食べてくれ」
「海さん、ありがとうございます。それにしても皆、魔界タコと聞いても躊躇しないなあ。陽は噎せたらしいのに」
「美味しいものは正義ですから!」
郁の呟きに、グラビ三人の言葉がハモる。普段はプロセラに比べてリアリストなグラビ勢だが、食の追求にかけては美味しいもの至上主義だ。そしてそれ故にシビアでもある。
そんな彼らに美味い美味いと言われるのは作り手冥利に尽きるというものだ。海も夜も嬉しそうで、少しだけ遠巻きに眺めていた隼も、嬉しくなった。海や夜が褒められるのは、自分のことのように誇らしい。
始へのカマかけのつもりで口に出した言葉から始まったタコパだったが、皆が楽しんでくれるならそれで構わない。目的はもう無くなってしまったのだから、何の憂いもなくただ純粋に楽しめばいいのだ。
隼はそこでようやく意識を切り替えて、いつもみたいに彼らの輪の中へ入っていく。
「皆、飲み物は何がいい? カルピスサワーにぶどうサワー、カシスソーダ、生ビール……あ、梅酒もあった。あと日本酒の瓶もあるね」
涙が缶の酒類を抱えてテーブルへ戻って来る。
「涙、俺に梅酒をくれる? 適量の梅酒は胃腸の調子を整えてくれるし、そしたら悔いなくたくさん食べられるしね」
リスのように両頬をもぐもぐと膨らませて、駆が涙から缶を受け取る。その横から恋も缶を選ぶ。
「駆さんがある意味意識高い系! じゃあ俺は、ええと、カシスソーダで。ピンク色の飲み物って見てるだけで楽しいよね」
「缶だから中身見えないけどな?」
「人の選ぶものにケチつけないでくれます?! そういう新はどれにするんだよ」
「うーん、そうだなあ。涙くん、苺サワーは」
「残念。苺はないんだ。代わりにぶどうサワーはどう? 苺の赤じゃないけど、ぶどうだから始の色だよ」
「はいはいはーい! それは僕が貰います! 僕は推しの色がいいです! 推し色を飲めるなんて幸せ! 贅沢の極み!」
「うわあ……。隼さん、ちょっとその言い方はアレですね」
有無を言わさずぶどうサワーを掻っ攫った隼に、郁が苦笑する。新へはカルピスサワーが渡り、全員でお疲れ様と乾杯をした。
宴もたけなわとなり、満腹で脱落者が出始める。気持ちよくアルコールも入り、人をダメにするクッションに埋もれてスヤスヤと寝息を立てる者もいる。
「始、来ないね」
アルコールの空き缶に囲まれて、隼がポツリと呟けば、たこ焼き器の掃除をしていた海がそうだなとスマホを確認する。
「何度かメッセージ送ったけど、既読も付いてないし。始は事務所にいるって言ってたから、月城さんと黒月さんにも状況を訊いてみたんだよ。そんで、そっちはものすんごく立て込んでるって返事が来てた。始は別件で何かあったっぽいな。まあ急を要することなら、俺たちは終わるまで大人しく待つしかないわけだが」
「……うん」
「隼、そんな顔するなって。タコはまた取ってきてやるからさ。次は魔界イカもいいな。そしたらまた始を誘って、美味しいものを食べて、仲直りして……あれ? 何で仲直り?」
自分の口から出た言葉に、海は不思議そうに首を傾げた。閉じた世界の影響で始の認識が変化したため、周りの者もその影響を受けたのだ。
(それはもう終わったんだよ)
口には出さずそう返せば、海はまあいっかと深く考えるのをやめて、たこ焼き器を片付けた。たこ焼きは無事完売して、魔界タコも使い切った。始の分は、一応ひと皿残しておいた。夜の作ったマリネや唐揚げも同じように取り分けてある。
「とにかく、仕事じゃしょうがない。俺たちの選んだ職業だしな」
うーんと伸びをした海は、後片付けも完了と笑う。屍が累々と転がるラグの上へ自らも寝転がり、目を閉じた。
「俺も少し休ませてくれ。うちは食いしん坊が多いからな。さすがにちょっと焼き疲れたわ」
「お疲れ、海。ありがとうね」
「おう。始が戻ってきたらまた付き合う、から……」
言いながら言葉は寝息に変わる。彼も疲れていたのだろう。缶ビールを飲みながら八人分のたこ焼きをずっと焼いていたのだ。
気づけば起きているのは隼だけになった。プロセラルームの床へ、自由に転がっている彼らの寝顔は穏やかだ。平和な光景だった。それを見て、閉じた世界の彼らはどうなったのかとふと思いを馳せる。
始は隼だけを選び、扉を閉じた。仲間たちが二人を思い出すことはもう永遠にないだろう。だけどもし仮に、いつかどこかの先で思い出すことがあるとしたら、その時彼らは何と思うのだろう。信頼を裏切られたと感じたりするのだろうか。
そして、お互いだけを選び取ったあの二人は、扉の向こうでどんな時を過ごしているのだろうか?
ずくん、と鼓動が跳ねて、身体が熱くなったことを自覚する。半ばやけになって飲んだアルコールのせいもある。酔いなどはその気になれば一瞬で覚ますことが可能だが、溺れてしまいたかったからそのままでいるのだ。
思い出すのは、自分の下に組み敷いた愛しい相手のことだ。益々体温が上がり、隼はため息をついた。ふとした時に思い出してしまう。最近はそれに悩まされていた。
記憶を故意に無くすことはできない。しかし鍵を掛けて忘れたように見せかけることならできる。それなのに、如何せん刺激の強すぎる記憶のせいで、上手くいかずに堂々巡りをしてしまうのだ。
「愛した相手のえっちな姿とか、忘れられる方がおかしいよね?」
それをつい思い出してしまうのは人間として、男として正常な反応だと隼は思う。たとえ仕掛けてきた張本人が綺麗さっぱり忘れ去っていたとしても、隼にとっては忘れ得ぬ思い出だ。
おかげさまで、始の顔をあんまりまじまじと見れなくなってしまっていた。大好きな顔。ずっと見ていたい姿。それなのに、不埒な光景がオーバーラップして、ひどい罪悪感に襲われる。
俺の手のひらが好きだろ、なんて言って、その手で隼を愛おしそうに触って────。
「……………………」
隼は無言で席を立つ。
身体がしんどくなってしまった。今すぐ寝た方がいい。でも皆のいる所では、穏やかに眠るなんてとても無理だ。始が帰ってくる気配もない。
全員が深く眠っているようで、隼が立ち上がっても目を覚ます者はいない。明日の朝から仕事のある者はいなかったはずなので、無理矢理起こさなくても支障はないだろう。秋とは思えない気温の高さなので、腹を出して寝ていても風邪を引くこともない。
「……おやすみ、皆。今晩はありがとう」
小声で挨拶をし、隼は共有ルームを出て自室へ帰る。しんとした室内に入り、簡単にシャワーを浴びてベッドの中へ飛び込んだ。服を着るのも億劫だったが、明日は海が起こしに来てくれる予定だから辛うじて下着だけ身に付けた。身体の熱は大分収まったが、とにかくだるかった。
目を閉じていると、疲れからかすぐに意識が遠くなる。変に寝れないんじゃないかと心配していたが、身体は疲労していたようだ。それならいいかと、隼は完全に思考を手放そうとした。
その時、ぼふっとベッドの上に大きなものが落ちたような音がして、次に布団越しに身体へ衝撃が伝わり、隼はパッと目を開いた。
「な、何事……?!」
全く気配を感じなかった。驚いて辺りを見回せば、見慣れた横顔がすぐ隣に転がっていた。
「はじめ……?」
「………………終わってた」
「え?」
「タコパが、終わってた」
一瞬幻かと思ったがそんなことはなく、紛れもなく隼が待ち望んでいた相手だった。しかしいきなりタックルを食らわせられたのは予想外だ。
「…………間に合わなかった。突然社長の知り合いとかいう客が来て、顔を合わせることになったんだ。おかげで楽しみにしてたたこ焼きを食いそびれた。この恨み、どこにぶつけたらいいんだ?」
掠れた声で、彼は喉を震わせた。余りにも無念が滲む声に、驚きを通り越して思わず笑ってしまったら、腹の上にバシッと裏拳を入れられた。
「いたっ、痛いよ始」
「うるさいもう寝る」
「えっ、ここで……?」
それはまずい。今は特にまずい。
隼が慌てて起きようとした時、ガシッと手首を掴まれた。
「いつでも来いって、お前が言った」
夏の間は、いつだって快適な僕の部屋においでよと確かに豪語していた。始がゆっくり眠れる寝床を提供できるのが幸せだった。今日は気温が高くて、エアコンをつけてしまうくらいとはいえ、暦的には秋だ。夏を越えても彼がここへ訪ってくれるのは勿論嬉しいことだ。
しかし今は、そうも言っていられない事情がある。始と一つの布団で寝るなど、今の隼にできるはずもない。
「そうだね。君にはゆっくり休んでほしいから……だから、僕はプロセラルームの方へ行くね。僕がいなくてもこの部屋は快適だから、君はゆっくりやすんで?」
すっかり目が覚めた隼は、今度こそ起き上がってベッドを始に譲り、降りようとする。
「……あれ?」
しかしそれは叶わなかった。手首を捕まえていた手に力が込められたと感じた瞬間、疲れている人の力とは思えない勢いで、隼はベッドの上へ引き戻される。ころんとうつ伏せに転がされて視界がぐるんと回った直後、背中の上に温もりを感じた。始が隼の腰をまたいで座っていた。いや、座ったというよりももっと乱暴な馬乗りの状態だ。
始の行動に予測がつかず、どうしたんだろうと思ってじっと様子を窺っていたら、彼は隼の足首をそれぞれ両脇に抱えて、足を反り返らせるようにして締め上げてくる。
「ちょっ……、始……?!」
胸が圧迫されて苦しいし、ギリギリと締まる腰や背中が痛み出す。これは確か逆エビ固めという体勢だ。何故、と思う間もなく締め上げられて、隼は手のひらでバンバンとベッドを叩いた。
「待って始、ギブ、ギブ! さすがの僕も関節は逆には曲がらないっていうか、密着はご褒美だけどちょっとこれは締めすぎというか、優しくしてくれるとアーーーーーッ」
「お前、俺のことはもうどうでもよくなったのか?」
「……え?!」
とんでもない体勢でとんでもないことを訊かれた気がする。
「俺が好きだと言ってた。今は」
「もちろん好きです! 君を愛してます! だからそろそろ許し、アッ、腰、多分もう無理だと思いますっ」
息も絶え絶えに叫べば、少しだけ力が緩められた。だけどこんな状況で、まともに答えられるはずもない。
「じゃあ、何で俺を見ない?」
「……っ」
今度は直球で核心を突かれ、隼は痛みも忘れて思わず息を飲んだ。
それはそうだ。始に会う度に不自然に目を逸らしていたのだから、彼が気づかないわけなんてない。始の紫の瞳を眺めていたのと同じ分だけ、彼もまた、隼の瞳を見ていたのだから。
「……やっぱり、そうなのか。だから部屋から出て行くとか言うんだな」
「えっ?! えっ……いた、いたたたた! 待って始、弁明させてぇ!」
再び締め上げる腕に力が込められ、隼は動揺と痛みで思考が飛びそうになった。
「俺の顔なんて見たくないんだろ?」
「そんなことないです! いつだって死ぬほど見たいです! ベッドの上なら逆エビ状に締め上げられるより普通に君を抱きたいっていうか、あっ間違えた、違うんです! 今のは言葉の綾だから! 抱きしめたいの間違いです! 誤解しないで……って、あれ? それも言っちゃ駄目なやつ……あぁっ?!」
身体に掛けられていた負荷が消えて、海老反りにされていた足がベッドに落ちた。ようやく自由になった下半身に血流が巡り、じんじんと痺れた。
寝ていただけなのに、なぜ突然愛する人からプロレス技で締め上げられたのだろうか。そんなに悪いことをしたのだろうかと隼はちょっと落ち込んだ。
うつ伏せで脱力したまま動けないでいると、隣にどすんと重みが落ちた。何とか首を動かした先には始の顔が目の前にあって、とても心臓に悪い。顔を見られない理由を思い出して、でも目を反らせなくて隼の体温がまた上がる。
下着だけじゃなくてちゃんと服を着れば良かったと後悔しても遅い。うつ伏せの体勢で良かったとつくづく思う。
「ねむい。腹減った」
くう、と腹の虫が鳴る音がした。隼ではないので、当然その音の主は始なわけだ。
「遅くなったから、何か食べてきたのだと思っていたよ。もしかしてまだ何も食べてないの?」
「タコパ、楽しみにしてたんだ」
悪いか、という呟きに、隼は呆気に取られた。そんなに楽しみにしてくれていたとは。
「知り合いの人というのが大事な相手だったみたいで、飲みに誘われたのを断れなかった。近場のバーに連れて行かれたんだが、海のたこ焼きが食べたかったから、食べ物はほぼ口にしてない」
「ああ、なるほど……。空腹で飲んじゃったんだね」
間近に寄れば、彼の呼吸からはアルコールのにおいがした。空腹に酒はよく回る。
「勧められたカクテルも断れなくて、何杯か」
「君はお酒にあまり強くないのに、二人きりにするなんて。いくら尊にとって重要な相手でも、僕としてはこれは見過ごせないなあ」
よく見れば頬も耳も赤くて、始は相当酔っている。空腹に酔いが重なって、意識も混濁とまでは行かないが、大分フワフワしている雰囲気だ。だからこそおかしな言動を見せたのだと思い至り、隼は安心したような、悲しいような気持ちになった。
「月城さんと黒月さんは緊急の案件があったし、先方も俺と話がしたかったと言っていたからな。別に強引に連れていかれたわけでもなく、相手に悪意があったわけでもない」
断れなかったのは始の責任感の強さと、誠実な性格故なのだ。そして重要な相手とコネを作るのは、決して悪いことではない。グラビやプロセラのためにも。
「おつかれさま、始。でももう無理しないで?」
隼はようやく痺れの収まった足を動かして、上体を起こす。ベッドの横に放置されていたパジャマを拾い、始に背を向けるとそそくさと身に着けた。始は寝転びながら、ぼんやりとそんな隼を見上げていた。
「ひと皿分だけで申し訳ないのだけど、君の分もたこ焼きを取ってあるんだ。冷えてしまっただろうから焼き立てとはいかないけれど、食べるかい? 酔いが回ったまま空腹状態はつらいよね」
「……ん。食べる」
シンプルな返事に微笑みで返すと、立ち上がる。今度は手首を掴まれたりしなかった。
隼は自室を出ると、プロセラルームに行く。隼が出ていった時と状況は変わらず、参加者たちは雑魚寝のままだ。誰も彼も幸せそうに寝ている。その横を通り抜け、キッチンへ入る。キッチンボードの上に置いてあった目的の皿は、やはりもう冷めていた。レンジへ入れて温める。
焼き立てをご馳走できなかったのは残念だが、また海が食材を獲ってきてくれる。その時に仕切り直せばいい。
唐揚げも温め、その間に夜が残しておいてくれたマリネを冷蔵庫から出してくる。それらを一緒にトレーへ載せた。お茶もあった方がいいだろうとペットボトルを一本抱え、隼は再び自室へ戻る。
寝室を開けた隼は目の前に現れた光景に、危うくトレーを落としてしまうところだった。
「な、何してるの始?!」
始はベッドの上にあぐらをかき、瓶の日本酒をラッパ飲みしていた。
「待って待って、僕の理解が追いつかない! どういう状況なのかな?!」
トレーをサイドボードへ置くと、隼は慌てて始を止める。
「……ここに来る前にプロセラルームに行ったら、食べ物はなかったけどこれが床に転がってた。だから持ってきた」
「持ってくるのはともかく、飲まないで?! 空腹に追い酒なんてダメ、ゼッタイ!」
胃が荒れちゃうよと瓶を奪おうとすれば、始はムキになったようにギュッと瓶を掴んで離さない。軽い揉み合いになり、瓶が揺れる。
ビシャッと中身が飛び出て、始の顎や胸元を汚した。酒精のにおいが部屋に舞う。
「もったいない」
なおも瓶を離さない始は、それを逆さにして口を開ける。空になってしまった瓶から辛うじて残っていた雫が垂れて、彼は舌で受け止めるとペロリと舐めた。
(あ、ダメだ)
舐め取る舌の動きなど見せられたら、嫌でも思い出してしまう。これはひどい。くらくらする。
隼はその姿をなるべく見ないようにして、タオルを持ってくる。しかし始が受け取ろうとしないので、仕方なく汚した部分を拭いてやる。泣きたい気持ちを堪えて、淡々と作業を終えると、冷めないうちにたこ焼きの乗った皿を差し出した。
「食べられる?」
「食う。いいにおいがする」
「お箸、持てる?」
「………………」
「………………」
箸を渡そうとするも、何度やっても始は取り落としてしまう。酔いが回っていたところへあんなふうに日本酒を呷れば、さぞや世界は二重に見えることだろう。
やがて箸を掴むことを諦めたのか、始は隼を見つめてあ、と口を開けた。
(食べさせろってこと?!)
えええ、と動揺していると、始は焦れたように隼の手を掴んで、あろうことか指先に噛み付いた。
「いたっ」
されたことが信じられなくて、驚きのあまり始を凝視してしまった。その視線に気づいた始が、何がそんなに嬉しいのか分からないが得意げな顔をして、事も無げに要求を言い放つ。
「これ以上噛まれたくなかったら早く食わせろ」
「ひえっ」
脅しが可愛すぎる。むしろもっと噛まれたいですと言いかけたのを我慢した自分は、よく頑張った方だ。
「なにこれ? 変な酔い方しちゃったの? こんなことある? 可愛すぎない? 大丈夫?」
巻き起こる疑問たちに、大丈夫なわけはないと、辛うじて冷静を保っている部分の自分がツッコミを入れる。
「はやく」
またぐうと腹の虫が鳴って、隼は我に返る。理性を総動員して皿を持ち上げ箸を掴むと、おそるおそる始の口へと運んだ。
「熱っ」
「気をつけて。少しずつ、ね?」
たどたどしい手つきでどうにか食べさせてやれば、始は余程空腹を耐えていたのか、瞬く間に皿が空になった。夜の作ったマリネも唐揚げもペロリと食べ切る。
「美味かった」
「……それは良かった。海が、今度はイカを獲ってきてくれるんだって。そうしたらまた皆で食べようか」
「たべる」
即答した始はとても眠そうで、空腹が満たされたから今度は睡眠欲に襲われたのだろう。最後にお茶を飲ませて、少しでもアルコールが早く抜けるようにしてやる。ペットボトルを一本飲みきる頃には始の意識は大分飛んでいた。
ベッドに転がり、目を閉じている。いけない記憶がまたフラッシュバックして、隼は目を逸らした。
「今度こそ、寝てくれたかな?」
再び共有ルームへ行こうとして、ガシッと手首を掴まれる。隼はデジャブを感じる暇もなく、ベッドの上へ戻されて転がる羽目になった。
「はじ、……っ」
さすがに窘めようと思って口を開いたが、言葉は出て来なかった。至近距離で見つめ合う紫の瞳の中には酔いなどない。ぶれずに真っ直ぐ隼を見つめる目は、いつもの彼のものだ。
「行くな。俺を見てろ」
手のひらが、隼の頬を包む。
変わらずに温かなそれから、隼を包み込むような熱が溢れる。始の力だ。彼の手のひらから、世界のすべては生まれ来る。
「僕に、見ていて欲しいの?」
「お前は俺を見ていればいい」
「……ごめんね、それは少し無理かも」
「何故?」
「僕は……もう、見ているだけではダメになってしまったから。それだけでは、もういられないんだ」
だからごめんね、と自嘲の笑みを浮かべても、始の視線は揺るがなかった。
「なら、もう少し近づけばいい」
「……え」
始は両手で隼の頬を捕らえると、唇の表面だけを触れ合わせた。ふわりと香る酒精は、彼が酔っていることを如実に伝えてくるのに、隼を見つめる視線は強い意志を宿していた。
(また、始まる)
君の手のひらから、生まれ落ちる。
始まってしまう。花が咲き乱れる。
アルコールのせいでも何でもいい。何度でも、その場所から始まりたいのだ。
幾度絶望に折られても、なお焦がれてしまう想いに苦笑するしかない。隼は始の手を取ると、その手のひらへと口づけをした。
(月野百鬼夜行)
「黒と白の神の話」
*夢を見ている
眠っている間に見ているのは、決して自分がいるこの世界だけではない。どこか知らない世界、自分とは少し異なる姿かたちの自分。
知らない世界を、夢とはいえ旅をするのは嫌いじゃない。垣間見る別の世界の自分は、往々にして皆好奇心旺盛だ。基本的には思うまま、好きなように生きている。ちょっと特別な力を持っていたり、全く普通の人間であったり。
しかしすべての『始まり』だなんて自覚を持っている者は、限りなく少ない。知らぬまま過ごして、平穏に一生を終える時もあれば、何かを切っ掛けとして覚醒することもある。そして一度覚醒すれば、必ずその世界には変革が起こる。
(変革、なんて生易しいものじゃないか?)
書き換え。作り直し。やり直し。
全部無かったことにして、最初から始めることすらできる。だからこそ自分は、自覚のないまま普通の人として生まれ落ちることが多いのかも知れない。
頭上にある大きな黒い耳をぴくりと揺らし、黒い狐は己の覚醒が近いことを知る。
普段寝てばかりの身体は、清浄な空気に包まれて宙に浮かんでいるせいか、寝すぎのだるさや床ずれの痛みを感じることもない。この特別な眠り以外で、対である白い狐を枕にして寝ている時は、寝すぎて足が痺れたりすることも普通にあるのだ。
(────隼)
浅い意識の内で呼びかければ、空気が優しく揺らぐ。彼の気配を感じる。この眠りの間も、彼はずっと始の傍に侍っている。
かつて二人きりだった時はそれこそ決して離れず、隼は常に始の傍にいた。けれど二人で暮らしていた社に大切な住人が増えた今、この神社の中でなら、始が眠る祭壇を離れて仲間とともに楽しく過ごすこともある。
(……祭壇)
始が眠るこの場所は、決して寝所などではない。この眠りは世界を見守り、バランスを保つための儀式なのだ。
いつからそれが己に課されたのかは思い出せない。ただ、最初からこの人ではない姿ではなかった気がするのだ。人の世界に生きる犬だった郁を、神力で狗神へと変えたように、己もまた、そうして人から変わったのではないかと思っている。昔過ぎてもう思い出せない。
その時から、対であった彼は自分の隣に居たのだろうか? 白い狐と出会ったのは、いつの頃だっただろう。
昔人間だった自分が、神に捧げる供物としてここへ捧げられ、神となった──憶測に過ぎないそれが、真実であるような気もする。始まりが人であったなら、夢で見る他の世界の自分と同じだ。覚醒して、きっとこの世界を書き換えたことがあるのだ。
思い出せない過去を想像しては、罪悪感を感じることもある。様々な世界を見てきたから分かる。自分が世界に及ぼす影響は果てしない。
きっと良いことも悪いことも、後戻りできないような変革を、この地にもたらしたことには違いないのだから。
すべては過ぎ去った遙か彼方のことであり、今は神と呼ばれる存在でいる。けれどたまに、傍にいる白い狐に訊いてみたくなるのだ。
(お前が、俺を神にしたのか────?)
と。
ぐん、と意識がすくい上げられるような感覚がして、覚醒の時を知る。
今度はどのくらい起きていられるのだろうか。眠りの時間はまちまちで、何十年も寝ている時もあれば、一日で起きる時もある。今度は、どのくらい皆と共にいられるのだろうか。
祭壇に捧げられるこの身は、何かが少しずつ削られて行くのだろう。長く生きてはいるが、永遠などないことを知っている。どの世界にも、等しく終わりは訪れた。
始まりがどうであれ、世界を見守り続けることに不満はない。常に対が傍に居てくれるから独りではないし、今は大勢の仲間に囲まれている。削られていくものは少しずつ、少しずつ世界へと溶けては消えていく。やがて自らの存在を構成する力を失えば、始は目覚めなくなるだろう。
己の中にある力に、綻びなどは感じない。まだ当面の間は何も変わらないまま、ここに存在することができる。しかしいつか、どこかで変わることを望むかもしれない。安寧が破綻を迎えた時、世界は、対は、隼は、どうなってしまうのだろう。
無重力だった身体に重みが生じ、ゆっくりと落ちていく。それを受け止めたのは、いつもの腕だ。温かで、安心する。思わずギュッとしがみつけば、耳元でふふっと笑う声がした。
「どうしたの? 始。今日は怖い夢でも見たのかな?」
「……いつもと変わりない」
「そう。世界は今日も平和ということかな」
ころころと笑う声が耳に心地よい。彼の歌うような声音で、起きたはずの意識がまた眠りに誘われる。耳元を優しく撫でられれば、起きようとした身体から力が抜けた。
わざとやってるんじゃないだろうな、と訝りながら、始は億劫そうに目を開けた。
「お前は、俺を起こす気があるのか?」
「もちろん。ずっと君の目覚めを待っていたよ」
「……どれくらい寝てた?」
「今回はちょっと長めだったかな。三十年くらいは経ったかも」
「…………そうか」
最近は長くても数年だったので、十年単位だったことに少しだけ驚く。長く生きているこの身にしてみれば瞬きするような時間ではあるが、待つ方は一分一秒でも耐え難く長いものだ。
「皆が遊んでくれたから、寂しくはなかったよ」
「なら、いい」
「逆に君の方こそ、夢でひとりで彷徨うのは寂しくないのかい?」
「…………」
思いがけないことを訊かれた。
まだあまり回らない頭で、ゆっくりと隼の言葉を反芻する。
夢の中で寂しい?
自分は、寂しいのだろうか。
人の営みを眺め、世界を眺め、ある時は別の世界へ旅をする。
眠りの時だけは隣に対はいない。始は独りだった。けれども、風のようにただ流されるままに渡り歩くだけで、そこに感情はなかった気がする。
(まともな生き物じゃないな)
そっと自嘲する。眠りの時は、感情が剥離しているのだろう。見ている間はただ受け入れているだけなのを、隼の言葉で自覚した。楽しいとか面白そうとかいうような感情は、考えてみれば、起きたあとに抱く感想なのだ。
「見ている間は、何も感じない」
「そう」
軽く頷いた彼の表情が、一瞬曇ったのに気づいた。それが何を意味しているのかは分からないが、きっと彼の頭の中は今、始のことで一杯なのは間違いない。
そう思った途端、愛しさのようなものが込み上げてくる。ようなもの、というのは、始にはその感情が分からないからだ。
世界を愛することはできる。十二の月を特別な存在だと、彼らのためだけに力を振るってしまうくらいには愛している。死にゆく郁を目の前にして、それに耐えられず、存在の形を歪めた生を与えてしまうほどには。
そして、対のことは何よりも特別な存在だ。けれど、人のように愛するのとはまた違う。
始はふと、少し前に渡り歩いた世界を思い出した。
お互いを人として愛し合う二人の世界だ。始まりと終わりがお互いだけしか見なくなった世界は、大抵が歪んで崩壊を迎える。始まりと終わりが繋がれば意味が消失する。理が消えた世界は、閉じてしまうだけだ。
安定を求めながらも、そんな激情の変化にも心惹かれて止まない。始まりとはすべての罪の根源なのだと思い知る。何も始まらなければ、何も終わらないのだから。
いつものように隼の膝枕でごろごろとしていたが、急にそれだけでは物足りない衝動に襲われた。今ここで、自分がいつもと違う行動を起こしたら、彼はどういう反応をするのだろう。
ぱかりと目を開ければ、見慣れた優しい笑顔が始を迎えた。
「おはようかな?」
「…………」
「おや。まだ眠いの?」
喧嘩なんてしたこともない。二人の関係はいつも穏やかで、完成されている。お互いがそこに居て当たり前の関係なのだ。
でも、それを壊したら。
一歩踏み込んだら。
そんな好奇心を持っているなど、知られてしまったら────全部、見せてやりたい。
「……隼」
「なあに、はじ、わっ?!」
力任せに彼を引っ張って、床に転がした。
いきなりなあに、と始の隣に転がりながら、隼はくすくすと幸せそうに笑った。
始から危害を加えられるなんて全く思ってもいない、警戒のない顔だ。そこにあるのは信頼なのか、それとも盲信の類かもしれない。始には分からない。そこで隼が、自分とは違う存在なのだと当たり前のことに思い当たる。
対とは同じ存在なのだとずっと思っていた。しかし、同じものならばこうして分かれているはずもない。お互いの顔を見て会話を交わすことこそが、別の存在である証なのに。
今さら、本当に今さらすぎることに気づいたのは、あの世界の夢の影響かもしれない。世界を壊すほどの熱情を抱いて、隼に触れた。いつも自分が無意識に触れている感覚とは全く違う。違いすぎて、戸惑う。
ふわふわの白いしっぽを一尾掴んで、むぎゅむぎゅと握ってみたら、隼は声を立てて笑った。
「始ったらどうしたの? 寝ぼけているのかな? もちろん僕のしっぽなら、好きなだけモフってくれて構わないけどね!」
さあどうぞと言わんばかりに他のしっぽもパタパタと揺れた。その動きを見ていたら、始の中でわだかまっていた凶暴な衝動が収まっていくのを感じた。しばらく隼のしっぽに埋もれて微睡んでいると、社の外から賑やかな声が聞こえた。
「あ、皆が帰ってきたみたいだね」
「……ん」
「今日はねえ、麓の村がお祭りだったんだって。きっとお団子とかのお土産を持ってきてくれるよ。楽しみだねえ」
「……ん、食う」
団子と聞いて空腹を覚えたが、隼のしっぽが心地よすぎて起きられない。同じものが自分の身体にも生えてはいるが、隼のがいい。
彼にしがみつくようにすると、優しく耳を撫でられた。
夢を見ているのかもしれない。誰が、どこで、どんな夢を?
再び意識が遠くなる。
自分はきっと、夢を見ている。
(アイドル軸)
「無色のきみに溺れゆく」の後
*一滴の彩を落とす
謹慎期間は一週間。
一日目は何が何だか分からないうちに過ぎた。それでも今朝から数えても、残りはまだ六日間もあるのだ。長すぎる休みだが、無理を押した始の自業自得で、文句など言えるはずもない。月城も怒らせてしまった。それはもう久しぶりにしっかりと怒らせてしまったので、その辺りは非常に反省している。
喉元を過ぎてみれば、何をそんなに焦っていたのか思い出せない。あれほど周りを巻き込んでおきながら、自分は薄情で淡白なのかもしれないと始はやや落ち込む。それに昨夜は異世界の影響なんかもあったりして、とんでもない一夜を過ごしてしまった。
朝に隼を見送った始は自室へ戻り、舞台の台本をもう一度おさらいしようと開いて読み始めた。
既に何度も何度も読み込んでいる。台本はかなりくたびれていて、書き込みもびっしりとされている。純粋に尊敬する人物の舞台で演じられること。やりがいのある難易度の高い演目だったこと。それが嬉しくて、始はいつも以上に気合が入っていた。稽古は厳しいが、それ以上に楽しくもあった。
何かに挑むことは元々大好きで、道程が厳しいほどに闘争心が湧く。それを超えた先にある景色を見たい。そこへ辿り着きたい。きっと心躍る、素晴らしいものが待っているに違いないのだから。
けれどもこの世界は一筋縄ではいかないのだ。舞台というのは独特の世界だ。ドラマとは根本が違えば、演じ方も全く異なる。感情は全身で表現しなければならない。大袈裟に、だけど不自然にならないように。人体の動きを研究して、どのような視覚効果をもたらすのだとか、ワンパターンにならないようにだとか。
自分の演じ方のバリエーションは、残念ながら多いとはとても言えない。同じような動きをするな、などと何度言われたか知れない。気を抜くと自分の癖が出てしまう。癖が出た瞬間、その役から外れ、始はただの自分に戻るのだ。
勿論そんなことはあってはいけない。観客をいかに物語の中へ引き込めるのかは、キャストの演技にかかっている。オーディエンスを白けさせるなんて三流以下だ。プロとして、そんな雑な演技で観に来てくれる人々の時間とお金を浪費させるなど、何よりも自分自身が許せない。
舞台では頭の天辺から足のつま先まで、全身で物語の人物を演じなければならない。観客からは常に全身を見られているのだ。
完全にその人物になりきり、自然に動けるようにする。そう思うのに、今回の人物にはどうしても共感ができずに、ぎこちなさが出てしまっていた。そんな心情から動きが不自然になり、何度もやり直しをする羽目になっている。
男は愛する相手の願いに応えて、その身を投げ出した。もしもその男が自分なら、始はきっとその相手の腕を掴みあげて、引きずってでも地上へと連れ戻すだろう。
『彼』がほんの少しでも自分を求めるのならば、絶対にその手を離さない。谷底へなど落とさせはしない。
気がつけば脳内で思い浮かべるその相手の顔が、よく見知った人物へと変わっていた。真っ白な色を纏った彼は、穏やかな顔で始を見つめている。
けれども彼はおそらく、始に対して『一緒に逝ってくれ』だなんて言わないだろう。始を巻き込まないように、ひとり静かに離れていってしまうに違いない。それは確信に近かった。
隼の顔で恋人が言う。もしも、もしも彼から心中を誘われたならば、自分はどうするのだろう。
(……いや、それはないだろ)
しかし真っ先に始の中へ浮かんだ感情は、言葉とは裏腹なものだった。それほどまでに求められて嬉しいだなんて、どうかしているとしか思えない。
現実にそんなことがあれば、馬鹿なことを言うなと彼を一発殴ってから、その手をしっかり取って一緒に連れて行く。それ以外にないだろう。
──それでももし、共にいてほしいと希われたら?
今まで欠片ほども共感できなかった男の感情が、ほんのわずか、感じられた気がする。それは何故だと考えたところで、始は昨晩の事件を思い出す。その瞬間、ぶわりと熱が上がるのを感じた。
『また来るのか?』だなんて、そんなのはまるっきり誘いのような言葉ではないか。
今朝自分が言った隼への言葉が、盛大な誤解を与えたのではと唐突に思い至って、始は台本を捲る手を止めて固まった。あの時の自分は何故、そんなことを言ってしまったのだろう。そもそも夢のようにさえ感じる昨夜の一件は。
おおよそ信じられない事態でしかなかったのに、状況を説明されて、それならば仕方ないと隼の提案にあっさりと納得して同意した。
「……それだけじゃなかった」
不思議現象が起こるのはもう慣れたし、ひとたび目の前でそうなってしまえば、それが現実なのである。だから如何に現実離れした事態が眼前で繰り広げられようとも、始は受け入れることができる。自分が体験した瞬間、それは特別なことではなくなり、ただの事実へと成り果てるからだ。
その対処方法として、あのような行為が必要だった。隼は嘘を言わない。それが一番確実で最善だったのだろう。そして、始は頷いた。彼に触れられるのは嫌ではなかった。だからいいかと思った、と言うのが建前なのは、自分が一番よく分かっている。
お互いに意識を失っていたのは、異世界の影響らしい。一度意識がはっきりと戻り、二人がとんでもない状態になっていたのを確認した時、危険はもう過ぎたのだと始は確信した。
それまでピリピリとしていた空気は穏やかで、室内は平穏で静かだった。それでも隼の提案を受け入れたのは、どこか必死さを帯びた彼の眼差しがひどく愛しく思えたからだ。
事態が既に終息したことを、隼も当然に分かっていただろう。なのに知らんふりをして明け方近くまで始に触れたのは、きっとそういうことだ。ひたむきに伸ばされる手を握り返さずにはいられなくて、掴まずにはいられなくて、指先を絡める度に切なさが積もった。
隼に対して、そのような感情を持ったのは初めてだった。それまでは同じ立場のリーダー同士、友人として、仲間として、共に居る相手であるはずだった。
目覚めた時、目の前にあったひどく真剣な顔に、始は心を惹かれた。見慣れた顔。知らない表情。引き寄せられるように、その瞳の奥にある感情を覗き込んだ。
隼が無我夢中でここまで触れたがる相手は、きっと始だけ。彼は無意味に自分と自分以外の者との境界を侵すような人間じゃない。その性質を容易く破り、ただ一人へと渇望するほどの執着を、確かに嬉しく感じたのだ。
決してその手を離してはいけない。
突然降って湧いた感情に振り回されながらも、始は必死でしがみついた。身体中に触れられるのもやっぱり全然嫌じゃなかったから、自分からも彼に触れた。
初めて知ることばかりだった。髪の手触りくらいしか知らなかったのだなと、やけに感動した。同じ体格なのは知っていた。数字の上だけだったそれが、感覚を伴って始に教えてくれる。キスをすると肩の位置が同じ高さにあるから、彼の背に腕を回すなら肩の上からがいいのか、それとも下側からがいいのか。そんなことを真剣に悩んでいた。
無我夢中になってからはとにかくお互いの身体に隙間を作りたくなくて、腕だけじゃなくて胸や腹なんかも彼の肌にべったりと触れ合わすことに必死だった。
お気に入りのラグをぐちゃぐちゃにしてしまってベッドへ連れて行かれた後も、どうでもいい理由なんて適当に流して、早く、と彼の背に腕を回してしがみついた。
真上から始を見下ろす隼は、いつもの澄ました顔からは微塵も想像できないくらい、普通の人間なら当たり前に持つ感情を露わにしていた。欲しい、思い通りにしたい、征服したい、そんな人間らしい激情だ。始と同じ、野心溢れる男の顔が、好きだなと思った。
そして始はそんな隼が、とても無垢だと思えた。欲しいものを欲しがる素直な顔、そのままの姿は純粋な雪のように真っ白い。そんな一面の白へ、自分の彩を一滴落としたいと思ったのだ。
(落としたいと願った結果が、極彩色のあの世界────)
バサリ、と台本がラグの敷かれた床へ落ちる。
「今のは、なんだ……?」
知らない景色が一瞬、始の脳裏へと閃いた。しかしそれは霞のように一瞬で消えてしまった。
夕日が沈んで宵が訪れた時、始はようやくかとため息をついた。確たる目的を持たずに一日を独りで過ごすのはなかなか辛い。
勿論遊んでいたわけではない。色々と物思いに耽ることはあったが、台本を読み直してイメージトレーニングをし、つい先日行ったインタビューの原稿や写真をチェックしたりと働いてはいた。
あと六日間はここから動かせてはもらえないので、せめて謹慎が明けたらすぐにでも動き回れるようにと、部屋で行える事務処理もせっせとこなしていた。
始は立ち上がって思い切り伸びをする。そして部屋から出て共有ルームへ行くと、葵がキッチンで何やらごそごそとしていた。
「葵? 帰ってたのか」
「あ、始さん。具合はどうですか?」
「……大丈夫だ。たくさん寝た」
「それなら良かったです! 何か食べますか? 俺もこれから夕飯なので、何か作りますよ?」
「それなら頼む。……おかえり、葵。それから、今日も一日お疲れ様」
「はい、ただいまです!」
にこにことする葵は手早く冷蔵庫から食材を選んで取り出すと、調理器具を準備する。
「俺も何か手伝、」
「大丈夫ですよ! 始さんは座っててくださいね」
言葉を遮られて、しかし反論はできずに始は大人しくソファへ座る。何しろ多方面に迷惑をかけまくった始は今回、誰に対しても何かを言える立場ではない。特に葵や夜、海に対しては申し訳なさで一杯だ。
ちなみに相方とは持ちつ持たれつの仲なので、病人扱いされたら反論してやろうと思っている。
(隼は、まだ帰ってないのか)
くるくると動き回る葵をぼんやりと眺めながら、白い姿を思う。
恋人の姿は、すっかり彼の顔にすげ変わってしまった。男はずっと、おかしくなっていく恋人を救うためにあれやこれやと手立てを考えていた。四六時中、恋人のことで頭が一杯だった。最期は一緒にと請われた時、もしかしたら男は安堵したのかもしれない。
これで終わるのだと、解放されるのだと。永遠に一緒になれるのだと。二度と分たれることも、永劫にないのだと。
考えすぎて、頭がぼうっとしてくる。それはそれで幸せな結末だったのではないのかと、今日一日で、そんなふうに考えるようになっていた。
葵の用意してくれた夕飯を食べた記憶も朧げに、始は気づけばテーブルに突っ伏してうつらうつらと半分眠っていた。どれくらいそうしていたのか、しばらくして意識の外側から会話が聞こえてくる。それは聞き慣れた相方や、仲間たちの安心できる声だ。
「始、ちゃんと大人しく寝てたみたいで助かるよ。葵くんもありがとう。拗ねてる始のお守りは大変だったでしょう?」
「そ、そんな、お守りだなんて。俺は春さんたちが帰ってくるまで様子を見守ってただけですし。……始さん、テーブルでぐっすりですね。ここ最近はずっと眠りも浅かったみたいですし。俺たちが隣でご飯を食べててもピクリとも起きないくらいぐっすりなのは、逆に安心します。舞台関係者の方たちへ迷惑をかけてしまっているのは申し訳ないんですが、俺としては始さんがちゃんと休んでくれて良かったな、なんて思っちゃって」
「確かにそうだよね。張り切っちゃってたところでタイミング悪く異世界なんてハプニングもあったし」
「あっでも、今回は魔界に落ちるとかじゃなくて、本当に良かったです! 異世界探検は何かと体力も気力もゴリゴリ消費しますし。今年はあと何回異世界を見るのかなあなんて考えるの、疲れちゃいますよね」
「よ、夜……? 確かにそう、だね……? 異世界って大変? うん、普通に考えたら大変だよ、ね?」
「葵くんが順応していってる……。でもまあ、そっちは最低限の影響で済んで良かったのは確かだね。隼がやたらと猫になってイタズラしてた、なんてのもあったし。あ、そういえば始を起こしに行った時、隼と一緒に寝てたのはさすがの俺もびっくりしたなあ」
「ああ、始さんが猫の隼さんをお持ち帰りしたっていうお話ですね。白猫の隼さんは本当にモフモフなので、抱っこして寝るのは気持ち良いと思いますよ。動物セラピーにはうってつけですね」
「うん、夜! それは確かに俺も思うよ! 猫の隼さん、今度俺にブラッシングさせてほしいなあ……今以上にしっぽの先までフワッフワに仕上げてみせるのに……!」
「葵くんの欲望がダダ漏れになっている……」
「おやおや、グラビの皆、それから夜。楽しそうな笑い声だね」
「あっ、隼さん! お帰りなさい」
「ただいま。始は……」
ぴくっと指先が動く。遠かった会話が突然耳元で鳴ったように響いて、始はうっすらと目を開けた。
「丁度お目覚めのようだね」
一日中頭の中で響いていた声が、すぐ耳元で聞こえる。始がぼんやりと白い姿を見つめると、彼はおかしそうに微笑んだ。
「おやおや、王様はとーってもおねむの様子だ」
「あ、起きたんだね、始。もういい時間だし、そろそろ起こそうかと思ってたんだ。テーブルの上に突っ伏したままじゃ腕とか痛いでしょ」
「ん……」
「うーん、これはしばらく動けなさそうかなあ。でもこれ以上寝るなら部屋に行った方がいいし。どうしよう、俺が部屋まで運んで行こうか?」
「ん…………」
働かない頭で、始は相方へと手を伸ばす。しかしその手を掴んだのは、隼だった。
「始は僕が連れていくよ。いいよね、春」
「…………」
横から奪い取るように始の手を取った隼へ、春は思わずといったように笑った。
「春? 僕は何かおかしなことを言ったかな?」
「いいや。この前とは違う反応だなって思って、ちょっと微笑ましくて」
「この前? ……違う、とは」
「ううん。気にしないで。今度は俺の想像してたイメージとピッタリだったから、ちょっと笑っちゃっただけ」
「イメージ……?」
少し困惑した隼に、春の笑みが深くなる。嬉しいとか楽しいとか、そういった様子だったので、隼は気にしないことにしたようだ。始の方へ向き直ると、「立てるかい?」と訊いてくる。多少ふらつきながらも始が隼の手をしっかりと取ると、その隣で春も立ち上がった。
「それじゃあ俺たちも解散しようか。葵くんと夜は朝から仕事だったよね?」
「あっはい。俺はそろそろ上に戻りますね。夕飯をご一緒できて良かったです。始さん、お大事に」
「春さんと隼さんがいれば安心ですね。お言葉に甘えて俺も失礼して、明日の準備をさせてもらいますね。始さん、今夜もちゃんと寝てくださいね?」
ああ、とかうう、とかどうにか答えられた始は、隼に腕を引かれながら廊下へ出る。春の部屋の前でやたらとにこやかな彼と別れ、自室へと戻る。
「ぐでんぐでんの始もとっても可愛いのだけど、ベッドまで頑張れるかい?」
リビングのソファに差し掛かったところで、始は掴んでいた隼の手を引いて、ソファへ座り込んだ。
「ダメそう? 少し休もうか」
ちょっと困った顔で笑って、隼は始が倒れないようにとすぐ隣へ座った。
「……今日は、猫じゃないのか」
「おや。始は猫の僕をご所望かな? 君が望むならもちろん猫になるものやぶさかではないのだけど……」
そこで彼は一旦言葉を区切って、どう切り出していいのか悩んだようだった。
「……君が望む僕は、猫の姿ではない気がするんだ」
「にゃーん」
「…………えっ?!」
唐突に始が猫の鳴き真似をしたら、たっぷりとした時間を置いたのち、隼が愕然として始を凝視した。
「……なんで驚くんだよ。お前が鳴けって言ったんだろ」
驚いていた顔が、今度はカーッと真っ赤に染まっていく。色々と忙しい顔色だな、と思いながら、始はそんな隼を無遠慮にじろじろと観察した。
「えっ? いや、だって、あの。それって、昨夜のあれだよね? ……やっぱり夢じゃないよね? あの時は調子に乗ってましたすみません! 逆エビ固めをされるのも辞さない覚悟です!」
「猫の姿も好きだ。……だけどやっぱり、俺はお前と言葉を交わしたい」
「始……」
すっと真剣な顔になった彼を、始はやはり無垢で真っ白だと思った。
その真っ白な雪の上に、最初の色を落としたい。彩って、染めてやりたい。
それから二つ目の色、その次の色、そのまた次の、別の色。数えきれないくらいの色を落としたい。カラフルに鮮やかに染まった隼は、どんな顔を始に見せてくれるのだろう。
昨日までは、隼のことをそんなふうに思ったことなんてなかったはずなのだ。そして彼の方も、始に対してこれまでとは違う形の執着を抱いている。
記憶が飛んでいた間に何かがあった、と考えることは自然だった。通り過ぎていった異世界とやらがどんなもので、二人にどのような影響をもたらしたのかは結局不明のままだ。
すっきりしない部分もあるが、もうそれは仕方のないことだ。時は巻き戻らないし、過ぎたことに目を向けるより、これから先に見たいものがたくさんある。
隼、と呼んで両腕を広げるようにしたら、彼はすぐに始を抱きしめて、そのままソファの上に二人で倒れ込んだ。狭いスペースでぎゅうぎゅうと詰め込むように、何かからお互いを隠すように、しっかりと身を寄せ合った。
「始、好きだよ。……もう、どこにも行かないで」
「行かせない、の間違いじゃないのか?」
顔を上げて始を見た隼は、あの表情を浮かべていた。穏やかさの欠片もない飢えた目をして、ただ欲しいのだと言葉よりも雄弁な視線を向けてくる。
始だけに見せる貌だった。腹の奥から迫り上がってくるのは満足感と、優越感。それから確かな愉悦だった。
「どこにも行かせない。誰にも、奪わせない。奪われるなんて許さない。この世界の君は、この世界の僕だけのものだ」
「そんなに泣くほど、俺が欲しいのか?」
親指で彼の目尻を拭う。今朝と同じ、流れる涙は無色透明で綺麗だった。
無言で頷くのを見て、始の胸が満たされていく。
「……なあ、隼。もしも俺が死を選ぼうとしていて、一緒に来てくれるかと頼んだら、お前はどうする?」
「君は、とても怖いことを言うんだね。そんな前提を考えるのは恐ろしいことだけど、もしもそれを君が願うなら、僕の答えはひとつだけだ」
「別離は望まない?」
「どんな形であれ君と共にあることを選べるならば、僕にはそれ以上のことに価値はない」
愛しているけれど、色々なことに疲れてしまった。だからもういいのだと、諦念と共に恋人との穏やかな終わりを求めている。始は男に対してそんな感想を抱いていたが、隼の答えは始の考えた感情のどれとも違う。彼はただ始といたいだけで、やはり真っ白なのだ。
無垢すぎる、と考えて少し笑った。
「あいつも、そんな気持ちだったのかな」
「……あいつ、とは? ねえ始、それは誰のこと?」
声音に乗せられたのは嫉妬の色で、始は思わず猫の隼にしていたようにその背を撫でてしまった。
「ごまかさないで。僕に教えて?」
「馬鹿。今、俺が必死でやってる舞台の役の話だよ」
「え」
気が抜けたように瞬きをすれば、瞳に宿っていた剣呑な光はすぐに消える。あどけない顔が、ぱちくりと始を凝視する。
「内容は秘密にしておきたかったから誰にも相談しなかったが、ずっと役作りに悩んでたんだ。俺の演じる男の気持ちに全く共感できなくて、ずっとそいつの心の在処を探してた」
「……悲しいお話なのかな?」
「別にそんなことはないんだが、俺の役はまあ……ハッピーエンドとはいかない……のか。ただ、きっとあいつら自体はそれで満足してた。不幸では決してなかった……と、思う」
「なるほど。メリバってやつだね」
「メリバ?」
「メリーバッドエンド。他人から見れば悲劇的でしかない結末。けれどもそれは、本人たちからしてみれば幸せな終わりとなる」
悲劇なのに幸せとは。
隼の言葉は難しいが、確かにそうなのかもしれないと、始は男の感情に思いを馳せる。
どんな形であれ、とほんの少し前に隼は言った。すべて叶わぬ願いなら、せめてその夢のひと欠片だけでも掴めたら、なんて。
「こういったお話は、ゲームの分岐エンドでひとつくらいは設定されていることが多いよね。僕はこの前、恋や陽と恋愛シミュレーションゲームをプレイして遊んでいたのだけどね。その中のひとつに許されざる恋の駆け落ちエンドというものがあって、陽がひどく感動して泣いていたよ」
「……何をやってるんだお前らは。ああ、だがそれを見ていたら役作りのヒントになってくれたかもな。駆け落ちの二人は幸せになれるかもしれないが、残された家族や友人は辛いよな。……そういうことも、確かにある」
「うっ……、始の口から駆け落ちという言葉を聞くと、あらぬ事を考えてしまって心臓によくない……! でも背徳的な雰囲気もあって非常にいいと思います…!」
「何を言ってるんだ、お前は」
胸元をぎゅっと握りしめて意味不明なことを呻いた隼は、すっかり普段どおりの彼だ。始は呆れながらも、そんな様々な隼の姿を楽しげに眺める。
「俺もたまには恋たちとゲームをしてみるのも、いいかもしれない」
「ああ、それはとても良い提案だね。たくさん遊んであげてよ。彼らも君のことが大好きだからね。君が一緒にゲームをしたいって言えば、とても喜んでくれるはずさ」
「そうしてみる。どうせ謹慎期間はまだまだあるし、事務仕事も一日であらかた片付けたしな」
「わあ、すごい! 君はどこまでも勤勉だねえ」
「お前はもっと仕事しろ」
「始が応援してくれたり、ご褒美をくれたりすると僕は頑張れます!」
「それはお前の努力次第だな? とにかく、この数日でどうにか悩みが解消できそうだ。謹慎が明けたら、最高の舞台を作りあげてみせる」
「応援しているよ。君が言う最高の舞台を観に行ける日を、僕も楽しみに待っているから」
「……その顔も、好きだな」
「え?」
きょとんと首を傾げる様子は、先ほどの強い目をしていた時とは違い、普段のやわらかな見慣れた隼のものだ。
「なあ、隼」
両手で隼の顔を引き寄せたら、始の意図を察したのか、彼はぽっと頬を赤く染めた。
「普段のお前の顔も好きだけど、俺に要求を突きつけてくる時の欲望だらけの顔も、俺は好きなんだ」
「は、始……」
「だから、もっと言葉にして聞かせてくれ。……お前が、望むことを」
「…………僕は、君を誰にも取られたくない。君を、……僕のものにしたい」
唇の表面が触れたら、隼の方から口づけを深くされた。
狭い場所で窮屈に触れ合うのはなんだか楽しかった。中途半端に服を脱がせて、中途半端に触れ合って、もどかしく焦らせば焦らせた分、隼は必死になった。
ああ、染めたい。この手で彩を差したい。
ぐちゃぐちゃに色が混じって真っ黒になったその時は、真っ白な光で漂白しよう。
それから何度でも、何回でも、二人で彩を混ぜ合っていくのだ。そうやって何時までも、一緒に過ごしていきたい。
始は余計な思考を放ると、隼を撫でた。
猫でも人間でも構わない。どっちだって、同じように撫でればいいのだから。
「ベッドに行こうか? 身体、痛くないかい?」
「俺は狭い場所、嫌いじゃないんだ」
「ええ……っ?」
楽しむように笑う始へ困惑する隼を、始は愛おしそうに眺めた。