隣を歩く
引き金はいつだって些細なもので、しかしそれが積もり積もったものを決壊させる、一投の礫になることだってあるのだ。
それは大袈裟な例えだとしても、隼はあ、と声に出して動きを止めた。目の前には国民的人気菓子のパッケージが転がっている。それが何箱目になるのかは秘密だ。
思えばここ最近、やたらと自引き率が低かった気がする。勿論、グラプロ箱推しの自分としては、誰が来てくれても嬉しものだ。しかしそれはそれとして、やはり特別な存在である推しが来ないというのは大変寂しい。いじけたくもなる。
そうだ、多分自分はずっといじけていた。本人が下の階に住んでいていつでも会えるだろうとか、ユニットリーダー同士で同じ仕事をすることは多いだろうとか言われるけれども、推し活はまた別の話なのである。だからこそたくさんのコアラを模したお菓子の中から『それ』を見つけて拾い上げた時の感動は、筆舌に尽くし難かった。皿に乗せて写真を撮り、大いなる満足感を得てそれをS NSにアップするのを迷ってしまったほどに。
良かったね、とお菓子の箱を選んでくれた涙に笑顔で頷きながら、大事な宝物がまたひとつ、とふわふわとした気持ちで共有ルームでごろごろとしていたら駆が現れた。残りのコアラを彼に譲れば、目を輝かせてぽいぽいと口に運んだ。いつでも美味しそうに何かを食べる駆を見るのは好きだ。こちらも幸せな気持ちになる。そんなことを思っていたら、そういえば今月は彼の担当月であったと認識する。隼と始を繋ぐ、金ピカの星の月だ。
いつもは始の背中を追いかけるのが常の自分が、唯一、始の先を進む一ヶ月と二週間ほどのわずかな時だ。改めてそんなことを考えれば、隼は不思議な気持ちになる。始のあとを追うのは、後ろをついていくのは自分の役目であると思っていた。始まりがいなければ終わりはどこを歩いていいのかも分からない。ふらふら、ふらふらと時の隙間を彷徨って、いずれは擦り切れて消えていく。もしくは無意味な永遠を繰り返す。それが当たり前なのだと。
しかし、そうではないと知ったのはいつの頃だったのだろう。終わりのあとに始まるものもある。それは決して悲しい物語なのではなく、終わりがあるから新たな始まりがあるのだと、無限に起こり得る未来の可能性をくれたのは。
急に始のことが恋しくなって、心臓がドキドキと不整脈を起こす。彼が愛しいのは平常運転だけれども、唐突に胸を掻きむしって悶え転がりたくなるほど恋しくなる時がある。それはふとした瞬間で、些細なことで、ささやかな、それでも確かな引き金を引いた時なのだ。
それに撃たれてしまうと、空いた穴から普段は何層もある心の厚みのその奥に、大切に入れられている箱から溢れ出てきてしまうのだ。
止められないその思いは、自分自身を侵食しながらその想いすべてを向ける相手──始へと向かって暴走しだす。
好き。大好き。愛してる。
ありきたりな言葉なんかじゃ言えなくて、けれど言葉の表現は有限だから、それ以上になんと言えばいい? 口で言えない以上は態度で示すしかないわけで、騒いだ結果海たちに取り押さえられ、そこを抜ければグラビバリアで遮られ、運良く始に届いたならラッキーだ。届く前に力尽きても、暴れたことで満足はできる。そしてそして、始から反応が返ってきた日には、きっと向こう半年は幸せな自分でいられるだろう。
始のことを脳裏に描く時はいつも、彼の後ろ姿から始まることが多い。その背中へ向かい、始、と呼び掛ければ彼は何だ、と言って振り返る。振り返って隼を見る。珍しく自分がその振り返る側になっている映像を想像したのは、今が特別な時期だからなのか。
視界の正面に始がいない。隼は思わず立ち止まる。道標になる人が目の前にいない世界は真っ白な靄に包まれていて、どこに進んでいいのか皆目見当が付かない。こんな中を、始はいつも単身迷いなく進んでいるのだと思えば、尊敬というよりも畏怖の念が強く沸く。
終わりすらも始まりの一つへと変えてしまう、世界でただひとりの人だ。世界を創れる人。彼さえいれば、隼は人間でいられる。彼が同じ世界に存在することの幸せを、この時期は特に噛み締める。
急に心許無くなって、隼は身震いをする。
始よりも前を歩く貴重な時間は、特別なものだ。彼よりも前を行き、隼に追いつこうと歩いてくる彼を待っている時間。
始が隼を追いかける。言葉にするだけで足元から頭の天辺まで電流が流れ、全身の毛が逆立つ。ぴりぴりと静電気を帯びて、パチパチと皮膚を叩く。痛いのか心地良いのかそんなことも分からないのに、心も身体も疼いてしかたない。
一番大きいのはおそらく歓喜で、しかしそれに劣らぬくらいに恐怖も感じている。
背中を追いかけていた。振り返るその手に憧憬の念を抱いていた。それが逆になる唯一無二の短い時。けれど実際に前に立ってみて分かるのは、眼前には何もないということ。後ろをついてくるはずの足音が、いつ聞こえなくなってもおかしくはないということ。それが途切れてしまえば、深い霧の中、独り取り残されるのはやはり自分の方なのだ。
始を待てることが嬉しい。追いかけてきてくれることは、じっとしていられないくらい、叫び出したくなるくらい喜ばしい。けれど未知の世界へ足を踏み入れ、独りで先に行く心細さと心許なさは計り知れない恐怖だった。
離れたくない。結局はその結論に至る。先でもない、後でもない。隼は、始の隣をいつだって歩いていたいのだ。
「隼さん? さっきから百面相してますね」
「ウケる」
「……はっ、僕としたことが。『はじめ』をゲットできた喜びについつい我を忘れてしまったよ」
「良かったですねえ! 俺はアンラだから基本的にこういうのは引けないので、隼さんが自引きしてるのを見てすごいっていつも思ってますよ」
「隼、よだれ出てる。駆は恋に引いてもらえばいいんじゃない?」
「る、涙。俺が遠慮したツッコミをキッパリハッキリと容赦なく……。実は昔、スーパーの福引とかは全部恋にお願いしてました! 五キロのお米を当ててくれた時は本当にもう感謝しかなくて!」
「すごいね、恋。あと隼のことはいつものことだから気にしないで」
「いやいや、隼さんのお顔でやっちゃダメなことでは……?!」
「そう? 隼は始が関わると鼻血もよだれも人並みに出すよ?」
「うう、知りたくなかったような、それでいてそうだよねと納得しちゃう内容!」
気を使ってか、口元を拭う隼の方を極力見ないようにしていた駆は、再びお菓子を口にする。
「動揺しながらもお菓子を食べることは忘れない。ブレない駆なのであった」
「食べられる時に食べる、それが俺のモットーなので!」
最後の一つ、いただきますとつまんだお菓子を口にした駆が、未だに『はじめ』をじっと見つめている隼へ問いかける。
「そういえば隼さん、十二月の時期ってなんだか始さんに対して大人しくないですか? 大人しい、っていうのも変かな。遠慮してる……? うーん、それも違う気がする。どっちにしても俺の気のせいかもしれませんけど。十一月で色々やりすぎて自重させられてるのかなあって思ってたんですが、なんかちょっと雰囲気が違うっていうか」
駆の言葉にいち早く反応したのは涙だった。
「言われてみれば、そうかも。グラビバリアの出番は少ないよね。十一月と一月が格段に多いせいで、相対的に少なく見えるだけかもって思ってたけど」
「ふっふっふ……。駆、君は鋭いね。さすがグラビの特攻隊長……!」
「あ、触っちゃダメなところをダイレクトに踏んだ気がする。俺の今年最後のアンラがここで発動?!」
「よくぞ聞いてくれました! 喜んでお答えしましょう。それはね、僕が誕生日を迎えてから始が誕生日を迎えるまでの間、僕が始のお兄ちゃんになれるからです!! お兄ちゃんたるもの、礼節は弁えていこうと思うわけですよ! 始から尊敬の念を込めて『隼お兄ちゃん』って呼ばれたい……!」
えっへんと頬を紅潮させて息も荒く語り始めた隼に、駆はドン引きしながらあー、うー、と頷いた。
「駆、がんばれー。僕はそろそろ部屋に戻ろうかな」
「待って涙、行かないで! お菓子の対価がこれなのはちょっと酷だと思うよね?!」
***
「寒すぎる」
隼の部屋のドアをバンと開け放ち、仏頂面で開口一番、訪問者はそう言い放った。
睦月始誕生日パーティーの会場から海と陽に担がれながら退場した隼は、既に自室へと強制送還されて布団の中にいた。デレの過剰摂取で倒れたあと、意識を取り戻したのがついさっきだ。
気を失っていた間、少し前にあったことをうつらうつらと夢に見ていたせいか、頭はぼんやりとしていて、非常に身体が重い。それでも何とか声を出す。
「やあいらっしゃい、始」
「……悪い、起こしたか? もう寝てるとは思わなくて」
寝起きの顔をしていた隼を見て、始は申し訳なさそうな表情に変わる。
「大丈夫だよ、始。僕は寝ていたわけじゃなくて、萌えが過ぎて気絶してただけだから気にしないで? それで、パーティーは恙無く終わったのかな?」
今度は困惑を浮かべた始を笑顔で促してやる。彼は戸惑いながらも感想を口にする。
「あ、ああ。今年も楽しかった。……伝えたい言葉も、たくさん言えたしな?」
「それは素晴らしいことだね。伝えたい気持ちを伝えられる場所があるのは素敵なことさ」
「毎年そんな場所が当然にあることを、最近は恵まれているんだと感じるよ」
「君がこれまでの間ずっと、良い年を重ねてきたという証だね」
「……お前は、」
「何かな?」
言い淀んだ始を、隼はベッドの方へ手招きする。
彼はクローゼットから枕を取り出す。この時間へこの部屋に訪れたのだから、今夜は泊まってくれるのだろう。しかし残念ながら今夜の隼は、彼のご期待に添えられない事情がある。
隼は上体を起こすと自分の枕の位置をずらし、始の持ってきた枕が乗るスペースを開ける。始は慣れた動作でそこへ身を滑らす。
「冷た……」
火傷でもしたかのように、始の身体がびくりと震えた。温かいと思ってベッドに入ってきたのだから、シーツの冷たさに驚いたことだろう。
寒い冬に彼がこの部屋へやって来るのは、夏とは真逆の理由で、暖を求めてのことだ。エアコンの乾燥を嫌う彼が、快適な暖かさで寝られるから。本来なら室温二十度で保たれているはずのこの部屋は、しかしながら他と変わりなく冷えていた。
始が驚いたのは一瞬で、眉間に軽く皺を寄せると、すぐに隼の顔を覗き込んだ。
「体調が悪そうには見えないな……。熱、もないか」
「大丈夫、どこも悪くないよ」
ならばなぜ、と問うてくる視線をくすぐったく感じながら、隼は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「ただの魔力切れ。せっかく暖を求めて来てくれたのに、ごめんね?」
「なんでいきなり」
隼が魔力を切らす時は、単純に魔力を消費し切った時か、極度に疲労した時か、とにかく特別な事態が起きた時だけだ。始は目を丸くして隼をじっと見つめていたが、体調不良やネガティブな事情からではなさそうなことを汲み取ったのか、仕方ないと息をついた。
帰ってしまうだろうか、と思いながら隼も始を見つめていたら、彼はふわふわの羽布団を捲り上げて自分の上へ掛け直し、眠る体勢を作る。しかしやはり寒かったのか、ぶるりと身体を震わせると、隼の方へと寄ってきて隼の手を取った。それまで寝ていた隼の手はほのかに温かく、寒い廊下を歩いてきた始の手はひんやりと冷えていた。
「お前自体はあったかいな」
少しでも暖を取れて安心したのか、彼は深く息を吐く。軽く握られた手から伝わる柔らかな感触に、始が隣にいるのだと隼はひどく実感した。
少しばかり先を歩いていた隼は振り返って、追ってきてくれているはずの始へ向かって必死に手を伸ばしていた。それが今、しっかりと握り返されたのを感じる。
後でも先でもない。ここからは、また隣を一緒に歩くのだ。
隼は勢いをつけて布団に潜ると、思い切り始へ抱きついた。
「……うあっ」
驚いた彼から物理的な何かが飛んでくるわけでもなく、逆に背中へ回された腕に、隼の方が動揺してしまった。
「温かい、な……」
やっぱりため息のように呟かれる声に、目の奥が急に熱くなる。
気怠かった手足の重さがふっと消えて、指先、つま先、腹の奥、胸の深い所、身体の重要な箇所を繋ぐ部分に次々と火が灯るような熱を感じる。冷え切ってすっかり沈黙していた火種が、火傷するほどの勢いで全身に血液を巡らせていく。
「始で魔力の急速充電! すぐに部屋も暖かくなるからちょっと待っててね」
「なんだそれ。部屋が暖まる前にお前の体温で大分感覚が戻ってきたんだが」
「もっと快適になるよ!」
ぎゅっと抱きしめた腕の中の身体が微かに震える。彼の笑いのツボに目出たく入ったらしい。
「どこも悪そうじゃないのに、魔力切れなんて起こるんだな」
「病むのは身体だけじゃないしね?」
「……ああ、頭の方、か」
「待って始、その言い方は何だかとてつもない誤解がある気がするよ?」
くすくすと笑うたびに揺れる身体が愛しくて、隼も一緒に笑った。
「だって直球ストレートの始のデレ攻撃に、全力で迎え撃った僕の魔力障壁が耐えきれなかったんだもん。僕のMPはこうして完膚なきまでに粉砕されてゼロになりました!」
「俺のせいか?」
「だからこうして始で充電させていただいてまーす!」
「俺は電池か何かか」
「電池だなんてそんな。僕の生きる糧です!」
「もうなんでもいい。温かい寝床で寝れれば」
「僕が始の寝床になれるなんて素敵だね! ずっとここにいてくれていいんだよ?!」
「……バカ。おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
笑い声はすぐに穏やかな寝息へと変わって、腕の中の身体から力が抜ける。始の眠気は限界だったのだろう。パーティーで食べて飲んで、心行くまで騒いだはずだ。そのあとにここへ来てくれたことが嬉しくないはずがない。背中の腕もだらりと落ちて、贅沢になった隼はそれを少し残念に思う。
どんな充電機器も足元に及ばない高性能な急速充電は、とっくの昔に満タンになっている。もう寒さは感じない。室内も安定しただろう。羽布団の中の空気もぽかぽかと温まっている。抱きしめている腕を離しても、始はもう寒くない。穏やかな温もりの中で眠れるだろう。しかし隼がこのまま抱き枕のようにしていても、きっと彼は怒ったりはしない。だから隼は手を離さずに目を閉じた。若干寝づらいのは許してもらうことにする。
明日からは、また隣同士を歩いて行こう。
「おやすみ、始」
もう一度呟いて、今度こそ隼も意識を手放した。