醒めてはいけない
どこかの神話で見た。この世は神の見ている夢である、と。
自分だって神と呼ばれる存在なのに、神話を聞いてなるほど、とか壮大だな、なんて言うのはおかしな話だよねと、雲外鏡に笑われた。
そんなことを言われても、神だろうがなんだろうが、凄いと感想を抱く対象はそれなりにあるのだ。少なくとも自分は、感情や考え方が人間に近い方だ。神だとされるものの中にはそういった意志を超越した存在もいるのだろうが。ちょっとしたことで感情が動くのは、面倒だったり辛い時もあるのだが、その代わりに喜びや楽しみもひとしおなのだ。だから月野神社の神である黒天狐は、喜怒哀楽という感情を大切にしている。
賑やかな神社で世界を見守りながら、楽しいや嬉しい、時には悲しいということを、傍にいてくれる者たちと共に分かち合う時間はかけがえのないものだ。
神は夢を見ている。その夢の上に想像された世界こそが、今、己が存在している場所である。故に、この世は一夜の幻、胡蝶の夢。長くも短くもある儚いもの、ということらしい。雲外鏡へ伝えた自分の感想は、至って普通の反応だろう。何故あんなに笑われたのか解せない。
全知全能にして始まりと終わりの根源、まさに世界そのものである存在。それが無明の閨房より目覚めれば、膨大な世界の全てが一瞬にして消え失せるのだ。壮大かつ恐ろしい話である。
だが黒の狐がひっそりと考えるのは、消えた世界のことではなかった。
自分が目が覚めた時、全部が消えていたら。
何もなかったことになっていたのなら。
そんな事態が起こればとてもじゃないが、正気なんて消し飛んでしまうだろう。
黒の狐が目覚める時には、いつもそこに対がいる。意識しなくても存在を感じられている。世界のための眠りから解放されて身体が地面へ落ちていく時、対である白の狐がその腕で受け止めてくれたことは数知れない。
眠っては目覚め、また眠る。世界を渡り、見て、そして自分の世界へ戻ってくる。眠っている時の境界は曖昧で、自分がどこにいるのかよく分からない時がある。そんな時も目覚めを助けるように、白い腕が黒の狐の腕を捕まえてくれるのだ。
そうして目覚めて、最初に見るのは対の顔。白の狐のふわふわな毛皮に包まれて起きる。それが、自分の日常だった。
けれどもそれがもし、本当の目覚めではなかったとしたら?
夢の中で寝て、夢の中で起きる。すべては己の見ている夢の中。黒の狐はそんな恐ろしい想像をしてしまった。
対の彼が、以前言っていたことを思い出す。世界の終わりは白いのだと。すべてが白に呑まれて、何もなくなって、やがて意識も消えていく。あとに残るのは、真っ白で何もない世界。
では、夢の中で世界を創造した神が世界を破壊して眠りから覚めた時、そこにあるのは何だろう。
何もなくはない。自分という存在だけは確かにある。でもそれがすべてだ。おそらく世界なんていう明瞭なものじゃなくて、ひどく混沌としている。始まりも終わりも何もかもがひとつに混ざってしまった、ドロドロの何かがそこにある。
(きっと、色で言うなら漆黒だ)
すべてがある。すべてがない。ありとあらゆるものが凝縮されていて、息ができないほどの密度で黒く塗り潰されている。光をも吸収する、圧倒的な黒。
「……じめ、はじめ!」
「ん……、隼、か……?」
「どうしたの? すごくうなされてた。君が悪夢でうなされるなんて珍しいねえ」
昼の陽気の暖かさにうとうととし、黒の狐は白の狐を枕にして眠っていた。
ああ、眠っていたのかと、ぼやけている思考をゆっくりと手繰り寄せる。何か取り留めのないことを延々と考えていた気がする。
「……嫌な、夢を見ていた」
「どんな夢だったの?」
「……わからない。面倒だった」
「なあにそれ。何か面倒なものに絡まれていたのかな?」
あやすように髪を撫でられる。耳の毛繕いもついでにされれば、気持ち良くて身体から力が抜ける。緊張で筋肉が硬直していたようで、やたらと疲れを感じた。
感じ慣れた存在から、怖いものから守ってあげると言わんばかりに包まれていれば、懲りずに眠気が襲ってくる。
「起きてすぐに寝ちゃうと、怖い夢の続きを見てしまうかもしれないよ?」
くすくすと茶化してくる白の狐の膝の上に頭を乗せ直し、白いふわふわなしっぽを引き寄せて布団代わりにする。くすぐったいよと笑う振動すら気持ち良いのに。
これが、夢のはずがない。
黒の狐は忠告を無視し、あっさりと眠気に負けて目を閉じる。一瞬で眠りに落ち、意識がふつりと途切れる。それが消失するのはごく短い時間で、すぐに夢の中で自我を取り戻すのだ。夢の中で起きているような状態になる。それがいつものこと。
けれど夢の中で目覚めた時、いつもとは違う雰囲気に、黒の狐は違和感を覚えた。
「…………? ここは、」
どこだ、と呟く。
眠っている時はこの世界のどこかや、別の世界を夢見ることが多い。しかし今、夢の中で意識が目覚めた時、そこは真っ暗で何も見えなかった。
まったく意味の無い本当の夢を見ることだって勿論ある。暗くて何もない。視ることが存在意義である自分が何も視れないという夢。どちらかといえば悪夢の類かもしれない。きっとこんな夢を見るのは、眠る前に繰り返していた思考の影響だろう。
そういえば先ほど寝ていた時も、悪夢を見ていたのだった。自分は、その時何を見ていた?
「…………思い出せない」
どきん、と心臓が鳴った。
夢で意識がないことはほぼない。意味のある夢でもただの夢でも、そこに自分の意識がちゃんとあるのだ。故意に忘れたいものがあれば己自身が無意識にそうすることもあるのだが。
「……隼」
咄嗟に対の名を呼ぶ。
自分が寝ているのか起きているのか、段々と分からなくなってきてしまった。本来ならそんなことはないのだが、暗闇が正常な思考に目隠しをする。目覚めているのなら当然傍に居るはずの彼を探す。
「どこだ、隼」
返事はない。気配も感じられず、辺りは音さえも吸収する黒い闇が広がっていた。
光はなく、影もないため、どちらへ向かっていいのか見当もつかない。そもそも自分が今、歩いているかどうかすらも怪しくなってきた。
焦る感覚があるのに、意識はどこかぼんやりとしてくる。思考に蓋をされるように、頭の中が霞み掛かってくる。何も考えられなくなっていく。
(醒めてはいけない)
そんな時、ふいに誰かの声が聞こえた。
「……何だ?」
小さな声で、もう一度。
醒めてはいけない、とそれは言う。
何からだ。自分は何かを考えていた。
始まりの意味、終わりの意味。ずっと自分に着いて回る、答えのないその問答。益も無いと思いながら、時折考えてしまうのをやめられない。世界の創造とは。認識とは。誰も答えられる者などいない。
それらはどのように創られたのか、もしくは何も創られなかったのか────。そんな問いに、たとえばの可能性を聞かされた、気がする。
ハッと目を開ける。そこは暗闇ではなく、いつもの神社の風景があり、黒の狐はまず安堵した。
青空にぽっかりと白い雲が浮かんでいる。長閑な日常だ。しかしぼんやりと眺めていると、これは何かが違うと急に本能が警戒し始めた。不自然さが強烈な違和感となって黒の狐を襲う。
ここにはあるべきはずのものがない。
いちばん大切で、ここに必ずなければならないはずのもの。
黒の狐は疲労感を押しやってよろよろと立ち上がり、静かな境内を見渡す。何の音もせず、何の気配もしなかった。鳥のさえずりは勿論、風にそよぐ草の音すらなく、耳が痛くなるほどの無音だ。異常だった。
わざと足音を立てるようにすれば、静かな世界に音が響く。それに背中を押され、黒の狐は床板を踏み鳴らしながら求めるものを探して歩き回った。
白い姿を探す。眠りの間にはいなかった。いつも仲間たちと過ごしている居間にもいない。黒の狐は手当たり次第に障子を開けて回った。それなのに彼も、仲間たちもどこにもいない。
(なんだ、これ……)
心臓が早鐘を打つ。
この光景は夢なのか、それとも現実なのだろうか。
「隼、しゅん……! どこ、だ……! 隼……!!」
いるのなら返事を、と叫ぶ。
こんなに彼の名を連呼したことはない。なりふり構わず、黒の狐は大きな音を立てながら走り回り、白い狐を探し回った。
(もう一度眠って、やり直せばいい)
ふいにまたあの声が聞こえた。
「……え」
(今度は醒めないように)
著しく聞き覚えのある声なのに、誰のものなのか全く思い出せない。
再び急激な眠気に襲われて、黒の狐は立っていられなくなる。床に膝を着いて、ひどい目眩にとうとう目を瞑って蹲る。
視界が閉ざされ、世界が真っ黒に染まる。黒く塗り潰されていく。
そこはすべてがあり、すべてがない世界だ。
(醒めてはいけない)
呪いのように繰り返される言葉を聞きながら、黒の狐は意識を手放した。
「……じめ、はじめ? 大丈夫?」
「……………………」
「どうしたの? すごくうなされてた。君が悪夢でうなされるなんて珍しいねえ」
既視感を感じながら、黒の狐は白の狐の膝の上で身動ぎした。
身体が異常に重い。腕どころか指先を動かすのも億劫に感じるほどだった。
ここは夢か現実か。そんなことを考えるなんて、自分は相当寝ぼけているらしい。対がそこに居るのだから、現実であって当然なのに。
「何度も僕の名前を呼ばれた気がするよ」
耳を撫でられて、そういえばやけに喉が渇いている、そんなことに気づいた。何度も叫んだあとのような。そんな大声を出し続けるなんて、ここしばらくは身に覚えがなかったが。
「……なあんてね。君が悪夢を見ている時、僕は夢の中にいる君の隣にはいられないから、せめて名を呼んでくれたら嬉しいな。そしたら君の手を握って、一生懸命起こすから……って、始?」
黒の狐を甘やかす手は優しい。それをぎゅっと握りしめると、黒の狐は白の狐を捕まえるようにしがみついた。
「……起こさなくて、いい」
「君が苦しそうにしていても?」
「ああ……。その時は一緒に、眠ってくれ」
何でそんなことを言ったのか分からない。白の狐も驚いたのか、応えには少し間が空いた。
「……君がそれを望むなら」
再び瞼が重くなる。白の狐は体勢を変えると、黒の狐の身体に寄り添うように横になった。
「君の見る夢の中へ、僕も行けますように」
おやすみ、と言って目を閉じる。
繋がれた手を握りしめ、黒の狐は意識を手放した。
これが夢なら、夢を見ているのならば、きっと醒めてはいけない。