夜の終わりに
心臓が口から飛び出しそう。
比喩でなく、隼はそんな生きるか死ぬかの極限状態の真っ最中だった。目の前には近すぎる距離に愛する推しの顔。それが、至極静かな目で真っ直ぐに隼を見て、その手にはケーキを刺したフォークが握られている。しかもけしからんことに、そのフォークの向く先は自分の口元、つまり自分は今、推しから絶賛「あーん」をされている最中なのである。
直前には自分も彼へ同じことをやっていた。自分がやる分には問題ないのだ。愛しい推しに美味しいものを食べさせて、甲斐甲斐しくお世話をする。なんて幸福なひとときなんだろう。
食べることが大好きな彼は、はい、と食べ物を口元へ運べば、警戒もせずにあ、と口を開ける。もう習慣になっているだろうその仕草の、凶悪なくらいの無防備さ。愛しくて可愛くてしかたがない。
今回は物が生クリームたっぷりのケーキということで、勢い余ってクリームを彼の口周りにべったり付けてしまったけれど、彼はそんなことで怒ったりしないのだ。美味しいものにその舌で触れる瞬間、ふにゃっと嬉しそうにする一瞬の顔が尊すぎて、隼は何度でもやってしまう。
溢れてしまったクリームを拭おうとして、指についたそれを行儀悪くペロリと舐めても、やっぱり彼は怒ったりしない。その気安さや、許されている空気もひどく心地良い。
隼の最愛の推しである彼──始は、美味しいものを食べるのが好きで、それを気を許した相手とシェアするのも好きなのだ。そして身内の中でなら、多少の行儀の悪さは目を瞑ってもらえる。というか、本人も普段の彼からは想像できないほど横着をする場合だってある。そんなささやかな秘密を共有できるのも、隼にとっては至福の時間だった。
リゾート地という開放感も相まって、いつも以上に隼は始の周りにまとわりついていたし(始といることの多い春が、何故か海とずっと一緒だったのもある)、ケーキ入刀ができる素晴らしい機会を逃すはずもない。公衆の面前であーんとやっても彼も上機嫌だったのか、寮の中にでもいるかのようにリラックスした様子で口を開けた。
打ち上げのために特別に作られたケーキがよほど美味しかったのか、もぐもぐと無心に口を動かす姿を見ているのが幸せで、始の口元からこぼれ落ちそうになったクリームを咄嗟に指で拭い、ぺろりと舐めた。あまい、幸せの味だ。
彼と同じものを口にして、美味しいねえと伝えられる喜び。それが忘れられなくて、カフェでケーキが出てきた瞬間にはもう何も考えずに同じことをしていた。
そしてこちらも同様に口を開ける彼が愛しくてどうしようもなくて、隼は一生懸命なくらい必死で見つめてしまう。この光景を一生忘れないように。
ふわふわのケーキを切るのが難しくて、やはり大きめになってしまったが、半個室の席なので特に周りを気にする必要もない。隼にはおまじないだってある。始もまんざらではなさそうだったので、隼は調子に乗って彼の口元を拭う。指に付いたクリームを舐めて、幸せを噛み締める。一緒に美味しいものを食べられる幸せだ。
あまい。嬉しい。隣には始がいて、同じものを口にしている幸せ。
こくんと飲み込むと満足して、「美味しい?」と訊いた。しかし始は一瞬変な顔をして、隼が「あれ?」と疑問に思っていると、彼はしばらくの無言のあとに、おもむろにフォークとナイフを手に取った。
(……僕はなにか、変なことを言ったかな?)
始は言葉が多い方ではないし、彼との間に流れる沈黙の時間もとても好きだ。何も言わずとも傍にいられる、それは優しい静けさだった。けれども今の間は何だかおかしい。何事かの懸念を抱いているような、窺うような空気だった。
カットされたケーキは、隼が切り分けたのと同じように大きい。切るのって難しいよねと思っていると彼はそれをフォークに刺して、手のひらで受けながら隼の口元へ向けた。
(……………………えっ)
食べさせてくれるのだろうか。ちらりと見た始の顔は真剣なくらいで、首から下の動きを視界に入れなければ、今から大事なステージのミーティングでも始まりそうな勢いだ。隼が食べさせたお礼をしてくれるとか、そんな感じかもしれない。だけど今までになく積極的な行動に出る始に対して、隼はひとつ気になっていることがある。
昨日の事件以降、始はやたらと隼に構ってくれるのだ。これまでは隼がまとわりついても嫌がりはしないが、ほどほどにしろよという適度な距離を保った対応だったのにもかかわらず、彼はなんと日焼け止めを塗ってくれたりもしたのだ。今日だって、このカフェの予約は始が取ってくれた。
隼はずっとガラスケースの向こう側を眺めていたはずなのに、いつも間にか間に隔てるものがなくなっていた。手を伸ばせば、触れてしまえる距離になっていた。
ふと視線を落としたら、ケーキを支える始の手が少し震えていた。確かにふんわりとしたケーキをフォークに刺したままの状態を維持するのは辛いだろう。もうなるようになあれと祈る気持ちで隼は目を閉じ、代わりに口を開けた。
すぐに甘さが口いっぱいに広がる。大きめのケーキは当然ひとくちで口内に収まるはずもなく、口の周りにべったりと付いた。隼と全く同じことをしてくる始におかしくなって、心のうちだけで笑った。おそろいだね、と口の中がケーキで埋まっていなければきっと言っていた。
紫のソースがたっぷりかかったケーキは甘いが、ソースの酸味が爽やかさも運んでくれる。突然の展開に驚いてしまったが、始が食べさせてくれたひとくちはまた別格だった。隼はその幸せを味わうようにケーキを食べたあと、口周りのクリームを舐めとった。始がくれたものだから、全部きれいに食べてしまいたい。
しかし思った以上に盛大に付いたらしく、舐めた程度では全く取り切れなかった。かなり行儀が悪いけど、指で拭って舐めてもいいかなと考えていたら、始が動いた。
(……………………はい?!)
目の前で起こった光景がちょっとかなり信じられなくて、隼はこれはまだ夢の中なのかと疑った。
始が右手を持ち上げて、隼の口元のクリームを指で掬い取った。その指先から目が離せなくて凝視していると、彼はそのクリームをまとわせた指先を、先ほどのフォークと同じように隼の口元へ向けたのだ。
(………………ふぇっ!?)
ポーカーフェイスはギリギリ保てたものの、思わずぽかんと口が開く。そこへ始はなんの躊躇もなく自分の指を押し込んだ。
(────っ?!?!?!)
なにこれなにこれ。一体なにが起きたんだ。
頭の中は大混乱を来しているのに、口の中に広がる甘さとは別の体温に、全神経が集中する。
あまいもの。ケーキではなく彼の指。
恐ろしいくらいに緊張が走る。パニックになりながらも指を噛まないように気をつけていたが、だんだん上顎が疲れてくる。舌がその指に直に触れてしまう。甘く感じるのは多分、ケーキの甘味だけじゃない。
じわりと唾液が滲んできて、ダメだと思うのに一度舐めてしまえば、もう止まらなくなった。明確に指を舐めてもやっぱり始は怒ったりしなくて、一口齧れば次から次に欲しくなる。どこかの楽園の果物よりもよっぽどえげつない依存性を植え付けてくるそれに、隼は無我夢中になってしまう。しかしそんな時は束の間のことで、甘みが消える頃に我に返り、おそるおそる視線を上げれば始と目が合った。
真剣に見つめ合ったまま口の中から指を引き抜かれる光景に、こんなのは夢だと思うのに、身体の奥が燃えるように熱くなって逆に現実だと知らされる。
これ以上は駄目だ、我慢が利かなくなってしまうと隼が奥歯を噛み締めた時、始がいつもの顔でふっと微笑んだ。
「……ケーキを適度な大きさに切るのって、意外と難しいよな」
張り詰めていた空気が一気に日常へと戻ってきて、呆気に取られたのはほんの一瞬だ。
ああ、始だ。自分はちゃんと、あの忌々しい夢から彼のいる現実へと戻って来られたのだ。
始は紙ナプキンを一枚取って、隼の口元を拭ってくれた。優しい力加減に、自然と笑顔がこぼれ落ちる。いつだってこの感情を満たしてくれるのは、目の前の彼なのだ。
何者かに追われて逃げていた、酷く屈辱的な記憶。彼らの狙いが遂げられるということが、始を忘れてしまうことに繋がると知った時、一瞬にして強い怒りが生まれた。
憎悪と言ってもいい。何よりも大事なものを奪おうとする者たちを、決して許さないと。
彼らの空間に閉じ込められて圧倒的に不利な状態で、隼にできることは多くなかった。始との繋がりを切り離された時の絶望感。今まで感じていた確固たるものが消えていく心細さ。彼と共にいられる時間は永遠ではないと知っていても、他者から踏みにじられるだなんて到底許せるわけがない。
始を忘れていく。記憶から抜け落ちて、ぼろぼろと欠けていく。このままでは名前も顔も、そこに確かなものが在るという感覚すら思い出せなくなるのだろう────絶対に、許せない。その対象は彼らでもあり、大切なものを守りきれない自分でもあった。失ってしまうくらいならばいっそ。
無遠慮に直接触れてくる手が煩わしい。隼を捕らえて何をしたいのかは知らないが、隼から始を奪う代償は、必ずその存在のすべてで支払ってもらう。このままでは済まさない。存在が跡形もなく壊れてしまうほどの、計り知れない後悔を与えてやる。
制御できない獰猛な怒りが込み上げて、隼の周りを黒く染める。始が持つ、希望の色彩が重なり合ってできた始まりの黒ではない、毒々しい深い闇の奥にある、すべてを塗りつぶして飲み込む虚ろの黒だ。
目まぐるしい怒りの感情で意識を一瞬失ったあと、またどこか別の空間へ閉じ込められた。そこは一面の白い花畑だった。忘却の名を持つ花に埋めるとは、夢の主はよほど警戒をしているのか、もしくは小心者なのか。どちらにしても、彼らの思惑どおりに隼の身体はもう動かない。名前も取り返せない。不甲斐なくも重い枷に全身を縛られてしまった。
それでもできることはまだ、ある。たとえば呪いを掛けるとか────。
真っ黒な闇がじわりと染み出る。それは白い花畑を侵食し、やがてこの空間のすべてを飲み込むだろう。彼らの望むまま、夢は終わらない。その代わりに、夢の世界はいびつで愉快なものに変化する。終わりをねじ曲げた代償に、元の理想に溢れた美しい形を失う。夢の主は自ら願った終わらない悪夢の中で、永遠に苦しむこととなる。
(────違う!)
どこかで叫ぶ声が聞こえる。そんなことを望んではいけないのだと、黒の侵食を止めようとする手のひら。あれは奪われた名前の、もうひとりの自分だ。
(止めないと、戻れなくなる)
何を、と疑問を持つ。そういえば自分はどこかへ戻ろうとしていたはずだ。愕然とする。大切なものを忘れていっているという事実すら忘れていく。こんなところにいたくない。助けてほしい。きっと助けに来てくれるはず。────でも、誰が。
苦しくなって息が止まりそうになった時、ふっと重苦しさが消えた。嵐が止んだあとの清々しい風が吹いている。そんな心地良さが皮膚を通して感じられた。
目を開けたいのに開かない。指先一本も動かせないのは変わらないけれど、閉じたまぶたの上で、白い光がチカチカと踊る。暖かい光が、寝ている自分を包み込んでいる。
(…………始)
その姿がはっきりと思い出せる。記憶を手繰り寄せればするすると脳裏に落ちてくる。欠けた部分などどこにもなくて、自分を侵食していたものが消え去ったことを知る。
名前が戻っている。確かに隠されていたはずなのに、圧倒的な光の下に晒されている。そんなことができるのはひとりしかいなくて、ここへ来てくれたのだと思った瞬間、懐かしい空気が広がって泣きたくなる。愛しい彼の気配がはっきりと感じられた。
もう怖いものなど何もない。早く起きて彼の元へ行かなければ。動かない身体をもどかしく思っていると、ガッと頭部に衝撃が走った。目の前に今度は星がチカチカと舞う。あんまりな痛みにとうとう目が開いた。
その瞬間に見えた光景は隼が想像していたとおりのもので、またもや夢か現実か分からなくなる。夢は終わったのだと確かめたくて、ふざけたやりとりをしたはずなのに、唇の上に感じる温かなものに、再び隼は不安になった。
これは悪夢か、それとも。
「始……。僕は、まだ夢を見ているのかな……」
真摯な面が、じっと隼を見つめている。呆然とした自分の顔が、紫の瞳に映っている。
「夢ならもう終わった」
とても信じられない。隼が願ったままの言葉が、返ってくるはずがない。
これはきっと夢の続きで、自分は今もあの白い花に埋もれて世界を呪っているのだ。だって胸がこんなにも苦しい。これほどに辛くなるのは、一体何のせいなのだろう。
露悪的な態度で吐き捨てるように胸中を吐露すれば、何故か始は笑った。笑って、隼を肯定するのだ。
「自分が大切にしているものを奪われて、憎まない人間なんていない。ごく自然な感情だ」
こんなこと、始が言うだろうか。きれいな彼は、きっと誰にでも救いの手を差し伸べる。隼だけが特別ではない。堕落した終わりを望み、消えていく何者かがあれば、彼はきっと放っておかないだろう。
急にまた怒りが込み上げて、自分でもわけが分からないままに八つ当たりのような言葉を吐いた。
「奪われるくらいならすべてを道連れに終わらせてやるなんて気持ち、それが自然だと言うの?」
こんな昏い執着など、きっと始にはわからない。それなのに、返された言葉に思考のすべてが停止した。
「そう言ってる。お前が全部終わらせたなら、俺がまた、何度でも始めてやる」
隼が根深く抱えている爛れた執着心は、始へと帰結している。彼がいるから生まれ、そして彼へと向かっていく。それを、この始はちゃんと知っているのだと口にするのだ。他の誰でもない、ただ隼のために、世界を作り直してくれると彼は言う。
(これは、本当に始なの?)
こんなにも隼に都合が良いことしか言わないなんて、おかしい。
始は異世界の存在を認識しつつも、自分の存在に秘められた力には未だ目覚めていない。おそらくこの世界の彼は、それを自覚することはないまま普通の人として一生を過ごすだろう。そう思っていた。
だからこそ隼も歳を重ねるうちに、力が均衡を得て鳴りを潜めていくのを感じていた。十代の頃と比べればよほど、普通の人間と言って構わない程度にはごく普通の日常を生きている。なのにその認識を壊すようなことを、他でもない始に言われてしまったら。
「……だから、お前は安心して壊せばいい」
世界で一番恐ろしい誘惑をする。そんなことを聞いてしまったなら、もう後戻りなんてできない。人の皮を被った中身を全部吐き出して、晒け出して、彼にぶつけて、世界を壊してしまいたくなる。
喉がカラカラに乾いている。荒くなる呼吸を押し留め、隼はこれが夢か現実であるかの最後の見極めをしようと声を絞り出した。
「君は……」
「隼、俺とデートしよう」
「ふぇっ?!」
ストレートに誘われて、それまで考えていたことが文字どおり全部吹っ飛んでいった。
デート。始からのデートのお誘い。
恐ろしいなんてものじゃない悪魔の誘惑だ。
今までだって、デートデートと叫んで一緒に出かけたことは何度かある。そのどれもがいわゆる普通のお出かけでしかないことは、嫌というほど理解している。それでも二人で一緒にいられるなら何の問題もなかった。隼が一方的にデートだと思っているだけで満足していた。
だから今の言葉だって、きっと深い意味はない。そんな言葉で彼から誘ってくれたのは初めてだと記憶しているが、一緒に出かけようという意味でしかないはず、だ。
「明日は二人で一緒にいよう」
(──────ッ?!?!)
慌てすぎて、何と答えたのか記憶にない。完全にパニックになる隼へ、始はトドメのひとことを言い放った。
「俺が、お前と行きたいんだ」
「ハイッ! 喜んでー!!」
答えは当然イエスである。やっぱりこれは夢、夢なんだと悲壮感を胸いっぱいに湛えていると、始が何かに気づいたように周囲を見渡した。隼もつられて辺りを見る。
そこに咲き誇っていたのは忘却の花ではなく、愛を歌う花々だった。世界が一遍していた。作り替えたのは、勿論目の前の彼しかいない。
「……これは、現実……」
隠された名前が戻ったのは、始がそう望んだからだ。隼の存在意義が彼の願いによって形を変えたことで、封印が意味をなさなくなった。
憎しみを吸って黒く咲き乱れた薔薇は、始に触れられただけであっけなく姿を変化させた。どうしようもなく始に変えられてしまう我が身を嘆くべきなのか、それとも喜ぶべきなのだろうか。けれども最後に行き着く場所は同じで、結局はいつも彼の傍にいることを望むのだ。
「もう一度、僕を起こしてくれるかい?」
始が隼を連れて行ってくれるなら、どこにでも行こう。手を取ってくれるなら、隼にはそれを拒否する選択肢など存在しない。
「……ああ」
再び二人の距離が近づいて、隼は始より先に目を閉じた。結末が怖くて最後まで見ていられなかったからだ。特別な意味で愛されている気がするなんて、そんなのはきっと気のせいだ。唇で触れるのは、そうする必要があるからだ。だけど。
(好きだよ、始……)
最後に残るのは結局、絶望か幸福か分からないその想いだけなのだ。
フロントへ電話をする始を見ながら、隼はぼんやりと回想に耽っていた。
自分の考えすぎでなければ、本日の始はおそらくちゃんとデートのつもりでいるし、隼を意識してもいる。これまでにはなかった状況だ。一体彼に何が起こったというのだろう。
隼が近づきすぎないように離れるそぶりを見せれば、離さないとでもいうように、力強く手を握られて逆に困惑したくらいだ。何よりも教会で口づけられた時、そうすべきだというキスの理由が見当たらなくて、隼はひどく混乱した。
彼は何か必要があってそうしたわけじゃない。隼が逃げないように、でも優しく手を握られて、気づいたら目の前には大好きな顔があったから、常日頃からの習性で微笑んだ。始も優しげに微笑み返して、それが眩しすぎたので思わず目を閉じたらキスされていた。
リンゴーンと頭上で鐘が鳴り響き、隼はやっぱりこれは夢なのかと冷や汗が出る思いだった。キスのあと、そっと離れた始が若干頬を染めて上目遣いで隼を見た。あ、これ本当にデートだ、と隼はその時ようやく確信が持てた。何ともいじらしいその視線攻撃で気絶しなかった自分は、過去最高に頑張ったと思う。
カフェデートが終わり、教会デートも無事にとは言い難いがスケジュールどおりに終了した。
(……あとは夕食だっけ)
ルームサービスも豪華だから、ホテルの部屋で夕景を眺めながら食事をしたらと春が提案してくれた。そういえば彼は今回、やたらと隼の世話を焼いてくれた。始といい、黒年長の二人に一体何があったんだろうと不思議に思う。何にせよ協力者がいる、しかも始に一番近しい人物とあっては諸手を上げての歓迎しかないのだが。
僕の部屋で食事でもどう、なんて使い古されて陳腐化した文句に、始は少し戸惑ったような顔をして小さく頷いた。何その反応、と隼の方が狼狽えてしまう。これではまるで彼をかどわかしているみたいだ。
部屋に着いた頃には日は傾き始め、少しずつ西陽へと色を変化させていた。夏の名残を残す夕暮れはまだ長い。そして暑い。始は隼の部屋へ入るとふっと息をついてシャツの胸元をくつろげた。きっと外が暑かったのだろう。露出が多くなった胸元から隼が目を離せないでいると、始はリビングにあったメニューを手に取った。
豪華なレストランばりの分厚い装丁をしているそれを開きながら、ソファへ座る。大人三人がゆったり座れる程度の大きさで、始は中央寄りの位置に陣取った。彼のすぐ隣に座ってもいいのだろうか、いや、適度な間は空けるべきだろうと逡巡していると、「お前は何がいいんだ?」と不意に聞かれて、心臓が大きく波打った。
慌てたせいで転ぶようにソファに座る羽目になった。始との距離が若干空いてしまい、妙な悔しさが広がった。「君と同じものがいいな」と返した声は裏返っていなかっただろうか。適当に取ってシェアするかと、彼は受話機を手にした。隼はぼんやりとそれを、ただ眺めている。
「……、隼?」
「ハイッ! えっと、どうかしたのかな?」
急に名を呼ばれて、隼はようやく現実へと返る。ソファの隣に座って隼を見つめる始。彼の後ろには広大な海の景色が広がっている。夕暮れのオレンジに灯されて、時がゆらゆらと流れていく。これこそがまさに夢の中というやつではないのだろうか。
「ぼうっとしてるな。疲れたのか?」
そんなことないよと言おうとして何も答えられないでいると、始は困ったように笑った。
「……この島に来てからいろいろあったしな。お前は特に大変だっただろうし」
始は今、何かを言おうとして、おそらくそれとは違うことを言った。今日一日、ずっと始を凝視していた隼は、ほんのわずかに翳った表情に気づいてしまった。
このまま日常の会話へ戻ってしまいそうな雰囲気を察して、隼は思わずソファに無防備に置かれていた彼の右手を握った。
「っ……、…………」
何気ない会話を続けようとしていただろう始は、小さく息を呑んで視線を落とす。握られた手を見つめてから、そろそろと隼を見上げた。夕陽の影になっているせいか、濃淡が色濃い姿は儚く映る。隼が腰を上げて、一人分ほどが空いていた二人の距離を詰めて座り直す。身体が触れる。少しの間を置いて、始が隼に寄りかかってきた。
「冷たくて、気持ちがいいな」
「外はまだまだ暑かったよね。始、……もっと冷やしてほしい?」
ん、と小さく答える声を聞いて、思わず手に力が入る。彼の手を握ったままだった手のひらを手首へと滑らせて、肘、二の腕と撫でても彼はくすぐったそうに微笑むだけだ。一旦手を離すと、今度は彼に覆い被さるようにする。頬を撫でて、耳に触れても控えめな吐息が返るだけだ。
事情のないキスをしても許されるのか確かめたくて、艶やかな黒髪に指を差し入れながら後頭部を引き寄せた。今まで一度も触れたことのない場所だったのに、昨日と今日だけで何度触れたのだろう。
始が目を閉じるのを見届けてから、隼も目を閉じた。二人だけの部屋で、他には誰も見ていない。だから何度もキスをした。愛する相手に欲望を押し付けたいだけの、ただの口づけだ。これが許されるなら、始は隼と同じ思いでここにいるということなのだ。
隼はソファの上に仰向けに倒れた始の上へ乗り上げるようにして、表面を触れ合わすだけの口づけをし続けた。西陽は黄昏に変わり、昏い陽の色が古いホテルの夢を思い出させた。あの夢の主を執念深いだなんて、とても人のことなど言えた義理じゃない。インターホンを鳴らされて、邪魔だと思ってしまう自分は。
「しゅ、ん……。ルームサービス、が」
それまで隼の為すがままだった始がもぞもぞと動いて抵抗する。それが気に入らなくて、逃げようとする彼をさらにぎゅっと捕まえ、今度はもう少しだけ深く唇を合わせた。
「んっ、ん……!」
塞いだ唇からくぐもった声が漏れ聞こえて、ひどく興奮する。力づくで逃げようかどうかまだ迷っているらしい彼の気弱な抵抗を難なく封じてやる。逃げるそぶりを見せられると、余計に捕まえたくなった。どこにも逃がさない。抱きしめて、閉じ込めて、もっと深く交わってしまいたい。
「ちょっと、待て……ッ」
三回目のインターホンが鳴ったあたりで、とうとう顔面に強烈な一撃がお見舞いされた。勢いで床に落ちた隼の身体は仰向けにゴロリと転がって、天井を見上げる形になる。リビングで横たわったのは初めてだったから、天井の意匠をちゃんと目にするのも初めてだった。寝室とはまた違ったデザインになっていて美しい。リゾートに相応しい造形で、心が踊る。
玄関でルームサービスを運んできてくれたスタッフに応対していた始が、ワゴンを押して戻ってくる。ワゴンには所狭しと料理の数々が乗せられていた。上段の一角には四角いワインクーラーが乗せられており、小さめのワインボトルが二本入っていた。赤と白だ。そういえばこのホテルはワインが美味しいと聞いていたのを思い出した。
ワインクーラーはうっすらと青色に輝いており、LEDで点灯しているようだ。ルームライトを消した夜の部屋で、星空を眺めながら飲んだらさぞロマンチックなことだろう。残念ながら星が見れる時間になるにはまだもう少しだけかかるのだが。その時間まで彼がここにいてくれたら、と思う反面、今夜のところはどうか帰ってほしいと思い始めてもいた。
「……悪かった。拗ねてないで、起きろ」
拗ねているわけではない。むしろ反省していた。
今回の件で、自分が始へと向ける異様な執着心を目の当たりにしてしまい、落ち込んでいる最中だった。こんなふうに始を前にしたら、もう他のことがどうでも良くなってしまう。
隼は始が止めなければルームサービスを無視していたかもしれないし、昨日の事件の時だって、本気でこの島ごと夢の主を滅ぼす気でいたのだ。
夢を見続けていたいのならば、好きなだけ終わりのない円環を永遠に彷徨えばいい。魂が力尽きて言葉どおりに消滅してしまうまで。夢でもいいからそこで微睡んでいたいだなんて気持ち、隼はもうとっくに知っている。
叶えられることよりも、叶えられないことの方が圧倒的に多い。夢はそのささやかな救済のためにある。夢の中で眠ってしまった方が、時として幸せなこともあるのだ。
けれど、始はそれを望まないだろう。彼はきっちりと最後まで見届ける方を選ぶ。眩しいくらいにとても強いひとだから。
「隼、ほら」
伸ばされる手を、掴んでいいのか分からずにいる。始が隼を許しても、いつかはこの執着心に歯止めが利かなくなって、衝動に飲み込まれる日が来るのかもしれない。きっと今までと変わらず、適正な距離を保って彼を眺めていることが、自分にとって一番正しい選択なのだろう。
(自分自身だけじゃなく、始にとっても)
急に彼へ近寄るのが怖くなる。なかなか起きない隼に焦れたのか、始は隼の腕を掴んで一息に起こした。赤ワインの方を取り出すと栓を開け、豪快にグラスへ注ぐ。おおよそお行儀の良い仕草とはかけ離れている。ツキノ寮にいるかのように気安く、すっかり家飲みモードになっている。
鈍い赤色がグラスの中で揺れる。どことなくあの闇の色が混じっているように見えて、隼は少しだけ眉を顰めた。
「白の方が良かったか? それならこっちは俺が飲むが」
「大丈夫だよ。僕は何でも飲めるし、酔い冷ましも一瞬でできるからね」
「相変わらず原理はわからないが、酔いをコントロールできるのは素直に羨ましい」
隼に軽口が戻ったのを見て、始が笑う。
それからは暮れていく空と海を眺めながら、ルームサービスの料理を堪能した。カフェやレストランの料理と遜色ないそれらに満足した。始は赤ワインが気に入ったのか、同じものをもう一本追加で注文した。あまり酒に強い方でない彼は、頬をそれと分かるほど赤く染めて上機嫌だった。どうやらそのボトルは、このホテルのオリジナルの銘柄らしい。
その頃には窓の外は真っ暗になった。ルームライトを消してしまえば、大窓からは天上の星が見える。都会にいては絶対に見られない星空に、天の川が輝いている。
始はすっかり酔いが回ったのか、もうずっと無言で、ワインもほぼ残っていない。ともすれば眠りに落ちてしまいそうなほど、とろんとした目で大窓を見つめていた。
「……始。そろそろお開きにしようか」
デートの終わりをお開きと言うのも味気ないが、ここがリゾートであることを除けばいつもの宅飲みと変わりない。もちろん酒の値段は数倍違うのだが。楽しく食べて、楽しく酔って、結局日常の話で盛り上がった。そんな距離感が、やっぱり似合っている。
「ん……」
自我も危うい状態の始を起こして、彼の部屋まで送っていく。それで今日の日はおしまいだ。普通に眠って、普通に起きて、明日の朝はいつもと同じようにおはようの挨拶をする。
何度も触れた唇の感触をふと思い出して、このまま離れるのが名残惜しくなる。けれどもう決めたことだ。ずっと始を好きでいて、ずっと一緒にいたいからだ。
始を立ち上がらせようとしたらぎゅっと手を掴まれて、どうしたのかと隼は彼を覗き込んだ。
「始、大丈夫? 立てる?」
「………………かよ」
「え?」
何事か呟かれた声は、小さすぎて聞き取れなかった。
「どうしたの、」
「追い出すのかよ」
何を言われたのか一瞬理解できなくて、隼は固まった。酔った様子からは程遠い、しっかりとした口調だった。
そうじゃないと言いかけて、彼を部屋へ帰さなければいけないのだから、つまりはそういうことでもある。そう思い至って言葉に詰まっていると、掴まれた手にさらに力が加わった。
「──────あ、」
不意に感覚が蘇る。
教会の中で、始に強く手を握られたことを思い出す。それと同時に、なぜあの時彼がそうしたのか、そのことに今、ふと気づいてしまった。
離れたくないと、言葉の代わりに伝えてくれていたのだ。隼が気づけなかっただけだ。彼は饒舌な方ではない。おそらくこれまでもずっと、ささやかな態度で何かを伝えようとしてくれていた。
(なんで気づかなかったんだろう)
思い出してみれば、分かりやすい反応だった。隼は自分の距離感を守ることに必死で、無意識に知らないふりを貫き通していたのだ。失いたくないくせに、踏み出すのが怖かった。
『だから、お前は安心して壊せばいい』
脳裏に蘇る言葉の意味を、今度こそちゃんと受け取る。そういうことなのかと腑に落ちた瞬間、もう躊躇いは消えていた。
「帰すわけ、ないでしょ」
抱きしめたらアルコールが香ってきて、やっぱり始はめちゃくちゃ酔ってるんじゃないかと不安になったが、握る手にまた力が籠った。ちょっと痛いけれど、それだけ強い想いがそこには込められているのだと、もう理解している。
「寝る前にお風呂に入る? 部屋に付いてるお風呂にも大きな窓があって、空が見えるみたいだよ」
「……ん」
「パジャマはどうしよう。ここには一着しかないから、君の部屋に取りに行ってこようかな」
「……いらない」
「え」
「お前は、裸でも寝れるんだろ。……って、海が言ってた」
「ちょっと待って」
「素肌の方が冷たくて気持ちいいし」
「待って、」
「それとも上と下で分けるか?」
何てことを言い出すのか、その知識は誰から聞いたのかと隼は問い詰めたくなる。一瞬、パジャマの上下を分け合う姿を想像してしまい、頭に血が上りかける。
「それは絶対無理だから! 僕が明日の朝を迎えられなくなるから! 主に失血が原因で!」
だらだらと冷や汗が流れるのを感じながら、隼は始が確実に酔っていることを確信する。
「……あれ? 本当にちょっと待って。ということは、べろんべろんに酔った始をひとりでお風呂に入れるのは危険なのでは……?」
もういっそ何もかもを投げ出して、服のまま寝てしまおうか。どうにでもなあれという魔法の言葉が聞こえてくる。便利なおまじないの言葉だ。ただしその代償はなかなか重い。人としての尊厳を失うこともあるほどだ。
思考を放棄しかけた時、腕の中の身体から力が抜けたことに気づく。確かな質量が隼の腕に掛かる。次いで、小さな寝息が聞こえてきた。
「…………おやすみ、始」
風呂は明日の朝に投げてしまおう。リゾートの朝風呂はきっと気持ちがいいし、行儀悪く服のまま寝てしまっても構わない。素肌で触れるのにはもう少し勇気が要るけれど、今の状態でも始が快適に寝られるくらいの温度なら十分保てる。
力の抜けた始の身体を抱き上げて、寝室へと運ぶ。丁寧にベッドの上に下ろしてやり、隼もその隣へ横たわる。規則正しい寝息を隣に感じながら、静かに目を閉じた。
この夜が終われば朝が来る。
夜の終わりに次の日の朝のことを考える。それはきっと、夢を見るよりも楽しいことなのだ。