日常はありふれていてもいい
「圧倒的な力を持ってプロセラルームで繰り広げられている大虐殺に、僕たちはただ見ているだけしかできないんだね……合掌」
「涙?! 物騒だよ?! って言いたいんだけど、あながち間違いじゃないんだよなあこれが……。ちょっとレベルが高すぎて、俺にはとても助けられそうにありません。ごめんなさい、隼さん」
「大虐殺っていうか、被害者は一人だけどな。有無を言わさぬ無駄のないデスアンドリバース、エグいな。お前のことは忘れないから安らかに眠ってくれ、隼。お経はまあ、唱えてやらんこともない」
「隼さん……安らかなお顔です……」
「うーん、俺もこのまま酒に酔って寝てもいいかあ?」
言いたい放題のルームメイトたちに、海は乾いた笑みをこぼす。
毎度毎度の恒例行事、今月は秋組最後のひとり、魔王様の誕生日だ。今年は特に夏が長く、十二月を前にしても気温は高い。そして緩やかに気温が下がることもなく、月が変われば一気に下がるのだろう。そんな異常にも思える気象も毎年のこととなれば、すっかりそういうものだという日常に変わる。
何年か前のこの日には雪が降ったこともあるし、去年はそれなりに寒かった気もする。だが今年は、夜になってもまだまだ寒いとまではいかない。毛布がなくても何とかなる。冷房も暖房も不要な気温、人間にとっては丁度良いとも言える気候なのである。
魔王様の推しの行動次第では急激な気温の低下も懸念されていたのだが、今回はそんな暇もないようだ。目の前では先ほどから魔王様を凌ぐ力を持ったただひとりの人物によって、完璧な死の無限ループという惨劇が行われていたのだった。
その被害者(当人は喜んでいるようなので被害者とは言えないかもしれない)である魔王様のHPはもうゼロだから、そろそろ許してあげてほしい。そう口を挟んでもいいのだが、その本人が悲鳴を上げながらも幸せそうな顔をしているので止めるのも悪い気がする。さてどうしたものかと海はほどよく酔った頭でぼんやりと考える。
本日の主役は愛する相手に弄ばれて意識を飛ばし、目が覚めては即死、目が覚めてはやっぱり即死を繰り返していた。最初はコントみたいなその様子を笑いながら眺めていたのだが。
「これっていつ終わるんだ……?」
よくよく考えなくても目の前でいちゃつかれている構図だということに気づいた時、海は急に正気へ返った。若干の気まずさを覚え、酔いも一瞬で覚めた。ワインの他にもそこそこ良い酒を開けていたので、もったいないことをしたなあという感想を抱いたのだった。
四層に積み上げられた、シンプルだがスタイリッシュな白いケーキ、それから透き通った紫が美しいワイン。相方の色とその推しの色で彩ったテーブルを目にした時、隼は子供のようにはしゃいで喜んでくれた。
海より一年遅れて人生の転換期となる節目の年を迎えた大切な相方は、相も変わらず旺盛な好奇心と無邪気さを兼ね備えていて、海は何となくほっとした。誕生日を迎えたからといって急に人格が変わるわけもなく、自分の時だって何かが変わったわけでもないのだから、そんなことを心配するのは無意味だ。今は人生百年時代と言われていて、人生の折り返し地点にだってまだまだ遠い。それなのに過ぎる時間は今までよりも格段に早くなって、言葉通りあっという間に去っていく。
次の十年はどんな時間になるのだろう。変わらないものも、変わっていくものもきっとある。けれど相方や仲間たちはおそらく、皆で一緒に歩いている。
(この二人は、どうなっていくんだろうな)
パーティーもたけなわというところで、毎年と同じように黒の王様が満を持して登場した。
始がこのタイミングで来ることは最初から分かっていたから、海たちは彼と入れ替わりに解散という運びの予定だった。しかし、事件はそこで起こった。推しからの思わぬプレゼントに隼はあっけなく倒れたのだ。刺激が強すぎたらしい。始はちょっと残念そうな顔をしてその刺激物──ラムレーズンフレーバーの某アイスを海に託した。
苦笑しながらそれを冷凍庫に入れた海は、隼がなかなか起きないことに焦りを覚え始めた。このまま相方が目覚めなかったら、始は自分の部屋へ帰ってしまうのだろうか。普段は完全に解散したあと、彼らは隼の部屋で改めて二人で過ごしている。こんな状況はイレギュラーだった。
隼が復活するまで、なんとか始を引き留めた方がいいのだろうかと悩む。ここでもし始が帰ってしまったら、目が覚めた隼は悲しむだろう。完全に意識を飛ばしてしまった自分のせいなのだが、今年の隼はいつも以上にはしゃいでいたので、そのテンションで推しの攻撃を受け止めきれなかったようだ。自業自得と言ってしまうのは可哀想だった。何しろ今日は彼の誕生日なのだから。
ふと顔を上げた時、始がテーブルの上の紫色のワインをじっと見つめているのが目に入った。
「気になるか?」
「ああ、綺麗な色だな」
「お前も飲むか?」
「……いいのか?」
ちょっと驚いた顔をされて、海の方が驚いた。プロセラメンバーだけで祝う時間は十分に楽しんだし、グラビのメンバーなら誰が乱入してくれてもむしろ歓迎だと思っている。今さらというやつである。最早遠慮をするような間柄ではない。プロセラのメンバー全員がそう思っているのは確実だ。
それに今はなおさら、始を引き留められる口実ができて渡りに船だった。
「遠慮なんていらないって。一緒に飲んで隼を祝ってくれよ。グラス持ってくるわ」
「これでいい」
海が再度キッチンへ行こうとする前に、始はテーブルの上のグラスを無造作に持ち上げた。それは隼が口を付けていたもので、中身がわずかに残っていた。気にしたそぶりも見せない王様は、躊躇いもせずグラスの液体を一気に呷る。
「あっ、ちょ……」
ワインはそんなふうに飲むものではない。しかもその銘柄は度数もそこそこ強い。案の定喉を焼かれたらしい始は盛大に顔を顰めた。けほっと小さく噎せ込んだあと、空になったグラスをずいっと海の目の前に差し出した。これはもう一杯寄越せという意思表示だろうか。視線を上げれば、始は若干赤くなった頬でじっと海を見ていた。
(……あ。もしかして)
隼が倒れたので手持ち無沙汰になってしまい、どうするべきかと悩んで困っているのかもしれない。彼は隼が起きるまで、きっと待っていてくれるつもりなのだ。
急に微笑ましくなって海の頬が緩む。唐突にニヤついた海を、始は今度は不審そうな顔で見てくる。すまんすまんと心の中で謝罪をして、差し出されたグラスにワインを並々と注いでやる。すると始は揺れるワインの水面を何やら真剣な顔で眺めてから、普段酒を飲むよりもずっと早いペースで飲み始めた。
「そんなに勢いつけて飲むとあっという間に回るぞ? 気に入ってくれたなら嬉しいが、何か食べるか水を飲むかしないと」
「たまたま目に入ったコンビニにあったんだ」
「ん?」
グラスから口を離し、始は少しとろんとした目で紫色の液体を見つめた。
「仕事から帰る途中で。今日は事務所には寄らず、現場から直帰だったんだ」
「おお?」
若干呂律も怪しい気がする。始は酒に強くはないが、グラス一杯も行かないうちから酔うこともない。
「タクシーに乗ってて、途中でコンビニが目に入って、そういえば去年はここには来てなかったなって」
珍しくまったく要領を得ない始の話に、海は辛抱強く耳を傾けた。
「ここならもしあったとしても、溶ける前に持って帰れると思って」
「あー、ダッツさんの話か!」
えらく迂遠に話すものだから、すぐそこに話が繋がらなかった。こくんと頷く始に、海はすべてを理解した。
(なるほど、だからちょっと嬉しそうにしてたのか)
たまたま入ったコンビニで当たりくじを引いた。そんな感覚だったのだろう。その喜びを分かち合おうと意気揚々とプロセラルームへ乗り込んできたものの、肝心の隼は推しの過剰摂取であえなくダウン。感情の行き場を失った始はプチヤケ酒という流れになったわけだ。
「隼は最上級に喜んでるから、安心して? 始」
じっと成り行きを見守っていた涙が口を開くと、それを皮切りにしてプロセラメンバーたちが口々に始を激励し始めた。おそらく皆、海と同じように考えていたのだろう。隼のために。
「何を安心するんだろう……? それはともかく、俺は隼さんが心から喜んでる姿を今年も見れて嬉しいですよ。来てくれてありがとうございます、始さん!」
「そうですよ! ラムレーズンってあったりなかったりしますし、隼さんはすごく嬉しかったんだと思います……! きっと今年は当たり年ですね……!」
「そのフォローはちょっと意味わかんねえわ、夜」
「……う」
その時微かな呻き声が聞こえて、ラグの上に倒れ伏したままでいた渦中の人が目を覚ました。
「あ、噂をすればなんとやらですね。隼さん起きたみたいですよ!」
「良かった。無事に復活できたんだね」
「朝まで寝てたらそれはそれで面白いけどな」
「陽、さすがにそれはちょっとひどいような……?」
始はすくっと立ち上がるとキッチンへ行く。先ほど海が冷凍庫に入れた例のカップアイスを取り出して戻ってくるのを、海たちは固唾を飲んで見守った。
始はテーブルを通り過ぎると上半身を起こしかけていた隼の元へ行き、そのすぐ側に座り込む。そしておもむろに隼へと問いかけた。
「食べるよな?」
「えっ、始?」
「食べるよな?」
「はっ、ハイ!」
まだ頭がぼんやりしている様子の隼へたたみかけると、始はアイスの蓋を取ってスプーンで掬い、隼の口元へと運ぶ。隼はわけが分からないながらも咄嗟に口を開く。そこへ容赦なく銀色のスプーンが突っ込まれた。
「美味いか?」
最初は驚いていた隼も、口の中に広がる好物の味にふにゃっと頬を緩めた。
「ん、んっ……。ラムレーズン、僕も久々に食べたのだけどやっぱり好きだなあ。口に入れた時にふわりと香るラム酒の風味が豊かな味わいを醸し出して素晴らしいよね」
「そうか。ほら」
「あ、あれ? これは夢の続きかな? ちょっと待ってね。今僕は何をしていたんだっけ……? 幸せな世界に溺れる夢を見ていたような……?」
「ほら」
狼狽える隼へ、始は再びアイスを掬って差し出す。隼はまたもや習性のように口を開け、始がそこにスプーンを突っ込む。アイスを舐めた瞬間、ふにゃっとなる隼の顔が気に入ったのか、始はさらにアイスを突っ込もうとした。
「ま、待って始。あーんしてくれるのは嬉しいのだけど、アイスを買ってきてくれたのも何もかもが嬉しいんだけど、連続でそんな高レベルな接触をされると僕の意識が持たなくて……っ、はうっ!」
何かが一杯一杯になって限界をぶっちぎったらしい隼は、再びがくりと気絶した。アイスを持ったままの始が倒れていく彼の身体を器用に受け止めて、自分の膝の上にその頭を乗せた。
膝枕に見せかけたがっちりホールドな体勢に、絶対逃がさないという意志を感じて海は戦慄した。これから何か恐ろしいことが始まるのだと。
「隼、起きろ。まだ食べるだろ?」
「う……、猛毒と言う名の幸せが僕を包み込む……ハッ、ここは……始の膝枕?!」
「ほら、口開けろ」
「は、ハイ! うっ……これは致死量……」
「あ、隼がまた死んじゃった……。さすが始、用法も用量も関係ない、これが強者のルールなんだね」
「涙、物騒! 物騒だよ! 倒れはしたけど世界からログアウトはしてないからね?! 多分だけど!」
「スマートな捕獲からの流れるような攻撃……。状況に相応しい行動、なるほど……これがTPOということなんですね!」
「夜さんまで何言ってるんですか?! あの、もしかして皆さんしっかり酔ってます?」
「俺は正気だから安心しろ、郁。ていうか何気に俺のメッセージをネタにしてくんな! 俺の求めてる平穏はそういうことじゃないんだよ! そんでもってさすがにつっこむわ。俺らは何見せられてるわけ?!」
「始のやつ、ラムレーズン見つけられたのがちょっとどころじゃなくよっぽど嬉しかったんだろうな。あんなにはしゃいで」
もうどうにでもなあれと海が笑えば、「そ、そうなんでしょうか」と郁が若干引いたような顔で引き攣り笑いを返した。その間にも隼が落ちては始が起こし、すかさずアイスを口に突っ込むということを繰り返していた。
最初は呆気にとられていた全員だったが、何度も繰り返されるうちに始は実はものすごく酔っているのではないかという疑惑が沸いた。なおかつ怒っているかもしれない可能性も浮上してくる。我らがリーダーの生死を弄ばれている様を見て、海は荒ぶる神獣の前に供物を捧げている村人Aのような気分にもなった。神よ、何卒怒りをお収めくださいと祈るやつだ。
「……なあ、海」
「どうした? 陽」
神妙な顔で振り返る陽に、言いたいことは分からんでもないと海は頷いて返す。
「アイツ、始さんを怒らせるとかなんかしたのか?」
さすがの陽も、リーダーの末路が心配になったらしい。
「いや、直近ではなかったと思うけどな」
昔の始は、イラついたら即鉄拳制裁をしていた。そんなことを懐かしく思い出す。今もその即物的な行動力は変わっていないのだが、アンクロの代わりに目の前の光景ような、謎の行動を起こすところをよく見かけるようになった。
パッと見では怒っているのかじゃれているのか、判断が難しいこともある。どちらにせよ触らぬ神に祟りなし、馬に蹴られて死ぬのは御免だった。
「じゃああれは……、始さんのただのお戯れ、というやつなんでしょうか」
「猫が肉球でころころするやつ、だね」
「想像したらちょっと可愛いかも……?」
「じゃれつき方がダイナミックすぎるわ! ……まあ弄ばれてる本人は幸せそうな顔してるし、このままほっといてもいいんじゃね?」
そこで陽はチラリと海を見やる。視線の意味をすぐに理解した海は、ぱんと手を叩いた。
「んじゃまあそういうことで、俺たちはここらで解散するか。片付け班ー!」
はーい、と夜と郁がテキパキと食器類を下げ、陽と涙がテーブルを拭いたり簡単にリビングの掃除をする。その間も始と隼は飽きもせずに神々の戯れを繰り広げていた。
昔の皆であれば、始がこんな行動をすることにいちいち驚いただろうけれど、今はちょっと酔った始がささやかな奇行をしてもさらりと受け流す。海としてはいちゃつくなら部屋でやってほしいというのが本音ではあるが、特別な日の主役が幸せそうにしているのを見ることはやっぱり嬉しいのであった。
掃除を終えたあとは、二人を残して共有ルームへ続く廊下へと出る。静かにドアを閉め、五人は部屋に戻るべく無言で廊下を歩く。誰も何も言わなかったが、誰も彼も楽しげな雰囲気を纏っていた。
最後におやすみ、と声をかけて海は自室へと帰った。
***
アイスが空になった頃、始ははたと正気に返った。
今年こそはと探していたものがあっさりと手に入った達成感で、盛大に浮かれていた。あまりに気分が良くて、その勢いのままついいろいろと自由気ままに振る舞ってしまった自覚はある。一応、中途半端に入れたアルコールが大体の原因だと言っておく。酒のせいにするとは自分も大人になったものだとどこか他人ごとのように感心した。
でも、と始は不満たっぷりに呟く。
目の前で転がっている男より、今の自分は年下なのだ。少しくらいわがままに付き合わせて困らせたっていいだろう。本日の主役を蔑ろにするつもりはない。けれど年越しまでのほんのわずかな短い間。その間だけなのだからいいじゃないかと、どうしてか今年は思いっきり甘えてみたいだなんて思ってしまった。
そう思う理由は実は分かっている。人生の大きな節目を迎えた彼の背中が、いつものこの時期以上に遠く感じたからだ。前回とは確実に違う。去年までは、お互いにまだ二十代だったのだ。今、二人の間に横たわる川は果てしなく広い。天の川のようだなんて言ったら大袈裟に聞こえるが、心情的には比喩でもなんでもなく、本当にそれくらい遠いのだ。
だから振り向かせたいだなんて、言わなくたって彼はきっと始を待っていてくれるだろう。
置いていかれる気がするなんて、どうしてこんなに心細く思うのかが自分でも理解できない。けれど捕まえていなければと焦る気持ちが、始の突飛な行動を助長した。
年を越せば否が応でも二人はまた同じ位置に立つというのに、焦る気持ちなど少しも要りはしないのに、心が逸って仕方ない。
特別なことでさえ日常へ変わっていくというのに、さらに特別に思うことが次々と姿を見せては始を惑わせる。でもそれは一人では決して見ることが叶わない現象で、特別な相手がいるからこそ、様々な欲求は湧き上がるのだ。
隼の好きなものを買って、彼の喜ぶ顔が見たかったのも本当で、気を引きたかったのも本当だ。結果はぐだぐだになってしまったが、心細さは消えていた。普段通りの態度、普段通りの会話。何も変わらないありふれた日常が、目の前にはただ広がっている。
急におかしくなって少し笑ったら、隼が小さく呻いて本日何度目かの覚醒を果たした。
「はぁ……、誕生日が命日になるかと思ったよ……」
プロセラの共有ルームにはいつの間にか二人だけが残されていて、隼が深呼吸する音がやたらと耳に響いた。
そういえばプロセラパーティーのお開きに居合わせるのは初めてかもしれない。普段は、彼らが解散して隼が部屋に戻ったあとに訪うのが常だった。この会場に顔を出してプレゼントを先に渡すことはあるが、その時はすぐにお暇するようにしている。いつもは遠慮していたのに、今年に限って居座ってしまった。
ちょっと恥ずかしくなってそっぽを向いていたら、始、と呼びかけられた。
ちらりと声の主に視線をやるが、始はすぐにまた逸らしてしまう。
「……部屋に行く?」
「行く」
戻る、ではなく行くかと訊かれれば、複雑な思いとは裏腹に即答していた。隼は小さく笑い、立ち上がる。始もそれに倣い、先を歩いていく隼の後ろへ追従した。廊下を歩く二人は無言だ。彼の背を追う短い道のりを歩き終え、通い慣れた部屋へと入る。
今年はずっと暑くて、十月に入ってさえ夏のような日があった。今月はさすがに秋らしくなってはいたものの、寒いかと訊かれればまだ涼しいくらいといった具合だった。有り体に言えば暑くも寒くもない、丁度過ごしやすい気温。始の苦手なエアコンがいらない程度の心地よさ。
それでも始は隼の部屋へ行く。暑くはないし、寒くもない。自分の部屋でだって快適に眠れるだろう。だけどもうそんなことは関係ない。始が隼の部屋を訪うのは、あの居心地の良いベッドで眠るのは、もうただの日常なのだから。
部屋に入ると隼はリビングのソファへ座り、タブレットを手に取った。身内とのパーティーのあとで、こうして隼へと寄せられた祝福の言葉の数々に目を通すのも毎年の行事だ。
こうして無言でいる時間は嫌いではないが、今年はそれでは物足りない。始は隼の隣へ身体を捩じ込んだ。三人くらいは優に座れるソファなのに、隼へ密着するようにして一緒にタブレットを覗き込む。隼は少し驚いた顔をしたが、ふっと息を漏らすように微笑んだだけで何も言わなかった。
隼が液晶画面へ指を滑らすたびに、幸せな言葉たちが流れていく。それを見てなんだか誇らしい気持ちになっていく。知らぬ間に始の口元にも笑みが浮かんでいた。
「珍しいね、君がこんなに構ってくれるのは」
「別に意味なんてない」
有りすぎるから言葉にするのは面倒だ。でも伝わればいいだなんて、また我儘を振りかざしている。
「そうかい? 人に慣れない猫に懐かれた気分で嬉しいよ」
「俺は猫じゃない」
「分かっているよ。でも、君がこんなふうに甘えてくれるということを知れたのが、今日という日で僕は幸せなんだ」
「甘えて、なんか……」
「君より先を歩いて君を待つこの時間が、ずっと心細かった」
視線は液晶に向けたまま、始はぴくりと耳を動かす。もう文字なんて認識していなかった。
「でも今はね、君よりも先の場所で君を迎え入れられることが誇らしく思えるんだ。今日から少しだけ君と僕は離れてしまうけれど、もう不安に思ったりはしない。だってまた君に出会えたその時は、新しい時間を一緒に二人で始められるんだ。これってすごいことだと思わないかい?」
「…………」
何と返したらいいのか、咄嗟には言葉が浮かんでこなかった。黙ってしまった始へ微笑みを向ける隼は自信に満ちているようで、自分よりも遥かに大人の男に見えた。
「一年が巡るたびに再び君と出会い、何度でも新たな時を始められる。わずかなひと時でも離れてしまうのは寂しいけれど、寂しいと思うからこそ、次に会えた時もしっかりと手を繋いで行こうって願うんだ」
じわりと目元が熱くなって、始は隼の肩口に頬を押し付けるようにして顔を伏せた。アイスに一喜一憂していた人間と同一人物とは思えないその言葉。こんなのはずるいと、文句を言おうとして口を開きかけた時。
「だからね、始。僕のことを隼お兄ちゃんって呼んでくれてもいいんだよ!」
「────は?」
言おうと思っていたことをすべて忘れて、始は胡乱な目付きで隼を見た。何の脈絡もなく会話が逸れたことを受け入れられずにいたら、隼は頬を赤くして始を見つめ返した。
「だって始がこんなに甘えてくれるなんて、これはもう僕をお兄ちゃんと認定してくれたからに違いないよね! 一ヶ月ちょっとの短い期間だけど、僕が年上で始が年下という素晴らしすぎる夢に溢れたシチュエーション! 用法用量は大切だけど、博打を打ってこその人生だよ! 生涯の推しがそこにいて僕を見てくれるなら、TPOすら僕の前では無力なのさ。だってそこに扉を作って二人の世界にすってんころりんと転がり込めばあら不思議! 世界の常識は僕の前では塵に等しく消えてしまうのだからねえ!」
「……お前、コンプライアンスは遵守しろよ?」
そもそも何で突然兄なんだ。唐突な話題転換についていけてないまま始が首を傾げると、隼が抗議の声を上げた。
「だって始、春のことは春兄って呼んでたよね?!」
「何の話……、ああ、合同舞台のあれか」
以前演じた舞台が学園物で、始は学生、春が教師の役だった。春は当然学生の始よりもうんと年上で、それどころか駆や郁が同い年という常にはない新鮮な設定で、始自身も非常に楽しんで演じていた。春は、始が子供の頃にお兄ちゃんと呼び慕っていた相手だった。けれどあれはあくまでも脚本にあったからそう口にしただけだ。
「うらやましい! 僕も隼兄って呼ばれてみたい!」
「舞台の上での話だろう。台本にそう書いてあったしな」
やだやだと子供のように駄々をこねる隼を見ていたら、先ほどまでの大人なイメージがガラガラと音を立てて崩れ去っていった。原型を留めず粉々になったところで始はひとつ大きなため息を吐く。ついさっきまでの自分は、一体何をそんなに不安に思っていたんだろうと冷静に思い返した。
本当に何も、何ひとつ変わることなんてない。
「……そろそろ寝るか。お前も風呂に入るだろ? 俺も、」
そこで始はちっと舌打ちをした。
本日は仕事帰りに直通でプロセラパーティー会場へ特攻したので、始はまだ部屋着ですらなかった。一旦自室へ帰り、バッグの中身を片付けて入浴を済ませ、着替えてからここへ戻る。その手順がとにかく億劫だった。ワインのアルコールがうっすらと残っていて、ちょっとハプニングもあったが気分は悪くないし、そこはかとなく眠い。このまま寝室に直行して寝てしまえたらいいのにと思う。
「いちいち風呂へ入りに戻るのは面倒だな。今後は着替えを常備しとくか……」
ぶつぶつと呟いたあと、ひとまず部屋に帰る旨を告げようと隼を見たら、彼は目を見開いて始を凝視していた。何で突然そんな反応をされているのか分からず、疑問に思いながらもまた来ると伝えると、彼はぎこちなく分かったよと返事をした。枕の前に着替え、とか何とか意味の分からない言葉を繰り返していたが、用事をとっとと片付けようと始は隼の部屋をあとにしたのだった。
「おかえり、始」
再び隼の部屋へ戻ってきた時にそんなことを言われてちょっと動揺した。これではまるで、ここが始の部屋みたいだ。最近は夏だけでなく冬もかなり入り浸っているのであながち間違ってはいないのかもしれない。今日は特別な日ではあるが、普通に自分の部屋で快適に寝れる程度の気温なのに。それなのにここへ来てしまう。
隼の方も夜着に着替えており、あとはもう寝るだけの状態だった。隼に着いて寝室へと入れば、もう既に枕が用意されていた。それを当然だと思うのと同時に、妙に恥ずかしさを感じてしまう。また隼の背中が大きく見えた。大人の男の、背だ。
布団に入れば、いつのもサラサラとした肌触りのシーツが心地良さで始を迎えてくれる。枕も丁度いい高さと柔らかさで快適だった。すぐに眠気が来て、意識が落ちようとしているところで右手にぬくもりを感じた。隼が始の手を握っていた。
ふとつい先ほどの疑問が頭を過ぎる。深掘りするほどのことではなかったが、始は何となく訊いてみたくなった。
「なあ隼。何でそんなに兄って呼ばれたいんだ?」
「それはね、始。春がうらやましかったからです!」
「…………そうか」
すごくどうでもいいなと思って再び意識を手放そうとしたら、「待って!」と悲痛な懇願が響いた。
「一回だけでいいから隼兄って呼んでほしい! お願いします!」
「……お前は俺の兄じゃないし、俺はお前の弟でもない」
「そこをどうにか……、ヒェッ……! は、始……?」
煩わしいので騒いでいた隼を捕まえて抱きしめた。適温の体温が気持ち良くて、始は大きく息を吐き出す。気温が何度だなんて考えるのはもうやめにした。気温なんてどうでもいい。ただ、この体温が心地良いから自分はここにいる。ただそれだけだ。
「うるさい黙れ」
「うう、ごめんなさい……」
しょんぼりとする隼の背中を撫でたら、彼はぴえっと変な声を出した。
「……仮に本当に兄がいたとしても、俺は兄弟とこんなことはしない」
「………………え」
また驚きに彩られたその目をちらりとだけ視界に入れたあと、もう限界だとばかりに始は全身の力を抜いて睡魔に身を委ねた。
「あのね、始。アイスも本当に嬉しかったのだけれど、やっぱりどんなものより、僕は君の言葉が────」
最後の方は意識が遠すぎて聞き取れなかった。必要ならまた話せばいいと心に留めておく。明日の午前中は休みを確保した。隼も休みだから、朝までは二人でありふれた日常の中にいよう。