月日重ねて
楽しい時間も終わりが来る。
毎年のこととはいえ、一年の中でも特に楽しみにしているイベントが年明け早々終わってしまうのは、ちょっと残念な気持ちになる。
毎月が誰かの誕生日だから、ユニットを結成してからというもの、月一で特別なパーティーが繰り広げられてきた。たまに仕事で折り合いが付かないこともあったが、極力その日には仕事を絞り、全員で集まれるようにしていた。そんなわがままを聞いてくれていた月城や黒月がどれだけ尽力してくれたのかということは、ある程度業界経験を経てから知った。
駆け出しでも売れっ子でも、芸能界というところは自分の希望通りにスケジュールをコントロールすることは難しい。学生の時はそれでも周りが配慮してくれていたのだが、ある意味特権でもあった学生というくびきから解き放たれ、社会人となってしまえばそれももうない。
そしてその頃にはありがたくも引く手数多のアイドルへと成長していたので、とにかく忙しかった記憶がある。泊まりのロケなども、この頃からぐんぐんと数が増えていった。
そんな中で全員が揃うという状況は、まさに月城と黒月という敏腕マネージャーの努力の賜物であったのだ。彼らにしてもこの月一のお祭り騒ぎが、ユニットメンバーたちのモチベーションの大切なひとかけらを担っているということを、よく理解していたのだろう。
「……俺は本当に、恵まれているな」
何かが足りないと思って燻っていたあの幼い日々は、もう既に遙か彼方の時の向こうだ。今でも満ち足りているとはまだ言い切れないが、満たされる日々を送っているのは確かだった。そんなことを振り返ったりするのもこの日の夜の醍醐味であり、恒例行事だった。
恙無くパーティーが終わり、始は自室へと帰る短い道すがらにもそんなことをつらつらと考える。自室の扉の前まで来ると、隣室の春におやすみを告げて別れる。グラビルームから部屋に戻る際、一番遠いのは始の部屋だから、必然的に全員を見送る側になる。なんてことはないそれも、こんな日はやたらと感慨深く感じてしまうのだった。
部屋のドアを開ければ、室内はしんと静まり返っていて暗い。窓から入るわずかな街灯の光が、申し訳程度に薄暗く壁や床を照らしているだけだ。暖房なんて付けていないので当然寒い。いい気持ちだったほろ酔い加減が一気に醒めてしまう。
共有ルームで騒いだあと、気分よくそのまま寝落ちしていた時期もあったが、いつからかきっちりと区切りを付けて解散するようになったのは、主に自分の事情である。だからしんみりした部屋の空気に水を差された気分になっても、黙って甘受するしかないわけだ。
いつもより何故か少しだけ寂しい気持ちになった始は、室内の照明も暖房も付ける気にならなかった。リビングのソファへおざなりに座る。この部屋に隼がいれば快適なのにと、ふと頭によぎったのはそんなことだった。
「そういえば、いつもこちらから押しかけるばかりだったな……」
隼の部屋へはしょっちゅう入り浸っているが、彼がこちらへ訪うことはほぼない。押しかけてばかりでこちらの手の内を見せないのは、秘密を隠しているみたいでフェアじゃない気がする。そんなことを考え、ぼんやりとした脳内で漠然と、隼が訪れてきた場合のシミュレーションをしてみる。
「寝室はベッドが一人用だから狭いか……。いや、新もホラーを見て怖がって泊まりにくる時は一緒に寝ているな。二人で寝て寝れないことはないし、狭いのは別に嫌いじゃない」
でも、とすぐに反論するもう一人の自分がいる。それはそれで構わないけれど、あの寝心地の良いベッドで寝たいのだ、と。微妙な距離感で駆け引きを楽しみながら、あの沼に埋もれてしまうのが最高に気持ちいい。
当然今夜もこれから行く予定だった。寒いし、なにしろ理不尽に特権を振りかざせる日なので、始はいつにも増して横柄に隼のところへ押しかけるつもりである。だがそんな意気込みとは裏腹に、益体もない考え事が次々に脳内へなだれ込み、ゆるゆると手足が重くなっていく。
あのベッドに辿り着くまでには、風呂に入って寝間着に着替えて、という面倒なミッションが立ちはだかっている。ひどく億劫だ。
「ああ、隼の部屋に着替えを置いておこうと思っていたんだったな」
着替えが常備されれば、わざわざここへ戻る必要もなくあの部屋に居られるのだと。
今からでも着替えだけ持って行けばいいのではないかと、素晴らしい案が酔いのうっすらと残る頭に浮かんだ。しかしそこでまた素朴な疑問までが一緒に浮かび上がり、起き上がろうとしていた始の手足から力を奪った。
隼の部屋の浴室はどのような構造になっているのだろうか、という至って些細な疑問だった。いつもは自室で風呂に入ってから、もう寝るだけの状態で隼の部屋を訪れている。本当に寝に行くだけという格好だ。なので浴室を借りるという機会はこれまで巡ってこなかった。
一度考え出したらどんな内装なんだろうと、始は今さら興味が湧いた。すぐにでも彼の部屋へ行って確認すればいいだけであるのだが、ぼやけた思考は斜め上の方向へ飛ぶ。リビングも寝室も、他の部屋とは構造からして全く異なっている。そんなあの部屋の浴室だけが他と同じということはあるまい。リビングの内装から連想するなら、西洋の猫足バスタブみたいなものが鎮座しているのかもしれない。いかにもあの部屋に似合いそうだ。そこまで来たら、逆に寮の外観が白亜の城でないことの方が不思議に思えるくらいだ。
想像の中で寮が城になってしまったことがおかしくて、始はふふっと笑った。
ならば見に行ってやろうじゃないか。ようやくその結論へ辿り着き、着替えを抱えて今すぐ部屋を出ようと決意したものの、やはりどうしてか腰が重くて上がらない。再びぼんやりとしてきた時、視界の縁にあった姿見がきらりと光った気がして、おもむろにそちらへと視線を移す。
鏡の中の自分はなんだか冴えない顔をしていて、何をそんなに疲れているのかと始は苦笑する。
アイドルの外見というものは非常に大切で、寮に入って間もない頃に等身大の姿見を購入した。最初は大袈裟なと思ったが、人に見られる前に自分でどこが良くて悪いのかを見れるようになれと社長に言われたことを思い出す。
アイドルは見た目だって立派な商品になるのだから、それを維持することはこの職業の義務なのだ。なるほど、と思いながらそれなら最初から寮の設備として設置してくれればいいのに、とズボラに思ったのはここだけの話だ。自分で購入するように社長が仕向けたのは、おそらく自覚を促すためだったのだろうと推測している。
春や葵は自分と同じくシンプルな鏡を置いている。新と恋の部屋には、彼らがこだわって選び抜いた姿見が置かれていた。駆はやや個性的な鏡だった(選んだ基準は美味しそうだったので、と言っていたが始には意味が分からなかった)。
隼の部屋には鏡なんてあっただろうかと思いを巡らす。知っているようで知らないことがまだ多いことに気づいて、何故だか少しショックを受けた。これではまるで本当に寝室だけが目当てみたいで、ちょっとした羞恥を覚える。
訪れる時は大抵夜で、その時間帯のあの部屋は間接照明に彩られている。室内の装飾も柔らかなオレンジの光に溶かされて、風景がぼやけたように視界へ映るのだ。朝は朝でバタバタと一目散に出て行くので、リビングをじっくり眺めたりはしていない。
「…………」
いくらなんでもそれは、とか自分は一体何をしているんだ、などと過去の行動を振り返り、さらに恥ずかしさが増した始が鏡の中の自分を思わず凝視した時、鏡面がうっすらと光った気がした。幻覚が視えるなんて疲れているなと感じた時、きらりと反射したそこには隼の部屋が映った。
見慣れた部屋のリビングのソファ。温かな照明の明かりに包まれた室内で、そのソファにゆったりと腰掛けていた隼。彼は目をまんまるにして鏡越しに始を見ている。
こんな角度で映る場所に鏡のようなものなんてなかったと思う。記憶を掘り起こしながら、始はあれほど動けなかったソファから自然に腰を上げて、鏡の前まで歩み出る。すると隼も驚きつつも始と同じように立ち上がって鏡の前に来るものだから、鏡合わせの動きがおかしくて始はクスッと笑う。
面白い夢だ。
(さすがにこれは、夢だよな?)
それなら、自分のやりたいようにできるのだろうか。
始は、鏡を隔てて向かい合わせに立った隼へと手を伸ばす。指先は音もなく鏡面をすり抜けると、鏡の向こう側に現れる。それを見てギョッとした隼の腕を掴むと、思い切りこちら側へと引っ張った。傾いた隼の姿が鏡面へぶつかる瞬間、吸い込まれるようにすり抜ける。彼の腕を引いたままの始が二、三歩後ろへ下がれば、隼の姿が鏡面を超えて始の部屋へ現れた。
愉快な気持ちになって、始はさらに笑った。
「始?! なんだってこんな無茶を……ああっ、もしかして結構飲んじゃってるのかな?!」
「追いついた」
「…………っ」
目が合った瞬間、やっとここに来たんだという思いが急に込み上げてきて、始は隼を引っ張り寄せて抱きしめた。
同じ背丈、同じ肩幅、同じ心臓の高さ。相手のどきどきと鳴る鼓動に自分のそれがぴったりとダイレクトに重なるなんて、なかなかできない経験だと思う。こんなに近しく他の存在を感じることができるのは。
隼の背中に腕を回してぎゅっとしがみついていたら、おそるおそる自分の背中にも腕が回された。じんわりとした温かさが、冷えた背中に沁みていく。
「……冷えちゃってるね。なかなか君の姿が現れないものだから、ちょっと心配してたんだ」
「部屋が寒くて動けなかった」
「えっ、そんな理由で……?! それなら暖房を付ければよかったのに」
「すぐ出て行くのに面倒だ」
「えっ、あっ、うん、そう、なのかな……?!」
始の答えに振り回された隼が、挙動不審気味に声を裏返す。くくっと喉の奥で笑って、始はもう一度、つぶやく。
「やっと、お前に追いついた」
「……うん。君を、ずっと待っていたよ」
今度はちゃんと返事があることに満足する。
「ここからまた始まるんだよな?」
「勿論だよ。君が望むなら何度だって、僕は……」
背中の腕に力が込められ、しっかりと支えてくれる。安心感と温かな心地良さに、じっとりと眠気が湧いてくる。相方の春とは違う、安らぎだ。
春は親友であり同士であり、隣に立ち並ぶ者だ。
では隼は?
自分の心の鏡かもしれない。
そんなふうに思ったのは最近だ。対だのなんだのと長年言われ続けてきたものだから、すっかり刷り込まれてついそんな気持ちになってしまったのかもしれない。
表裏一体。もうひとりの自分というわけではないけれど、常に己の心を映し出す鏡。重なるもの。半身。
そんな大切な存在が二人も傍にいるだなんて、自分は贅沢者だと思っていたら気が抜けたのか、さらに眠くなってきた。先ほどまで感じていた怠さとは全く違う、心身を委ねられる安寧にこのまま囚われてしまいたい。
しかしその誘惑を辛うじて抑え、始は懸命にも踏み止まった。寝るのは隼の部屋で風呂に入ったあとだと気合いを入れ直す。夢だと思っていたがどうやらこれは現実で、自室で寝落ちなんて残念なことになっていなくて心底ホッとした。今日という日の終わりがそんなことになってしまったら、しばらくの間は自己嫌悪で落ち込むだろう。
決意を新たに、始は腕を解いて身体を離した。
「すぐ準備する」
「うん?」
脈絡のない始の言葉に何を、と言いかけた彼を放置して、始は大きめのトートバッグを引っ張り出す。その中へ寝間着にしているスエットの上下を無造作に突っ込む。替えの下着類も同様に引っくるめて、出張用の歯磨きセットも掴んで放り込む。洗顔やシャンプーなんかは借りてしまっても大丈夫だろう。
「歯ブラシもわざわざ用意するのが面倒だな。……これも置いとくか」
「…………えっ」
始はよし、と頷くと、何故か固まっている隼の腕を掴み、鏡へと向かう。鏡面に光はなく、いつものように自室を映すのみだったが、そんなことは関係ない。
「ちょ、始……?!」
始が何をしようとしているのかを察した隼が、慌てて引き留めてくる。
「なんだ?」
「いや、なんだじゃなくてね? 鏡抜けをほいほいするのはちょっと危ないんじゃないかなって思うのだけど」
「さっきお前は来れたんだから、帰れるだろ?」
来れたなら帰れる。キッパリと告げると隼は一瞬黙ったあと、めげずに口を開いた。
「あれは僕の力じゃないというか、ええと、僕の力ではあるのだけど、強制イベントのようなものでね。始のパッシブスキルであるフィールド魔法的な要素に僕の魔力が反応して偶然に境界を繋ぐ扉が……わっ!」
意味の分からないことを言い出したので、始は無視して隼を捕まえたまま、鏡に手を付いた。鏡面は硬いままだ。けれどこれは越えられるものなのだと確信している。
あの場所へ行く。
目を閉じて強く強くイメージする。すると手のひらの感触が硬いものから波打つように変化し、手のひらを押し返していた抵抗が消えていく。
閉ざされていた鏡面は再びきらりと輝いて揺れ、すぐに隼の部屋が映し出された。それに満足した始は、隼を振り返って笑顔で告げた。
「行くぞ」
「えぇ?! こんなことってあるの?!」
鏡面を渡るのは一瞬だ。すぐに光は収まり、始は見慣れた隼の部屋のリビングにいた。振り返れば困惑と驚きを顔に浮かべた隼が立っていたが、その向こうには特に鏡らしきものはなかった。
「ここには姿見がないのか?」
「洗面所にはあるけれど、リビングにはないよ」
「最初に俺が鏡でこの部屋を見た時は、この辺りの位置だったと思うんだが」
「あれは君の力に反応した僕の魔力が一時的に作り出した、擬似的な鏡さ」
「ふうん? なら、また同じことができるわけだ。これなら二階からここまで歩く面倒が省けるな」
なんでもないことのように言えば、隼は目を丸くした。
「待って始、僕の言った内容をサラッと流した上に鏡抜けを普通に扉代わりにしようとするダイナミックな発言! さすがの僕も驚きの連続だよ!」
「何か問題があるのか? ああ、もしかして魔力切れとかいういつもの……」
「さっきのは始に魔力を吸われながら供給されるという状態だったからそうじゃないんだけど、……はっ、ある意味これも無限デスアンドリバース!?」
「なら問題ないな」
「待って、問題しかないよね? 空間を渡るのはそれなりに危険がね、伴うっていうか」
「お前が手を伸ばしてくれるんだろ?」
「え」
「問題ないよな?」
「確かに導き手がいれば目的地には着けるけど、それでいいの……?」
隼は脱力したものの、疲れている様子はない。いくら便利でも隼に身体的負担を掛けるのは始の本意ではないので安心する。鏡の中で道に迷って彼の部屋へ辿り着けないなんて不安は微塵も感じていなかった。けれど心配を掛けるのもまた本意ではないので、便利なその扉の使用は緊急時だけにした方が良さそうであった。
それならばと始は抱えていた荷物を下ろす。中を見て、「あ」と声を上げる。
「どうしたの?」
「タオルを忘れてきた。借りてもいいか?」
「えっ、……う、うん」
「もう遅いし、風呂に入りたい」
「えっ……はい?!」
「どこにある?」
隼に畳み掛けるように早口で話したのは、ちょっとだけ照れがあったからだ。隼は目を白黒させていたが、やがて思考を放棄したような顔をして、ふらふらしながら浴室へと始を案内してくれた。
リビングと寝室の境目ほどに扉があり、中に入るとゆとりのある広さの洗面所が現れる。そこは西洋風にデザインされていて、始が想像していた通りの雰囲気だった。洗濯機が置かれていないことが気になったが、海の日頃の苦労が偲ばれる。その左側はトイレになっており、反対側が浴室のようだ。こんなに長く入り浸り生活をしていたのに、水回りを知らないというのも不思議な話だった。
夜、寝に来るだけ寝に来て、朝になったら起きてさっさと出て行ってしまう。仕事があるため、朝の準備は自室でする方が効率的なのは確かだ。それを加味したとしてもあまりにも露骨な行動で、欲望に忠実すぎると再び頬が熱くなる。隼はどう思っていたのだろう。
いろんな意味でどきどきしながら浴室のドアを開くと、そこにはまったく予想外の光景が広がっていた。
「ここは温泉、か……?」
思いもよらない展開に、ぐちゃぐちゃと悩んでいたことがすべて吹っ飛んで消えた。素で驚いた始に、隼が笑う。
「ふふ、そうだよ。最近改装したんだ」
扉一枚くぐった世界は、ある意味見慣れた和風の浴場だった。
「改装? 前はどんな感じだったんだ?」
改装のレベルは超えていると思われるのだが、そもそもやはり室内の構造が全く違うため、改装だろうが新築だろうが最早それらの是非を語るのはナンセンスだった。
「ここは元々はプロヴァンス風のバスルームにしていてね。猫足バスタブの中で優雅に泡風呂を楽しむ生活を送っていたよ。最近急に実家のお風呂がやたらと恋しくなって、温泉風にリフォームしてもらったんだ」
「すごいな……」
床は一面に石畳が敷かれており、それは壁の方へ続いて腰の高さまで貼られている。その上に続いている壁や天井はヒノキの板になっており、室内には芳しい香りが漂っていた。浴槽は石造りで、二、三人程度なら十分に入れる広さがあった。
「ディアブロにお願いしたんだけれど、彼は本当に素晴らしい職人だよ。さすがはしごできダンボール!」
突き当たり正面の壁は木製框入りのガラスの引き戸になっており、その向こうには小ぶりだが日本庭園が広がっている。視線くらいの高さがある板塀でぐるりと囲まれていて、余計なものは隠され、ただ星空だけが視界に映る。
明らかに都内のビルの三階にあるにはおかしい景色だが、この素晴らしい眺めの前にはそんなことは瑣末な問題だった。
早速入らせてもらおうと始が服を脱ぎ出したら、隼が慌てて「中にあるものはなんでも使ってくれて大丈夫だから」と伝えて出て行った。こんなに広いのだから一緒に入ればいいのにと思いながら、始は一人で堪能できる贅沢を享受しようと思い、借りたタオルを持って浴場に足を踏み入れる。
足裏に触れるしっとりとした石畳の感触に頬が緩む。始が当初想像した浴室とは全く異なる内装だったが、予想外のご褒美を貰ったようで気分が上がった。
温泉は好きなのだ。西洋のイメージが似合う隼だが、思えば隼の実家は京都なのだから、和風のものは好みなのだろう。年初めの儀で霜月家に宿泊したことはあるし、立派な和風のヒノキ風呂を借りたことも何度かある。新しいヒノキの匂いを胸いっぱいに吸って、始は懐かしい気持ちを楽しんだ。
框戸の外に見える日本庭園にも心が安らぐ。これでもし露天風呂があったなら最高だなんて思いながら始は身体と髪を洗い終え、いよいよ湯に浸かる。足の指先がらじわりと感じる熱。ふくらはぎに伝わる熱さで一気に太腿の辺りまでぽかぽかしてくる。少しだけ勢いをつけてたっぷりの湯に沈めば、ざばっと音を立てて水面が波立った。
子供のようにふざけて何度も水面を揺らしたあと、始はふうと息を吐いて目を閉じた。
***
今夜は驚くようなことばかりが立て続けに起きて、隼は今も心臓がバクバクしている。
素人には危険すぎる鏡抜けを、いとも簡単にされたことにも驚いた。心配で心臓が凍る思いをしたのだが、一番どきどきがひどいのは始が風呂に入りたい、と言った時だった。
長年愛用してきた猫足バスタブから実家のような和風風呂スタイルへと改装したのは、気分もあったが一番は彼のためだった。いや、それも語弊がある。正直に白状すれば自分のためだ。
風呂や着替えのために自室へ戻るのが面倒くさい。
つい先日彼がそんなことを言ったから、これはチャンスなのではと思ってしまった。
広々とゆったりできる風呂があれば、始はわざわざ自室に戻る必要もなく、ここにずっと居てくれる。温泉ならきっと喜んで入り浸ってくれるだろう。そんな下心があった。
パーティーが終わる時間は何となく毎回決まっていたから、始がここへやって来るタイミングに合わせて隼はいそいそと寝室の準備をしていた。特別寒くはない夜だけど、きっと彼は来てくれる。
けれど勿論、来ない可能性もないわけではない。ここ数年は以前よりもずっと親密な間柄ではあるけれど、それが絶対的に続くなんて保証はどこにもなく、彼を待つ時間はやはり隼にとっては怖いものだった。だからこそこんな姑息な手段を用意してまで彼の気を引こうだなんて、足掻いてしまう自分が本当にどうしようもない。
だが一度でもそんな未来を想像してしまったら、実行しないという選択肢は隼の中になかった。ディアブロにすべてを任せて完成した浴場(浴室というよりスケール的に浴場と呼ぶ方が適切だ)は、まず手始めに公開したプロセラの面々には非常に好評だった。
陽と郁は窓の外の日本庭園を見て、板塀で囲われた空しか見えないのが逆に怖いだの、都内の景色じゃないだのと散々騒いでいた。だが実際に温泉に浸かってしまえば、そんな文句など些細なことへと成り果てたようだった。
三人ほどが一緒に入れる広さなので、仕事の疲れが癒されると誰かしらが毎日のように遊びに来てくれた。
寂しがりの自覚がある隼は自室が賑わうことを喜んでいたのだが、海に「始は呼ばないのか?」と声を掛けられた。どきっとすると同時に苦笑が漏れる。相方へ心のうちをすっかり見透かされていることに、ちょっとだけ安心感を覚えてしまった。
改装後、たまたま始の仕事が忙しくなって隼の部屋への来訪が途絶えていた。一度途切れてしまうと、忙しい彼へ気安く声を掛けるのも悪いし、とぐるぐる悩んでしまう。何よりも自室のバスルームへ誘うという行為を強く意識してしまって、始にどう思われるのだろうかなんて、そんな葛藤の中へ行き着いてしまうのだ。
始のこととなればいつだって自信がない。けれどとうとう機は巡ってきた。
こんな形になるとは予想外だったし、どこかしらにまだ隼への遠慮があった始が、当たり前のように風呂を使うなんて。
想像なら掃いて捨てるほど何回もしていたけれど、こちらから誘わなければ実現しないだろうと考えていた。その誘い文句を考えあぐねて、グラビメンバーにもまだ声を掛けられていなかった。ちなみにプロセラメンバーは空気が読めるので、隼の部屋に温泉が爆誕したことはまだ口外しないでいてくれた。
無邪気にはしゃいだ様子で目を輝かせ、すぐに服を脱ぎ出した始から隼は慌てて顔を逸らし、タオルを渡すとそそくさとその場から退出した。いずれは一緒にのんびり湯に浸かって、だなんて思ってはいたが、今日のところはこれ以上身が持たないと感じた。
「喜んでくれてた」
楽しそうな始の笑顔を思い出し、ふっと頬が緩む。彼の幸せそうな表情を見るのが何ものにも勝る喜びだ。浴場から逃げるようにしてリビングへと落ち着いていた隼だが、あれこれと考えを巡らせるうちに結構な時間が経っていた。
始が長湯のタイプなのかは残念ながら詳しくないが、さすがに遅すぎる気がして、隼は様子を見に行くことにした。
浴場のドアを薄く開くと、ちゃぷんとわずかな水音がして、始が寝落ちしたりしていないことを確認する。
「始? 結構時間が経っているのだけど、大丈夫? のぼせていないかい?」
声を掛ければ、返事はすぐにあった。
「……隼。気持ちよすぎて出たくない」
普段とは違うふにゃふにゃにふやけた声に、思わず苦笑してしまう。余程お気に召していただけたようだ。
「でもそろそろ上がらないと、沈んでしまいそうだよ?」
「お前も入らないのか?」
「え」
「まだなんだろ? 心配なら、俺が沈まないように隣で見てればいい」
「────っ」
心臓がどくんと鳴る。なんてことを言うんだろうか。こんな誘い文句を断れるわけ、世界中を探したってあるはずがない。
天然なのか、天性の才能なのか。この際そんなことはどちらでも構わない。隼は意を決すると服を脱いで、始が浸かる浴槽へと近付いた。
ヒノキの香りが鼻をくすぐる。やわらかなそれに少しだけ肩の力が抜けて、自分が緊張していたことを知る。実は事前に風呂は済ませてあるのだが、黙っていればいいだけで、そんなものはこの歩みを止める理由にならない。
爪先で湯気の立つ水面へ触れる。波紋が広がり、すぐにそれが始へと伝わる。そんな些細なことにすら動揺してしまう。なるべく平静を装い肩まで浸かるが、その動作で大きく揺れた波が、また始に降りかかる。それが面白かったのか、始はふにゃりと笑いながら両手で湯を掬い、隼に仕返しとばかりにぱしゃんと掛けてきた。
「いたずらっ子みたいだね、始」
「ダメだったか?」
くすくすと笑う彼は、誰がどこから見ても上機嫌だ。頬が結構赤いので、あと数分くらいが限界だろうか。期限付きの短い時間の方が隼には助かる。今だってすぐにいろいろなものが決壊してしまいそうなのを堪えている。それでもこんな時間を持てる幸せに、心は蕩けていってしまうのだ。
「庭園のある場所、露天風呂にはしなかったのか?」
「うん、それもいいなって思ったんだけどね。とりあえずは様子見をしようかと思って」
「様子見?」
「あっ、うん、こちらの話だから気にしないで?」
「もしまた改装するなら、今度は露天風呂がいいな」
これからもここへ来てくれるという意味を含んだ言葉に、隼の目の奥がじわりと震える。
「……うん、そうだね」
「ヒノキの香りの中で星空を見上げて、寒いのに温かい温泉に浸かる。そこでこうやって二人で晩酌でもできたらいいな?」
おとぎ話でもするような夢見る口調で始が語る。框戸のガラスの向こうに映る空を見上げる視線には、焦がれる思いがのせられている。それを眩しそうに見つめて、隼もそんな日が来てほしいと願う。目を閉じて想像する。きっと幸せだ。思うだけで、こんなに心が弾むのだから。
その時、浴場と庭園を繋ぐ框戸がぐにゃりと歪んだ。
「ん? のぼせたか……?」
「違うよ、始! ちょっとだけ離れて!」
ぼんやりした目で框戸へ近付こうとする彼を制して、隼は何事かと歪み続ける框戸全体を注視する。一点を中心にして渦を巻いていく。まるで何かに吸い込まれていくように見えた。ディアブロが造った場所なので、危険はないはずだ。境界面が少しばかり不安定だったのだろう。
ここは試しにと造られた場所なので、空間の定着が緩いのかもしれない。そうこうしているうちに歪みがきつくなっていく。框戸の全面に広がり、庭園が見えなくなる。嫌な気配はしないので成り行きをじっと見守っていると、やがて渦の歪みは逆回転を始め、何事もなかったようにすうっと元の引き戸の形へと戻っていった。
「隼! 露天風呂だ!」
「……え。これはどういうこと?!」
一件落着かと思いきや、歪みの消えた扉の向こうに現れたのは日本庭園ではなく、紛うことなき露天風呂だったのだ。庭園があった場所が、丸ごとすげ替えられていた。
始は疑問よりも感動が勝ったようだ。嬉々として浴槽から立ち上がると、勢いよく框戸を開けて外へ出て行く。
「待っ……」
まだ危険があるかもしれないから、と隼が止める間もなかった。
忽然と現れた露天風呂は、日本庭園を囲っていたものと同じような高さの板塀に囲まれている。だが板塀の高さは少しだけ低く、その分夜空が広く見える。そこには満天の星空が広がっていた。
始はなんの躊躇いもなく露天風呂へ足を付け、ざぶんと一気に沈みこんだ。派手に水しぶきが飛び散り、彼は猫のようにふるふると首を振って雫を飛ばした。
「隼、お前も早く来い!」
「え、えええ……っ」
この部屋の主のはずなのに、隼は全く展開に付いていけずに困惑する。とりあえず危険はなさそうだったが、接続が不安定な以上、こちらへ戻れなくなる可能性だってある。
「ディアブロはこんな注意、一言も……あ、」
そういえば気になることを言っていた。
入浴する度に景色が変わるスペシャル仕様があるのだと。
庭園の風景が変化していくものだと予想していたが、何度か浴場を利用していたプロセラメンバーからは特に何が変わったという報告も聞かなかった。隼が入浴した時も一向に景色の変化は見られなかったので、どういうことなのかと疑問に思っていたのだった。
確率で激レアが引ける場合が、なんて言葉も耳にしていた。
まさか、これが。
「低確率の激レア仕様……?」
それを引き当てるとは、さすがの始としか言いようがない。
「隼、早く!」
衝撃でしばらく動けないでいた隼に、焦れたような声が掛かる。我に返った隼は、急いでそちらへ向かう。
先ほど歪みが発生した框戸の敷居を跨いでも、特に問題も引っかかるものもなかった。始に促されるまま露天風呂へ浸かると、ほわりと全身が温められて、すぐに身体の緊張が解ける。室内の浴槽とは違ってこちらは小さめの石造りであったが、二人で入るには丁度良い大きさだった。
縁に置かれた灯籠の橙の火が、仄かにゆらめき辺りを照らす。頭上にはどこまでも続く星空がある。じっと見上げていると、夜空に落ちていきそうな錯覚を覚える。
「……願いごと、一瞬で叶っちゃった」
そんな日が来てほしいと、そっと願ったのはつい先ほどのことだ。
急に可笑しくなって、隼は笑う。けれど始は、ちょっと拗ねた声でそれを遮った。
「まだ足りないものがあるだろ」
「うん? なにかな?」
「これ」
そう言って彼は、お猪口を口に運ぶ仕草をする。
「ダメ! ゼッタイ!」
熟れたりんごのように頬を赤くしている始に日本酒なんて、飲ませられるわけがない。
「……駄目か?」
「うっ……、小首を傾げて潤んだ目で見つめてもらってもこれだけは絶対ダメだから!」
厳しく諭すと、彼はちっと舌打ちした。ガラの悪さもリラックスが頂点に達しているからだろう。ぷっと隼が笑うと、始も笑った。
酒は次回のお楽しみだが、夢見た通り、そこにはただ幸せが広がっていた。
***
少しはしゃぎすぎた。
この部屋のバスルームに興味があったものの、まさかあんな温泉地帯が広がっているとは誰も思うまい。
なんだそれは、と自分で自分の言ったことに始は笑う。
さらに露天風呂ときたものだ。酒のお供があれば完璧だったのに、そこだけが残念でならない。次回は最初から熱燗を用意して入ろうと心に決めた。
寝室に入るといつものように枕が並べられており、すぐにでも寝られるような状態になっていた。幾許か熱を覚ますため、始はペットボトルの水を煽った。すべて隼が用意してくれたものだが、彼は普段は自分が世話を焼かれる方なのに、始のこととなると甲斐甲斐しさを発揮する。始はといえばそれを当然のように受け取り、我が物顔でこの部屋を占拠する。それがおかしくて始はまた笑う。今夜だけで何度笑ったのだろう。
ふわふわの布団の間へと身体を滑り込ませる。火照った身体には若干ひんやりと感じるそれが、いつもと違っていつもと同じように気持ちがいい。体温が落ち着いてくると、今度はぽかぽかとした温かさを感じる。
隣には半身の気配。
これが幸せじゃないわけがない。
歳を重ねるごとに幸せが降り積もっていく。
おやすみ、と穏やかに言える日がまたひとつ、重なった。