空に零る(途中まで)1.
目が覚めた時、世界はそこにあった。
何もない空っぽの時を経て、温かな雨が零る。
己の手のひらを空に翳せば、透明な雫は指の間を伝い落ち、地面に優しい恵みをもたらした。
やがて雨が止み、どんよりと濁っていた雲の隙間から光が降りてくる。天地が創造される光景は、穏やかで美しいものだった。
瞬く間に眩しい輝きを得た世界には、様々な彩が溢れた。天上には一面の青、大地には終わりのない緑。
この光景を守っていきたい。そんな感情が自然に芽吹いていく。
(始めるんだ、ここから)
────この自分が。
『始まり』は世界に降り立ってゆっくりと辺りを眺める。
そして木の葉から零れ落ちた霊験の宿る雨をひと雫、手のひらの中に収めた。
***
古い都が栄えている。
そこには遥かなる昔から、人間という種族が寄り集まって暮らしていた。
彼らが長い時代を平和に過ごしていたかというとそんなこともなく、人間の歴史とはまさに戦いの歴史だった。
この世界には、人間を糧とする妖という種族が存在する。
妖は無差別に人間を喰らう。弱い人間は妖から身を守るために、武士と呼ばれる種族と友誼を結び、彼らを人間の守護神として頼っていた。
武士は限りなく人間に近い種族ではあるが、人間よりずっと長命であり、その身のうちには底知れぬ強大な力を宿していた。彼らは、妖を討ち祓うことができる特別な力を持っていた。
元々は人間という種族が種を守るために突然変異したものだとか、外見は人間と似ていてもそのルーツは全く別の種族であるとも言われていたが、真相は定かでない。
ただ、武士はある時期を境にそのすべての痕跡を消しており、それ以降末裔たる存在は現在に至っても確認されていない。
(……はあ、たあいくつ。早く終わらないかな?)
豪華な装丁の書物を捲りながら、陰陽師であるならば知らないはずもないその内容を得意げに喋る、どこぞの陰陽寮のナントカという導師。それを横目にしながら、隼はあくびを噛み殺す。
働くのが嫌いな隼でも、さすがにこの場で堂々とあくびするのを我慢するだけの良識は一応ある。
本日は京(みやこ)の中心部にある陰陽府北棟の講殿にて、月例の講会が開かれていた。
月に一度開催されるその内容は、陰陽師たちによる研鑽会という名ばかりの茶番だ。
しかし茶番とはいってもボイコットは許されない。朝廷からの監察使として高官である大納言が訪れることもある、形だけならそれなりに格式高い勉強会なのだ。
数多ある陰陽寮の中から列席者という名誉を得た幾人かが集い、こうして講釈を垂れるのを聞き流す不毛なお遊戯会。有り体に言えば、権力大好きお貴族様たちのマウント大会だ。
講話をしろと言われても断固拒否するが、延々と中身のない話を聞くだけの立場でいるというのも、心底苦痛でしかない。
そして現在上座に座している、陰陽道過激派とでもいうべきでっぷりとした体格の男。視界に入れたくもない彼の次の言葉は嫌というほど簡単に想像がつく。現在では最早伝説上の存在となった、武士という種族を扱き下ろすのだ。
人間の長い歴史の中で武士は忽然と消え、人類を守る役目は陰陽師に取って代わった。その功績をさも讃えられて当然のものとして、威張り散らしている矮小な姿に隼は辟易する。
(陰陽師に転生したのは失敗だったなあ……。でもこの役目に着かないと“彼の人“には会えないし、弥生春をいびって遊ぶこともできないし)
うーん、と難しい表情をしていると、件の導師と目が合った。彼は隼の態度に何故か満足そうにして口の端を吊り上げ、にやりと笑う。
ふくよかを通り越して、ぶくぶくと肉の付いた口角が窮屈そうに上がる。そんな醜悪さを目にしてしまい、隼はすっと無表情になる。
(あーもう! とっても気分が悪くなっちゃった。やっぱり無茶でもいいから海に頼めばよかったなあ……。早く僕を助けに来てよ、かーいー!)
心の中で、隼はため息と共に絶叫する。いろんな意味で脱力しすぎて、床に突っ伏さなかっただけでも褒めてもらいたいくらいだ。
陰陽寮に所属する京の陰陽師たちは、年々凶暴さを増す妖から人間を守るため、こうして日々精力的に研鑽会を行なっている。
だが残念なことに殆どにおいてその内容は、京を守るための技術の共有と向上に見せかけた、暇な貴族たちのただの自慢話と成り果てていた。全くもって無駄な時間の浪費でしかない。そんな観覧席のチケットを手にしてしまうとは、不運にもほどがある。
隼が所属する陰陽寮である白嵐機関は、不幸にも今回の参加者という悲しいハズレくじを引いてしまったのだ。
陰陽寮と一概にいっても、所属する陰陽師のランクによって、その立ち位置は大きく異なっている。京を守護する重要な位置付けの寮から、ほぼ雑用という末端の業務を行う寮に至るまで、朝廷から命じられる内容は実に様々だ。
陰陽師自体はこの京において特別な資格ではない。ある程度の技術を有していると認められれば、出自に関係なく誰でも役に着くことが可能だ。陰陽府の試験に通った者であれば、朝廷より陰陽師として任ぜられるのだ。
妖からこの京を守ることは人間にとっての最優先事項であり、毎年一定数の陰陽師が妖と戦って討死している。妖に抗える術を持つ人間は多ければ多いほど良い。
妖は神代の昔から一貫して変わらず人間を襲い、喰らい続けている。
歴史上、稀に強い力を持った個体が出現することが確認されている。そうした折には、大災害に見舞われたかのような凄惨な爪痕が京へ遺された。
人間側は甚大な被害を被りながらも、その都度根気強く復興し、歴代の帝のもと、今日の京を連綿と守り続けてきた。それは、長い歴史の中で繰り返されてきた記憶だ。
けれども権力が一つどころに集中すれば、内部には否応もなしに歪みが生じるようになる。
この京の中枢に巣食う貴族たちは、いつしか京とその民草を守ることよりも、我が身と権力、家柄を守ることへ必死になった。
庶民でも才能を発揮して陰陽師となる者もいる。お抱えの兵は多い方がいいに越したことはないし、人間が暮らすには当然のことながら衣食住が要る。それらを生産する庶民や農民を確保しなければ、己の生活がままならなくなる。だから彼らは自分より下の身分の家の者たちに、その守護を押し付け合うのだ。
聞くに堪えない公然の醜聞、聞き飽きるほど繰り返す醜聞、そしてまた懲りもせずにどうしようもない醜聞。
誰もが権力の裏側を知っているのに何も言わない。それは近年の妖が凶暴化の一途を辿っているのが原因だろう。
組織の上層部が腐り切ってはいても、現行の体制が崩れれば、立て直すまでに相応の時間が必要となる。
その間に出してしまうだろう夥しい数の京の被害を考えれば、中枢が腐っているからといって、簡単には仕組みを変えられない。
何故なら腐ってはいても、この京、人間の国を統べる者──今上帝は、一応民を守る気があるからだ。
人間の国の外側に妖という共通の敵が存在するからこそ、この京は瓦解せずに済んでいる。
人間の共通の敵が人間を守っているという酷い矛盾。馬鹿馬鹿しさ。
(これだから、人間なんて大嫌い)
講殿には墨と香の匂いが満ちている。畳の上へ列した陰陽師たちは、灯明の揺れる中、静かに導師を見上げている。
もっともその心のうちは何を考えているのやら。確実にろくでもないことに違いない。
早くこの鬱々たる場所から出て、外の新鮮な空気を吸いたい。
隼は御簾の隙間を探し、わずかに覗く空へと視線を移した。せめて目に映るものだけでも、綺麗なものを見ていたい。できれば“彼の人“の顔を眺めたいと切望するが、それは叶わない。残念ながら、今はまだ時が満たないのだ。
かつて一度だけ、正面から見つめ合った彼の人の姿。
曙光のごとく美しい記憶を掘り起こしながら、隼は青空の向こうをぼんやりと眺める。
(今すぐ海の淹れてくれたお茶が飲みたいよ……)
陰陽寮など掃いて捨てるほど乱立しているのに、その星の数の中から指名されてしまうとは本当に運が悪い。
陰陽寮は、京を守護する最重要任務を持った最上位四寮、上位十二寮、その補助と後衛を受け持つ中位二十寮、その他見習いや支援、雑用といった下位の複数の寮からなる。
そのすべてを統括するのが陰陽府だ。ひとつの陰陽寮は陰陽師と式鬼を含む、四人から六人ほどの人数で構成されている。現在は総勢で五百人弱ほど在籍者がいる。
式鬼の数を差し引いたとしても、陰陽師の人数は決して少なくはない。
それなのに何故うちなのか、選んだのは誰なのかと、うっかり呪いを掛けたくなる。
白嵐機関はそもそも朝から晩まで京で起こる異変を監視するという、重要かつ責任重大な任務を負っている最上位四寮のうちのひとつだ。
しかも京を妖から守るための結界の維持までしている上、京の東西南北に一箇所ずつ、計四か所しかない外界との出入口も監視している。
西の白虎──帝より西方鎮護の任を賜った新進気鋭の陰陽寮、それこそが白嵐機関なのである。毎日が多忙であり、こんなところで遊んでいる暇なんてないのだ。
(いっそ“あの時“みたいに、すべてを壊してしまおうか……)
凶暴な衝動は、今でもずっと胸のうちで燻っている。隼の焦がれる人がそれを望まないから、今は脳内で思うだけだ。
だがこの先ずっと待たされ続けていれば、薄氷で覆われただけの自制心など容易く粉砕されてしまう。彼のこととなれば、元々気が長くはない。
邪魔なものを全部全部、綺麗に壊して何も無くしてしまったら、自分と彼だけの世界に二人きりでいられるのだろうか。
知らずにぎりり、と拳が握られていた。
爪が手のひらに食い込む感覚で隼は我に返り、行儀悪く小さな舌打ちをした。
彼の人さえいればそれでいい。いないのならば眠るだけ。
彼の人の願いが自分の願い。それだけがすべてなのだ。
隼が思惟に耽っている間にも、無意味な発表会は続く。人間側の勝手な希望にまみれた痴れ事で語られる虚飾の歴史。隼の愛する彼の人が守り続けた世界への冒涜。
(度し難い愚か者共が。……誰が世界を守ってきたと、)
今度はがりっと奥歯が嫌な音を立てる。
気が長くないのは確かだが、いくらなんでも子供のように短気を起こして暴れたりはしない。
隼の心が掻き毟られるほどの苦痛と怒りを覚えるのは、彼の人のためだけだ。
自分は、彼の人のために存在しているのだから。
普段の仕事は、隼の式鬼である文月海になんでもかんでも任せきっている(丸投げしているともいう)隼だが、今回ばかりは海に代打を頼めなかった。
この陰陽講会はその名が示すとおり、陰陽師しか出席が認められていない。白嵐機関に所属する陰陽師は、隼の他にも葉月陽と水無月涙の二名が在籍しているが、本日は両名とも諸用で各所に赴いている。
なんとも間の悪いことだと隼は再びため息をつく。講殿を破壊し尽くしたい衝動を抑え込みながら文机の上に肘をつく。少し身を乗り出すような姿勢は、端から見れば真面目に講義を聞いているように見えるだろう。
そんなわけで隼は本格的に現状を逃避し、愛しい人へ思いを馳せることにした。
彼の人──睦月始は原初の式鬼、かつて鬼人と呼ばれた武士だった。
幼い頃に始を召喚し、彼と主従の契約を交わした弥生春がそう報告している。しかしそれは真実ではないことを、隼は知っている。
その本質は武士でも妖でもなく、ましてや人間などでもない。
彼こそが世界の始まり、原初の存在。
人間などには到底理解できない高次元の存在であり、この世界そのものだ。
まだ何もかたちを持たない、世界が始まる前の場所を『零』と呼ぶならば、彼は最初の有である『一』だ。
空っぽの場所から世界が始まるとき、天より霊雨が降り注いだ。
その祝福を一身に受け、『始まり』は緑煌めく大地へと降り立った。
彼がその一歩を踏み出すのと同時に、世界には人間が生まれた。そしてそのあとを追うように、どこからともなく妖と呼ばれる者が出現した。妖は人間を求め、喰らった。
時をしばらくして、今度は人間を妖から守る武士という存在が現れた。
世界の在り方はそこで確定し、その環が根幹を成す理となった。
始がこの世界に現れてすぐに、隼の意識もまた生まれた。
始まりがあれば必ず終わりがある。
始まりの対である終わりもまた、始まりのあとを追ってこの世界に現れるはずだった。
だが終わりは人のかたちには成らず、世界が生まれる前の空っぽな場所と、現世(うつしよ)である一の境界に、目を閉じたままゆらゆらと漂っていた。
現世の実体は持たずとも、対の存在が確かに感じられる。だから目すら開かなくても隼に不満などない。それゆえにまた余計なことも考えず、疑問も持たずに隼はその場所で揺蕩っていた。
しかし、ある時期に始の存在がこの世界から消えたのだ。
その頃の地上では、常に人間たちが戦に明け暮れていた。
妖の数が激増し、人間と妖の戦いは時を経る毎に激化していく。人間が支配する領域の外では魑魅魍魎が跋扈する。妖は領域外に迷い込んだ人間を次々と喰らっていく。魂を喰われた人間の器は変貌し、その存在を妖へと歪め、同胞であった人間を襲うようになった。恐ろしい速度で妖は人間を侵食していった。
そんな絶望の時代の中で、鬼のような強さを誇った始は人間たちの希望であった。
武士という種族は少数である上、鬼人と呼ばれるほどの力を持った者は稀有な存在であり、妖の猛攻から人間を守るには物理的に人手が足りなかった。
そこで彼らを補佐するために、妖に対抗できる力を開発した人間が陰陽師であり、陰陽道という技術であった。
陰陽師は祝詞を捧げることによって特別な札や聖物にまじないを施し、それを操ることによる防衛術に長けていた。
高い攻撃力を持つ武士を前衛とし、後方は陰陽師が守る。両者は一対となって戦い、妖の脅威から京を守護した。
その関係が崩れたのは、人間の欲深さを考えれば当然の帰結であった。
時の天子は暗愚にして無知蒙昧な人物であり、自らの権力を脅かしかねない最強の力を持つ武士を恐れた。
彼らの力を完璧なる支配下に置けないのであれば、この世から滅してしまえばいいと。
その頃には陰陽師たちは新たな力を得ていた。
捕らえた妖を使役する能力だ。
祝詞を捧げるのではなく禍々しい呪いを用い、調伏した妖を封じて式鬼として従わせる。
その呪法の対象は妖だけでなく、強力な力を持った種族──武士の魂をも縛ることができた。
陰陽師とは帝に絶対的な忠誠を誓った組織であり、権力者たちは既にその全体を掌握している。彼らが武士の力を手に入れられれば、人間を守りながらも帝の配下には決して降らない厄介者たちを排除できる。
歴代最悪の暗君は、そうしてまんまと武士を表舞台より消し去り、世界を手中に収めたのだ。
(過ぎた力を手に入れた陰陽師共は、武士を卑劣な罠にかけて次々と殺した。武士たちは身内から背中を討たれ、為す術もなく倒れていった。……彼らは始に似て謹厳実直さを兼ね備えていたものだから、背中を預けた相手から討たれるなんて考えてもいなかったんだろうね。その身を削り、人間たちを長きに渡り守ってきた彼らは、あっさりとその存在を消されてしまった。その魂を召喚で縛られ、依代へと封じ込められて、陰陽師共のオモチャにされた。そうして帝は、その力を我が物として振るった……)
帝の別名は天子と言う。天よりの命を受けて天下を治める者とされている。
では、天とは何を指して天だというのか。
帝は本当の天を知っているとでもいうのか?
そんなわけがない。天を知るならば始まりを滅ぼすことが何を意味するのか、それを理解できないはずがない。
最強の鬼人である始は真っ先に狙われた。
彼が凶暴な力を持って暴れていた妖と戦っていた時だった。
人智を超えた力を持つそれとの戦いは熾烈を極めた。始でなければ調伏は不可能だっただろう。
戦いは数日間にも及んだ。その有り様は筆舌に尽くし難い。
辛くも勝利したのち、始は守っていた人間たちからその力を狙われた。
彼ほどの力を持ったものが易々と殺されるはずがない。しかし清冽な意思を宿していた彼は、最後まで人間を信じていたのかもしれない。
実体を持たず、静かな境界に漂うだけの意識体だったその頃の隼は、すべてを見通していたわけではない。断片的に始の思考が流れてくるのを受け止めていただけの存在だった。直に接触して確かめることなど、できるはずもない。
幾度か懊悩する始の声が聞こえた。それは心の痛みに呻吟していた。
隼にはそっと寄り添うことだけしかできない。
そんな状態がしばらく続いたあと、隼は始の存在が忽然と消えたことを感じた。
目覚めてから常に隼と共にあった対の気配。
この世界のどこからもその存在が感じ取れない。
始に何が起こったのか、顛末の枢奥まで読み取ることはできない。隼はただ、世界の悪意が彼を消したことを知った。
始まりが消えた。もうどこにもいない。ああ、この世界も終わるのだ。
隼にはどうすることもできないし、始がいない世界なら最早どうなっても構わない。
彼と共に存在できる幸せな時間が終わってしまったのは悲しいけれど、目覚める必要もまた、感じなかった。終わりが直に滅びを撒き散らさずとも、このまま世界は緩やかに終わっていくのだろう。そう思って漂う白い闇の中、隼は世界を直視することをやめた。
始が消失したあと、間もなく武士の痕跡もすべて消えた。
そうして長い時が流れ、昏君が斃れたあとも陰陽師を抱えた貴族たちが支配する京の構造は変わらずにいたが、再び強大な力を持った妖が現れては人を襲うようになった。
天下を恣にしていた貴族たちは再び力を求めて、あろうことか身内同士で潰し合いの争いを始めた。ようやく世界に滅びの時が訪れるのかと、隼は渺渺たる境界に漂いながら微睡む意識の淵で考える。しかし予想に反して世界は未だ滅ぶこともなく、細々とだが存在を続けていた。
それからさらに無数の夜を越えて、ついに運命の人間が生まれる。
その名は。
(弥生春)
彼は、始の振るった力の一端を宿した愛刀、黒氷輪と邂逅を果たし、その縁を見事に引き寄せたのだ。
失われた始まりが再び現世に現れて、薄暗かった世界の淵が赫光に染まった。
(とっくにこの世界を見限って捨てたのだと思っていた)
始はかつての武士の姿ではなく、式鬼として顕現した。
黒氷輪を依代とする彼は万全ではないようだったが、その強さは現代においても他の追随を許さなかった。
圧倒的な存在感、その光に隼の意識は白い闇の底から引き上げられ、永久に開くことはないはずだった瞼を瞬かせた。
無くしたはずの大切な存在の気配。初めて目に映る鮮やかな世界に戸惑いながら、しかしかたちを持たない意識だけの隼は、そこからどうすればいいのか分からなかった。
喜びに心が震え、動き出したいのに思うように動かせる身体がない。今までは気にしたことのないその状態がもどかしく、彼の人の気配に少しでも近づこうともがく日々。そんな折に、どこからか隼を喚ぶ声が聞こえた。
纏わりつくような何者かの声が呪縛となり、有無を言わさず強制する。”終わりを司るもの、我が召喚に従え”と。
無垢だった存在の隼は実体を持ち、『終わり』として初めてこの世界に顕現した。
直に感じる澄んだ空気、空の色、萌ゆる大地。この地上にはそれはそれは美しいものがたくさんあった。
思考がまとまる前に、隼は感覚に触れるありとあらゆるものを吸収した。ずっと見てきた彼の人以外のものに対する、楽しいという感情を会得した。
現世に召喚された『終わり』──白き嵐はおおよそ人間に想像でき得る規模を超え、示現のごとく世界にその姿を刻みつけた。
何者も抗うことなど一切の無駄であると理解する暇も与えない。人間も妖も存在の起源にかかわらず、唐突に出現した災禍の嵐はただ平等にあるものすべてを無へ還していった。
そしてついに、隼は彼の人と相対することになる。
「ああ、君は……! ここにいたんだね……!」
それは、隼が生まれて初めて発した肉声だった。
驚きで目を見開く彼の人の瞳の中に映っている者が、自分の姿だということを知る。
「っ、お前は……?!」
澄んだ声に直接耳を穿たれて、じいんと脳が痺れていく。
うっとりと夢心地に浸っていると、ふと胸の辺りにチリッとした違和感を覚えた。
「……?」
隼が境界を漂っている時にはなかった物だ。気づいてしまえば、そこに錘を付けられたように重力を感じる。自分の存在が一つ所に縛られている、そんな気配だった。
始の姿を目に焼き付けることに必死だった隼は、億劫そうに自分の胸元へと視線を移した。
そこから伸びる、太い鎖。
「これ、は」
心臓の位置から真っ直ぐに地面へ伸びている。途中で途切れているように見えるが、その端はしっかりと繋がっており、隼をどこかへと繋ぎ止めている。
いくら壊そうとしても解けない鎖に苛々としながら、隼は再び始を見やる。確かめるようにその頭からつま先へと視線を流す。
そして彼の左足に、太い鎖の足枷が掛けられているのを見留めた。隼を縛める物と同じく途中から途切れているそれは、どこかへ繋がっていたのだろう。
ギシギシと音がする。
重力の錘がこれ以上の動きを阻害する。無理をすれば身体が砕けてバラバラになってしまうだろう。実体を失えば、このまま彼の人の元へ着いて行くのは不可能だ。
ようやく出会えた愛しい人。その間を割こうと邪魔をする者がいる。
途端、急激に深い憎悪が芽生える。
始と隼の間を分つもの。
世界に生まれたばかりの隼は、まともに思考もできずにただ混乱する。
始、彼さえいればいい。対である彼だけが隼の存在意義だ。
手を伸ばせば触れられる距離にいるというのに、始は隼をその美しい紫の目に映しているというのに、言葉をまともに交わすことすらままならない。
白き嵐が暴走する。
「許さない、許さない……!」
ぴしり、と世界の割れる音がする。
隼の白皙の頬に瑕が走る。割れた痕には漆黒の罅が浮かび、そこから『終わり』の本質である虚無が次々に噴出し解き放たれようとしていた。虚無に塗りつぶされてしまえば、この世界は終わる。
「……春! 止めるぞ! お前の力を貸せ!」
「始……?! 勿論!」
呼ばれる名前は己のものではない。
答える声は、幼い子供のもの。
(僕の名前は隼、隼だよ────始!)
バキバキと耳障りな破壊音を奏でながら、全身がガラス細工のように割れていく。代わりに虚ろな闇が全身を包み込んでいった。
桜色の唇が割れ、白い喉が剥がれ落ち、届けたい声はもう出せない。
名前すら呼ぶことができない。
(春、はる……)
幼い子供の声。始に求められ、稚いながらも力強く返す声。
(羨ましい羨ましい)
望まれたいのは僕なのに、と叫ぶ。
隼から一度始を殺して奪った人間、陰陽師は、今再び隼から世界を奪おうとしている。
(始まりを奪い、眠った僕を目覚めさせた愚か者共。お望みどおり、この世の滅びを与えてやろう。人間も妖も、何もかも白い闇に塗り潰されて、消えろ……!)
白き嵐の苛烈な渦に耐えきれず、得たばかりだった人の形が粉々に消失していく。
けれど悲しくはない。始に触れられないのなら、実体など隼にとって無用の長物だった。
空中へ散った破片がきらきらと虹色に反射する。その中心に真っ黒な奈落の底が現れて、世界を滅ぼさんとする白き闇が洪水のように噴出した。
壊れかけた鐘の音がどこかで鳴った。
轟音が一瞬途切れ、凛とした声が嵐を割いて響き渡る。
「咲け、黒氷輪────」
始は愛刀を正眼に構えると、その刀身を射干玉に艶めかせる。
光を吸収する漆黒は、白き嵐をも容易く塗り替えていく。
世界が何もない白に染まるのを、始まりは望んでなどいない。
終わりは否定されたのだ。
(そう……君は、この世界を守りたいんだね……)
ならば彼の人の対である自分がすることは、ひとつしかない。
開いたばかりの目を閉じて、その刀身に貫かれる瞬間を待つ。
心が穏やかになり、荒れ狂っていた憎悪は再び蕾へと還っていった。
彼の手にかかるなら、この身を傷つけられてもいい。むしろ刃の切先が触れるだけで嬉しいだなんて。
いつか、その手にも触れることができるのだろうか?
触れてみたい。彼の存在を直に感じてみたい。
ずっと、ずっと傍にいさせてほしい。
隼は黒い光に壊されながら、しゃらんと鎖が揺れる音を聞いた。
(あれから二十年かあ……)
破壊し尽くされた京は辛うじて再建されたものの、相も変わらず腐った中枢は権力を奪い合うのに必死で笑ってしまう。
庶民の暮らしも一応は元の水準へ戻ってきてはいるものの、妖の力は白き嵐の災禍後、またしても急速に勢力を増している。人間にとって非常に危険な状態だ。そちらへの対処が何をおいてでも最優先のはずであるのに、人間という生き物は永遠に変わらぬ愚かな性を持っている。
(白き嵐の核である僕が、災禍の再発を防ぐために新設された陰陽寮の長であるというのもおかしな話なんだけど)
隼は始に退けられて実体化した身体を失ったあと、元いた場所である境界に戻れなくなってしまった。
愛する相手に一度出会えた喜びが忘れられず、現世への未練が断ち切れなかったこともある。しかし一番の原因は、胸元から生えた忌まわしき鎖だった。
実体が破壊されてもなお意識体の隼を縛めているそれは、隼から自由を奪い、その存在を無理矢理現世へと留めることとなった。
黒氷輪によって力の大半を実体とともに散らされていた隼は、ろくな抵抗もできない。呪縛の影響を最小限に抑えるため、隼は目についた人間の胎を依代にし、人間として現世に転生を果たしたのだ。
万全でなく存在が定着していなかった始の方は、制御を失った隼の力とまともにぶつかり、顕現を維持できなくなってしまったようだ。
彼は一時的に力を失って再び存在を隠したが、依代である愛刀を弥生春が後生大事に抱えている。始と弥生春との縁は固く結ばれており、やがて時が満ちれば、彼とはまた必ず会えることが約束されていた。
鎖は未だ隼の存在そのものを重く縛っている。転生後の器を縛られているわけではないので、よく”視える”はずの陰陽師たちにもこの鎖の目視は不可能だろう。隼の存在が見通せる者は、隼の存在と同等かそれ以上の者に限られるからだ。
(僕を一度召喚し、鎖という呪枷を掛けた相手については残念だけど現状対処できない。今はまだ、ね)
ふとした瞬間、鬱陶しいと胸元を掴む仕草がすっかり癖になってしまった。シャラリと聞こえる幻聴も煩わしいが、ここは我慢するしかない。まずは始を待つことが隼にとっての最優先事項なのだ。
だが大嫌いな人間、しかも陰陽師に転生した人生は思った以上に退屈でつまらなくて、唐突に全部を壊したくなる衝動に駆られてしまう。
それが『終わり』の性なのか、始を求める心の代償なのかは分からない。
手に入れた人間の身体が壊れれば、隼の存在は再び意識体となって解放される。その時までに鎖が切れず境界に戻れなければ、存在の不安定になった隼は再び白き嵐として顕現し、今度こそ世界を蹂躙することになるだろう。
他の誰でもない、始が世界の崩壊を望まないからこそ堪え忍んでいる。いっそ誰かが壊してくれればいいのにとすら思うこともあるが、始が悲しむのであれば、やはりそれはできない。
(陰陽師には式鬼が必要だから、まず海を召喚したよね)
退屈しのぎで手慰みに喚んだ文月海とは予想外に意気投合し、暇な転生人生が一転、楽しい毎日へと変わっていったのは僥倖だった。
定期的に発作のように沸き起こる『世界を滅ぼしたくなる病』も、海や白嵐機関の所属員たちの努力のおかげで劇的に減った。
白嵐機関の面々たちは皆、隼の正体を知っていて付き従っている。各々事情やしがらみを持ち、世界が壊れるのならそれでも別に構わないと考えている者たちだ。
「あ、ようやく終わったようだね」
ドヤ顔で喋っていた導師は満足したのか、ニヤニヤと脂肪を震わせながら重そうな身体を立たせ、講殿から去って行く。これにて今回の談義は終了しましたなどと言って、取り仕切り役が会を締める。いつの間に研鑽会から談義へ変わったのかとツッコミをする優しさなんて、隼にはない。
さっさと立ち上がり、一瞬たりとも振り返らずに陰陽府をあとにする。早く海の淹れてくれる特別なお茶が飲みたい。いつもの執務室のゆったりした長椅子で、のんびりとくつろぎたい。
「ああ、でも……」
白嵐機関へ帰る前に、あそこへ寄って行こうか。
このモヤモヤをぶつけてしまおう。
弥生春がせっせと仕事をしている、北の玄武──古来より北方鎮護を司る最強の陰陽寮、玄月院へ。
「今日は何と言って虐めようかな?」
他者が聞いたらまたか、と引き攣り笑いを浮かべながらも触らぬ神に祟りなし、と見て見ぬ振りをすることだろう。とんでもない粘着な相手に目を付けられてしまって可哀想な弥生春、と。
並み居る陰陽師の中でも群を抜いて頭脳明晰、才気煥発、聡明叡智。その他褒め言葉を挙げれば枚挙にいとまがないほど優秀な彼は、どこからも一目置かれる存在だ。
その彼、弥生春に付きまとってチクチクと嫌味を言っては絡んでくる、新しく設置されたばかりのパッと出の機関の長、霜月隼。
しかもその生い立ちは謎に包まれている部分も多いが名門の御曹司であり、適当にあしらうのも難しいという面倒くさいオプション付きの厄介者なのだ。弥生春にはさぞや心労が積み重なっていることだろう。
「なんでこんなに僕が絡むのかなんて、彼は知らないだろうしねえ」
言う必要もないし、今のところは告げる予定もない。むしろ知らなくて構わないのだ。
始と縁を結んだ人間、それも陰陽師。
強固な絆を手に入れたくせに、いつまでも悲劇の主人公ぶっては始、始と夢見るように始を求める彼の姿勢が、隼の気に障って仕方ない。
たかだか二十年程度で。
武士として人間を守り続けてきた始を殺した、陰陽師の末裔の分際で。
彼の人をずっと見守ってきたのは対の存在たるこの僕なのに。
どろどろとした負の感情が渦巻く。
しゃらん、と鎖の擦れる音を聞いて、隼は胸元を乱暴に掴むとその不毛なループを打ち切った。
「……やっぱり今日は止めておこうかな。海がいてくれれば良かったなあ」
彼と一緒なら間違いは起こらないのだ。
嫉妬と羨望の入り混じった呪いのような感情を、これっぽっちも理解しないおおらかな波のような彼が側にいれば。
「僕一人で行って、うっかり弥生春を殺したら大変なことになっちゃうしね?」
始と確固たる縁で結ばれている弥生春がこの世から消失したら、その縁はどこへ行くのだろうかと考えたこともある。
少なくとも始は縁を失ったことにより、現世へ顕現するタイミングがもっとずっと先のことになってしまうだろう。
一時の感情に振り回されて弥生春を亡き者にしてしまったら、人間として生きる今生で始と出会うことは不可能となる。
人生をまっとうしたとして、再び同じように人間へ転生すればいいのだが、隼は何より人間として生きることに苦痛を感じてもいる。人間、とりわけ陰陽師はやはり好きになどなれない。
鎖の枷がなければすぐさま境界へ帰り、意識だけの存在に戻って始を見守っていたい。それがいい。いいのだが。
(知ってしまったんだよねえ。始の顔を、姿を)
刀身ではなく、実体の指先で彼に触れたいのだと、隼は欲望という強い願いを抱いてしまった。ある意味無垢であった意識体のままではもういられない。
賽は投げられた。
『終わり』は現世に放たれて、境界という揺籠へは二度と戻れない。そんな気がした。
だからこそ殺したいほど嫌いな弥生春は、絶対に守らねばならない。
二律背反を抱えながら、隼が始に再び出会える日まで。
つま先を踏み出す方角をくるりと変えると、隼は白嵐機関へと続く慣れた道を歩き出した。
今日のお茶菓子は何かなと、平和な思考へと切り替えながら。