縫い直した傷は綺麗に治る 縫い直した傷は綺麗に治る
その日、奴隷の園田は混乱した。
獅子神が突如、奴隷を解放すると言い出したのだ。オレが救いたかったのは何か、分かったから、もう止める、と。
薄汚れて命の危機にある存在は、過去の惨めな自分だったと。
「オレが救い上げたかったのは……オレ自身」
そして、ただ見殺しに出来なかった。殺す覚悟が無かっただけだ、とも言った。
「間違いだった。不必要に引き上げた為に、お前らが成長するきっかけまで、オレは奪ったのかも知れねえ」
園田は慌てて訂正した。そんな事はない。あなたに助けられていなければ、私達は生きていないでしょう。
「もう止める。と言っても賭場には行く」
上に行くと決めた。右手の、傷のある手を握り締めて、これは戒めだと話す後の雇い主は、さっぱりとした顔をしていた。
ああ、変わったのだ。変えられたのだ。と園田は感じた。そうして、ここに残りたいと告げた。
「オレは晴れてハーフライフに昇格した」
自らの家で、自ら祝賀会を開いた獅子神に、村雨は少しだけ言葉を贈る。
愚策だな。ワンヘッドはあなたには向いていない。
あなたの初戦が楽である理由はひとつもない。
獅子神は正しく、それを助言と捉えたようだった。
「しかしあなたも、無駄に負傷するのが好きだな」
「無駄って……」
「せめて痕を消したらどうだ?」
村雨の声は先の助言と同じく、ただ淡々としていた。違いはほんの僅かなもので、真経津と叶には伝わったが、獅子神が感じ取るにはまだ経験が足りなかった。
「首は縫ったばかりだし、まだ傷跡が残るかどうか分からねえよ。手の方を言ってんなら、断る。これは勲章だ……そんなに見苦しいか?」
「目障りだ」
断言されて、獅子神がむっと眉を寄せた。
「テメーの好みか。ハハッ、先生様のお相手は、さぞかしお綺麗なんでしょうね」
苛立ちを隠そうともしない姿に、流れを断ち切ろうと、真経津と叶が目配せした。
「獅子神さーん」
「んだよ」
「エビチリ美味しいね。辛くなくて」
「オメーが甘党だからな。豆板醤抜きにした」
「わーいボクの為だった!」
「えー、俺ちょい辛いのがいい!」
「左のは中辛」
「わーい俺の為だった!」
「私のステーキは?」
「寿司もあるぞ。有名なあの店の……」
「オイ、私のステーキは?」
「聞けよ! ああもう今焼くから待ってろ! 真経津と叶は煮込みハンバーグあるから我慢しろよ!」
プリプリと怒りを浮かべながらも、エプロンを着けてキッチンに立つ、祝賀会の主役。
獅子神は、常温に戻して置いたステーキ肉に塩胡椒を振りながら、自分で吐いた言葉を反芻する。
村雨に似合うのは、小柄で、綺麗な女性。並ぶとバランス良くて、誰もが祝福するような――
「っ……」
自身とはまるで違う人物を想像し、何故かチクリと胸が痛んだ。ここも怪我したか? と首を傾げてから、獅子神は熱したフライパンに肉を投入した。
真経津と叶は食事を終えると、持ち込んだゲームをテレビに繋ぎ、対戦を始めた。
わきゃわきゃ騒ぐ2人を横目に、テーブルを片付けた獅子神へ、村雨が再度話しを持ちかける。
「首の傷を診せろ」
「あ? ああ……」
いいよ別に、と断ろうとした。しかし、音を唇に乗せる前に、メスが翻った。
掠った包帯の端が、はらり、と落ちる。
「強制抜糸されたくなければ、今すぐ従え。抵抗するなら容赦はしない。喉どころか腹まで裂かれたいならそうしろ」
メスの切先を向けられて、獅子神は脅しに屈した。
治療出来る部屋と命じられ、寝室に移動した。掃除は怠っておらず、シーツも毎日取り替えている。
プライベート空間だが、ベッドと照明しかない、見られても困らない部屋だ。余談だが、獅子神には書斎の方がよほど恥ずかしく思えていた。
「楽にしていろ。麻酔もある」
何故か、医療道具を持ち込んでいた村雨に、獅子神は言葉を無くした。情報が漏れるとしたら、行員からか。それとも医療従事者の繋がりか。
どちらも守秘義務があるはずだが、獅子神は問い正すのを早々に諦めた。
タオルの上に寝かせた患者の患部から、村雨はガーゼを剥がした。縫った傷はまだ痛々しいものだった。
「雑だな。見苦しい。応急処置か」
文句を言いながら、局部麻酔、抜糸、再縫合を行う。傷が目立たないよう、技術と細心の注意を払って。
獅子神は目を閉じて、傷から意識を逸らそうとしたが、瞼の裏には負った際の状況が焼き付いていた。
刃物が皮膚に入る感触は、寒気がした。怖いと思うが、この先を無傷で勝てるほど、自分は強くない。初戦は楽ではないと言われた。けれど今降りたら。
強く誇れる自分。彼らの友人でいる自分。
その両方を、失う気がした。
そうしたら、また……あの貼り付けたポスターを眺めるだけの、惨めな自分に逆戻りしそうで、止めたくはない。
でも……見苦しい。そうか。見るに耐えないか。痛みが走るのは、傷よりも胸の方が強くて、獅子神は麻酔のせいだと思う事にした。
抗生物質入りの軟膏を塗り、ガーゼを当てて包帯を巻く。滞りなく治療を終えた村雨は、眠ってしまった患者に、少しだけ面食らった。
「無防備だな……」
仮にも刃物で脅したのだ。腹を裂かれてもいいのか、それとも、村雨が獅子神に愛着を持っていると、分かっているのか。
何も思わない相手に、ワンヘッドへ行くな、などと忠告をするほど、村雨は優しくはない。
喉の渇きに、獅子神は目を覚ました。
水への欲求と怠さが、体を支配している。熱が出た時の感覚だ。動きたいのに、動けない。
感覚的に夜だろうか。随分と眠ったらしい。園田達は、準備を終えた時点で帰していた。3人も主役のいない祝賀会など、早々に飽きて消えただろう。
独りだと思ったら、過去の不安が蘇った。誰も来てくれなかった風邪の夜を、思い出す。
さみしい。くるしい。たすけて。
「起きたか?」
声へと視線を泳がせた先に、ベッドに腰掛けた、細いシルエットが浮かび上がっていた。
「喉が渇いたのだろう。飲むといい」
「む…らさめ……?」
ペットボトルの水を持ち上げた村雨の姿に、獅子神は迂闊にも泣きそうになった。
「……炎症を起こすかと思ったが、大丈夫そうだな。発熱は無理をするからだ」
伸びてきた細い指先は、汗で張り付いた髪を優しく払った。
「無理……?」
「ハーフライフの事ではないぞ」
怪我が癒える前に祝賀会などと。と、どこかの耳が聴こえていなかった医者が言った。
「予定を前倒ししただろう。私に合わせて」
村雨の休みに重ねるべく、2日ほどずらした。
「……早くマウント取りたかったんだよ」
「フフ、そうか……起こすぞ」
腕を引いて、獅子神の体を起こす。
ふらりと傾ぐ長身を、村雨の手が抱き止めた。医療従事者の為か、体幹が良いのか、不思議と頼りなくは無かった。
「ん……悪い」
「気にするな。飲め」
ペットボトルを口元に運ばれて、獅子神は大人しく唇を開いた。ただ、飲ませて貰うのは悪く、自分の手で持つ。
はぁ、と熱を孕んだ息を、喘ぐように紡ぐ。
常温に近い温度の水だった。それでもゆるりと喉を滑り落ちて行く様は心地よく、渇きを癒してくれた。
ボトルを握ったままの右手に、村雨が触れた。
「誤解を招いたようだから、訂正しておく。この傷は真経津が関わっているから、消したいのだ」
人が残した痕を、誇りとする。村雨の苛立ちは徐々に大きくなり、今回の首の怪我で、リミットを迎えた。
「村雨……それ嫉妬してるみてえ」
らしくねえな。医者の責任感か? 期待させるなよ。と獅子神は続ける。熱に浮かされた脳では、あまり意味を考えられず、思うまま声にする。
「傷のある、自分よりデカい男のどこがいい? オレは奴隷を自分と重ねていた。過去のオレを救いたかったんだ。馬鹿だろ? 村雨先生には、もっと賢い……綺麗な相手がいいと思うぜ」
痛いなぁ、と。麻酔の切れた傷ではなく、胸元を、獅子神は強く押さえた。
ククと村雨が喉を鳴らせた。
胸が痛むのなら、期待したと言うのなら。
「奴隷を自分と重ねていたと言ったな? 私はそれを愚かだとも悪いとも思わない。自分を救う事の何が悪い?」
「……村雨って結構、お喋りだよな」
「明確に伝える必要性があるからだ。あなたにどんな過去があろうと、奴隷を買えるほどの財力を備え、ここにいる。それは努力の賜物だろう」
背を撫でられて、獅子神は目を閉じる。鼻の奥が痛んで泣きそうなのに、それを許容する自分に驚いた。
どの道、熱のせいにして誤魔化しても、相手が悪すぎる。獅子神は瞬きの拍子に、一筋だけ涙を落とした。
朝まで側にいると告げた村雨に、ガキじゃねえよと獅子神は断り、帰るよう促した。
「勝手に呼び付けて、お開きにして悪いな」
再び眠った獅子神の言葉を、まだ遊んでいた真経津と叶へと、村雨はそのまま伝える。
叶も真経津も、首の包帯を見て静かにキレた村雨に気付いており、寝室には近付かないようにしていた。
「ボク暇だし朝までいるよー」
「俺も徹夜は慣れてるから」
帰る気のない2人を、村雨は予想しており、気にせずソファーに移動した。
「村雨さん」
カチャカチャとコントローラーを触りつつ、真経津が村雨を呼んだ。互いに視線は合わせていない。
「何だ?」
「寝込みを襲うのは、さすがにマナー違反だよ」
「馬鹿にしているのか?」
「え? 礼二君、手を出してないの? マジで?」
余程驚いたのか、叶が首をぐるりと回して村雨を見た。その隙に対戦は負けているが、気にしないらしい。コントローラをぽいっと投げる。
「据え膳食わないとかないわー。敬一君鈍いから、言葉だけでなく態度でも示さないと、信じないと思うよ。ちなみに、礼二君はどう言った類いの好きなのかな?」
「見ての通りだ」
「……4人でいるの、心地いいんだよね。それに敬一君を気に入ってもいる。遊んで壊されるのはちょっと嫌なんだ」
「ボクもご飯食べられないのは困る」
逃げられないな、と村雨はため息を吐く。暇つぶしにはなるので、まぁいいかと軽く口を開いた。
「先程、強く自覚した。私は本気で、そういう対象として、獅子神を見ているらしい」
目を覚ましてそばに居る相手に、獅子神は心から安心した顔を見せた。その時に腑に落ちたと村雨は言う。
この顔を向けられる人間は、自分だけがいいと、思った。
「寝起きの視界に入るのも、痛みを与えるのも、自分だけとか……礼二君の独占欲やばいな」
「独占して問題が? 複数とまぐわう人間の気がしれん。匂いが混ざって気分が悪くなる」
「アハハ、強制切腹させそう。まあ獅子神さんなら大丈夫じゃない?」
歪んだ友人達は、村雨が見せた独占欲を、にこやかに笑って済ませた。
彼らにとって、村雨と獅子神がくっ付こうと、大した問題ではないのだ。
獅子神の肩を持つのは、読み合いの力が弱い獅子神が、不利になり過ぎて、面白くないから加勢したに過ぎない。
ただ、それぞれが口にした言葉も、あくまで本音で、村雨は指一本触れさせぬ本気の独占を、完全に諦めた。