思いがけず光るのは、海の、夕焼けが島を染める頃、千空は一人、大木の根元に立つ。
『宝島』頭首の住まいを支えるその木の根元は、『宝箱』の残骸を抱えていた。球状に枝を絡ませた内側にある、三千七百年前の宇宙船、ソユーズ。金属の外殻はボロボロに錆び落ち、中に詰められたコンクリートはコハクの手で砕かれ、今は見る影もない。
だがそれでも、構うものか。千空は赤黒い錆びの欠片に手を触れる。これは人類の英知の結晶だ。その事実は揺るがない。
外殻の欠片を丁寧に集めて、保存させておこう。いつか、溶かして酸化還元する設備が整えば、再利用できる。小さな孤島には望むべくもないほどの、貴重な金属資源になるだろう。
千空が、英知のリサイクルに口元をニヤつかせたとき、声が聞こえた。
”――……う”
風の音に紛れた、微かな、微かな、一音ぽっちの声だった。しかし千空には聞き逃せない声だった。思わず背後を振り返ったが、当然のように、誰も居ない。
記憶力には自信がある。その声は、父親である百夜が、せんくう、と呼ぶときの、その最後の一音によく似ていた。それも、ガラスレコードに録音されたものではない、生の音質だ。
脳裏に過るのは、声帯模写が得意のメンタリスト。千空は無表情でずんずんと声の出所へ向かった。
適当なところで、アシンメトリーの髪と薄っぺらな笑顔が正体を現すのではないかと思っていた。が、どこまで行っても、その声は途切れがちなまま、近寄っている実感が無い。
はたして、ついに浜辺へと辿り着いた。
”――……う”
その声は未だ聞こえる。波打ち際の更に向こうから。そこにあるのは、緑がかった南の海と、橙から紫に染まる深い空。さざ波の合間に二つ三つ、岩礁はあるが、人影などはどこにも無い。
一音ぽっちの百夜の声は、遠い海鳴りと潮風が奏でていたのだ。
「……ククク、とんでもねえ偶然、か」
吐息の後に深く息を吸い込めば、喉の奥まで潮の匂いに満たされた。
海の向こうから百夜の声が聞こえる、この現象の発生条件を解き明かしたい、と思った。
計測機器が必要だ。風向風速計。潮位も重要だ。島の他の場所でも聞こえるのか、検証もしてみたい。今すぐ道具を揃えることはできないが、龍水や羽京を呼びつければ、ある程度は測れるだろうか。
父親の声の謎を解き明かす、だなんて、そんな小っ恥ずかしいことを頼めるわけもない。
詮無いことを考えながら、千空は立ち尽くしたまま、懐かしい声に耳を傾け続けた。
「居た居た、千空ちゃーん、晩御飯出来たって」
誰の真似でもない、地の声が呼ばわった。千空は右手を軽く上げただけの、気の無い返事を返す。
ゲンは、ざくざくと砂を踏む音を立てて、千空の隣に並んだ。
「……何を聞いてるの?」
正確に、千空が心を奪われているものは、景色ではなく音だと、言い当てる。
問答の声に海鳴りがかき消されるのが煩わしくて、千空は手短に明かした。
「百夜の声、によく似た音がすんだよ」
ゲンは無言で、その場に座り込んだ。相槌さえ打たずに、静寂を差し出す。
やがて夕焼けが闇夜に移り変わる。大陸の砂漠どころか、本州の山々とも距離のあるこの島の空は、土埃の一粒も無く、星明りを振らせた。
太陽の熱による上昇気流が止んで、風向きが変わる。
声が止んだ。
「日中だけか」
千空は浜を立ち去ろうとしたが、ゲンは座り込んだまま、口を開く。
「どうして月は追いかけてくるのか、って聞いたときのこと、千空ちゃんは覚えてるの?」
「あ゛あ゛?」
千空は白黒のつむじを見下ろした。
「フランソワ待たせてんだろ。行くぞ」
「もう十分待たせちゃったから、急いでも変わんないって」
「時間はンな相対的なもんじゃねえ。つーかその質問、意味あんのか?」
胡乱げな声を上げられても、胡散臭さに自信のあるゲンは揺るがない。
「いやー、ただの好奇心。千空ちゃんの記憶力ってゴイスーよね、って話。科学知識もそうだけどさ、千空ちゃんの体感時間で三千七百年以上前の出来事でしょ。そもそも、普通は小さい頃の出来事なんて忘れちゃうし。ジーマーで覚えてられるの?」
「覚えてる。全部な」
答えは簡潔だった。月を見上げたあの夜も、その前日に頬を寄せた髭も、その数年後に二人で食べたラーメンも、全て千空の記憶に刻み込まれている。
せんくう、と呼ぶその音だって、いくつかのバリエーションがあったのを覚えている。人間の脳の都合上、いつでも思い出せるかは別問題だが。
それでもこうやって、よく似た音を聞きつけて、追いかけるくらいには。
バイヤー、と感想を零したゲンは、しかしまだ立ち上がろうとしない。
百夜の声に似た音が止むまで待っていたツレを、ここで置いてはいけない人の良さを、千空は自覚しないまま立ち尽くす。
「幽霊、なのかな? 百夜さんが亡くなったのって、この島でしょ。お骨もここに残してあっただろう、て千空ちゃん言ってたよね。……千空ちゃんは、科学的に実証できるなら、幽霊もアリ、なんでしょ?」
挑むように、からかうように、ゲンは台詞に笑みを含ませた。
「フォローなら要らねえぞ。これはそういうんじゃねえ」
「してない、してない。俺は、百夜さんの幽霊なら、居てほしいな~。会ってみたいもん。貞子みたいなのは勘弁だけど♪」
これは、フォローが必要か否かを調査するためのカウンセリングであるので、メンタリストは嘘を吐いてはいない。本人の認識と他者からの評価が大きくズレることもあるのが、人の心の面白いところだ。
千空は帰路に急ぐのを諦めた。視線を、ゲンのつむじから水平線へ戻す。
「幽霊が、未練を残した人間の死後の姿、って定義なら、百夜の幽霊は現れねーよ」
「そうかな~?」
「宇宙飛行士のメンタル舐めんな。百夜はこの島でも幸せに生きた。百夜は百夜の出来る事を、やりきって、死んだ。その結果が、レコードと石神村だ。未練なんざねえよ。幽霊になる条件は満たされない」
ゲンは、千空に一目会いたいのではないか、と言おうとした。けれど、息子が「幸せにやり切った」と評するならば、それ以上の人生は無いだろう、と思い直した。
この親子の再会は、たぶん、あのレコードが録音されたときに、済んでいる。そういう二人なのだろう。
「ほんと似たもの親子だねえ」
「全部が全部似てるわけじゃねーぞ。……まあ、そうだな。俺もなんだかんだ幸せにやってるし、あとは、出来る事をやり切るだけだ」
「出たよ、も~。文明崩壊しても幸せって言いきるメンタル~」
「ククク、ストーンワールドも、そう悪い研究環境じゃねー。法律ガン無視してやりたい放題できっからな。未成年で製鉄炉ぶっ建てたりエンジン造ったりなんざ、三千七百年前じゃ…………龍水以外にはムリゲーだ」
本当に千空はフォローを必要としていないようだ。普通、要るとこじゃない? などとゲンは思うのである。笑うしかない。
「あっははは、言えてる! 龍水ちゃんなら出来ちゃいそうなところまで分かる~」
水平線の上にはっきりと、うお座が浮かんでいる。うお座の恒星は、見かけの等級が一番明るいもので、+3.620。日が沈んだばかりの、ほの薄い夜空にも関わらず、さほど明るくない筈の星々がよく見えた。こんなにも澄んだ九月の空で天体観測が出来るのも、ストーンワールドならではの幸せだった。
魚のことを考えたわけでもないが、千空の腹が鳴った。ぐうーきるきるきる、と嫌味に長い。
人を偲ぶ風情には似合わない音に、ゲンは盛大に吹き出した。ヒョロガリの腹筋が苦しくなって、紛らわそうと砂浜を叩けば、砂が舞い上がって顔にかかった。
「……ただの生理現象がそこまで笑いのツボに入るたぁ、安上がりだな、芸能人サマよお」
「あっはっは、いや、ごめんね、食べ盛りだもんね、ぶふふふふふ」
「先行くわ」
踵を返す千空を追って、ゲンは尻に付いた砂をはたき落とす。
「俺も、俺も行く、お腹空いた、あはは」
今度はゲンの腹が鳴った。生きている者の音がする。
二人は、島の中心部で待つフランソワと、夕飯のもとへ歩いていった。
海鳴りが後ろに遠退いていく。それでも微かに、聞こえている。