いただきます/歌お題「いただきます」
「いただきます」
羽京は両手を合わせて一礼する。フランソワの用意してくれた食事は、今日も美味しそうだ。世界各地を回ることで、食材の種類は幅広くなり、そのレパートリーは増えていった。そしてついに、米が、その手中に加わった。
今日のメニューはピラフである。インドネシアのエビと米を使った――正確には、インドネシア料理で、なんとかという名前だそうだが、羽京はピラフの麗しいビジュアルに心を奪われていて聞き逃した。
「ね、前から思ってたんだけど、日本の食前のお祈りて、すっごく短いね」
チェルシーが、自分の分のピラフを片手に、通りすがる。
「千空とか、やんない日本人も居るよね? 宗派の違い? 日本のブッティストにも宗派ってある? あっそれともシントーイムズ?」
怒涛の質問。軽快な口調と学者の知識欲が嚙み合うと、それはもう大変な勢いになる。羽京は辛うじて一口目を口に押し込み、どう説明しようかと考えた。
エビの旨味と米の甘味。うっかりじっくり味わっている間に、近くで食事していたゲンが助け舟を出した。
「これね~、お祈りじゃなくて、挨拶なのよ。だから、千空ちゃんみたいなぶっきらぼうな子は、しないことも多いんだ~。ブッティストは関係ないよ」
「ありがとう、ゲン! 挨拶って誰に? 何に? ……ライスに?!」
ば……と言いかけて、チェルシーは手で口を塞ぐ。
「失礼なこと言いかけちゃった。日本の習慣を笑うつもりなんてないよ」
チェルシーの弁解に、羽京は穏やかに頷いてみせた。彼女の口癖はもう聞き慣れていて、それが非常にポジティブな感情の発散であること知っている。
「うん。……外国人から見れば、変わってること、なのかな。食べ物と、それを作ってくれた人への、感謝の気持ちを表してるんだ」
「作ってくれた人への感謝なら、ギリ分かるけど、食べ物かあ」
「俺も、アメリカで修業してたときは、『敬虔なブッティストだ!』って間違われたよ。菜食主義者だと勘違いされたり。あれはジーマーで困っちゃった」
ゲンが遠い目をして、皿の上の米粒をかき集める。スプーンの先に、最後の一粒まですくい上げて、口に運ぶ。
「自然の恵みに感謝します、主の恵みに感謝します、というのとは違うの?」
米粒を噛み締めているゲンのために、今度は羽京が答える。
「それも勿論あるけど、より正確には、『命を頂きます』って意味なんだ」
「そっかー」
ゲンがスプーンを置いて、手を合わせる。
「ごちそうさま」
「それ!」
チェルシーがすかさず、指差した。
「あっごめん指差しちゃった、失礼だね。それ、それもお祈りとは違うやつ? 挨拶?」
「そだね、挨拶。『命を頂きました』って意味かな~」
「二回もするの?!」
羽京とゲンは顔を見合わせた。
「こんにちわで始まったら、さよならで別れる感じ、かなぁ」
「分かるけど、分かるけど! もう、これだから世界は面白いなあ!」
かつて地球狭しと飛び回っただろう、小さな研究者が笑い転げる。
早食いを旨とする元自衛官の羽京は、会話の合間に味わいつつも食べ進めて、既に最後の一口にとりかかるところだった。米粒は一粒残さず、すくい取る。
ゲンは綺麗に空になった、二つの皿をじっと見る。それは、食うに困るストーンワールドで身についたものではなく、日本人には当たり前の食事マナーだった。
世界を繋ぐ海の底で働いた男と、国をまたいで技術を修めた男は、文明の崩壊した世界でも、どうしようもなく日本人だったのだ。
アメリカ、スペイン、インド、オーストラリアに、インドネシア。かつての『外国』ができて、ようやく、自分達の定義が叶う。
「次に行く『日本』、楽しみにしててね」
「富士山の近くに拠点があるんだよ」
「最高! Mt.フジ、絶対見たいし!」
お題:歌心地良いそよ風の中で、ゲンはロックを口ずさんでいた。
金で釣った女とワンナイトして社会のウサを晴らすぜイエーイ、といった内容の歌詞である。十代だったゲンが注目するには半端に古い、バブリーなロックナンバー。ゲンはこの曲を接待カラオケで知った。
ゲンには無理のない音域、テンポの良い爽快感、頭の中で響くギターソロの鋭さ。これが、後ろ向きになった気分を突き動かすのに最適で、石化前はこの曲を聴きながら握力の筋トレに励んだものだった。
アイポッドなど望むべくもないストーンワールドでも、時折、ゲンはこの曲の力に頼っている。ただし、人気のない草むらで、小さく小さく口ずさみながら。
トランプ捌きの鍛錬もマジックの仕込みもひと段落ついたが、繰り返し歌っていた歌はサビの手前。村へ向かってのったりと歩きながら、最後まで歌ってしまうつもりで、笹薮をぐるっと回りこむ。
「――――ヒェ」
低木の陰に、羽京が居た。矢に使う羽根の形を整える作業をしていたようで、膝元に材料を散らかして、もうずいぶん前からここに居座っていたらしい。
耳の良い彼のことである。確実に聞かれた。ゴリゴリのロックを。
飛び出掛けた動揺を、歌の続きと一緒に飲み込んで、ゲンはへらっと笑ってみせる。
「おっ疲ー、羽京ちゃん」
「やあ、ゲン。ここ、静かで気持ち良いよね」
「よく来るの?」
「うん。どこに居たって、聞こえるときは聞こえるから……ゲンに限らず……だから気にしないで、続きをどうぞ」
やはり聞かれていた。「ヒェ」まで確実に聞かれていた。
世渡り上手で売るメンタリストに、あんな尖った歌詞のロックは似合わない。イメージ戦略に深い痛手を負った。ここはあえて、蝙蝠男らしさを捨てて、弁明に走るべきではないだろうか。
「げ……芸能人がみんなそうだと思わないでよね? 俺はしたことないよ、未成年だったし。メロディーが好きなの、メロディーが」
夜の街で遊んでそうなイメージだけは、特に拭い去らなければならない。銀座や六本木は馴染みだが、寿司屋とステーキ屋しか行っていないのだ。お茶の間で安心して観られるメンタリスト兼マジシャン、それがあさぎりゲンである。
「あはは、分かってる分かってる。僕もその歌好きだよ」
「ジーマーで! 世代じゃないでしょ?」
思わぬ同調。ゲンは羽京の隣に腰を下ろした。しいて言うなら童謡の似合う、柔和な男。柔和でも男というわけか。あるいは、自分に無いものへの憧れだろうか?
「先輩の十八番だったよ。ゲンの方が上手いけど。スカッとする曲だよね」
「そう、そうなの。作業に飽きたときにピッタリで」
人前では歌えないから、ここで。
内緒だよ、とゲンが人差し指を立てて見せれば、羽京は帽子のつばを押し上げて応える。
「イメージを守るために?」
「それもあるけど。村の人達に、『歌詞のここが分からない』なんて訊ねられちゃったら、困るじゃない」
「ああ……。そうだね、なんて説明しようか」
性欲解消を金で買うこと。それを音楽にして楽しむこと。原始的な生活しか知らなかった、サービス業に疎い村人に、どうやって分かって貰えばいいだろうか。分かって貰いたくなどないのに。
恐らく、気性の荒いマグマにさえ、それは埒外の澱みだ。
「――聞かせれば、ハマるんだろうねえ」
ゲンは遠い目で、風通しの良い林の向こう、ここからは見えない石神村を想う。三千七百年経っても変わらぬ、人の欲と尊さと、いずれ復活するかつての暮らし。ゲンが口を噤んだところで、いずれ彼らはそれを知るだろう。
「そうかな」
「そうだよ」
羽京と別れて、ゲンは再び歩きだす。ロックの続きは、歌わない。