七つの海に唯一つの連日の油田探索。龍水は、すっかり慣れた手つきで木炭を掴み、気球のバーナーにくべる。炎の様子と気球の上昇速度の比例は、もう肌感覚で覚えた。しかし、いくら熟練しても、確認を怠ってはならない。遠ざかっていく地面を目視し、気球内部の温度を知らせるヒューズ、それから球皮(きゅうひ)の状態もチェックする。バードストライクに気付かず嵐に見舞われた、初フライトのときのような失態は、二度と起こすまい。
「どうだ、コハク? そろそろポイントじゃねえのか」
「ああ、もう少しだ。用意をしておいてくれ」
気球に同乗する千空は、ゴンドラの下にぶら下がっているコハクと言葉を交わし、隅に積んだ革袋を抱え上げる。
「龍水、もう少しだとよ。降下の用意頼むぜ」
「ああ聞こえている。任せろ、ストーンワールド初の空の宅急便と洒落込もうではないか」
千空の抱えた荷物は、出ずっぱりになっている地上探索チームの補給物資だ。気球チームは毎日村から往復しているが、地上探索チームはずっと野営している。補給物資の小包みは、携帯電話用の電池、飲み水、干し魚と干し肉、それらを一つの袋に詰めて、紙製の落下傘を取り付けてある。地上の彼らは適宜、採集もしているらしいが、よくもこれっぽちの補給で、毎日、未踏の地を駆け回れるものだ。二人いるうちの片方、クロムは石神村の出身ということで慣れているのかもしれないが、もう片方、羽京は復活組だ。まったく信じられん、と、原始の魚尽くしのフルコースに音を上げた龍水は感嘆を覚える。
コハクが、あと五十メートルだと告げる。龍水は気球の熱を逃がして、木々の梢ギリギリまで高度を下げる。千空がタイミングを見計らって革袋を落とし、かくして、荷物は無事に地上に送り届けられた。
『おう、千空! 補給物資、無事にゲットしたぜ』
「おーし、そんじゃあ今日も楽しい石油探索だ。頼んだぜ」
『任しとけ!』
地上から、受け取り完了の電話。物資の乏しさに文句も言わない。まったく信じられん、と龍水は再び感嘆する。
「大した精鋭だな、地上探索チームは! 七海財閥にぜひ欲しい! もちろん、俺の船の乗組員にもだ!」
千空は、望遠鏡を覗き込んで、次の航空写真撮影ポイントに当たりをつけながら、片手間に笑う。
「ククク、七海財閥はともかく、乗組員には内定済みだ。特に羽京は、元ソナーマンだからな。テメーの他に外洋の航海経験があんのは、そいつだけだ」
「ほう?」
畑違いの探索の仕事で、少人数の精鋭に選ばれるとは、なかなかやり手のようだ。が、船長の判断を待たずに内定済みとは、いただけない。龍水は、振り返って、千空を試すように片頬で笑い返す。燃料をくべる傍ら、フィンガースナップを添えることを忘れない。
「乗組員の選抜は、船長である俺の仕事だ、違うか?」
「あ゛ー違わねえ。好きにしろ」
千空はあっさりと決定権を投げた。科学王国のリーダーにして、ストーンワールド初の復活者。彼はワンマンに見えて、他人に任せることを恐れない。龍水は、やはりこの男、欲しい、と決意を新たにする。
「ふむ、船に乗るには、龍水のお眼鏡に叶う必要があるのだな。私も、精一杯、仕事に励むとしよう」
足の下から、コハクが意欲を見せる。龍水は非常に満足した。乗組員の選抜は、楽しい仕事になりそうだ。
航空写真の撮影がひと段落ついたので、気球で低気圧を捕まえる冒険も、これで終いだ。気球チームに数日遅れて、地上探索チームも村に帰還する。今後は航空写真を精査して、油田の手がかりを探すこととなる。
今度は、村に籠りきりになるだろう。合間を縫って、乗組員候補のピックアップをしていこう、と、龍水は思案する。
千空の出した内定に誤りは無く、やはりキーマンとなるのは、航海経験があるという羽京だ。操船のうえで右腕となる可能性がある、が、同時にその立ち位置はリスク要因でもある。大海原の真ん中で、船のナンバー2が離反の筆頭に立てば、大変なことになる。
冒険小説の定番をなぞるなら、船長への対抗派閥に担ぎ出され、ストライキ、あるいは暴力沙汰、その果ての――。
羽京の人柄はどうだろうか? これまでたびたび、地図の清書のために顔を突き合わせてきて、仕事を任せるに足りる人物であるのは分かっている。しかし、船長である龍水と相性が良いかどうかは、また別の話だ。彼は、魚尽くしのフルコースに音を上げた龍水に呆れた様子を見せていたが、基本的に人間関係にはフラットな反応ばかりで、掴みどころが無い。今は、開放的な環境であるために、なんの摩擦も起きていないが、船という閉鎖空間では、人間のストレス耐性は下がる。もしも龍水と決定的にそりが合わないならば、どんな実力者であっても、慎重に人事しなくてはならない。
とはいえ、向こうは職業として航海に出ていた身だ。趣味の仲間と船を乗り回していた龍水より、適応力はあるだろう。注目すべきは、船長たる龍水に忠誠心を抱けるか、だ。
まずはゆっくり話してみよう。龍水は、執事にアシストを頼むべく、三ツ星レストラン『フランソワ』に向かった。
イースト種の改良のための試作、という名目で、昼食にフランソワのパンが振舞われた。円滑なコミュニケーションには美味な食事を、という龍水の作戦である。まんまと釣られてやってきた羽京に、とびきりの焼き立てを差し出すことで、自然な会話のきっかけを演出した。
幸せそうにパンを頬張る羽京が、口の中のものを飲み込む適切なタイミングで、龍水はバッシーンと指を鳴らす。
「貴様はソナーマンをやっていたそうだな?」
「あ、うん、そうだけど」
羽京の返答は素っ気ない。フランソワの作ったパンの虜なのだ。それでいい。
「俺は軍事用語には明るくない。民間船のソナー設備とはどう違うんだ? 貴様の乗った船の話を聞かせてくれ」
龍水には到底追いつけないペースで食べ進めながら、羽京はううん、と右上に視線をさ迷わせる。一方龍水は、「会食のときは相手の食べるペースに合わせる」という常識が通じないことを察し、密かに戦慄した。
「船というか、艦だよ。潜水艦に乗っていたんだ。話せることはほとんど無いよ」
「構わん。羽京と話がしたいだけだ。機密を探りたいわけではない」
乗っていた船の話、という定番の話題も通用しないとは、この男、つくづく一筋縄ではいかない。龍水は、いっそ腹を割ってしまうことにする。
「気球での探索もひと段落ついて、村に居る時間が増えるからな。乗組員のピックアップを進める段階に入った」
「千空には『乗れ』って言われているけど、一旦白紙ってことかな?」
一を聞いて十を知る洞察力の持ち主。羽京は確信を持って訊ねた。
「その通り。俺は、肩書だけでは俺の船の乗組員に選らばない!」
「なるほど」
「不満か?」
「とんでもない。当然のことだ」
相変わらずのフラットな微笑みだ。だが、自分の能力を疑われたも同然の状況にしては、かなり好意的なリアクションである。実力で選ばれる自信があるのだろう。
「つまり、これは採用のための面談というわけだね」
羽京が食べかけのパンから意識を引き剥がそうとするので、龍水は手に持った自分のパンを一口分ちぎり、頬張って見せる。あくまでこれはランチ会談であるし、この焼き立てをみすみす冷ましてしまうのは、食材と料理人への冒涜だ。
「ハッハー! そういうことだ。食べながらで構わん。貴様の人柄を探りに来たのだからな、気楽に話してくれ」
「あはは、それはどうも。フランソワの焼くパンは、本当に美味しいね……。つい最近まで、こんな風に料理らしい料理を食べられることは、もう一生無いんだ、って思っていたよ。君の『欲張り』に感謝だ」
「フゥン、俺からしてみれば、これまで誰もシェフを欲しがらなかったことが意外だ。なぜ耐えられる?」
龍水には素朴な疑問だったが、相手にとっては重い話題らしい。ふっと、羽京の眼が陰る。
「耐える他に選択肢が無かったからだよ。千空と司は敵対していて、完全に没交渉だった。司は良いリーダーだったけど、科学を拒むという方針には頑なで、復活させるのは体一つで生きていける人間を優先していたから」
獅子王司。人類最強の武力。千空の手で石化から蘇り、敵対し、共闘し、そして今は氷漬けで眠っている。ストーンワールドでの大まかな事情は聞いているが、龍水には、テレビで観た格闘家としての姿しか印象に無い。加えて、目指す船出は司の命を救うためだと言うから、なんとも数奇なものである。
「いや、ちょっと待て。貴様は司側の人間だったのか? 千空に近しい人間だと思っていたが」
かなり信頼し合っているようだったから、腹心かと勘違いしていた。ヘッドハンティングだったのか。頭の中での派閥勢力図を変更しなければならない。龍水が頭の中で消しゴムをかけているのを他所に、羽京は笑い声を上げる。
「千空は、誰にでもああなんだと思うよ。龍水、君にだってそうだろ。元々の科学王国は、千空と大樹と杠だけだ。ゲンが早いうちに寝返って……僕とニッキーはギリギリで司を裏切ったんだ」
「貴様にとって、司は忠誠を誓うに値しなかったというわけか」
丁度良く、話の核心に触れることができた。龍水の口元が自然と吊り上がるのを、羽京は気付かない。さて、この男は何を語るだろうか。
「そういうわけでもないよ。僕は誰かに正義を預けたりしない。僕の忠誠は、別のところにある」
「ならばどこだ。何に捧げる?」
龍水は畳みかける。日の丸、だろうか。今ここには無い国家のしるし。羽京は気負いも無く、最後の一口を飲み込んだ。
「人命」
それはあまりにも簡潔な答えだった。手からパンくずを払い落とす音が、その芯の強さを引き立てる。
人命のためなら、霊長類最強の男を裏切ることを、厭わぬか。ああ、問題ない。否。それこそが欲しい。
「……自衛官らしい答えだな。その早食いも」
「もう習慣なんだ。ちゃんと味わってるよ?」
「ならば良し」
龍水はフランソワの主として、尊大に頷く。我が執事の労働は正しく消費された。
「休憩時間に、済まなかったな。実に有意義な面談だった」
「あれ、もう良いの。君が食べ終えるまで付き合うよ」
「いや十分だ。十分な答えを得た」
羽京、貴様は俺の船に相応しい。龍水はフィンガースナップを決めた後、その右手を差し出した。
「乗組員の安全確保が懸念事項だった。何せ世界にただ一隻の船出だ、遭難信号を出しても受け取ってくれる相手が居ない。貴様ような者をブリッジに配置することには意味がある。羽京。俺の右腕として、船に乗れ!」
龍水のオーダーに返って来たのは、フラットな微笑み。掴みどころのない温厚さが、今はひどく頼もしい。
「喜んで。よろしく、船長」