氷月の場合/ニッキーの場合インターネットで調べてみれば、尾張貫流槍術は規模の小さい流派で、氷月の所属する道場を特定するのは容易だった。ほとんど、探すまでもなかった。没個性な剣道用防具に身を包み、一つの剣道場に集って研鑽する尾張貫流槍術の武人たちは、それなりの人数が入り乱れていたが、面を外した姿を見れば多様な年齢層の集まりで、知った顔を見分けるのも造作ない。俺も氷月と出会うまで名を聞いたことが無かったが、科学王国で一・二を争ったあの武力が、今の世では、こうも鳴りを潜めているとは。司が身を置く、総合格闘技界の華やかさとはえらい違いだ。
「目指すものが違いますから」
氷月本人は、特に思うところも無いらしい。あっさりしたものだ。
横浜の剣道場から、ぶらぶらとアメリカ通りを目指して歩く道すがら。落ち着いた店に腰を据えることさえ拒否されてしまった。槍を置いて来たとはいえ、道着姿の氷月はだいぶ目立つと思うのだが、街行く人々からはさほど注目されていない。練習着で街をうろつく武術家は、案外多いのかもしれない。
「君の目的は分かっています。僕は傘下には下りません。尾張貫流槍術は御留流です。たかが財閥には、なびきませんよ」
「七海財閥ではなく、俺個人の船だ。私的なクルージングを楽しむのに、御留流も何もないだろう」
「なおさら、興味ありませんね」
ヤシの木の立ち並ぶ二車線道路。街路樹の華やかさで胡麻化してはいるが、立ち並ぶ看板に海軍基地の存在を匂わせる、物々しい道だ。
「宝島に行くのだと言ってもか?」
氷月の細い目が、ほんの僅かに見開かれる。モズと松風、ストーンワールドでの武芸の継承者。それが、氷月に対しての切り札だ。
ちゃんとした、という表現で、自他に高い要求を突きつける一徹者。悠久の研鑽を伝承する男。己が手で、己が認める才気を育てる喜びはいかほどの物か。
文明崩壊しなかったこの世界で、この若き槍使いが再び弟子を持てるのは、さて、何十年後になるだろうな?
「師匠は弟子に対して責任がある。違うか?」
氷月は顔を逸らした。明後日の方向に、嘲笑うような声が落とされる。
「彼らが、居るというのですか。この時代に、この世界に」
「千空の仮説では、居ない。だが、それがどうした? 探しに行かない理由にはならん」
この男も、かなりの欲しがりだ。己の理想のためには殺人さえ躊躇わない。そんな人間が、たった二人の弟子という、ささやかで、熱くて、重いものを、願わずにいられる筈がないのだ。
ちゃんとしてませんね。己に向けたであろう、小さな呟き。
それでも、返ってくる答えなど、決まっている。
「いいでしょう。その旅にだけ、付き合います」
「ハッハー、取っ掛かりとしては十分だ」
「……君から受け取りすぎるのは、後が怖いですね。ほむら君に会わせてあげます。それでイーブンでしょう」
「願ってもない」
七海のライバル企業がスポンサーについている選手は、俺の名を使った問い合わせには口が重い。ほむらもその内の一人だった。
歩いて来た道を引き返し、再び剣道場へ。併設の体育館では、ユニフォーム姿の学生達が、練習に励んでいるところだった。揃いのレオタードに身を包み、ピシリと髪を結った美女達に、氷月は無造作に呼びかける。
「ペルセウス号を知っていますね?」
一人の少女が、振り向いた。
早いものでもう十月。柔道家花田仁姫とのコンタクトは困難を極めた。
遺憾にも、七海財閥は全日本柔道連盟のスポンサーになったことがなかったのだ。加えて、現在のオフィシャルパートナーには、ライバル財閥の系列が名を載せている。
有望株の選手に会うには、搦め手が必要だった。柔道着に使う繊維のメーカーから手を回して、コネのコネでようやく、いちファンとして言葉を交わすチャンスを得た。
練習試合の直後、更衣室に繋がる廊下での出待ちである。ファン垂涎のシチュエーションだ。この場まで潜り込ませてくれた道着メーカーの社員は、そっと目配せで帰らせる。
帰路に就く通りすがりの選手たちが、不審そうに俺を見る。だが俺の首には入館許可証があり、大会の主催には挨拶を済ませている。完璧な布陣だ。
ややあって、オフィシャルスポンサーメーカーのウェアに身を包んだ女性が現れた。髪の一本に至るまで健康的な立ち姿、二本のおさげ、耳に差し込まれたイヤフォンが奏でるは――確かめるまでもなく、リリアンの歌だ。
「ニッキー!」
声を上げれば、体育館の壁に、わん、と響いた。
試合後の御褒美だろう、音楽鑑賞の時間を邪魔するのは忍びないが、今ばかりは声をかけねばならない。手にしたミニブーケを差し出せば、ニッキーは目を瞬いて闖入者の顔を確かめる。
「今日の試合も素晴らしい一本勝ちだった。このところ、ひと際調子を上げているな。六月三日の朝からだ。違うか?」
「あ、あんた……」
さて、あの夢から随分、日が空いてしまったが、俺の顔を覚えているだろうか?
「ペルセウス号を知っているか」
じっと目を見て問いかければ、ニッキーはイヤフォンに両手をやって、そっと耳から外した。テーピングの無い指は、一本として無かった。
「懐かしいね。また会えて、嬉しいよ」
「もう一度俺の船に乗れ。科学王国の皆に会わせよう」
ニッキーは、ふい、と、どこか遠くを見るように、顔を逸らせる。
「……まあちょっと、話でもしようじゃないか」
即答は得られなかった。だがこの程度は想定の範囲内だ。
試合会場は着々と片付けが進んでいた。ここで長話をしては迷惑が掛かる。
「俺の車に招待しても?」
「変な噂が立っちゃ困るから、止めとくよ。とりあえず、駅まで歩こうか」
パパラッチに追われるような身の上ではないはずだが、スキャンダル予防が厳格なことは悪くない。車で待つフランソワには悪いが、ここはニッキーの言葉に従おう。
館内履きから外靴に履き替えて、靴紐の具合を確かめるように、一歩。ニッキーの唇から、歌が零れた。”一歩一歩前進していく……”ガラスのレコードが奏でた、リリアン・ワインバーグの歌だ。
全人類が石になる世界は、夢だった。リリアンの曲は失われることなく、今日もニッキーの心を和ませている。引き換えに、幻となった、あのレコードに刻まれた音源。
外はもう日が落ちて、空気に青く影が落ちていた。しっかり歌いこなされているそれに、暫し、耳を傾ける。
「”前”って、どっちの方向だろうね?」
彼女が一曲歌い終わる頃には、駅に続く大通りに差し掛かっていた。信号機に従い、立ち止まると、ニッキーが体ごと俺に向き直る。
「どの方角であろうと、貴様の往く道、向かう先こそが、貴様にとっての”前”だ。俺もまたそうだ。他の者と同一という訳には、いかないこともあるだろうな」
試合の余韻が抜けきらない、強い瞳。俺は相対して、強く指を弾き、殊更に力強く、言い切る。当たるぜ、船乗りのカンは。どうも俺は振られてしまうようだ。
「あんたが現れる前から、あたしにとって、あれはただの夢じゃなかったよ。あの世界の出来事からは、大事なものを、沢山、貰ったと思うんだ」
「ああ」
「ストーンワールドを見るまで、あたしの目標は、オリンピックで金メダルを獲ることだった。でも、あの世界を、あの歌を知ったら、もう前と同じにはいられない。畑を耕したり、陽やマグマの面倒を見たり、コーンシティを作ったり……。そういうことを、無かったことにしたくない」
あの世界で手に入れたものを、この世界でも手に入れる。俺とはアプローチは違うが、ニッキーもなかなか欲しがってくれる。
「あの朝までは、選手生命が終わったら、それっきり、だと思ってたんだ。でも、今は違う。あたしの今の目標は、全柔連の会長になって、後進を育てること。船に浮気している場合じゃないんだよ」
ニッキーは笑った。ミニブーケの花に顔を埋めて、気持ちは有難く貰っとくよと、柔らかく言う。
――なんと、痛快な。
オリンピック金メダルなど、最早、通過点に過ぎない。試合で結果を出し、組織のパワーゲームにすら勝ち、トップに立つに足る学を修め、ひょっとすれば、『初の』全柔連女性会長という栄誉も手にしようというわけだ。
「欲しい!!!!!!」
「いや、だから」
ニッキーは苦笑した。安心しろ、貴様の意向はよく分かった。尊重するとも、当然だ。
「会長に就任した貴様が欲しい、と言っているんだ! 必ず手に入れよう。まずは俺の名刺を受け取ってくれ。役に立ちそうな人脈があれば紹介しよう。南とは連絡を取っているか? マスコミのツテはあった方が良い。そうだ、スキャンダルを気にしていたな? 堅実な心掛けだ。ゲンから有益な話が聞けるかもしれない。表舞台の歩き方に精通しているだろうからな。俺はフランソワに任せきりであまり詳しくない。そう、フランソワも忘れるな。フランソワのマネジメント術は、協会の運営に関わるならば参考になるだろう」
「ちょ、ちょっと。良いのかい? あんたの船には乗らないよ?」
「はっはー! ニッキーが全柔連の会長になったとき、龍水財閥がオフィシャルスポンサーを務めるのだ!! そうなれば、貴様は俺の”船”に乗ったも同然だ! 違うか?!」
「あんたって、変わらないねぇ……」
ニッキーは呆れ顔だったが、名刺は受け取った。
駅のコンコース前で、足を止める。同じ改札は潜らない。
「千空や、皆に、よろしくね」
最後に彼女はそう言った。