【閑話】 lonely is the over. (閲覧注意作品) 物心ついた時から男性が好きだった。
初めて好きになったのは1年生の時。
同じクラスの子で、自分と違ってとても背が高くて、紅の瞳がカッコよくて、サラサラと流れるように風に揺れる紺色の髪が初恋の全てだった。
母に相談した。
どうしたらもっと仲良くなれるかなって、でも、それがいけなかった。
父はこの世界にもごく少数存在する異性愛絶対主義者だったんだ。
父は僕を殴り、犯した。
「男を好きになるって言うのは、こう言うことだぞ!」
そう言って僕から尊厳も、恋心も、愛も、全てを奪っていった。
母は知っていたのに止めなかった。
母が愛していたのは僕ではなかったんだ。
母と同じ価値観を持った夫ただ1人。
「矯正だ」
僕はその日から15歳になるまで父のあらゆる暴行に耐え続けてきた。
誰にも言えない。
最低な父だったけど、それでも父親だ。
憎むことはできても、心から嫌いになることなんてできなかった。
そして15歳の誕生日、僕は父を刺した。
行為中に枕の下に隠しておいた『
心壊の呪い』がかかっているナイフで父の右腕を思いっきり。
父は狂ったように口から泡を吹き始め、意識を失った。
母は僕の部屋の扉の外でずっと聞いていたんだろう。
すぐに扉をあけて入ってきた。
母は薄暗い室内で返り血で赤く染まる僕の裸を見て全てを察したのか、僕を抱きしめた。
「ごめんね…、ごめんね…
私がなんとかするから…、もうここには戻ってきてはいけないよ
逃げなさい、逃げなさい」
僕は魔法で身体の血や父の体液を拭うと家を飛び出した。
頭は真っ白だった。
何も思い浮かばない、何もできない。
箒に乗ることすら思いつかなかった僕はとにかく走っていくつかの街を駆け抜けた。
「ねぇ、あなた同じクラスの…」
突然話しかけられて驚いた僕は目の前にいる見覚えのある制服を着た女の子が誰かわかるまでかなり時間がかかった。
彼女は首席の子だった。
「…ごめんなさい
探るつもりはなかったんだけど…、あなたから漏れ出す魔法残渣が…」
「俺…、俺…」
「何も言わなくていいよ
さぁ、腕を貸すわ…」
彼女は優しく僕の身体を引き寄せると、思いの外強い力で抱きしめてくれた。
僕は膝から崩れ落ちるように、自分でも自分がわからなくなるくらい泣いた。
もう生きていたくない。
もう死んでしまいたい。
もうこんな自分、いらない。
「いっぱい泣きな
ここだと人目もあるから特別な場所に連れて行くけどいいかな?
あたしの秘密の場所」
僕は彼女の服につかまりながら泣きじゃくる自分をどうにか操って頷いた。
彼女はゆっくりと絨毯を足元に滑らせると、風が僕に当たらないように、僕を冷たい雨から守るように抱きしめながら目的地へと空へ飛び上がった。
30分ほど飛んでいただろうか。
僕はまだ泣いていた。
心から血が流れる音がする。
あのナイフを自分に刺してしまえばよかったのかもしれない。
「ついたよ」
彼女と、彼女の背景に見える建物に、僕は泣きながらも驚いたのを覚えている。
「ここって…」
「ええ、娼館
あたしの母が玉座を守る場所よ」
彼女はあの有名な花釣宮の花魁の娘だったのだ。
彼女はここへ来ることが慣れているように最上階へと向かい、いい香りのする廊下を通り、一つの美しい扉の前で立ち止まった。
「お母さん入ってもいい?」
「大丈夫よ〜」
「はいりまーす」
そこは別世界だった。
今まで見たことのないくらい綺麗なもので溢れていた。
宝石が一緒に入ったガラスのインク瓶、漆塗りの朱い蝶の手鏡、珍しい青い漆塗りの華奢な鏡台、白磁の天女が描かれた花瓶、鮮やかな緑色の色打掛…。
そして、その部屋の真ん中で正座している女性。
内側から光る魔法でもかかっているのかと思うほど美しかった。
少女のような愛らしさに隠しきれない心を惑わす大人の艶やかな色香。
「初めまして
私の名は
八桂、あなたと一緒に立ってる美少女の母であり、ここ、花釣の頂点に座す花魁でございます」
「あら、お母さんこの子は別に恋人じゃないから
牽制しなくて大丈夫よ」
「あ、そうなの?なーんだ」
「え、え?」
僕の涙はいつの間にか止まっていた。
「お名前、なんていうんだい?」
「ぼ、僕の名前はキール=コーラル=ホリーと申します…」
「よろしくね、キール
玖寓、どうして連れてきた?」
「死のうとしてたから」
「…あいわかった
キール、ちょっとおばさんに手を見せてくれるかい?
ほら玖寓、お客様には一番いい座布団をお出しするんだよ」
「はーい!」
キールは玖寓が出してくれた椿の花が描かれた美しい座布団に座り、八桂と向き合った。
「いいかい、私には年齢問わず虐待にあっている人を助ける権利が与えられている
その中の一つ、事情聴取を行使させてもらうよ
知られたくないことももちろんあるだろう
でもね、つけられた傷はどうしたって消えやしないんだ
時が経てば薄くはなるだろう
でもね、世の中には傷に塩をぶつけてきたり、同じような傷をつけて相手の流血を楽しむような輩がいる
戦えとは言わない
逃げるんだ
逃げる時間を稼げるように君にあった鎧を作ろう
その手伝いを、私にさせてほしい
さぁ、手をお出し
私に君の心を見せておくれ…」
キールは再び流れ出した涙を拭う。
止まらない。
今はただ、それで良いと思った。
優しく差し出された手を、恐る恐るとり、瞳を閉じる。
その瞬間、キールの身体は暖かく優しい風に抱きしめられているような、淡いオレンジ色や桜色が舞う空間にその身を浸しているような不思議な感覚にまどろんだ。
どのくらい経っただろうか。
ふっと現実へと身体が戻って行く。
ゆっくりと目を開けた先では八桂が微笑みながら泣いていた。
「あ、あの…」
「キール、君はあまりに優しすぎる性格のようだね
今日まで耐えてきたのは、昨日、大好きな子が転校したからなんだね
あのクソ親父は数年前の授業参観で君の好きな人を見て、君が同性愛を諦めないとその子も同じ目に合わせると脅してきたんだね
大丈夫だよ、君の好きな人は君が守ったんだ
君は彼のヒーローだよ
君は何も責任を感じる必要はない
キール、君のその暖かな春のような愛は、無くすには勿体無い
少しの間ここで私と玖寓と一緒に生きよう?
あんなクソ野郎に、君の命までは奪わせやしない」
「あ、ああ…、うっ…、うう…」
「まずは風呂だな!
とびっきりの遊女をつけよう」
「うっ、うっ…、…え?」
「自分自身の身体を『綺麗』だと思える洗い方を教えてくれる」
キールは意味がわかり、ハッとした。
汚された、汚れてしまった、汚いんだ、そう思ってきたからだった。
「君の身体は骨格の均整もとれているし、筋肉のつき方に無駄がない
肌も過度な日焼けに傷んだりしていないし、髪も艶やかだ
でも、外見の情報で今は納得できないだろう?
誰に『綺麗』だと褒められても、今は素直に受け止められないだろう?
だったら自分で自分の身体を愛せるようになるまで毎日向き合うほうが、悲しむよりもずっと未来を楽しめると思わないかい?
さぁ、しっかりお湯に浸かっておいで
女の身体は興奮するためだけに柔らかいんじゃないんだ
傷ついた人を優しく抱きしめるために柔らかく作られてるんだよ」
「あ、あなたは一体…」
「ふふふ、私は医療錬金術師さ
専門は精神科と生殖科学だよ」
「すごい…」
キールは八桂に頭を下げると、迎えにきてくれた遊女と一緒にお風呂へと向かった。
遊女のお姉さんはお湯の掛け方から石鹸の香りの選び方、洗い方、流し方、お湯への浸かり方、身体の水分の拭き取りかた、香油の香りによって塗り始める場所の違いなど、丁寧に優しく教えてくれた。
キールは自分でも驚いていた。
まだ少し心に抵抗はあるが、自分の身体からちゃんと汚れが落ちた気がしたからだ。
事後の父親の臭いがしない。
今はただただ桜の香りが身体を包んでいる。
涙で腫れた
瞼や、荒れた頬もちゃんと自分自身のものだと思えた。
斜め後ろから俯瞰するように切り離していた心が身体に戻ってくるのを感じる。
そこでやっと気づいた。
「俺には、助けが必要なんだ…」
浴場の外の廊下には玖寓が待っていた。
「あー!なんて良い香り!
あたしも今日は桜にしよーっと」
「あはははは、くぅちゃんはいつも元気ねぇ」
「まぁね!」
この日からキールの心の治療はゆっくりと始まっていった。
玖寓はそれを支えるように毎日同じ香油を選び、「一緒だね」と言ってくれた。
この「一緒だね」がどれほどキールの心を助けたことだろう。
キールは一年かけて自分の身体を取り戻し、その後、3年かけて心を身体の中心へと戻していった。
その間にキールと玖寓の2人は競い合うように資格をとりまくり、半年に一回は共同研究と一緒に書いた論文から特許の申請をしていた。
キールがやっと一人暮らしをできるまでに回復する頃にはお互いに医療錬金術師として活躍し始めていた。
「玖寓、花魁への昇格おめでとう!
八桂母さん、今までお疲れ様でした!」
「あはははは!
まさか自分の娘に譲ることになるとは思わなかった
しかしキールはものすごく男前になったねぇ
どうだい、恋の方は」
「お母さんは恋話本当に好きよね〜」
「あはははは
実は友人の店でちょっと良いなぁって思う人ができたんです」
「友人ってあの変態君かい?」
「ルークよ、ルーク
なんでルークだけ名前で呼ばないの?」
「だってあの子、変態君って呼ぶと喜ぶんだもの」
「ああ…、そうか…」
「それで、その良い子は可愛い子なのかい?」
キールは照れたように頭をかくと頬を赤らめながら話し出した。
「可愛いし、美人だし、スタイルもいいし、それに…
とっても優しいんだ
なんていうか、目線も、身のこなしも、仕草一つとっても、ふわふわのマフィンみたいに柔らかくて、甘くて…、俺、もう夢中なんだ」
「やーん!!!
ちょっと!最高の恋話じゃない!
素敵すぎる!」
「でしょー!あたしも何回かキールに頼まれて一緒に会いに行ったんだけど、すごく綺麗な子なの
ファージって言うんだけど、しかもあのリリーベル家の跡取り息子なのよ!
超絶美青年すぎてあたしも恋しそうになった!」
「いいわぁ…
若い子の恋愛ってどうしてこうも魅力的なのかしら…」
「じ、実は、今度デートするんだ」
「初耳!」
「詳しく!」
「いやぁ、詳しくも何も…
頑張って昨日誘ってみたんだ
そしたら…、いいですよって…
でも、ちょっと問題が…」
「何が問題なのよー
言ってみなさいよー
彼女も彼氏もいないあたしに言えるもんなら言ってみなさいよー」
「え、アルルは?」
「アルルは留学中って言ったでしょー」
「あぁ、そうか」
「で?問題ってなんなんだい?」
「それが…、どうもファージちゃんは恋人を身体の相性で選んでいるらしいのです…」
「あぁ…、そうなのかい…」
キールは恋心は取り戻したとはいえ、男性の身体に対する嫌悪感が未だに心に巣食っているのだ。
恋愛対象は男性なのに、今は女性の身体しか触ることができない。
何度も遊女のみんなや蔭間のみんなが協力してくれたのだが、恋愛対象の男性とはちゃんと性交をすることができなかった。
傷は残る、いくら薄くなろうとも。
「じゃぁ、キールが変えるんだね
ファージちゃんの心をさ」
「え〜…、できるかなぁ…」
「このことに関しては『頑張りなさい』って言うほかないね」
「そ、そんな〜」
「ふふふ、いいねぇ
情けない顔ができるようになったってのはいいことだよ
私も安心して夫と隠居できるってもんだ」
「夫って、一体何人目よ」
「えっと〜…、18人目?」
「あたしのお父さんはお墓の中にいるから仕方ないけど、それ以降の16人のおっさんたちが泣いてるわよ」
「だって〜」
「はいはい」
「あはははは!全く、八桂母さんには敵わないよ」
「でっしょ〜」
キャッキャキャッキャと騒ぎながら花釣宮の玖寓の部屋で3人で楽しくお茶をした後、初デート記念だと言って八桂の夫が迎えに来るまで服屋を連れまわされたキールは、とても渋い仕立ての着物を買ってもらった。
「デートの日はこれでバッチリね!」
「ほ、ほんと?」
「男性の着物の裾チラほどエロいもんはないのよ!
勝負服よ!勝負服!」
「は、はい!」
☆★☆★☆
そしてデートの日。
緊張しすぎてあまり眠れなかったキールは熱めのシャワーで強制的に身体をさっぱりとさせ、勇気を奮い立たせた。
八桂が選んで買ってくれた着物に袖を通す。
濃く深い甘めの茶色の生地に控えめな大きさながらも大胆な真紅の牡丹が袖口と左胸の位置に刺繍されているとても渋い着物。
羽織は爽やかな薄い灰色で裾や袖口に向かうに従って黒くなるようなグラデーションが施されている。
足元に合わせるのは真っ黒のブーツ。
くるぶしの辺りに灰色で牡丹が描かれているのがとてもかっこいい一足だ。
「ああああああ、緊張で吐きそう…」
キールは痕にならない程度に両手で自分の頬をパチンと叩く。
「よし!初デート、頑張るぞ!」
キールは同じ方の手と足が同時に動くくらいカチコチになりながら家を出て待ち合わせ場所へと向かった。
乾いた空気のせいで少しだけ足元に砂埃が舞う。
伝統的なガラスランプや極彩色の糸を使った細かい模様の刺繍小物など、オリエンタルな雑貨屋が立ち並ぶ職人街。
錬金術で作り出した合成貴石のアクセサリーは地元民にも観光客にも愛されている。
初デートに緊張する人の常識なのかどうなのかは知らないが、キールは約束の時間の1時間も前に着いた。
「…え?ファ、ファージちゃん?」
そこにはまるで相談したかのように同じ牡丹の模様が入った本振袖に袴を履いたファージが立っていたのだ。
薄い水色に艶やかな赤い牡丹の刺繍。
明るめの紅の袴には裾に
霞草が描かれており、染め直した黒髪のポニーテールに鈴蘭の髪飾りがよく映えている。
黒い細めのヒールの編み上げブーツがちょっとだけハードでかっこいい。
「キールさん!」
「え、ど、どうしてもういるの?」
「うふふ、なんだか緊張して昨日眠れなくて…
待ち合わせまでお買い物しようかなぁと思ったんですが、でももしかしたらキールさんが早くきてくれるかもって思って待ってたら…、うふふ」
「わぁ、う、嬉しい!
あ、でも、どうしよう!
実はお花屋さんに予約してて…、これから取りに行くんだ」
「まあ!なんて素敵なのかしら!
ぜひ一緒に行かせてください」
「う、うん!」
幸せな始まり方だった。
一緒に花屋へ行き、ファージのためにキールが自分ででサインした可愛い花籠を受け取り、特別なレースの袋に入れてもらった。
ファージが行きたがっていた展示が開催されている美術館と博物館をはしごして、遅めのランチを食べて、何軒かの雑貨屋さんや本屋さんへ行き、夜がその色を濃くする少し前にファージを家まで送って行った。
ファージが背伸びをする。
キールの唇にファージの唇が重なった瞬間、喜びとともに、恐怖が生まれた。
「ご、ごめんっ…」
「キールさん!」
キールは走り出していた。
手足が冷える。
心が冷える。
「ちょっと、どうしたの?!」
「玖寓、どうしよう、俺…」
「…いいから部屋に入りなさい」
「う、うん…」
真っ青な顔で花釣宮に現れたキールの様子に何があったのか察した玖寓は侍女に今日はお客を取らないことを告げると自室の扉を閉めた。
「で?キールの口からちゃんと聞きたいんだけども?」
「うん…
怖くなったんだ
もし、もしファージちゃんが俺と同じように俺のことも想ってくれたときに、男の身体は愛せないなんて告げてしまったら…、ひどい傷つけかたをしてしまう
このままじゃ、好きでいることすら…」
「…それだけ?」
「えっ」
「あれだけ大変な過去を乗り越えて今まで頑張ってきたあんたが不安なことってそんなに小さいことなの?
あんた以上に幸せに値する人はなかなかいないよ?
愛することを恐れるなんて、この世で一番愚かなことだと思う
ただ好きだから一緒にいたいの?
ただ好みだからデートしたいの?
ただ見ていたいからそばにいて欲しいの?
違うでしょ
ファージちゃんと過ごしたい時間があるんでしょ!
ファージちゃんだからこそわかって欲しい過去があるんでしょ!
ファージちゃんと乗り越えたいんでしょ!
しっかりしろ!」
玖寓の瞳からこぼれ落ちる涙がキールの心に降り注がれて行く。
泣かなければいけないのは自分の方なのに、と。
「ありがとう、玖寓
俺、明日謝りに行ってくる」
「そうしろそうしろ!」
「ごめんな、仕事の邪魔しちゃって…
気合入ったよ」
「それでよし!」
キールは玖寓にお礼を言うと、自宅へと帰って行った。
玖寓はそれを確認し、すぐに藤の花の小袖に着替え、レースの羽織を羽織ると巨大な扇子に乗ってすぐに花釣宮を後にした。
リンリンリンリン
リリーベル家の門についている鈴蘭のベルを鳴らす。
「[はい、どちら様…ああ!こんばんは玖寓様
ファージ様は自室にいらっしゃいますので直接ベランダへいらっしゃって大丈夫ですよ]」
「どうも〜」
玖寓は巨大な扇子に乗るとファージの部屋へと向かった。
コンコン
「あら!玖寓!」
「おひさ〜」
「すぐ開けるわね」
ファージはレースのカーテンを脇にずらすとバルコニーの大きなガラスの扉を開け、玖寓を中に招き入れた。
「どうしたの?
今日も仕事じゃなかったかしら?」
「ふふん、あんたのその腫れてる目の理由をつつきにきたのよ」
「…はぁ、玖寓には敵わないわね」
「でしょ〜?
それにしてもファンシーなネグリジェねあんた」
「うるさいわね〜
レースもシフォンもパフスリーブも似合うんだからしょうがないでしょ」
「あはは!ムカつく!」
「あんたのも用意してあるのにいらないならいいのよ〜?」
「ゴッメーン!」
「はいはい」
ファージとお揃いの真っ白なネグリジェに着替えた玖寓はベッドに腰掛けているファージを後ろからギューっと抱きしめた。
「うふふ、こんなことされたら好きになっちゃうわよ?」
「自分を守るためにつく嘘は、あとでその身を締め付けるだけだって何度も教えたよね」
「…そうね」
「あのさ、ファージにしては珍しいことだよね
出会った初日に寝ないなんてさ
どうしてキールには手を出さないの?」
ファージは深呼吸をする。
キールへの想いで膨らんだ胸を落ち着けるように。
「…真剣なの
だから、わたしのトラウマで彼を繋ぎ止めるようなことはしたくなかったの」
「そうね、あなたは愛され方を知らない
あなたのお姉さんが投獄されてからあなたの両親は子供を愛することをやめてしまった
育ててきた大事な宝物が目の前で鉄屑になった瞬間に、あなたの両親は耐えられなかったのよね
大貴族のプレッシャーは王族よりも大きいわ
あなたの両親はそれを支えるほどの気力を失ったの
だから当時まだ17歳だったあなたに家督を譲り、自殺した」
ファージは小さく震えている。
抱きしめている玖寓の腕に、ファージの涙がポタポタと広がっていく。
「ファージ、あなたは本気で愛されるのが怖いのよね
そしてキールは本気で愛するのが怖い
あなたたちは本当に悲劇的だわ
でも、それと同時に、とても必然的
あなたたちはお互いじゃないと埋められない傷を持っているのよ
あなたのその優しい包むような愛しい気持ちはキールの傷を癒し、キールのまっすぐな愛はあなたの傷を過去のものにしてくれる力がある
傷を克服する理由なんていらないでしょ?
愛に性欲は必要ないことだなんてとっくのとうに気づいてるはずよ
キールに出会ったその日からね」
ファージは玖寓の方へと振り向き、瞳にいっぱい涙をためた笑顔で想いを語る。
「わたし、わたし、キールのことを愛しているわ
この世界の誰よりも、この世界のどんな美しい宝石よりも、彼の瞳はキラキラと輝いて見えるの
どんな過去があったって、それも含めて彼を作り出してくれたのならば、わたしはその全てを受け入れ、愛し、想い、大事にするわ!
愛してるのよ、キールを、心からね…
彼よりも暖かいものをわたしは知らない
彼よりも素晴らしい物語をわたしは知らない
彼よりも綺麗な音楽をわたしは知らない
キールはわたしの愛の全てだわ
この先の人生を彼無しで生きて行くことが想像できない…
彼はわたしのヒーローよ」
「うふふ、妬けちゃうし、あたしを泣かせてどうすんのよ
さぁ、全部キールに伝えなさい
きっと同じ気持ちだと思うわ
そして、あたしも2人を愛してる」
「玖寓…、うっ、うっ、うわぁぁあああああぁあぁぁ」
「泣きなさい
あたしの豊満な胸はそのためにあんのよ」
☆★☆★☆
3年後、キールはファージにプロポーズをする。
約半年間の婚約期間を経て、めでたく結婚。
可愛い養女、ギフトを家族に迎え、ある一つの変化を心に感じ始めている。
キールもファージも結婚が成立した日からは一度も誰とも身体の交わりをせずにいた。
特に宣言したわけでも、約束したわけでもないのに、お互い以外の誰かに触れたいと思えなかったのだ。
ギフトが通う学院で起こった事件。
ファージは大怪我をした。
キールの心に超新星爆発のような、全てを吹き飛ばすほどの変化が起こったのはその時だった。
包帯を変えるためにファージの服を優しく脱がし、体中に巻かれた包帯や湿布、血の染み込んだ綿を取って行く。
「ファ、ファージ…」
「…?どうしたの?」
「俺、俺…、ファージの身体に、ドキドキしてるんだ
これって、これって…」
「!!!!
キール、それ、本当?!」
「うん、ほら、俺の胸の音、聞いてみてよ」
「…ああ、ドキドキしてる…」
「ずっと、ずっとこうなることを夢見てた…
あぁ、なんて幸せなんだろう」
「わたしもよ、キール…
嬉しくてどうにかなってしまいそうだわ
ゆっくり私たちの速度で行きましょう
まずはお互いにドキドキして…、ふふふ
まるで思春期に戻ったみたいだわ」
「あはは、そうだね…
わぁ、どうしよう
ドキドキが止まらないよ
…ちょっとだけ撫でててもいい?」
「あら、もちろんよ」
「えへへ」
愛がすべての過去に打ち勝つ、というような綺麗事をいうつもりはない。
でも、それでも愛することは無駄ではないし、愛しているからこそ変われることもある。
人には言えない、言いたくないトラウマや傷に苦しんで、誰かを想うことや、想われることから逃げ出したくなることもある。
それに立ち向かえ、戦え、とは思わない。
逃げて助かることだってこの世界には確かにあるのだから。
逃げることは弱さじゃない。
ただ、次に立ち上がる時のために準備をしているだけ。
その準備にかかる時間は人それぞれ違う。
違うに決まっている。
持っている傷も、経験も、環境も違うのだから。
スタートは自分では決められないことも多いかもしれない。
でも、ラストは自分で決めることができる。
無理に始まりをいいものにしなくったっていい。
途中を充実させなくたっていい。
自分が思い描く終わりの中でどれか一つでも叶うなら、それまでの道筋は何も無駄ではなかったということだと思う。
過去は変えられない。
でも、過去は絶対にあなたに追いついたりしない。
過去は絶対にあなたを追い越したりしない。
未来に待っているのは文字通りに未知だけ。
未来に、嫌いなものを持って行く必要なんてない。
すべて捨ててしまえばいい。
いつか、その捨てたものごと見つめてくれる人が現れるかもしれない。
過去はあなたを縛るものではない。
今立っている場所までに登ってきた階段の一つに過ぎないのだから。
「ふふふ、キールったら可愛い寝顔しちゃって…
一晩中看病してくれてたものね…」
「ふぁぁじぃ…」
「まあ、寝言ね!
わたし、愛されてるのね…」
ファージは優しく眠るキールの頬へキスをする。
まずは上半身から、と言って肌を触れ合わせながら眠ることを望んでくれた愛しい人へ、愛を込めて。