スイッチは落としてよ 日付が変わる頃、帰宅した。
帰宅といっても、自宅に帰ったわけではない。つまり、これは帰宅とは言わないのかもしれない。月永レオが暮らすマンションの一室を訪問した、これが正しそうだ。
二十五歳の男子が暮らしているとは思えないようなこのマンションにレオが暮らし始めたのは、三年ほど前のことだ。その頃から、泉はこの場所に『帰宅』することの方が多い生活を送っていた。
『帰宅』じゃなくて、だから、訪問か。
そんなことを考えながら、エントランス、エレベーター、そして居住フロアと、それぞれに設置されたオートロックシステムを解除し、合鍵で玄関のドアをそうっと開く。時間も時間だ。寝ている可能性だってある、そう思っての慎重な行動であったが、廊下の電気はつけっぱなし、その先にあるリビングの扉からは、深夜には似つかわしくない明るさが漏れ出していた。
「ただいま、れおくん。 まだ起きてたのぉ?」
リビングルームに置かれた大きなダイニングテーブルの上に散らばる五線紙と、その端寄りに置かれた液晶、そして名前も知らない機械の数々と、鍵盤が並ぶキーボード。
その前にちょこんと座り、ヘッドホンを片耳に押し付けながら、一心不乱といった様子で五線紙に音符を書き込んでいくレオの髪の毛が冷房の風に揺れていた。
「ねぇ、ご飯は食べたの?」
完全なる仕事モード。
返事はない。そのかわり、「ちがう、この音じゃない」と、何やらパソコンを操作してみせるだけ。
外ではほとんどかけることのない眼鏡のフレームの位置を整え、「これかなー?」と、画面をじっと見つめながら耳を澄ましている。レオがかけている、紺色のフレームの眼鏡は、泉が選んだものだ。
二年くらい前、視力が落ちてきたというレオに付き添い入った眼鏡屋で買った。こんなの何でもいいというレオに代わり、一時間ほどかけて選んだものだ。
レオは、これを仕事をする時、そしてたまに運転をする時にこの眼鏡を使う。
「れおくん、その眼鏡似合うね、でも、そろそろ買い替えてもいいかもねぇ」
どうせ聞いちゃいないんだろうと、自分の趣味で選んだ眼鏡をかけるレオを褒める。やっぱり、返事は何もなかった。仕事をしていない時であれば、「そうだろ?おれは何でも似合うんだ!」などと、胸を張って言うのであろうに。まあ、もっとも、そんな時にレオのことを褒めるような言葉を口にするつもりもないのだが。
「……なーんか、イメージと違うんだよなあ」
泉が帰ってきたことにも気がついていない、そんな様子で作業に没頭しているレオに、やれやれと溜息を吐き、キッチンへと向かう。
冷蔵庫の横にかけてあるエプロンを腰に巻き、目に付いた食材を取り出し、空いているスペースに並べた。
この時間だし、おじやか、煮込みうどん?炭水化物取らせすぎるのもよくないけど、どうせなーんにも食べていないだろうし。タンパク質は明日たっぷりとらせるとして……。
「れおくん、おじやかおうどん、どっち?」
無駄と思いつつ尋ねると、「……おうどん」と、小さなくぐもった声が返ってくる。おや、と思いながら、リビングで作業を続けるレオをチラと覗き見れば、画面と睨めっこを続けていた。
聞こえてきた返答は空耳だったのかもしれない。そんなことを想いながら、鍋にたっぷりと水を入れ、火をかけ、棚の中からうどんを取り出す。湯が沸くまでの間、ネギや鶏肉といった食材を形よく切り、作り置きしてある出汁を冷蔵庫から取り出し、また別の鍋で温める。
手際よく調理をしていけば、二十分も経たないうちにほとんど出来上がった。少しでも栄養を、と最後に卵も落とし、大きめのどんぶりにそれをよそい入れる。彩を考えると、三つ葉でも散らしたいところではあったが、常備していない。気持ちばかりと、ネギの青い部分が見えるよう位置を整え、木製のお盆に出来上がったそれをトンと乗せた。
鍋の中には、あと一食分が残っている。これは、明日のレオがお昼に食べる分だ。夜は早くに帰って来て、スーパーで食材の買い出しもして、しっかりとした料理を作る予定だ。
本当は、今晩だって、もう少しちゃんとしたものを食べさせてやりたい気持ちもあるが、これがこの時間の限界だ。そう結論づけ、出来たてのうどんをレオがいるテーブルへと運んだ。
「はい、どうぞー。食べたら?」
お盆の上には箸とレンゲ、七味も用意した。
テーブルの上にどんぶりが載ったお盆を置くと、レオの鼻がヒクヒクと動いた。
「……? ん? なんか、いい匂いがするぞ?」
画面を難しい顔で睨んでいたレオの眉間から、ふと力が抜けていくのが、その表情から分かった。
「おお! どこかからか声が聞こえてきたから、おうどんって答えたら、本当におうどんが出てきた!なんだこれは、妖精さんの仕業か……?!」
「はいはい、バカなこと言っていないで、少し片づけたら?うどんのつゆでも跳ねたら困るんでしょ?」
驚いた顔をしてどんぶりを見つめるレオに、呆れ混じり返す。
「うわあ!セナ!なんでいる?!」
「……はあ、早く食べなよ」
レオと角を挟んで隣に腰を降ろし、肘をつく。
「驚いただろ?! うちに来たなら来たって言えよな」
言いながら、目の前にある紙やペンを、そのまま横に押しのけ、お盆を自身の前に引き寄せる。
「そんな雑な片づけ方して、また後になって、あれがないこれがないって騒ぐんでしょ?」
まったくと、小言のように漏らせば、レオは「だいじょうぶ、全部分かってるぞ」と、自身を滲ませて言った。
「わーい、おうどんだ。お腹空いているのも忘れていたけど、そうだ、起きた時からお腹が空いていたんだ!」
いただきますと、両手を顔の前で合わせるレオに溜息を吐く。
「はあ? てか、今日は何時に起きたの?」
「うーん……、四時かな、いや、三時だったかもしれない」
四時。
手元にある携帯で時刻を確認する。レオが起きてから八時間が過ぎている。
「お腹が空いたって感じたら、冷蔵庫に色々作り置きしてあるんだから、そういうのを適当に食べなよ」
アイドルの仕事を減らし、作曲や編曲の仕事をメインにするようになってから、こうやって一人で部屋に閉じこもり黙々と音楽に従事する時間が増えた。アイドルの仕事をメインにしていた頃は、泉をはじめ、他のメンバーと行動を共にすることも多く、時間は不規則であっても、食事はしっかりととっていた。しかし、一人きりで仕事をする時間の方が多くなってからは、睡眠も食事も、それまで以上に不規則になり、こと食事に関しては疎かになっていく一方だった。
こうして泉が部屋を訪れ、無理やりにでも食べさせない限り、一日くらいは簡単に食事を抜いてしまうのだ。
「あっつぅ、でも、おいひい……」
はふはふとうどんを頬張るレオに、「よく冷ましてから食べなよね」と笑う。
「はあ~、生き返る」
うどんを一口啜ったレオが、満足気に漏らす。
「あのねぇ、だから、ご飯はしっかり食べろって言ってるの、俺は」
自分が作った料理を美味しそうに食べるレオを見て満足してしまいそうになるのに、首を横に振り、それから話の続きをする。
「あー……、いや、おれも忘れていたわけじゃないんだよ。セナが作っておいてくれたごはんを食べようと冷蔵庫を開けるんだけど、それをお皿によそう時間とか、一人でもそもそ食べる時間とかがもったいなくなるくらいに、降りてきちゃうんだよ、インスピレーションが……」
自身の頭をパチンと叩きながら話すレオに、「意味わかんない」と返す。
「だからあ、この野菜を切った時のセナの手とか、鍋の火を見ている時のセナの瞳の色とかを妄想すると、ご飯を食べている場合じゃない、書かなくては……!となってだな」
指先を天井に向け、くるくると回しながらレオが続ける。頬が少し熱くなるのを感じた。
「……それがダメだって言ってるんだけど、俺は。音楽を作りたいなら、まず最低限のことはしなよね、睡眠と食事」
恥ずかしいようなくすぐったいような気持ちを咳払いで誤魔化し、うどんをずるずると啜るレオに言う。
「ふあーい、まあ、うん……、ごくん、分かってる、」
眼鏡をくもらせながら熱いうどんを食べるレオに、「分かってるなら、明日はちゃんとお昼過ぎには起きて、これの残りが鍋に入っているからそのままあっためて食べるんだよ」と念を押す。
レオは「うんうん」と頷きながら、またうどんを啜っていた。
「おかわりする?」
聞くと、レオは頬を膨らませたまま、首を横にぶんぶんと振った。
「……じゃあ、俺はシャワー浴びてくるから、食べ終わったら流しに下げておいてね」
起きてから初めての食事に夢中な様子のレオを置いて、言葉通り、シャワーを浴びようと席を立ち、バスルームへと向かった。
「……仕事、まだやるの?」
熱いシャワーを浴び、髪の毛を乾かし、冷房で乾燥しがちな肌の手入れをして、リビングへと戻ると、泉が席を立つ前と変わらない姿でレオが仕事を続けていた。
二時を回る頃だというのに、作業を止める気配はない。眼鏡をかけたまま、じっと大きな液晶画面を見つめている。
「あ、そう」
返事がないことを肯定ととらえる。
台所に片づけておけと言ったのに、どんぶりはテーブルの上に乗っかったままだった。それに対して今更いちいち何かを言う気はない。もともと期待していたわけでもなかった。黙ってお盆を手に取り、流しへと持っていく。
「あ、セナ」
「なに?」
カチャカチャと、皿を洗っていれば、レオが声をかけてくる。
「ごちそうさまでした。おいしかった」
「……どういたしまして?」
スポンジを泡立てながら、レオの方をちらと振り返ったところで、ヘッドホンから流れてきているのであろう音楽を真剣な面持ちで聞くレオの姿しかなかった。
「じゃあ、俺は先に寝るから……」
洗い物を終え、ベッドルームに先に行くことを告げれば、「セナ、」と呼び止められた。
「なに?」
ヘッドホンをテーブルにポイと投げ置いたレオが、「ベッドじゃなくて」と言ってくるのに、泉は眉根を寄せた。
「ソファで寝て!セナの寝息を聞いていたい! なんか、ここにいてほしい」
「……」
レオは、たまにこれをする。
高校生の頃に比べれば、いくらかマシというか、その種類は変わったようであったが、煮詰まってくるとレオは泉を隣に置きたがった。それで何かが解決するというわけでもないのに、泉が寝ている隣で作業をするのが好きだと言って、ゆっくりとベッドで眠りたい泉を、自らが作業をするリビングルームのソファで眠らせようとする。もともと、フローリングの床の上でも眠ってしまうよりはマシだろうとレオが買ってきたソファは、成人男子が一人横になって眠ることが出来るほどの大きさがある。
「……まあ、いいけど。起こすようなことしないでよ」
真っ暗な部屋で、身体を真っすぐにして眠りたい。そう思うけれども、こうしてねだられてしまうと断ることが出来ない。とは言え、素直にレオの『おねだり』を聞き入れるのも癪で、文句混じりに返す。
「起こすようなことってなに~?」
眼鏡のフレームを持ち上げながら、からかうよう、面白そうに聞いてくるレオに、はあと思い切り溜息を吐く。先ほどまで仕事しか目に入っていない様子だったのに。集中力が途切れたのだろうか。小さな男の子が下ネタめいた冗談を言う時のよう、ニヤニヤと唇の端を釣り上げて言うレオに、「ガキ」と呟く。
「……急に大きな声を上げない、部屋の中をドタバタ動き回らない、ものを床に落っことさない」
まったくと。ソファの近くに置いてある籠に畳んで入れたる大判のブランケットを取り出し、クッションをソファの端にいくつか並べながら言う。
「セナってばつまんない」
その冗談に乗る気配も、照れる気配も見せない泉に、椅子の上、膝を立てたレオが口を尖らせる。
その顔つきを大人びたものにさせる眼鏡と正反対に子供っぽい仕草だと思った。
「はいはい、じゃあね。こっち側だけ電気消すよ。れおくんも、集中力が切れたならもう寝れば?」
言ったところで、レオの顔には眠気なんてまるでない。明け方まで、もしくは泉が起きる時間まで、レオは音譜と音を選ぶ作業に没頭し続けるのだろう。床に落ちていたリモコンを手に取り、リビングルームの天井に二つ設置された照明のうちの一つを落とす。
レオの作業スペースは、明るいままだ。
「れおくんが寝るなら、俺もここで寝る必要ないんだしさあ」
そう言いながらも、ソファに身体を横たえるのは、レオが眠らないことを確信しているからだ。
ブランケットに身体を包み、目を閉じる。すぐに眠気が訪れるのに、そういえば、今日は一日中撮影をしていたことを思い出す。
疲れたな。
それを認識してしまえば、真っ暗ではない部屋であっても、すぐにでも眠れそうなほどの眠気が押し寄せてきた。
「……セナ」
疲労を思い出したかのように眠りにつこうとする意識を呼び起こすよう、不意に声が降って来た。そこにある人の気配に、うっすらと目を開ける。
「……なに?」
テーブルにいたレオが泉が寝転がるソファの前へとやって来て、かと思えば、寝転がった泉の身体を跨ぐよう、ソファの上に身体を乗せてきた。
「なに?」
覆いかぶさってくるレオを真っすぐに見つめ返す。眼鏡のせいか、薄がりの中に見えるレオは、やっぱり、大人っぽく見えた。
大人っぽい、もなにも、もう二十五歳だしね。
そんなことを思いながら、近づいてくるレオの顔を避けることもせず眺めた。
「んー……、ちょっと」
泉の問いには答えず、鼻先にキスを落としてくるレオに、「起こすようなことしないでって言ったでしょ」と、その鼻を摘む。
「ん、そうだけど、なんかちょっと、」
詰まり声で言うレオに、「なんかちょっと、ってなに?」と、摘んでいた鼻を解放しながら返す。
「色っぽいことがしたくなったというかー……」
うーん、と。
なんでだろうなと、首を傾げながらも、泉の身体にかかるブランケットを捲り、ついでに泉が着ていたティーシャツの裾に手を忍び込ませてくる。冷房が効いた部屋で一日中作業をしていたレオの指先は冷たくて、その温度に触れられるだけで腹のあたりの柔らかな皮膚がぞくぞくと粟立った。
「俺は眠たいんだけどぉ?」
ごそごそとティーシャツの中を探るレオの手をそのままに言う。
「じゃあ、セナ寝ててもいいよ」
ちゅ、ちゅ、と頬にキスを落とされる。そうやって、啄むようレオが口づけてくるのと一緒に、眼鏡のフレームも頬にあたった。その感触に、泉は眉根を寄せた。
こうして、リビングで泉を眠らせようとする時のレオの行動は二パターンある。
一つは、そのまま何もしない。
もう一つは、気晴らしとばかり、こうして触れてくる。
「……寝れるわけないでしょ、」
されるがままになっていた泉が、不意にレオの顔へと手を伸ばす。
「……?」
なんだろうと、レオが不思議そうな顔をするのと同時、泉はレオの顔にかかったままの眼鏡へと手を伸ばし、それをそっと外した。
「眼鏡?とるの?」
紺色のそれをソファの横に置いてある小さなテーブルの上に置く。カチャ、という音が、夜の静寂に響いた。
「とるよ」
レオの問いに、当たり前だとばかり答える。
「いかにも仕事の気分転換にされてる気がして嫌だからさー」
そう続けると、レオは少し驚いたような顔をした。レオが眼鏡をするのは、主には、仕事をする時だ。そのスイッチを入れたまま、キスをされるのは、あまり好きじゃない。
「そんなつもりないけど、」
それから、何かを言おうとするレオの口を塞ぐよう、今度は泉の方から、その唇を奪う。悪戯めいた口づけに焦れたよう、目を丸くしているレオの口の中に舌を差し入れ、その歯列をなぞってみせれば、逆に絡めとられた。形成逆転だとばかり、レオに口の中を貪られる。クッションに後頭部を押さえつけられたまま、何度も角度を変えてキスを繰り返す。
「セナとこういうことするの、仕事の息抜きとか思ったことないからな……」
唇を離したレオが言う。眼鏡をかけていないレオは、かけている時とは正反対に子供っぽい。それが面白くて、思わず笑みを零す。
「なんだよ?」
泉の余裕が面白くないとばかり、レオが顔を顰めるのに、ますます笑ってしまう。
「……だったら、しっかり俺を満足させてよねぇ」
れおくん。
その腰に足を絡め、首元に腕を回しながら言う。すると、レオがごくりと唾を呑み込んだのが分かった。