財ユウ+女子 「財前くんは 7」
明け方まで雨はちらつきますが、次第に雲はなくなり、お昼過ぎからは青空が広がるでしょう。
昨晩の天気予報をなぞるよう、朝の曇り空が嘘のよう、お昼に近づくにつれ雨雲は散っていき、この時期らしい白い雲がよく映える青い空が顔を覗かせた。太陽が顔を出すのを待っていたかのように蝉が鳴き出し、夏を彩る。
七月二十日、午後五時三十分。
待ち合わせはこの前と同じ、財前くんが住む場所に近い駅の前にした。
真夏を絵に描いたような景色に、色とりどりの浴衣がちらほら見える。
「……ふう」
着慣れない。私と同じ。駅前のロータリーを男の子と歩く、私よりも少し年下の女の子が下駄でつまづく。男の子が女の子の手を掴み、転びそうになるのを防ぐのを眺めながら、ハンカチで汗を拭う。下駄に不慣れなのは私も同じで、ここに来るまでに何度も躓いた。電車を降りてから改札までの僅かな距離しか歩いていないというのに、歩きづらさも相まって首筋から背中にかけてを汗が伝った。
涼しさを求め、顔の前で折りたたんだハンカチをハラハラと振る。その頼りない風でも、火照った頬には心地よかった。
そうして手を動かせば、袖口でひらりと薄紫色の生地が揺れて、今日が特別な日であることを思い出させてくる。お姉ちゃんが貸してくれた白色や水色の朝顔が咲いている浴衣をお母さんに着せてもらって、高校時代の友達の家で髪の毛を綺麗に結わいてもらった。「こういうの得意なんだ」という言葉通り、慣れた手つきでコテを扱い、器用な仕草でピンを私の髪の毛に差し込んでいたことを思い出す。そうして緩く結い上げた髪の毛と、朝顔の浴衣と。まるで、私まで、夏になったような気分になる。
「間に合ってよかった」
ふう、ともう一度息を吐く。
どうしても人が足りない、とバイト先の店長が困っていたのを無視することも出来なくて、臨時でアルバイトに入った。アルバイトの半分以上が大学生ということもあって、夏休みも始まったばかりで花火大会もある今日なんかは、お店のシフトは全然埋まっていない状態だった。花火大会は夜からだったし、少しでも助けになればと思ってシフトに入ったものの、今日の花火大会の影響でお店は普段の何倍ものお客さんで溢れ返っていて、息つく間もないくらいだった。お昼ぴったりには上がれなくて、上がったのは三時前だった。それから慌てて家に帰って準備をして、友達の家に行ってと、二時間はあっという間に過ぎた。
「……」
私以外にも、臨時で今日のシフトに入った人も何人かいた。
そうだ、一氏さんもお昼くらいからお店に出てきていた。普段はキッチンを担当しているのに、人手不足の今日はホールでお客さんたちの対応に追われていた。でも、慣れない素振りは一切見せず、テーブルの間を動き回っていた。
あの日、一氏さんが財前くんに話をしてくれなければ、きっと断られていたんだろうな。
袖口の薄い布をきゅっと掴む。
本当は、財前くんは花火大会には行きたくなかったのかもしれないし、もしかしたら誰か別の人と行きたかったのかもしれない。
でも、財前くんは私と花火大会に行くことを選んでくれたのだから、それだったら今日が財前くんにとって楽しい一日になるように、私に出来ることは全部したいなって思う。胸に置いた手を、可愛く結わいてもらった髪の毛へと持っていく。そのまま緩く編み込まれた部分を辿り、髪飾りに触れる。帯と朝顔の色と同じ、白いアジサイに薄っすらと金色のラメが散る髪飾りは、えっちゃんや大学の友人達と一緒に選んだ。
その帰り道、好きな男の子と花火大会を見るのに最適な場所を探しに行こうと、真夏の太陽の下、パステルカラーの日傘をくるくる回しながら、川沿いを四人で歩いた。色んな話をして、笑って、ふざけて。コンビニで買ったアイスクリームがどんどん溶けていくのに、慌てながら。
その時の様子が頭の中に蘇り、笑いを零す。
あの日、楽しかったな。
結局、私や、この近くに住んでいる友達が毎年見ていた場所が一番良さそうだという結論に落ち着いて、暑い中、河原を歩いた意味はあまりなかった。そんな結末にみんなで大笑いしながら、日が落ちていく夕暮れの川沿いを、とぼとぼと並んで歩いて帰った。そんな風に過ごした十八歳の真夏の午後も、いつかはいい思い出になる。
「なんかおもろいもんでもある?」
背後に人の気配を感じて振り向くと同時、財前くんの声が聞こえてきた。
「ざ、財前くん?!」
財前くんは家から来ると思っていたから、改札の中から現れたことに驚く。
「毎度毎度、よう驚くな」
そんな私を見て、財前くんがアハハと笑った。
「電車の方から来ると思ってなくて、お家から来ると思っていたから…」
「ああ、先輩の……、この前の謙也さんて覚えてる?あの人んとこに泊まってて、そっちから来た」
定期入れをポケットに入れながら説明してくれる。
「あ、金髪の」
一氏さんと一緒にいた背の高い人。優しい人なんだろうなってことが、その雰囲気からよく分かる。お店を出る時も、私たちに声をかけてくれた。それを財前くんに話したら、いい人やけど皆にいい人やからよく問題起こすんやと、呆れ気味に話していた。どういう意味?と首を傾げる私に、財前くんは「女関連でよう揉める」と教えてくれた。
「そうそう、金髪でいい人やけど女とよく揉める先輩」
この前の話の続きをするよう財前くんが言う。
「お泊りかあ、仲良しの先輩が多くていいなあ」
一氏さんの顔がふと浮かぶ。お昼前、慌ただしい店内で少しだけ会話をした。と言っても、ほんの一分にも満たない時間で、「今日バイト入ってて大丈夫なん?」ってこっそりと声をかけてくれた一氏さんに、「三時までに出られれば何とか」と、そう答えただけ。
「そんな多くないわ」
あの日から一週間、一氏さんとはほとんど会話をしていない。シフトが被っていないわけじゃなかったし、話す暇がないほどの忙しさが常にあったわけじゃない。財前くんとのことに協力してくれたことにお礼も言いたかった。でも、休憩所でも、食堂でも、帰り道でも、一氏さんと一緒になることはなかった。バイト中は、私はホールに出ずっぱりで、一氏さんは一氏さんでいつも何かしていたから、声をかけられる場面はなかった。
具合が悪い時期があったと、前にそう話していたけれども、もう治ったのかな。
「一氏さんは……、」
「電車乗ってくんやろ?」
その質問を口にするより先、財前くんが言った。
花火が打ち上がる川辺と、私が暮らす街と、それから財前くんが一氏さんと暮らすマンションがある街を線で繋ぐと、ちょうど三角形になる。花火大会の会場を真ん中にして、それぞれが暮らす街があって、花火大会の会場に一番近い駅まで行くには財前くんが暮らす街の駅から、また違う沿線に乗り換える必要がある。だから、改札の前には立て看板が置かれていて、今日は花火大会があるから電車が混雑すること、入場規制になる可能性があることといった注意喚起がつらつらと書かれていた。
駅の構内を流れる放送も、看板に書いてあることと同じ内容を引っ切りなしに伝えていた。
「あ、ううん、会場の近くは朝から場所取りしている人で埋まっているから、ここから少し歩いて行ったところで見た方がいいかなと思って」
出かかっていた質問を飲み込んで、「あっちの方」と踏切の向こう、河原へと続く道路を指差して言う。その場所のことは、一氏さんにも教えてあげた。そうだ、一氏さんも今日は花火大会に来ているのかもしれない。彼女さんを誘ったのか、その結末は結局聞けていないけれども、一氏さんも好きな人と夏の夜を眺めていたらいいなって思う。
「会場から少し離れるけど、遮るものなく花火が見える穴場なんだよ」
「へえ、そうなんや」
財前くんは、一氏さんが花火大会に来ていることを知っているのかな。ルームシェアをするくらいの仲だから、私が知っているようなことを知らないわけがない。そう思って、それは聞かずにおいた。
「向こうまで行くと帰りの電車に乗れなくなっちゃうし」
「人多いんやなあ、やっぱり」
私が指差した方角に向かい歩き出す財前くんに続くよう、慌てて足を踏み出した。
「わっ」
たちまち、浴衣の裾に阻まれ前につんのめる。
「うわ、あぶな」
転ぶと、そう思って前に出した手を、強い力で捕まれ、支えられる。
「……?」
咄嗟に瞑った目を開けば、私の手首を、ぎゅっと掴む財前くんが目の前にいた。
財前くんの手は、一緒に勉強していた時に見ていたよりも大きく感じられた。私の手首なんか簡単に一周してしまう。その親指と、人差し指がくっついているのを見ながら、男の子なんだなと実感する。実感して、それで、今、財前くんが私の手首を掴んだままでいることに気づいて、たちまち顔が熱くなった。
「ご、ごめんね」
慌てて、手を離す。
「浴衣、夏って感じするな」
すると財前くんはそれまで私の手首を掴んでいた自分の手をチラと見て、特に何か気にする風でもなく、いつもと同じように言った。
「浴衣、気づいたんだね……」
思わず呟く。
えっちゃん達と河原を歩いた日、財前くんは私が浴衣を着ていることに気づかないかもしれないと、そんな心配を口にして、みんなに笑われた。
「そら気づくやろ、俺、視力はええ方やねんで」
「ううん。財前くんは、気づいてくれないかもしれないって思ってたの」
肩を少し上げて言うと、財前くんは「俺はどんなキャラやねん」と不服そうに眉を寄せた。
「改札んとこから、浴衣やなあって気づいとったわ」
五時を回る頃だというのにまだ青い空の下、財前くんが不機嫌そうに言うのが面白くて笑ってしまう。
「なんもおもろいこと言うてへん」
「ふふ、気づいてくれたのが嬉しかったの」」
両手を後ろで組んで、上半身を少し横に倒して財前くんの顔を覗き込んで言う。本当に、嬉しかった。
「そんなんで喜ばれてもな」
財前くんが腑に落ちないというような顔で私を見てくるのに、「そんなん、でいいの」と返す。
「……ふうん」
それ以上何か続けることなく、財前くんが再び歩き出す。それを、後ろからカランコロンと追いかける。台の下に歯が二つ並ぶ下駄は、お姉ちゃんが「かわいいから」という理由で選んだもので、確かに可愛いけれども、とても歩きにくい。いつもと同じスピードで歩くことなど到底出来ない。
すたすたと先を行く財前くんの背中を見つめながら、浴衣の裾に邪魔されながら、カラコロカラコロをアスファルトを踏んで進む。
「歩きにくそうやな、ソレ」
二歩分くらいの距離が出来たところで、振り向いた財前くんが私の足元を見て言った。
「……うん、そうだね」
もう少し、上手に歩けると思ったんだけどな。
「迷惑かけちゃってごめんね」
無意識に白い鼻緒へと目線を落とす。
「べつに、謝るとことちゃうやろ」
すると、財前くんが私の方に手を差し出してきたのが視界の端っこに映って、それにつられるみたく目線を上げた。少しずつ少しずつ、青色が褪せてきた空が、財前くんの向こうに見える。それで、目の前には、日焼けをしていない財前くんの手がある。その意味が分からず、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「さすがに、女子がよたよた歩いてるのを放ってすたこら行けるほど薄情やないんで、」
どうぞ。と、手を差し出したまま、財前くんが言う。
「あ、う、うん……」
これで合っているのかな。おずおずと、財前くんの手に、自分の手を重ねてみる。
「ありがと」
財前くんが驚いた顔を見せることもなく、私の手をそっと握るのに、少しほっとした。ほっとして、次の瞬間には、ドキドキと心臓がうるさいくらいに鳴り出す。こうやって手を繋いでいることに何か特別な意味はなくて、ただ、ドジな私を放っておくことが出来ないってそれだけが理由なのは分かっていても、胸は高鳴った。財前くんは優しいから、多分、ここにいるのが誰だって、手を引いてあげるんだと思う。財前くんは、優しいから。そういうところを、好きになった。
「ほな、行きますか」
財前くんが繋いだ手をそのままに言う。それに、「うん」と大きく頷いて、大勢に人に混じり夕暮れを迎える街を二人でのんびりと歩き出した。
目の前を広がるオレンジ色の夕焼けが眩しくて、目を細める。
「眩しいな」
同じことを感じたのか、財前くんが言う。夕暮れ時はいつも淋しい感じがするけど、花火大会の日の夕暮れも、それは変わらない。
人波に流されるよう、会場がある方へと二人でのんびりと歩いた。手を繋いでもらったからといって、急に上手に歩けるようになるわけでもなく、何度か転びそうになっては、財前くんが助けてもらった。
「この辺りがいいかなあ」
いつも来ていた場所を確認するよう、河川敷の景色を眺める。もうすっかり、日も暮れかけていた。
「何時からやったっけ?」
「七時半から始まるみたい、ちょっと早かったかなあ」
携帯をチラと確認して言う。始まるまでは、あと一時間ちょっとある。
「ちょうどええんとちゃう?なんか買って下で待てば」
会場へと続く通りは歩行者天国になっていて、沿道には屋台が並ぶ。花火大会の会場だけでなく、その付近でもこんな風にお祭りの時みたく屋台が出ている場所がいくつかあって、ここはその一つだった。会場まで少し距離があるせいか、屋台に立ち寄る人は少ない。
綿あめや金魚すくい、りんご飴。夕焼けが広がる空の色をそのまま映す川は、銀色とオレンジ色と紫色が混じった色をしていた。
途中、屋台でたこ焼きを一パック買って、二人で分けた。「大阪の方がおいしい?」って聞いたら、「そんな気がするな」と、財前くんは口に入れたたこ焼きの味を確認するよう難しい顔で頷いていた。大学の話とか、サークルの話とか、不思議と話題が尽きることはなかった。財前くんは、人の話を聞くのが上手なんだと思う。適当な相槌を打つわけでもなく、かと言って気を使って大きなリアクションを取ってくれるわけでもなく、ただ淡々と私の話を聞いてくれる。上手く話せなくて、説明がしどろもどろになっても、遮ることはしない。話しやすいというのは、最初の頃、彼に抱いた第一印象と違ったところの一つだった。
「かき氷、今年初めて」
散々悩んで選んだ、レモン味のシロップがかかるかき氷のカップを手に、会場には少し遠い場所の河川敷に続く階段を降りる。私とは正反対に悩むことなくメロン味を選んだ財前くんが、そのカップを持つのとは反対の手で私の手を引いてくれた。
「財前くんは、いつもメロン味?」
階段を下りたところで、繋いだ手がそっと離れていく。少し、寂しい。でも手を繋いでいたら、せっかく買ったかき氷を食べることも出来ず、眺めるだけで終わってしまう。
「イチゴか、宇治金時。って祭りにはないな」
財前くんの答えに、「イチゴってかわいいね」と小さく笑いを零せば、「真似してもええよ」といつもと同じ顔で言ってきたから、今度は耐えきれなくて、あははって声を出して笑ってしまった。
「参考にするね。ふふ、財前くんはいつもメロン味を選ぶのかなあって思った」
「甥っ子がメロンのが好きやから、地元の祭りとか行くといっつもメロンやったなあ。小さいから一人では全部食べ切れへんし、結局最後は俺が食べることになるんやけど、それやったらイチゴがよかった、って思いながら食べてた」
今日はイチゴにすればよかったな、と思い出したように財前くんが続けた。
「甥っ子がいるんだね」
「俺んとこ、兄貴が若い時に結婚したから、中学の頃にはもう『おじさん』やっとった」
「そうなんだ」
驚いて、まじまじと財前くんの顔を見つめてしまった。中学の頃に甥っ子が生まれていたら、今は。
「次、小学生やで。そのうち小遣いとかせがまれるんやろうな、嫌やわ」
私が考えていることが分かったのかのよう、財前くんが話を続けた。
それにしても、小さな甥っ子がいて、一緒にお祭りに行っていただなんて、財前くんのことを知るたび、意外な一面を発見する。
「っちゅーか、メロン味言うても、全然メロンの味せえへんし」
先がスプーンの形に切り抜かれたストローを口に咥えたまま財前くんが言う。
「レモンは、ちょっとだけレモンの味がするよ?」
鮮やかなレモン色をした氷をスプーンで掬い、口に含む。あまくて、あまくて、少しだけすっぱい。レモン味が口の中にじわりと広がっていくのを感じながら、「食べる?」と財前くんの方にカップを差し出した。いつも、女の子の友達にするみたく。
「うん、」
特に躊躇もなく、自分のスプーンで私のカップに入った氷を掬い、口に入れる財前くんに、数秒遅れて羞恥が込み上げてきた。
女の子にするみたくしてしまったけど、すごく積極的なことをしてしまったのではと頬が火照るのを感じた。今が夕暮れの時間帯でよかったなって思う。
「うん、こっちのが分かりやすいわ」
私の様子など気にすることなく、財前くんがもう一口、私のカップから氷を掬い口に持っていくのを見ながら、「暑いね」って、そんなことを言うのが精いっぱいだった。
「日ぃ落ちて大分涼しくなった気もするけど……?」
不思議そうな顔をする財前くんに、「あ、あっちの方が、よく見えるんだよ」と誤魔化すみたいに、河原の中腹辺りを指差した。
会場の近くまで行くと、朝から場所取りをしていた人で河原は埋め尽くされてしまっているけれども、この辺りは会場付近ほど人は多く溜らない。帰りも、少し時間を置けば河原を歩いて駅まで行ける。
穴場とは言っても、もちろん、同じことを考えている人は他にもいるから、河川敷には花火大会を見に来たと思われる人はそこそこいた。皆、思い思いの場所で、時間を潰している。その中、無意識に一氏さんの姿を探して、でも見当たらなくて、ちゃんとアルバイトは上がれたのかなと心配になる。
花火大会までは、あと一時間を切っている。
オレンジ色の空は、いつの間にか下の方に落っこちて、今度は紫色の絵具を上塗りしたみたいな色に変わっていた。どこからか流れてくる邦楽のヒットチャートと、川沿いの道を会場へと向かって歩く観客たちを誘導するアナウンス。花火を待ちわびる観客たちのざわつきも、一分ごとに増えていくような気がした。
ここにいる人たちの気持ちを盛り上げていくかのよう、夜の匂いが混じる夏のぬるい風が吹き抜けていく。
「花火大会って、もっとぎゅうぎゅうで見るもんかと思ってた」
メロン味のシロップがかかったかき氷を口に運びながら財前くんが言う。
「ここは会場から少し離れているから。会場の近くで見るのに比べると迫力は欠けるかもしれないけど、ゆっくり見れるから、私はこっちの方が好きなんだ」
氷を、口に入れる。舌に乗るあまずっぱさはすぐに消える。他愛無い会話をトツトツと交わし、少しだけ沈黙が流れては、またどうってことない会話を続けた。一緒にいると楽しくて、嬉しくて、切ない。
今日が、この夜が、終わらないでほしい。そんなことを考えても、時間はどんどん過ぎていく。それを知らせるよう、後ろにいる観客が、「あとちょっとだね」と、弾んだ声で話す声が聞こえてくる。
あと一時間が、あと三十分になって、気が付けばあと少し。
財前くんと花火を見るのは楽しみだけど、その時間が終わってしまうことを想像するだけで、今から寂しい。今日が終わったら、私と財前くんは、何になるのだろう。
「風も通るし、ええ場所やな」
財前くんが、風が吹いてくる方角に顔を向けて言う。ぽつぽつと明かりを灯し始める、河川敷に飾り付けられた提灯の柔らかな光の明るさしかない夜に浮かぶ財前くんが、夏の夜に溶け込んでいく。本当に、夏が似合う人だなと思う。
「財前くん、今日がお誕生日なんだよね」
夏生まれであることは、つい一週間前に知った。あの日、一氏さんが言っていた。
「ああ……」
「お誕生日おめでとう」
プレゼントは何も用意していなくて、でも、「おめでとう」だけはちゃんと言おうと決めていた。
「……おおきに」
財前くんは、いつもと変わらない表情を私に向けて、あの夕焼け空のように少し寂しそうに笑った。
空を見上げれば、もう夕焼けの余韻はどこにもない。紺色の、暗い空が河原を包み込むだけ。振り返れば、沿道に並ぶ屋台の明かりが、ぼやけて霞む。
食べ終わった氷のカップを両手に持ったまま、その景色を眺めていれば、いつの間にか、大勢の観客が河川敷に降りてきていた。一年前に来た時よりも、人が多いような、そんな気がした。
「それ、こっち置いとく?ゴミ箱ないから帰るまで捨てられへんのやろうし」
すると、財前くんが私が手に持っていたカップを見て手を差し出してきた。自分の足元をチラと見る財前くんに、「うん」と頷き、持っていたカップを渡す。財前くんは二つのカップを重ねて、草の上にそれをそっと置いた。
「ありがとう」
また、空を見る。
その時、財前くんの指が、ふと私の腕を掠った。離してしまった手が、その温度が、急に恋しくなる。恋しくて、触れたくて、財前くんの手にそっと手を伸ばす。先ほどと同じように、その手を握る。
ぎゅっと握る勇気は出なくて、手を繋いでいる、と呼ぶには少し無理がある繋ぎ方だった。それでも、伸ばした手を振り払われることはなくて、同じくらいの、頼りない力で握り返された。
その瞬間。
ドォン。
大きな音が、響いた。シンと、河川敷が静まり返る。
ドン、ドンと、それに続くよう大きな音が夏の夜にこだまする。
それと同時、川の向こう側、夜空に大きな光の花が咲いた。静かだった河川敷が、一気に沸き立つ。オレンジ色や、青色、ピンク色の光が濃紺の夏空に次々大輪の花を咲かせるのを見上げたまま、「綺麗」と呟く。
「ほんまやな」
それが聞こえたのか、財前くんも空を見上げたまま言った。
幾重にも重なる白い光の輪や、キャラクターを象るよう光を散らす花火や、様々な花火が次々打ち上げられていく。夜空に咲く見事な花火に拍手や歓声があちこちから上がる。
ひゅるひゅるという音とともに、小さな光の玉が細い線を描きながらするすると天に向かって伸びていく。空の真ん中にくると爆発音のような大きな音を立て、キラキラと光の粒を夜空のあちこちに散らす。そして、そうっと消えていく。それで、また大きな音と共に、前の光が消えきらない夏の夜に、新たな色彩を与える光が駆け上る。
「……めっちゃ綺麗」
財前くんがぽつりと言うのに、「うん」って頷く。
暗がりの中、隣を見ると、空を見上げる財前くんの横顔が、花火の光に照らし出された。綺麗な顔だなって四月の頃と変わらず思う。
四月。もうずいぶんと昔になってしまった。
こんな夜が訪れることを、四月の私は想像もしていなかった。こんなふうに、一緒に夏の夜空を見上げることが出来るだなんて、思ってもいなくて、今のこの状況だけでも私は嬉しくて幸せで、それで十分だと思うのに、この続きを願っている。顔を見るだけで嬉しかったのに、今度は声を聞きたくなって、二人で話すことが幸せになって、今は触れたいと思う。どんどん欲張りになっていく。
触れ合えば、もっと欲しくなる。
もっと、ずっと一緒にいたい。
そういう気持ちでいっぱいになって、涙が溢れそうになる。
好き。
その手を握ったまま、心の中で言う。
花火が、夜空を明るく照らす。
真っ白な光が夜の闇を滝のように滑り落ちていくのが、川の向こうに見えた。夢みたいに綺麗で幻想的なこの夜も、あと少しで、終わる。
「……」
胸を打ち、身体の内側に響く花火の音。
それまでよりも大きな花火が、連続して打ち上がる。夜じゃないみたいに、空が明るくなった。
大きな、大きな光が空を埋める。光が、滲む。ドン、ドンと。大きな音が胸を打つ。
帰りの混雑を気にしてか、今年の大会の最後を盛り上げる花火が次々打ちあがる中、駅へと引き上げようと沿道へと戻ろうとする人の肩に押され、体勢を崩す。普段ならばどうってことない接触も、足元が頼りない今日は上手に踏ん張れない。
パラパラと光が降り注ぐ中、隣に立っていた財前くんに抱き止められた。
「ハネザワさんって……、」
両腕を支えるよう掴まれ、そのまま、トンと頬がその心臓のあたりに触れる。
ハア、って。溜息混じり財前くんが言う。二人で課題に取り組んだ図書室で、時々聞いたその溜息。その後、やれやれって言って、しゃーないなあって言って、笑う顔が好き。
「よう転ぶな」
クライマックスに沸き立つ観客の声が、やけに遠い。
「大丈夫?」
そう言って、財前くんが私の身体を離そうとする。そうして離れていってしまうことに逆らうよう、自分の手を財前くんの腕に伸ばして、その胸元に顔を寄せた。驚いた顔をしているのが分かる。でも、離れられなかった。心臓の音の代わり、後ろから夜の空に轟く花火の音が聞こえた。
「……」
財前くんの腕をティーシャツの袖口の上からぎゅっと掴む。離れたくなくて、終わりたくなかった。
「好きです」
声が、震えた。涙が、溢れた。
「財前くんのことが、大好きです」
くぐもった声が届いていたのかどうかは分からない。
ただ、そっと。躊躇を時間に置き換えたみたいに、ゆっくりと。時間をかけて背中に回された財前くんの手は、優しかった。
ドン。
夜の空を裂くほどの爆音が鳴るのと同時、その胸に埋めた視界の端がパアっと明るくなった。
最後の花火だったのか。一際大きな歓声と拍手が一斉に上がる。
夏の夜が、光に包まれる。このまま、時間が止まればいいのにと、心から願った。