財ユウ+女子 「財前くんは 3」
梅雨が明けて、季節は夏。
大学に入学して三か月、気の合う友達も出来て、不安を抱えながら入ったテニスサークルにもすっかり慣れた。
「いい感じじゃん、財前くんと」
好きな人も、出来た。
私の片思いだけど、少しずつ、一緒にいる時間は増えてきていると思う。その人と一緒にいると楽しくて、二人で話せたら嬉しくて、心が弾む。
「財前くんって彼女いるの?」
フルーツがたくさん盛られたデザートで有名なカフェに友人たちと一時間並び、四人で分けようと注文したフルーツサンドが運ばれてきたのと同時、向かいに座っていた友人が口を開いた。
先に運ばれてきていた冷たいオレンジジュースを一口すすり、その質問に「知らない」と答える。私の好きな人——、財前くんとは以前よりも仲良くなれたとは思うけれども、彼について知らないことはまだまだ沢山ある。
「知らないの?」
質問をしてきた友人と、その隣に座っていた友人が、驚いたように目を丸くさせた。
「知らないよ、そういうの聞けるほど仲良くないし……」
知っていることの方がまだ少なくて、たとえば、財前くんの恋愛事情なんて私はまるで知らない。
「いやいや、だいぶ仲良いでしょ。週二回は一緒に図書館行って、ランチも週一でして。財前くんが他の女子と二人でいるところ見たことないよ?」
「図書館に行くのは課題があるからだし、ランチは私が一方的に誘っただけだし……」
首を振りながら返すと、友人は「またまたぁ、」とからかうみたいに笑った。
「あ、財前くんって指輪とかしてるの?」
「そういうのは、してないけど……」
確かに、バイト先にいる一つ年上の先輩は、彼女からもらったという指輪を身に着けているけれども、財前くんの指には何もない。でも、それで彼女がいないとは言い切れない。
「聞いてみれば?」
友人がフルーツパフェをスプーンで掬いながらケロっと言ってくるのに、「ええ?」と無意識に眉を寄せてしまう。
「そうだよ、聞いてみなよ。もしいなかったらチャンスじゃん」
「チャンスだけど……、財前くん、そういうことを聞かれるの好きじゃなさそうだし、それに、彼女がいるって分かったら悲しいもん」
「たしかに……、でもさ、ハネザワ可愛いから、彼女持ちだったとしてもチャンスあるっしょ」
「そうだよ、彼女いるとしても、大学は違いそうだし、今はハネザワの方が一緒にいる時間が長そう」
畳みかけるよう言ってくる友人たちに、ふるふると首を横に振る。
「ええ?!可愛くないし、そんなこと出来るわけない」
財前くんに好きな人がいるのか、いないのか。考えたことがないわけじゃない。聞いてみようかなって思ったことも何度かあった。でも、実際に聞いたことはない。そういう関係になりたいとまでは思っていなかったし、ただ好きなだけで楽しかった。それに、何より、その答えを財前くんの口から聞いてしまったら、この恋が終わってしまいそうで怖かった。
「まあ、確かに、ハネザワは略奪ってタイプじゃないもんねぇ」
黙って聞いていた友人が言うのに、前にいる二人が「ううむ」と頷く。私も、一緒になって頷いた。財前くんが、もし、私のことを好きになってくれたら嬉しいけど、そこまで欲張りにはなれない。
ただ、二人で話せる時間が楽しくて、それがずっと続いてほしいって思っている。
「なんだかもったいない気もするけど……、あ、そうだ!」
パフェを食べていた友人が何か思い出したように携帯を操作し出すのに、皆一様に頭の上にハテナマークを浮かべた。
「これ、誘ってみなよ!」
少しのあと、テーブルの真ん中に差し出された携帯の液晶画面を、ハテナを浮かべた三人で覗き込む。
「花火大会……?」
三人の声が揃った。
「そう、ハネザワも実家近いから知ってるかもだけど、毎年七月二十日にこの近くで花火大会があるんだよ」
「あ、うん、そういえば」
毎年夏休みに入る頃に家の近くで花火大会がある。去年は、夏期講習があって行けなかったけれども、その前の年までは高校の友達と浴衣を着て川沿いまで花火を見に行っていた。
「そんなのあるんだ、いいなあ」
別の友人が頬杖をつきながら言うのに、「あんたは彼氏と行けばいいでしょ」とその隣に座っていた友人がやれやれと肩を竦めた。
「財前くんって上京組でしょ?そしたらキャンパスに近いところに住んでいるだろうし、これに誘ってみればいいんじゃないる」
携帯をテーブルに置き、身を乗り出して言ってくる友人に、「へ?」と変な声を上げてしまった。
財前くんと、花火大会に行くの?
「……でも、財前くん、花火とか好きじゃなさそうだし」
そもそも、財前くんと花火大会というのがあまりしっくりこない。静かな場所に、好きな音楽に囲まれてひっそりといるのが好きそうな、そういうイメージがあった。
「あ、確かに、人ごみとか嫌がりそうなタイプだよね」
この中で唯一、財前くんを知っている友人が言うのに、「でも、話を聞いているとノリが悪いわけじゃなさそうじゃん?」と、花火大会を提案してくれた友達が重ねてきた。
「そんなの無理だよ……、どうやって誘うの?」
財前くんを花火大会に誘うだなんて、出来る気がしない。二人で花火大会に行こう。って、そんなことを言ったら、私が財前くんのことを好きだと告げているようなものだ。
「一緒に行こうって軽く言ってみたら?その方が向こうも軽く考えられるでしょ」
「いや、軽く受け取られても意味がないよ」
私を置いてけぼりにして、ああでもこうでも、友人たちが話し出す。
「ハネザワだって、財前くんと花火大会に行けたら嬉しいでしょ?」
そう聞かれれば、それは、頷くしかない。財前くんと一緒に夏の夜空を見上げることが出来たら、同じ光を眺めることが出来たら、それはとても幸せなことなのだろうって、私も思う。
「じゃあ、これは——?」
財前くんをどう誘うのか、色んなアドバイスをくれる友人たちの中、財前くんと見上げる夏の夜空はどんな色をしているのかなって、そんなことをふと考えた。
*
するすると、指の間を通り抜けていくシャーペンを目で追っていると、「なに?」と尋ねられた。試験期間を目前に控えた大学の図書室で、私の向かいに座って資料とにらめっこを続けていた財前くんが、ピタと、ペンを回す動作を止める。
「え?ううん、上手だなあって思って」
五月、第二外国語の授業の発表会で財前くんとペアを組んだ。そして、期末テストとして再び行われる第二外国語の発表会でも私たちはペアを組むことになった。テストの課題が発表された時、隣にいた財前くんと目が合って、ペアは誰と組んでもいいですよと講師の先生が言うのに、「組む?」って小さな声で聞かれたから、私は思い切り首を縦に振っていた。
「ああ、これ?」
もう一度、確認するみたく財前くんがペンをくるくると回す。さすがに期末テストの代わりということもあって、前回よりも発表のテーマは難しかった。一組ずつに与えられた発表の持ち時間も長く、資料も何種類か用意する必要があった。
「うん、財前くんは器用だね」
だから、私たちは、お互いに予定がない日は(財前くんのアルバイトは夕方から始まることが多いので主には私の予定が空いている時になるけど)、こうして図書館に集まって課題の準備をしている。
「あんまり言われたことないけど」
適当にやればええやろ、なんて財前くんは言っていたけど、課題の下調べも資料の準備も財前くんが担当してくれているパートに手抜きはなかった。真面目な性格なんだろうなと思う。
「私、そういうの上手く出来ないんだ」
試しに、財前くんと同じようにペンを回してみる。わざとじゃないけど、手の上を滑ったペンが図書室のテーブルの上にカシャンという音とともに落っこちていく。
「ほんまにへたくそやな」
それを見ていた財前くんが、小さく噴出した。
「中学の頃とか、授業中に練習したりしたんだけどなあ」
机に転がるシャーペンを拾い、おかしいなあって眉を寄せながら返すと、財前くんは「俺も昔先輩に教えてもらった」と言った。
「めっちゃ上手いっちゅーか、回すスピードがやたら速い先輩がいて、その人にコツとか聞いて」
そう言いながら、私の指に挟まるシャーペンの位置をひっくり返して、少し斜めに傾ける。それから、この辺りからの方がやりやすいんやって、と続けた。
「あ、うん……」
手の甲に触れた彼の指先に、ドキリと胸が鳴った。すぐに離れていった感触が、まだ肌の上に残っている。それを気にしないよう、言われた通りペンを回してみた。
「あ、」
すると、魔法がかかったみたいにクルンとペンが回る。でも、それをキャッチするタイミングが合わなくて、結局、机の上に落としてしまった。
「へたくそやなあ」
カシャンっていう、さっきと同じ軽い音のあと、財前くんがまた笑った。
「……」
それにムっと口を噤めば、「努力の差やな」って、財前くんが得意げに、自慢するみたいにくるくるとペンを回した。
こんな風に話せるようになって、ふざけられるようになるだなんて思ってもみなかった。不思議な気持ちと、嬉しい気持ちが、心の中で混ざり合う。
もっと一緒にいたいな。
こうやって同じ時間を過ごすたび、その想いが強くなっていく。財前くんのことを昨日よりも好きなって、明日は今日よりも好きになる。このままずっと一緒にいたら、私はどれくらい財前くんのことを好きになるのかなって思う。それで、財前くんも私のことを好きになってくれる日が、いつか来るとしたら、その時の私はどんな気持ちになっているのかなって考えては、それを期待する気持ちと、それを否定する気持ちが半分ずつ私の心を埋めた。
そんな風に、少しずつ、少しずつ、心が欲張りになっていくのを最近よく実感する。最初は会えるだけで嬉しくて、次に声を聞けたら嬉しくなって、話せたら、二人でお昼を食べられたら、帰り道を歩けたらって、心がもっともっとと財前くんを求め出す。
たとえば、花火を一緒に見ることが出来たなら。
「……」
無意識に口を開きかけたのと同時、午後五時を告げるチャイムが鳴り響いた。
自習スペースは午後八時まで開いているけれども、私と財前くんがいる閲覧スペースはあと三十分ほどで閉められる。チャイムに続いて館内に流れ出す、閉館のアナウンスに「今日はここまでかな?」と、財前くんの方をチラと見れば目が合った。
「せやな。ま、大体まとまったし、あとは資料を少し直せば行けるやろ」
この放送が、私と財前くんの時間が終わる合図だった。財前くんはアルバイトに行って、私もバイト先に向かうか家に帰る。いつも、この後はない。友人たちには、夕飯とか一緒に行けばいいのにと言われるけれども、財前くんは大体いつもアルバイトがあるようで誘ったことは一度もない。
「うん、そうだね。発表まであと少しあるし、私も皆の前で上手く話す練習しておかないと」
作った資料や、発表内容をまとめたノート、筆箱をカバンにしまい、帰り支度を整える。
「……ほな行こか」
いつの間にか準備を終えて立っていた財前くんが、私が荷物をしまい終わるのと同時に声をかけてくる。それに、「お待たせしちゃってごめんね」と返せば、「謝るほど待たせてないやろ」と財前くんは言った。
「あ、これ、財前くんの?」
机の上に、レコードショップの袋が置きっぱなしになっているのに気づく。
「ん?ああ、忘れるとこやった」
おおきに、と言いながら袋を受け取り、そのまま出口へと向かう財前くんの少し後ろを歩きながら、「CD?」と聞いてみる。
「うん、サークルの友達に貸してた」
夏の夕暮れは遅くて、空はまだ明るかった。まだ生徒たちが残るキャンパスを二人並んで歩く。昼の暑さの名残を乗せた風に、前髪を乱され、それをそっと手で直した。
「そうなんだ、財前くんが好きなバンド?」
駅へと向かい歩きながら、財前くんに話しかける。
「好きっちゅーわけやないな……、めっちゃ昔のバンドやし、今どうなってるかも知らんし、演奏も歌もいまいちやったし、ただ懐かしくて盛り上がって、うちにCD持ってるって話したら貸すことになった」
そういえば、今日、お昼に見かけた時に、見たことのない男の子と楽しそうに話していたことを思い出す。きっと、このCDの話をしていたのだろう。私は洋楽のことは分からないけど、財前くんがその曲を好きだということは分かる。だって、顔が楽しそうだから。
「思い出の曲なんだね」
そう言うと、財前くんは「大した思い出もないけど」と、その楽しそうな表情のまま続けた。
「中学の頃、部活の合宿で山奥に籠ってた時期があって、その頃によう聞いとった。なんや、山奥やから星とかめっちゃ綺麗に見えるとことかあって、それ見上げながら、いい気分になって聞いてたから、それでよく聞くようになったのかもしれへんな」
「ふふ、意外とロマンチックだね…、っていうか、部活の合宿? 財前くん、部活やっていたの?」
財前くんと、こうして一緒にいる時間が増えてきて気づいたことが一つ。中学校の頃の話をする時、財前くんはいつもよりも楽しそうな顔になって、それで饒舌になる。
「テニス」
だから、私も、財前くんが愛おしく思うその思い出をもっともっと聞きたくなって、中学の頃のことを色々と聞いてしまう。
「え……?」
そうして新しい彼の一面を知るたび、好きになる。
「テニスやっていたの?」
「そ、チャラいやろ? って、ああ、俺あっちやから」
財前くんのアルバイト先は、大学の最寄駅から五分くらい歩いたところにある駅ビルで、そこでカスタマーセンターのテレフォンオペレーターをしていると、前に聞いた。変な問い合わせとかクレームとかもあるけど、基本的に楽でええんやと、話していたことを思い出す。
「うん、じゃあ、次は……」
「んー、あとは前日に打ち合わせしとくくらいで、大丈夫なんとちゃう?」
次はいつにしようか?って私が言い終わるより先、財前くんが言った。
「そうだね、うん……」
課題の準備をするために、私たちは集まっていたのだから、発表会が終わって試験が終わったら夏休みに入って、そうしたら財前くんとは九月まで会えなくなる。夏休みに二人で会う目的なんて、私たちの間にはない。
そんな実感が急に込み上げてきた。
「今日か明日に資料直してメール送るから確認だけよろしく」
じゃ、おつかれさま。
そう言って、財前くんがくるりと背中を向けて歩き出す。離れていく距離が、夏休みを迎える私たちを描いているように見えた。このまま、私たちを繋ぐものがなくなっていく。
「財前くん、」
そう考えたら、無意識にその名が口から零れていた。
「ん?」
一度背中を向けた財前くんが振り返る。
「……」
呼んでおいて何も言葉を発さない私に、「あと、なんかあった?」と、財前くんは首を傾げた。
「あの、」
花火大会に行きませんか?
誰かと行く予定がありますか?
財前くんは、今、好きな人がいますか?
聞きたいことが、たくさん、たくさんある。夏が終わったら、財前くんとはまた異なる関係になってしまうのかもしれない。席替えをすれば、次に隣になった子と財前くんはペアを組むのかもしれない。
「あ……、ううん、なんでもない!」
焦り出す心に、でも、勇気が追い付いてこない。
「……?」
「あ、えっと、そうだ、CD貸してもらえたら嬉しいです」
「CD?」
財前くんが眉を寄せるのに、「さっき話していた、財前くんがよく聞いていた曲の……」とわたわたと説明を付け足した。
「ああ、これ?ええよ」
すぐに気が付いた財前くんが肩にかけていたリュックを降ろし、中から先ほどのCDが入ったレコードショップの袋を取り出し、「ん、」と私の方に差し出してきた。
「ありがとう……」
それを両手で受け取り、ビニールに包まれた正方形のプラスチックケースを大事に持つ。
「返すのはいつでもええよ、夏休み終わってからでも」
もう一度リュックを背負い直した財前くんが何てことないように言う。それが、彼にとって私が特別ではないことの証明のようで、とても寂しく思えた。
「うん、ちゃんと聞くね」
「さっきも言うたけど、歌も演奏も上手くないから」
小首を傾げて言ってくるのに、「うん」と頷く。
「ほな、」
また明日と、財前くんが右手を上げる。
「ほな」
それに、財前くんの真似をして、右手を目いっぱい上げた。
「へたくそ」
一瞬だけ、きょとんした表情になった財前くんが、次の瞬間目を細めて笑った。一見すれば不愛想で喋りかけにくくて、でも、たまに、すごく優しく笑ってくれることがある。その笑顔は、いつだって夏空のように青く眩しくて。そう、財前くんは夏によく似ていた。
「……好きです、」
そっと、口に乗せる。
駅前の雑踏に紛れて歩き出した彼には、届かない音は、大通りを走り過ぎる自動車の音に簡単にかき消された。
財前くんの背中が人ごみに消えて見えなくなるのに、受け取ったビニール袋をぎゅっと胸元に寄せた。財前くんは、この曲を一緒に聞きたいと思う人がいるのでしょうか。
胸が苦しくて、スウと息を吸い込めば、夏の匂いが身体の中を巡っていく。
財前くんは——。
財前くんは、誰と、夏の夜空を見上げたいと思うのでしょうか。