財ユウ 「恋はまだ遠く」
夏休み一日目。ついでに誕生日。
だというのに、寝坊も許されない。八月に開催される全国大会に向けての関西地区の予選真っただ中とあっては、夏休みなんてあってないようなものだ。三日後には関西地区でのベスト8を決める試合が控えている。それに勝てば準決勝、その次が決勝。休む間などない。
「せめて今日くらいは午後練でええやん……」
午前七時三十分。壁にかかる年季の入った時計を見て、うんざりと溜息を漏らす。
午後は暑くなる予想やから午前中に試合形式の練習をしようと、朝八時から招集された現状に文句を垂れながらも、財前はその日一番に部室にやって来た。自主練をしようという殊勝な心掛けがあったわけではなく、一緒に暮らす甥っ子の容赦ない急襲に遭い、無駄に早起きをしてしまったからだ。
ギリギリまで寝ていようと思ったのに。
欠伸を噛み殺しながら、気を抜くと落ちてくる瞼を無理やり持ち上げ、着替えを始める。不本意とは言え、せっかく早くに来たのだから涼しい(昼間に比べれば、というだけで十分に暑いけれども)うちに少し打っておこうと、そう考えていた。
「っちゅーか、さっきよりも絶対に気温上がっとるやろ……」
部室の窓から覗くテニスコートは、夏の日差しを浴びて燦々と輝いている。
全国大会常連の運動部が多いこともあり、テニス部含め、体育会系の部室には基本的に冷房が完備されているが、それは部室だけの話であって、実際に活動をするテニスコートは無防備な状態だ。太陽に照りつけられたコートの地面は暑く、吸収した熱を容赦なくそこに立つ選手たちに跳ね返してくる。
上からも、下からも暑い。
地獄のような灼熱を走り回る辛さといったらない。それなのに、その暑さに強いか弱いかは別として、夏の部活というのが財前は嫌いではなかった。例えば、ふと足を止めた時に頬を撫でていく温い風に混じる夏の匂いはむしろ好きだった。
……昨日ミス多かったし、サーブ練でもするか。
エアコンからの冷気のおかげか、だんだんと回り出す頭で、皆が来るまでの時間にしておくことを考えながらワイシャツの三番目のボタンを外した時、プチと、何かが外れる音がした気がした。
「あ、」
取れたと、そう思った時には、指で摘んでいたはずのボタンは床をテン、テン、テンと小さく弾みながら転がっていた。それを目で追いかけていけば、ガチャという音とともに扉が開いた。
「おはようさーん、あづいぃ……、」
ボタンが、開いたドアの前で止まる。こんな時間からコートに来る部員が自分以外にもいるのかと、ボタンが止まった先にあるスニーカーから視線を持ち上げていけば、一つ上の先輩、一氏ユウジが立っていた。
「……」
思いがけない人物に眉根を寄せる。それは相手も同じようで、目が合うと、まるで鏡のように、ユウジも財前に怪訝そうな顔を向けてきた。
「白石かと思ったら財前やん、めずらし」
額の汗を拭いながら、足元に転がるボタンに気づいたユウジがそれを拾い上げる。
「こっちのセリフや」
「俺は次の試合のための小道具作りや、こっちに裁縫道具置いてあるしな」
「はあ、そうなんや」
テニスの試合に小道具ってなんやねん、と思ったものの、それは口に出さなかった。
「っちゅーか、この部屋めっちゃ寒い……っ」
暑いと言いながら入ってきたユウジが、今度は寒いと身体を震わせる。
「おま……っ、エアコン十九度って、冷やし過ぎや!」
白石に怒られるでと、机に置いてあるリモコンでエアコンの温度をユウジが上げた。
「後からやってくる人への配慮っすわ……って、それ、返してもらえます?」
ユウジに拾われたボタンを指差す。
「ん?ああ、これ、自分のやった?」
その手の中にあるボタンをじっと見つめながらユウジが聞いてくるのに、無言で頷き手を差し出した。
「取れたん?」
しかし、ユウジが差し出した手の上に小さなボタンを置いてくることはなく、代わりにそんなことを聞いてきた。それに、また無言でうなずく。
「……シャツ、貸してみ」
脱ぎかけの状態で財前の上半身を中途半端に覆っていたシャツをチラと見たユウジはそう言って、自身のロッカーを開いた。
「なんでです?」
シャツのボタンを下二つ残した状態のまま尋ねる。
「今日、誕生日なんやろ。サービスでやったる」
ラケットバッグをロッカーに押し込み、代わりにバンドのステッカーがベタベタ貼られた裁縫箱を取り出して、それを机の上にドン、と置く。
「……誕生日って」
何で知っとるんや、と財前が首を傾げるのに、ユウジは「あ、えーと」と少し居住まいが悪そうな様子で視線を泳がせた。
「あっ、せや、風の噂やな。それで聞いただけやで」
なるほど、と財前は思った。
今日の練習が終わったら財前の誕生日を祝うで、なんてことを誰かが言い出したのだろう。それにユウジも呼ばれたに違いない。言い出しっぺは部長か、やたらおせっかいなあの先輩か。
なんでかガッカリしたような気分になるのに首を傾げながら、とりあえず気づいていないフリでもしておくかと、ユウジにそれ以上を聞くことはせず、「へえ」と、残りのボタンを外しシャツを脱いだ。
「誕生日おめでとう」
ユウジが言ってくるのに、「じゃ、頼むわ」とシャツを手渡す。
「……ん?」
真っ白な半袖のシャツを手に取りながら、ユウジが何か府に落ちないというような顔をした。
それを眺めながら、練習着に袖を通し、ついでにズボンも練習用のハーフパンツに履き替える。そうしている間に、何か引っかかるようだったユウジもパイプ椅子に座り裁縫箱から針を取り出していた。
自分のシャツのボタンをつけようとしてくれているユウジを、はい任せたと置いていくのも気が引けて、財前はユウジの前に腰を下ろした。
とは言え、手伝うこともなく、シャツと同じ真っ白な糸を適当な長さで切り、それをいとも簡単に小さな小さな針穴に通すのを、ぼんやりと眺める。
「手つきええな」
慣れた仕草に、器用で裁縫が得意なことは知っていたが、素直に感心する。布にボタンを縫い付けていくユウジの指先を追いかけながら、「魔法みたいやな」と漏らせば、「そんな感動するとこちゃうやろ」とユウジは少し笑った。
「裁縫が好きなんやな」
迷いなく、止まることなく、針を操るユウジの手先は、見ていて心地よい。
「好きやで」
ボタンの裏側に出来た布との隙間にぐるぐると糸を巻きつけ、布の裏側に針を通しながらユウジが躊躇なく言う。好きなものに対する、まるで迷いのない回答がいかにもユウジらしくて、こっそりと笑う。本人に伝えたことはないが、ユウジのそういう部分は嫌いではなかった。
「……よっしゃ、出来た!どや!」
シャツの裏に通した糸を、財前にはどうやったのかまるで分からなかったが、布にピタリとくっつけるよう結んだユウジが、財前の前でシャツを広げた。
買った時と変わらない、付け直したとはまるで分からないくらい、上下に並ぶボタンと同じように綺麗に縫い付けられたそれをじっと見つめた。
「……おおきに」
「ハーゲンダッツ二個な、小春と食べるから」
使っていた針を針山に戻し、また別の、さっきのものより少し長めの針を摘み上げたユウジが言う。
「誕生日プレゼントや言うてたやん」
「うん、せやから、そのお礼に俺の誕生日はハーゲンダッツ二つでええよって言うたんや」
「高すぎやろっちゅーか、俺もハーゲンがええわ、それ買うてきて」
「……いやいや、ちょっと気になっててんけど、なんでタメ口?」
作りかけなのか、完成品なのか、また別の布を取り出したユウジが、ちょっと待てと、聞いてくる。
「え?タメやん、俺ら。今日から二ヶ月」
「は?」
「敬語とか先輩とか必要ないやろ、ユ……、一氏も俺のこと財前て呼び捨てやん?」
「いや、え?いやいやいや、学年がちゃうやろ」
「うん、せやけどタメやろ?」
「うん、せやな、え?いや、ちゃうな、あれ?」
針を持ったまま、おかしいなと首を右に左に傾げるユウジに、「俺、間違ったこと言うた?」と更に追い討ちをかけるよう問いかける。
「間違っとるわ、学年がちゃう、俺は三年、お前は二年!」
「俺も一氏も十四歳やな」
「しかも呼び捨て?! しかも一氏て、なんや?!そんなん誰からも呼ばれてへんわ、ユウジでええやろ!」
いや、ユウジもちゃうな、先輩が足りひん!
ギャアギャアと騒ぐユウジに、財前は考えるよう顎に指をあてた。
ユウジ。
口の中で呟いてみる。たちまち、心臓のあたりが熱くなった。
「……」
言い慣れない、馴染まない。そんな違和感の類とは明らかに異なる感覚がある。恥ずかしい、くすぐったい。
「ハッ、」
何でやねん。自嘲するよう鼻で笑えば、バカにされたと勘違いしたのか、ユウジがまた騒いだ。
「一氏うるさー」
頬杖をつき、そっぽを向く。どうしてか頬が熱くて、室温は十九度にしてあるというのに、そんな冷え冷えした空気の中にあっても、そこが赤らんでいるような気がした。
「せ、や、か、ら、呼び捨てやめや!あと一氏て呼ばれるの変な感じする、なし!」
むず痒いとばかり、両腕を摩りるユウジが言うのにそんなに呼ばれたいなら呼んだるわと、売り言葉に買い言葉と、そんな勢いで口を開いた。
「ユウ、ジ……」
でも。
おかしなことに、唇を通り抜けていったのは、妙に辿々しくその名を呼ぶ声だけで、威勢の良さはこれっぽっちもない。まるで、照れているような。
「え……?」
それまでの生意気さはどこへやら、ユウジ、と呼んだ瞬間から、気まずさに似た羞恥を顔に浮かべる財前に、呼ばれた本人であるユウジも面食らってしまう。
「……い、いやいや、いやいやいや、何で照れんねん!名前呼ぶだけやろ!」
伝染したかのよう、ユウジも恥ずかしくなってきて、いつもより声が大きくなった。
「別に、照れてへんし……」
アンタこそ何を照れんねん、と財前が返す。
「俺は照れてへんわ、っちゅーかお前のがうつったんや」
「俺かて照れてない」
「照れとるやないか!」
「照れてへん」
「照れとる」
机を一つ挟んで向き合ったまま言い合う。
「大体、なんでアンタの名前一つ呼ぶのに照れなあかんのや、そんなんいくらでも呼んだるわ」
決着をつけるかのよう財前が切り出すのに、「おうおう、呼んでみ」と、話の始点などすっかり頭から抜け落ちた状態のユウジが言い返す。
「ほな、いくで」
「お、おう……」
スウと、決意を固めるよう息を吸い込む財前に、ユウジもゴクリと唾を飲み込む。自分たちは一体何をしているんだ?と、お互い思ったところで、後には引けない。
「ユ……」
ウ、ジ。と、財前が口にするのと同時、それを簡単に?き消すほどに大きな声が、冷えた部室に響いた。
「白石、財前の誕生日会のことなんやけどっ」
ばたんと騒がしい音とともに現れた人物の方に、二人同時に顔を向ける。
「……って、あれ?財前?」
財前の先輩であり、ユウジの同級生でもある忍足謙也が、目当ての人物の代わりとばかり、そこにいた二人に「あれれ?」と首を傾げる。
「俺の誕生日会がどうしました?」
しくじった、ヤバイ。すぐに、そんな顔になった謙也に、容赦なく尋ねる。
「は?誕生日会?なにそれ?」
往生際悪く誤魔化そうとする謙也に、ユウジは頭を抱えた。
「いや、っちゅーか、ユウジと財前は何してたんや?二人ともいつも朝遅いのに珍しいやん」
無理矢理に話題を変える謙也に、「苦しいな、それ」とユウジと財前と、同じタイミングで呟く。
「まあ、俺は早起きしたついでですわ、んで、こっちの……」
一度、そこで言葉を区切り、ユウジの方をチラと見る。
「こっちの、ユウジ先輩は、試合のネタ作りに」
そう続けると、ユウジは少し驚いたような顔をした。
「ん?先輩ってつけるんや……」
その顔のまま、ユウジが呟くのに財前は眉を片方持ち上げた。
「ああ、タメ口の方が親しみあってええです?」
これまで通り、敬語を使い出す財前に、「そんなわけないやろ、先輩やぞ?」とユウジは不機嫌な顔になった。
「え、なになに?話題についていけてない白石の気持ちなんやけど……?」
一人、会話に置いてけぼりになった謙也が笑顔のまま二人を見るのに、「謙也さんが生まれつき持っていない羞恥を味わってたんや」と、財前が自身のロッカーを開けながら答えた。そこに、先ほどユウジが繕ったシャツをしまう。
「ますます分からんわ、今のどういう意味や?」
謙也がユウジを見る。だけど、ユウジもその意味は分かっていないようで、「知らん」と切り捨てるだけだった。ただ、きっと。二人にしかわからない恥ずかしさが、あの瞬間あったことだけは、お互いに分かっていた。
「ほな、俺は先に行ってますんで、どうぞ、俺を驚かせるすごい誕生日会の計画を立てといてください」
それだけ言い残し、ラケットを片手に部室の扉を開く。まだ八時前だというのに、蒸し暑い夏の空気が身体中に纏わりついてくる。
「あ、せや、ユウジ先輩」
ユウジに対して恥ずかしくなった理由なんてものは、まるで分らないけれども。ユウジだって、あの羞恥の正体は分かっていないだろうけれども。
「ボタン、ありがとうございました」
ユウジがシャツのボタンを付け直してくれたことも、ユウジが臆面なく好きなものを好きだ答えたことも、十四歳の誕生日の出来事として記憶に残るのだろうなと、何となく思った。
扉が閉まる前に見えた、「こんなん、いつでもやったるわ」と、どこか嬉しそうなユウジの顔も。きっと。