財ユウ 「ヒカルくんとユウちゃん」「大丈夫?」
心配そうな表情を浮かべて俺の前に立っているのはよく知っているようで、よく知らない女の子。短い髪の毛にリボンがくっついている。丸い袖に白いレースがくっついたギンガムチェックのワンピースの、その裾から伸びる足は細くて筋肉なんてほとんどついていない。身長は、多分、女の子の中でも小さく、体格も華奢な方なんだと思う。
「うん、大丈夫」
差し出されたペットボトルを受け取り、蓋を開け冷たい水を一口含む。それだけで生き返る心地がした。
そのまま、ゴクゴクと三分の一くらいを一気に飲み干し、ハアと大きく息を吐き、それから立ち上った。
やっぱり、ちっちゃいな。
肩くらいの位置にある女の子の頭にくっついたリボンを見下ろしながら、そんなことを思った。
秋晴れの三連休。その真ん中。
受験生のくせにおよそ受験生らしからぬ生活を送るユウジ先輩と映画を観に行く約束をしていた。地下鉄に乗って待合せ場所を目指そうとしたら、架線の故障だとか何とかで平日朝のラッシュ時の如く電車は混み合っていて、よりにもよって弱冷房車に乗ってしまったことを悔やむほどに車内は蒸し暑く、窓も開けることが出来ない最悪に最悪を上書きしたような状況。
あつい、きつい、しんどい。
ぎゅうぎゅうと押し合いへし合いの電車の中、視界がぐらぐらと揺らぎ出した。人酔いというのかもしれない。船酔いした時みたいにに気分がどんどん悪くなっていって吐き気すら覚えた。加えて、血の気がどんどん身体の下に落ちていくのを感じた。女子じゃあるまいし、貧血って、かっこわる。そう思ったところでやり過ごせる波でもなく、駅に到着して、一気に外に押し出されるのと同時、ぐにゃり、ぐらりと世界が歪んだ。前にいた乗客が着ていたボーダー柄がぐるぐると渦を巻き出し、そこに吸い込まれるよう、地面を踏む感覚もなくなっていって。それで、気が付けば――。
映画館に行くはずが、大阪で一番有名なテーマパークに見知らぬ女の子と二人でいた。
いや、見知らぬわけじゃない。
「喉乾いてたの?」
平均よりも小さな身体と、一重瞼の目と、高くはないけど筋がすっと通った鼻と薄い唇と、見た目よりも細くて柔らかい緑がかった色の髪の毛と、高さは違えどどこか幼さが残る声と話し方。
俺がよく知っているものばかりが、この女の子には詰まっている。
「ああ、うん」
つまるところ、この女の子は、ユウジ先輩だ。
何を言っているんだって自分でも思う。どうかしている、とも思う。御堂筋線の行き先は、ユウジ先輩が女の子として存在する世界でしたって、笑えない冗談だ。でも、事実だ。この状況を説明する方法がそれ以外に見つからない。夢にしては、やけにリアルだし、起きることも出来ない。
「今日って、何日やったっけ?」
二人きりでこんな場所に来るのだ、多分、俺とユウジ先輩はこの世界でも付き合っている。こんな状況なのに、それを嬉しく思いながら、前に立つちっちゃくて細い先輩に尋ねた。
「九月二十一日、なんで?」
「いや、別に……、せやな」
日にちは、朝まで俺がいた世界と変わらない。携帯のディスプレイでも日付を確認しながら思う。
「記憶喪失にでもなってもうた?今日は九月二十一日、十日遅れやけどうちのお誕生日をお祝いしてくれるって光がここまで連れてきてくれたんやで」
頬を両手で包み、見るからに嬉しそうに話す先輩をぼけっと見上げてしまう。
俺が知らない仕草だ。そりゃそうか、ユウジ先輩だけど、この人はユウジ先輩ではない。
「光と来たいってうちが言うてたの覚えててくれてたんよね、ありがとう」
めっちゃ楽しみにしてたんやぁ。
って、ユウジ先輩よりも丸っこい輪郭に両手をあてたまま、くすくすって幸せそうに笑う。その姿を見て、自然と頬が緩む。「へえ」と出来るだけ平静を装って答えたものの、緩む頬をこっそりと片手で覆い隠した。
こういうのに弱いのかもしれない。
初対面と言えば初対面の女子にこんな感情を抱くことなんて今までなかった。この世界の『俺』の思考とか感情が働いているのだろうか。それとも、この女の子は一氏ユウジの何かなんや、ってだけで俺の遺伝子的な何かが騒いでいるのか。
「せやけど……」
にやつきを誤魔化すべく唇をぐっと引き結ぶ俺の顔がおかしかったのか、先輩の笑顔が少し曇った。
「な、なんでしょ?」
「光が寝不足なの知らないで、うちがたくさん回しちゃったから……」
焦りながら返すと、先輩は怒られた子供みたいにしょんぼりと肩を落とした。そのまま斜め後ろを向く視線を追いかける。その視線の先には、いかにも女の子が好きそうな色合いをしたカップケーキ型の乗り物が、ぐるぐると回転しながら円盤の上をくるくる円を描くよう回っていた。歓声が聞こえてくるのに「なるほど」ともう一度頷く。彼女の誕生日に遊園地に来て、最初に乗ったのがあのコーヒーカップもどきで、彼女はきゃっきゃきゃっきゃと容赦なく乗り物を回転させまくって、止めることも出来ず、結果として乗り物酔いをして今に至る、と。自分のことだ、手に取るように分かる。
「それ、寝不足……」
やなくて、あの手の乗りもんが苦手なだけですわ。
そう言おうとして、やめた。一応、気を使ったのだ。この世界の俺に。好きな子の前では恰好悪いところとか弱点を見せたくないと、そういう気持ちから寝不足を言い訳にしたのかもしれない。
「……?」
黙り込む俺に、先輩が眉を寄せる。
「あ、いやいや、そうそう、寝不足やったわ、俺」
思い出したとばかり、ポンと手の平を拳で打つ。いやもう軽く八時間は寝たんすけどねと声に出さず言いながら、この世界の設定に合わせるしかないと嘯いた。
「……今日の光、ちょっと変」
俺のそんな迫真の演技はいまいちだったようで、先輩の表情は変わらなかった。むしろ、さっきよりも疑いの色が濃くなっている気がした。
「い、いつもこんなやろ」
「全然ちゃう、先輩なんて、いつもはそんな風に呼ばないもん、先輩ってよそよそしくていやや」
よそよそしいも何も、俺はユウジ先輩をユウジ先輩以外の呼び方で呼んだことがない。何て呼んでたんや?気になるところではあったが、何となく恥ずかしい思いをしそうだったから聞かないでおいた。
「ま、たまにはええんとちゃいます?」
頬をかいて誤魔化そうとすれば、それは許さないとばかり、小さな体ごと俺の腕にぎゅっとしがみついてきた。俺が知っている先輩の重量とも感触ともまるで違う。ふわふわと柔らかい。女の子、やからな、そりゃな。ってドキドキハラハラしながら、「そのうち、呼ぶんで」とその場を収めようと試みる。
「いやや!」
「いや、先輩、落ち着いて……」
こんな道の真ん中で駄々をこねられた経験なんてなくて、困ってしまう。
「いつもみたく、ユウちゃん、て呼んでほしい!」
「ぶっ!!」
困った挙句、先輩の口から飛び出した要望に飲んでいた水を思い切り吹き出した。
「ゴホっ、ゲホ……ッ、」
ついでに咽た。
……ユウちゃん?
この世界の俺は頭が沸いているようだ。ユウちゃん、ユウちゃんてなんや?ラブラブか?
いやいや、違う。この世界では、これが普通なのだ。
混乱の渦に落っこちた俺の腕をぐらぐらと揺さぶりながらワガママを言ってくる。実は先輩が可愛い女の子ではなく、そんな可愛くない男の子として存在する世界からやって来たのでそんな恥ずかしいことは出来ません、とは言えない。言ったところで信じてもらえないだろうし、この世界の『俺』と先輩の関係を捻じれさせるのも本意ではない。
「ゲホ……っ、いや、え……?」
どうしようか。一択しか答えはないのに戸惑っていれば、先輩は俺の腕に絡めていた手を離し、その手を胸の前で組んだ。突如軽くなった右腕が、今度は少し寂しい。
「ユウちゃんて呼んでくれへんのなら、もう返事せえへん!」
そんな感慨を抱いていれば、先輩は膨れっ面のまま、プイとそっぽを向いてしまった。
「……」
うっわ、かわええな。
可愛く拗ねられるのも悪くないって思う。
「え……、えー……、ユ、ユウちゃん……?」
もう少し拗ねている姿を見ていたいという気持ちもあったけど、誕生日のお祝いでここに来ているそうなので、ワガママは聞いてあげた方がいいのだろう。
「もっかい、呼んで?」
口を尖らせたまま上目遣いで、またねだられる。
「……ユウちゃん、ユウちゃん、ユウちゃん」
指を折り、三回数えながら呼んだ。恥ずかしくて、ちょっと、機械的になってしまった。
「これで満足?」
隣を見ると、先輩は「うん!」って大きく頷いて、数秒前までの拗ねた顔はどこへやら満面の笑みをその顔に浮かべた。
「ひかる、ひかる、ひかる!」
それから、俺の真似をするみたく指を折って三回数えながら俺の名前を呼んで、飛びつくみたいに腕に抱きついてきた。
なんやそれ、さっぱりわからん。
その行動が全然理解出来なくて、もともとユウジ先輩を正しく理解出来ているつもりもないけど、性別がひっくり返ったユウジ先輩はますます意味が分からなくて、俺を振り回す。でも、嫌な感じはしない。意味が分からないのに、それを可愛いと受け止めてしまう。
「えっと、次は何乗るんやったっけ?」
抱き着かれていた腕を抜いて、その手を代わりに差し出す。
男同士じゃないって、こういう時に便利だなと思う。公衆の面前で手を繋ごうと、抱き合おうと、変な視線が飛んでくることはない。キスでもすれば、「うわあ、」って目で見てくる奴もいるだろうけど、正々堂々、いちゃつける。
その証拠とばかり、俺の手を、迷うでも躊躇うでもなく握り返してくる『ユウちゃん』に、すごい世界だなと感動してしまう。
ただ、ちょっと違う。
なにか違和感が残るのだ。俺の手を握る真っ白な、夏の残り香を感じさせない白い手は、俺が欲しいものとは違かった。悪くない世界だけど、最高でもない。そんな感じだ。
「あ……」
そんなことを考えていれば、先輩が何かに気が付いたかのよう、出店へと目を向けた。こういうテーマパークにありがちな、よくある、耳がついたカチューシャだとか、変な飾りがついた帽子が並ぶのをじっと見つめる先輩に、こういうのが欲しいんかなと察する。
こういう世界やしな。俺も、こういう時は、きっと。
「買います?おそろいのやつとか」
その店を指差し、先輩に言ってみる。ユウちゃんなんて呼ぶような人間だ、これくらいはやってのけるだろう。そう推察したのだ。
「ええっ?!」
すると、先輩は、正気か?って顔を俺に向けてきた。
間違えた。って思ったけど、前言撤回をすることも出来ない。
「光、いっつもこういうの嫌やって言ってしないのに、お揃いしてくれるん?」
あ、こっちの世界でもあんまりノリ良くないんすね、俺。
遠くを見つめながら、「まあ、たまにはええですよ」と、ノリノリで提案してみたくせに、今度は渋々を装い先輩の手を引いて店へと向かった。
「誕生日やし、特別です」
ついでとばかり、言い訳を上塗りしておいたけど、「どれにしよう?」って店に並ぶカチューシャをあれやこれや選び出した先輩にそれは届いていなかった。
まあ、でも。
俺がよく知らないキャラクターの耳をつけて、「似合う?」って聞いてくる先輩は可愛かったから、よしということにしよう。ただ、一つ付け加えておきたいのには、そのキャラクター自体はぜんっぜん可愛くなくて、こういう不細工なのを可愛いと思うタイプの人間にしか選ばれないタイプのやつで、店の棚に山積みになっていた。ユウちゃんがするから、可愛いだけでヘンテコには変わりない。っちゅーわけで、自分の頭の上にも漏れなく乗っかることになった、先輩とお揃いの、そのヘンテコなキャラクターをモチーフにしたトンチキなキャップに違和感を覚えながら、ひとまず、かわいい『ユウちゃん』の写真は撮っておいたから、『俺』は俺に、十分感謝してほしい。
*
そのトンチキな帽子を被ったまま、時間はどんどん過ぎていって、夜が、やって来た。
なんだかんだで、この世界での一日を満喫していた。
夜の色に染まりゆく園内を見渡しながら、隣を歩く先輩をチラっと見る。一日遊んでへとへとかと思いきや、昼間と変わらずあれやこれやと話し、何かを見つけてははしゃいでいる。
日焼けした。ってそう話す先輩の腕を見ても、遊園地を彩る明かりに照らされた肌は相変わらず真っ白だった。
用がない限り、手は繋いだまま。離れても、どちらからともなく繋いで、二人並んで歩く。
こういうのもたまにはええもんやなあって思う。
先輩が女の子だったら、俺たちはもっと堂々と好き合うことが出来て、先輩だって俺のことを好きだって臆面なく主張してくれて、ヤキモチだって妬いてくれたのだろう。
「今日、めっちゃ楽しかったなあ、世界でいちばん幸せやった!」
先輩は、嬉しいも、楽しいも、素直に口にする。それが、許される世界だから。
「……大げさやな」
そんな慣れない会話に一人照れてしまう。そういう場面が何度かあった。
「あ、夜ごはん何食べる?さっきアイス食べたばっかやし、お腹はあんまり空いてないけど……」
ぶらぶらと、繋いだ手を前後に大きく振りながら先輩が聞いてくるのに、「たしかに、」と足を止めて辺りを眺めた。レストランのようなものはなくて、そこかしこにある出店には夜を楽しむためのライトや、キラキラと光を放つ腕輪が並べられていた。
その光に、目を細める。
どうにも、眩しすぎたからだ。そんなに強い光でもないはずなのに、変やなって思って目を擦る。
「目ぇ痛い?」
先輩が、下から覗き込んでくる。心配そうな顔は、朝に見た時と同じものだった。夜だから、ちょっと、暗かったけど、それはハッキリと見えた。
「ううん……、痛くはないけど、」
視界が、ぐらぐらと、揺れる。この感覚は、ってすぐに思い当たる。ここに来る直前に感じた、目が回るついでに世界もぐるぐる回り出す、あの感じ。
帰るのか、ここから?
ここは、俺と先輩の愛を全部許してくれる素敵な世界だ。魔法のような、そういう場所。夢に溢れた遊園地みたい。
それなのに、もう少しここにいたいと思う気持ちよりも、そろそろ帰りたいって気持ちの方が大きい。
「どっかで休む?」
背伸びをしたのか、ぐっと先輩の顔が近づいた。ミラーボールのような、七色のライトがどこかで回っているのか、白い頬が色んな色に染まっていく。
「いや、平気……」
視線がぶつかれば、二人の間に言葉が消える。
キスしたいな。
先輩の目の中にいる俺がそういう顔をしているのが見えて、また霞む。
「あのな」
息がかかるくらいのところまで顔を近づけて、でもキスはしないで、口を開いた。
正直なところ、キスしようかなって、ギリギリまで思っていたけど、やっぱりやめた。『俺』への遠慮もあるし、『俺』じゃない男にキスされる『ユウちゃん』が可哀想な気もしたし、これが一番だけどユウジ先輩のことを裏切るようなこともしたくない。いや、ユウジ先輩だけど、この人も。
「なに?」
「どの世界におっても俺は俺やなあって思うんですわ」
俺をじっと見つめたまま、先輩がその大きくはない瞳をぱちくりとさせた。
「光が言ってること、さっぱり分かんない」
うち、あんまり頭よくないねん。
先輩が、そう言って首を傾げた。それに、笑う。もう、全然、頭とかよくなくてええですよって言いたくなるくらいに可愛いなって思った。それで、これくらいならいいかなって、その柔らかそうな頬っぺたに触れてみる。思っていたよりも柔らかかったそれに、ドキドキと胸が躍るよりも、壊してしまいそうで怖いなって恐怖感を抱いた。
やっぱり、俺には違うんやろうな。
「ちゃんと、先輩と幸せになりたいって思ってる」
この世界にいる『俺』と同じように、俺だってユウジ先輩と幸せになりたいって思っている。
「ユウちゃん、」
会って、小さくも柔らかくもない体をぎゅって抱きしめたい。この世界の先輩は、『ユウちゃん』は可愛いけど、本当に本当に可愛くて、この世界の俺を羨ましくも思うけど、俺だってそれに負けないくらい幸せなのだ。
「うん?」
会いたいな、先輩に。待ち合わせ、だいぶ遅れてもうたからめっちゃ怒ってんのやろうな。
「『俺』と幸せになってな……」
せやから、帰ります。
光に濡れる先輩の頬に触れた手をするりと滑らせれば、そのまま、するりと、関係ない足元から滑り落ちていくような感触があった。尻もちをつくこともなく、ただただ、滑る。目の前にいた先輩が、光に溶けていく。そこにあった景色が、ぐにゃり、ぐるりと歪んで回る。
財前、って。
洗濯機の中に入れられたみたいに回る景色のなか、聞き覚えのある、あの声が聞こえた気がした。
*
「……前、財前、」
うっすらとぼんやりと浮かび上がってくる景色に、思考はまだ追いついてこない。
一重瞼の大きくはない瞳が、すぐ目の前にあるのは分かる、本当に、目の前だったから。
「あ、目ぇ開いた!」
それが、今度は一気に遠ざかっていく。どこか別の方に向かって大きな声で「おっちゃん、目ぇ開きました~」と言う背中が、今度は視界を埋めた。
「……?」
ここはどこだ?視線を右側に移動させてみる。突き当たる見慣れない景色に、重たい瞼をぱちぱちと瞬きさせる。どこか、狭い部屋。黄ばんだ天井と、これでもかというくらい明るく白く発光している味気ない蛍光灯の光。夜の遊園地を照らす、色とりどりの幻想的なライトはどこにもない。
「おーい、起きとるん?駅のホームで貧血で倒れて運ばれたんやって。ぜんっぜん来ないから誘拐でもされたんやないかって心配んなって電話かけまくったら駅員のおっちゃんが出てめっちゃビビったんやで」
ぱちぱちと、俺の頬を軽く叩きながら話す声は、ユウジ先輩の、男のそれだ。
聞いてもいないのに、駅員のおっちゃんと話した内容をペラペラと話し出す先輩をぼんやりと眺めた。その腕は日焼けしていて、出っ張った骨が手首にくっきりと浮いているのが見える。見るからに柔らかくないそれに触れたいなあって、思う。これは、『ユウちゃん』ではない。
「ユウちゃん、」
試しに、呼んでみる。
「は?」
すると、ユウジ先輩は世界一奇妙な猿でも見つけたかのような表情になった。
「おっちゃん、大変や。救急車呼んで!頭打ったみたいや……」
それから、慌てた様子で駅員のおっちゃんを呼ぶのに、「打ってないわ」とその手を掴む。
柔らかくない感触が、昨日よりも愛おしい。
「今度、遊園地行ってお揃いの耳つけてみます?」
そう言うと、先輩は「やっぱり救急車を、」って向こうに向かって叫んだ。こういう、世界だ。