gift「仁王、泣いてたよな。」
卒業式の後、教室で丸井がふと思い出したように言った。
「泣いとらんよ。高校も一緒、校舎も一緒。どこに泣く要素があるんじゃ」
「卒業式じゃないよ。」
胸元にある造花を弄りながら丸井が言うのに首を傾げてみせる。
「じゃあ、どこ?」
それから、丸井の前で泣いた覚えなどないから聞き返せば、丸井はうーんと首を捻りながら、遠慮がちに言った。
「全国の決勝。幸村くんの試合の時。気のせいかもしんないけど、」
「決勝って、ずいぶんと昔の話じゃのう」
丸井の発言に何も引っかからない風を装い、窓の方へと視線を向けた。春の空は少しくすんでいたが、よく晴れていて、それでいて、長らく続いた苦しみが晴れたかのように清々しい青色をしていた。
「夏のことなんて、もう覚えとらんぜよ……」
嘘を、吐く。
全国大会の決勝戦。全ての、俺たちの三年間の集大成となった一日。三年間、俺たちが必死こいて、血を吐く思いで追いかけてきた夢とか、呪いのように掲げてきた目標とか、そういうものの全てが叶う予定だった日。
その時のことは、今でもはっきりと思い出すことが出来る。
テニスコートの広さや、空の色や、客席を埋める観客が生み出す音に、じっとりとした暑さ、首筋を流れる汗の感覚。全て、鮮明に思い出すことが出来る。
そして、そのコートに立つ、何か見えない大きな力によって(例えば、神様とかその辺り)、誰もが持ち得ない特別な力を与えられた彼が、懸命にボールを追う姿も。
ずっと見上げてきた存在が、いつしか同級生という枠では捉えることが出来なくなっていた、彼が――、幸村精市が、死に物狂いでテニスをしている。俺たちの三年間が正しかったことを証明するかのよう、笑顔もなく、ボールを追いかけていた。
巡る記憶に、息が詰まる。
「……」
鼻から深く息を吸って、肺の奥から空気を吐き出して、答えを口に乗せた。
「気のせいじゃよ。何で試合見て泣くんじゃ。」
いつも通りの口調で。
「あー、やっぱりそうなのかあ。何か、泣いていたように見えたから、ちょっと気になってたんだよね」
「残念じゃったのう」
「うん、本当に。仁王の涙なんて滅多に見れないだろうし」
丸井は、おどけたように言って、それ以上その話を続けようとはしなかった。
俺が、その話をしたくないと思っているという事を察したのだろう。
多分、この先も、丸井は一生この話を俺にすることはないに違いない。そういう人間だ。
そして、「気のせいだ」とは言っていたけれども、丸井は自分が見たものが気のせいではないことを確信しているに違いない。この赤毛の同級生は、俺が思っている以上に聡い。
決勝戦の前日、朝、人気のないコート。
二年ぶりの対戦だった。
彼との試合が終わった後、形式に則って、テニスコート越しに握手を交わした。
その時、真正面から見た幸村の表情に月日が経ったことを改めて認識した。
初めて試合をして、初めて握手を交わしたあの日に見た幸村の表情は、現在の幸村が浮かべるものとは全く異なるものだった。
けれど間違っているわけじゃない。
幸村の表情は、その場面にとても相応しく文句のつけどころがないようなものだった。むしろ、二年前に見た表情の方が、その場に似つかわしくないもので、その場にいたほとんどの人間が幸村がどうしてあんな顔をしたのか分からなかったに違いない。
それに比べれば、その時の幸村が浮かべていた表情は、誰が見ても不思議に思うところは無いものだった。
そう、立海大付属中学男子テニス部の部長として、王者と呼ばれるチームに君臨する部長として、部員を指導する立場の人間として申し分のない態度だった。
一年生の頃、俺を完膚なきまでに負かした幸村精市は、試合の後、半ば呆然としていた。少なくとも、中学一年生の俺の目にはそう見えた。よく覚えている。
負けて、ずいぶんと下の方から見上げた、その姿は、「勝って嬉しい」というところからは程遠く、どこか絶望を感じているようにも見えて、それは俺の心の深くに、はっきりと残っていた。
俺が落ちた底と、幸村が立っていたコートの間に一枚の大きな鏡があって、コートの上に立つ幸村の姿は、まるで底に落ちた俺を、その鏡にそのまま映し出したかのようだった。
そのくらいに、その時に見た幸村の姿は、その時の俺とよく似ていた。負けた俺と、同じ顔をして突っ立っている。
そのことが、また俺のプライドを酷く傷つけた。
馬鹿みたいに喜んでくれた方が、まだマシだった。調子に乗っていた俺を嘲笑ってくれた方がマシだった。
そうすれば、俺だって、「悔しい、次こそは勝ってやる」って、しょうもない希望を抱けたのかもしれない。
でも、違う。
あの時、幸村も俺と同じように絶望していたのだ。
そうだ、俺は新入生同士の個人戦で、幸村の最後の対戦相手だったのだ。
同じ年の部員全てに完璧に打ち勝った彼は、上級生や、自分が負かした同級生達に囲まれて盛大に褒め称えられていた。
誰も幸村には適わない。
立海を支えられるのは幸村しかいない。
幸村がいる間、立海は全国優勝を逃すことはない。
皆が笑顔で言っていた。
幸村も笑顔で「頑張ります」とか、そんなことを言っていたように思う。
けれど、その時、彼は誰も理解をすることが出来ない高みへと追いやられ、断崖絶壁に一人ぽつんと立ち続けなければならない孤独に、絶望したのだ。
そんな事は俺の勝手な想像に過ぎない。
けれど、そこまでずれていないとも思う。
俺は二年間、幸村精市という人間を嫌というほど見てきたのだ。
鏡の奥から、そっと、じっと見続けてきた。幸村が与えられた人生が、持って生まれた他の誰にもない才能が、羨ましくて妬ましくて、その嫉妬がまた俺がいる場所をじめじめと湿らせた。最悪だと思っていた。
テニスが好きだった。立海に入るまで、それは透明な気持ちだった。
ピンク色の花びらがハラハラ散ってうざったかったコートで感じた絶望が、その気持ちを次第に濁らしていく。
嫌いになって憎むことも出来ず、だんだんと重たくなってくる水を抱えてコートをかけ回る。
どろどろになっていく。足元を重たい泥に絡めとられて身動きをとることも叶わない。
その感覚を、幸村は知っているのだろうか。
いつしか俺は、彼に対してそんな疑問を抱くようになっていた。
ずっと疑問に思っていて、そして、彼と二年ぶりに本気で試合をして分かった。
直接聞いたわけじゃない。
握手を交わした時に見た、部長として存在する幸村の姿が、全ての答えだったってだけだ。
部長として最強の存在として、たった一人で生きることを選んだ幸村の心の深い部分に溜まった、無理やりに泥を濾過したテニスへの想いは、とても透き通っていて綺麗だと思った。
それは彼の強さを、あるがままに表現しているようであったし、しかし造られたもの特有の緻密に計算された美しさを持っていた。
底に突き落とされた俺と、上に追いやられた彼と。
ラケットでボールを打つ、という単純に見える動作の繰り返しにのめり込んで、俺は逃げて、彼は戦った。
それぞれの結果が、今だった。
「立海に入って、良かった?」
試合が終わり、他の部員達が朝練のためにコートに顔を出すのを待つ間、ふと幸村に聞かれた。
「……なんで?」
そんなことを俺に聞く?そういう目を彼に向けた。
「別に、明日で終わりだしね。感想でも聞いておこうと思って」
ふふ、と穏やかな笑いを零して続けた。
「幸村は?」
聞くと、隣に座る幸村は笑顔のまま、一度空を見上げた。
高みに追いやられて、それでもテニスを選んだのに、病に倒れて、それでもまたテニスをした。立海に入らなければ、と後悔したことはなかったのだろうか。
その返答を待つよう、幸村の横顔をじっと見つめていれば、空に向けていた視線を俺の方にゆっくりと向けた。目が合う。
「さあね」
どこか、悪戯っぽい言い方だった。
幸村がそう答えるのと同時、騒がしい声と元気な挨拶と一緒に赤也と丸井がコートに入ってきた。嬉しそうに幸村に声をかける二人を、そして二人を部長としての態度を崩さず穏やかな視線で見つめる彼を横目で見ながら、俺は思った。
二年前の四月、俺達が出会ったあの場所には、多分、絶望しかなかった。
俺と幸村だけではない。
真田も柳も柳生も丸井もジャッカルも、それぞれが感じたはずだ。
それは、立海というチームのレベルの高さへの畏怖であったり、理想の部活動とはほど遠い非情な世界に対する恐怖であったり、同級生との圧倒的な力の差であったり、最強と呼ばれることへのプレッシャーであったり。
純粋にテニスを楽しむところから、遠く離れなければならない覚悟を知らないうちに強いられた俺達は、それが長いか短いかは別としても、皆が一度は絶望を感じたのだ。
逃げるか立ち向かうか、選んだ道は、やっぱり皆違っていたけれども、今このメンバーで、あの場所から何とか逃げずに踏みとどまって、ただ勝つことだけを貪欲に求め続けてきたチームで、明日を迎えられるというのであれば、立海に入って良かったと思う。
楽しかったわけじゃない。
いい思い出だとも、そんなには思っていない。ただ、誇りに思うだけだ。
そう思えるようになったのは、やはりチャンスをくれた幸村の存在のおかげだとも思った。
でも、俺も真田も、柳も柳生も丸井もジャッカルも、皆が幸村という部長の存在に、それはカタルシスすら含めて、導かれ救われたのだとしたら、一体だれが幸村を救ってくれたのだろうか。
青春という言葉で片付けることの出来ない現実があることを誰も知らずに、彼一人が背負っていくのは、あまりにも残酷だと思った。
決勝戦の日。
目を逸らし続けていた彼の姿から、目を逸らすことが出来なかった。
そんなだから、目が乾いて、じんわりと網膜を涙が濡らそうと必死になって身体の機能が働いているのが、自分でも分かった。
コートでボールを追う幸村の姿を、一瞬でも見逃したくなかった。
無邪気にテニスを、幸村との試合を楽しむ対戦相手の一年生が、まだ立海の誰とも試合をしたことがない、それこそ自己紹介の時に見た幸村の姿に少しだけ似ていると思った。テニスが楽しくて、だから強くなりたくて。好きという気持ちが、テニスを愛しているという気持ちが、その身体の全てを作っていた。あの頃の幸村は、楽しそうだった。
でも、その頃の幸村に戻って欲しいとか、そんなことは思わなかった。
どっちが幸せか、なんてことは分からないけれども、彼が悩んで選んできた時間こそが、今の彼の全てであり、俺が追いかけてきた選ばれた人間の全てなのだから、あの時の俺にとって重要だったのは、テニスボールに食らいつく彼の姿だけだった。
瞬きもせず、見続けた。
でも、頬を濡らした涙の正体は、別に単純に目が乾いたからってわけじゃない。
幸村が選ばれた人間なのだとしたら、特別な何かを与えられたのだとしたら、その力のせいで好きなものを目指すものを義務と位置づけて、嫌いなものを受けいれて、望むように生きられなくなったんじゃないかって、何となく思った。
俺が欲しくて堪らなかった、幸村しか持つことを許されなかった才能(そんな言葉で片付けられるかどうか分からない)が、逆にそれを持たなかった人間への憧憬になっていたというのならば、人生はなんて不条理で悲しいものなのだろうか。
窮屈で息苦しい場所で生きていくために必死になって、懸命になって、それでまた苦しむことになる空しさと、幸村を取り巻く、その途方もない孤独に涙が零れた。そして、今が、ただの通過点であることを、強く願っていた。