【始春】はらり、未来 仕事を終えて寮に戻ると、春はそのまま自室へ入る。
「ホケキョくん、ただいま」
深夜近くの帰宅だから鳥籠からの反応はないとわかっていても少し淋しい。明日の朝は余裕があるから遊んでもらおうと思いながらバッグを置き、ストールとジャケットを脱ぐ。
帰り道、コンビニで買ってきた季節限定の缶ビールを手にしてバルコニーへ出た。
四月になったとはいえまだ夜は肌寒い。けれど一駅手前で電車を降りて、寮まで歩いて帰ってきた春には心地良かった。
プルタブを引いてビールをぐびりとあおる。
いつだったか、海や陽に仕草がおっさんくさいと言われたけれどしかたない。仕事を終えて深夜に帰宅した男が缶ビールを飲むのにアイドルっぽさなんて意識していられるか。
「あ〜〜〜」
半分ほど一気に飲むと、手すりに両腕を置き、傾けた顔をそこへ乗せた。
毎年、担当月は忙しくてゆっくり花見をする暇がない。
デビュー当初を思えば忙しいのはありがたくもあり、嬉しくもあるけれど、満開の桜をのんびり見る時間がないのは少しだけ残念だった。
だから月が変わって新に担当を託してからは桜をなるべく見るようにしている。
バルコニーから見える桜は盛りをすぎてしまっているけれど、これはこれで綺麗だと春は思う。
何も考えず、暗闇の中でうすぼんやりと白く光る桜を眺めていると背後で人の気配がした。
誰かなんて考える余地もない。春が招き入れなくてもこのバルコニーへ出てこられる人物なんてひとりしかいないのだから。
けれど振り返るのも面倒で、そのまま桜を眺めていた。
「春」
隣に立った始が静かに呼びかける。
うん、と短く応えたが始に視線は向けなかった。機嫌が悪いわけでも体調が悪いわけでもないことくらい、始ならわかってくれるだろう。
なんて、こんな考え自体がすでに甘えてしまっていてだめなのかもしれないけれど。
しばらく春を見つめていた始は、その視線の先にあるものを見つけたらしい。
「……桜、か」
ぽつりとつぶやいた。
「そ。お花見です」
言って、春は缶ビールに口をつける。俺にも寄越せと言わんばかりに横から手が伸びた。
「だーめ。これは、俺限定」
「は?」
残り少なくなった缶ビールを振りながら、正面を始の方へ向ける。
『春限定』と書かれた缶に始は苦笑する。
「なるほどな?」
「あー、ちょっと」
それでも手を伸ばしてくるので慌てて身を起こした春を始はそっと引き寄せた。
「んっ」
唇に触れたかと思えば始の舌先が軽く口内を弄る。熱を揺り起こしたいわけではなさそうで、すぐに顔を離した始はひとこと、そんなに苦くないんだな、とビールの味を評した。
どう答えようか迷い、結局春は口を閉ざす。何を言っても無駄な気がしたし、そもそも始とのキスを嬉しがってしまっている。
缶ビールは春限定なら、春の唇は始限定だから行為自体も間違ってはいない。いきなりするのはどうかと思うけれど。
しかたない、と始の胸にもたれながら春は桜を指さした。
「俺たちがここへ初めて来たとき、あの桜がまだ若木だったのは覚えてる?」
「……ああ。まだ細かったし、今みたいに枝も立派じゃなかったな」
「六年でこんなに大きくなるものなんだね」
桜の木が枝を伸ばして幹を太らせて、いつしか地上からてっぺんを見るのが難しくなったように、グラビも随分大きくなったなと春は思う。若干一名、なかなか身長が伸びない子がいるけれどそういう意味ではなくて。
多くの人に知られて、たくさんの人に愛されて。
「ソメイヨシノの寿命ってね、六十年くらいなんだって。知ってた? 特に街中にいる木は隣の桜と枝葉がぶつかりあっちゃうから自分たちの葉っぱで日照不足を引き起こしたりするし、病気にもなりやすいから四十年くらいが盛りでそこから少しずつ弱っていくらしいよ。……でも、ちゃんと手入れをすれば寿命は延びるんだから大切にしたいよねぇ」
グラビはどうだろうか。いつまでこうやって人の心に喜びを残していけるのだろうか。
「はーる」
腰に始の腕が回される。肩口に始の顎が乗せられた。
「さすがに六十年も経ったらいい年のジイサンだからな、アイドルと名乗れるかどうかは難しいだろ。……ああ、おまえの本体も老眼鏡になってるかもな」
「ちょっと、ひとこと余計だよ」
笑う始の手を叩きながら春は首を傾げた。
「……あれ? 俺、俺たちの話したっけ、」
「いいや? おまえが何を考えてるかなんて簡単に想像できるだろ」
「ええ……そんなにわかりやすいかなぁ、俺?」
「わかりづらい」
「あ、サラッとひどいこと言われた」
軽口に軽口を返せば始が声も立てずに身体を震わせる。
「事実だろ」
「うーん、まぁ否定はしない。でも、始はそんな俺をわかろうとしてくれたんだもんね」
わかりにくい春の思考を簡単に想像できるくらいの努力を重ねて、ずっと隣にいてくれた。
春が微笑めば、照れくさいのか肩で始の顎がカクカクと動く。その感触がちょっとだけ面白い。
そしてついでのように言葉が足された。
「できれば長くあいつらと、おまえと一緒にやっていきたいっていうのはいつも思っているし、おまえにはイチイチ言わねえと理解しないから言っただけだ」
あってるだろ、と念押しされては頷かざるを得ない。
「八十を越えてもアイドルって言われる前例がないって言うなら俺たちが最初の例になればいい。その年まで愛されてもらえるように努力するのも嫌いじゃない」
「始らしいや」
ヨボヨボで杖に頼ってじゃなくて、ピンと背中を張った美しい姿で踊れるおじいさんになりたいとは春も思う。
腹部へ触れる始の手を撫でながら桜を眺める。
ひとりで眺めていたときはただ白くて綺麗だったのに、始と一緒だとほんのり淡いピンクも見えてくる。不思議なものだ。
「始」
桜から視線を外さず、始の肩へ頭をもたれさせた。
「あの桜の寿命が尽きても、一緒にいられたらいいね。……なんてね?」
本音をごまかし切る前に、側頭部へ始がキスをする。触れられた場所がほのかに熱い。
「俺は、桜の寿命どころか死んでも離す気はないんだがな」
「……ありがと」
今みたいな関係のままでも、そうでなくなっても、始の隣にいられたらと春も願っている。どんな形であれ、始とふたり、支えあう関係でありたい。
「うーん、酔ったかな?」
手のひらに収まるサイズの缶ビール一本で酔えるわけがない。本音を漏らしてしまうのは、桜に酔ったせいだろう。
「酔ったって思うんなら中へ入れ」
「はぁい」
ちょうどビールもなくなったところだし、始を寒空の下で立たせたままなのもしのびない。戻ろうかと始に声をかける。
「春」
「うん?」
じっと見つめられて春は首を傾げた。内側に光を内包する紫水晶のような始の瞳が春を柔らかく引き寄せる。
「わかりづらいのはお互い様じゃないかな、もう」
苦笑しながら始と向き合い、頼りがいのある身体に抱きついた。始に求められるのはいつだって嬉しい。
「俺は酔ったし、寒いから温めてくれない?」
唇を触れあわせるだけのキスをして始が欲しがる言葉を口にした。
喜んで、と答える始の口元はゆるやかに弧を描く。
手を取り合って向かう先はひとつだった。