【始春】そういうところ 仕事終わりに前から気になっていたチーズケーキ専門店で人数分のケーキを買って大通りを歩く。穏やかな陽射しは鼻歌を誘うくらいに気持い良い。
夕方前に仕事が終わった解放感にひたっていたら、すうっと黒塗りの車が近づいた。いつもなら気にも留めないのに、今日は何故かひっかかる。近づき方が、まるで俺を狙っているみたいだったからかな。
ほんの少し足を止めた俺の横で、車の窓がするすると下りていく。
「春くん」
「……え?」
後部座席で微笑む人とこんな街中で会うとは思ってもいなくて俺は何度もまばたきをした。
★
時間があるならと誘われて喫茶店に入る。
運転手さんは駐車場で待機したままなのが申し訳ないのだけれど、この人に誘われて予定もないのに「ごめんなさい」は俺にはできない。
「お元気そうね」
「はい。おかげさまで」
「あら、私は何もしていないわよ?」
楽しそうに笑うその顔は始にとても似ている。いや、逆か。始がこの人に似ているんだ。なにしろ始を産んで育てた人なのだから。
「とんでもない。いつも見守ってくださってありがとうございます」
お世辞じゃなくて本心から俺は頭を下げる。
睦月の嫡男がアイドルなんかをやって。
そういう声があることを始も俺も知っている。それを、あら、いいじゃない、楽しそうでと退けてくれているのはこの人なのだ。
始は家のことからなんだかんだと逃げているけれど、それだって必要最低限だけやればいいと許されているのはこの人がいるからこそで。
この人の協力なしではとても始と一緒にアイドルをやることはできないって、身に沁みて知っている。すごく心強い俺たちの味方。
「最近はどう? ちゃんと寝て、ご飯も食べているかしら?」
運ばれてきた紅茶を飲んでいたら質問が飛んできた。これは始と俺のどっちかな、と思いながらも元気ですよ、と俺は答える。
「ギリギリまで寝るのは相変わらずですし、食事はまったく問題なしです」
一人暮らしだったらおざなりになっていたであろう食事もきちんと保証されているのは寮住まいの良いところだ。それでなくても始は自分で作れる人だから、おばさんが心配する必要はちっともない。睡眠時間ばかりは仕事に左右されてしまうから太鼓判を押すのは難しいのだけれど。
俺の答えに、あら、と苦笑が返ってきた。
「春くんったら、自分のことより始なのね」
「え?」
「私が聞いたのは春くんの方です。連絡も寄越さない始なんて気にしていません」
軽く頬を膨らませる姿はとても可愛らしくて思わず俺は笑ってしまう。最近、始が寮でスマホを遠ざけていたのはそういうことかと理解した。メッセージのひとつでも送れば済むことなのに、どうして始は嫌がるのかな。
「俺もちゃんと寝て、食事もとってます。始くんや葵くんのおかげですけど」
始と違って料理ができないせいではないけれど、何かにのめり込むとつい食事を忘れてしまう。そういうとき、俺の首根っこを掴んで(文字通り)食卓へ引きずっていってくれるのはいつも始だ。もう少し優しく、と思わないでもないけれど、心配をかけているのは俺なので強くは言えない。
それはよかった、とおばさんが嬉しそうに微笑んだ。
「あなたたちが楽しくお仕事をしているのはわかるのよ。でも、見えないところはわからないから、ときどき知りたくなるの」
仕事と始自身を見れば充実した毎日だとわかっていても、心配になるのは愛する家族だからこそだろう。
でも、おばさんの場合、心配というよりは好奇心の方が強いのかも。どんな楽しいことをしているの? って顔をキラキラさせながら聞いてくるから、俺も嬉しくなってしまう。
「つい先週なんですけれど……」
だから俺も差し障りのない(後で始にアンクロを食らわない)範囲で楽しかったエピソードを口にする。
始のことはかっこよく、面白く。下の子たちは飾らず、優しくて楽しいありのままを。俺についてはあんまり自虐的になりすぎないように。
ときどき合いの手のような質問を受けながら、俺は睦月のおばさんと短くも楽しい時間を過ごした。
★
楽しかったわ、と別れ際に微笑むおばさんは満足そうだった。良かった、と思いながら俺は頭を下げる。
「ごちそうさまでした。お茶もケーキも美味しかったです」
「どういたしまして。春くんとお話しできてよかったわ」
「俺もです」
おばさんの唇がきれいなカーブを描く。笑ったときの雰囲気が似ているのは親子だから当然なのかもしれないけれど、今はここにいない相方の存在を強く感じられて俺は好きだった。
運転手さんが開けてくれている後部座席へ乗り込む直前、不意におばさんが振り返る。
「そうだ、今週中に必ず連絡するようにって、あの子に伝えておいてくださらない?」
「わかりました」
12月に入ると年末に向けてグラビとしての活動も増えていく。そうなる前に連絡させますと頷く俺に、おばさんがいたずらっ子のように目を光らせた。
「あんまりにも連絡が来なかったら、春くんを攫っちゃおうかしら。そう言ってくれていいわよ」
「俺を攫ったくらいで連絡するなら苦労しないんですけどね」
業を煮やして俺に連絡を寄越すことは過去に何度もあった。それでも逃げ回る年もあったから、効果のほどはわからない。
苦笑する俺におばさんは柔らかな笑いをこぼす。
「それじゃあ、試しに攫われてくださらない?」
「こんなに素敵な誘拐犯さんに言われちゃうと断りにくいですね。困りました」
「とっておきのお茶を用意しておくわよ?」
「それは魅力的ですねえ。うん、それなら攫われましょうか」
ふたりで笑いあう。
立ったまま長話をするのは運転手さんにも申し訳ない。お待たせしました、お願いしますと運転手さんに会釈する。
「ありがとうございました」
「またお会いしましょうね」
窓から手を振るおばさんにお辞儀する。見えなくなるまで見送ると、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。
いつだったか始と俺の妹たちが偶然出会ったときは報告らしい報告をしてくれなかったけれど、俺は心優しいから始にきちんと報告するのだ。
おばさんに会ってお茶とケーキをごちそうになったこと、今週中に実家に連絡してくれと伝言を受けたことを完結にまとめて送信ボタンを押す。
始が俺の報告を読むのはドラマの撮影が終わって帰る頃だろう。おつかれさま、がんばってね、の意味も込めていくつかウサギのスタンプも添えた。
「よし、と。帰るかな」
保冷剤を入れてもらったとはいえ、帰宅時間が延びたからチーズケーキがちょっと心配。真夏じゃないから大丈夫だろうけれど。
スマートフォンをしまい、俺は寮へ向かって歩きだす。
★
始が寮に帰ってきたのは日付が変わるほんの少し前だった。
「おかえり、始」
共有スペースのテーブルにパソコンを置いて企画書を作っていた俺はドアが開いた瞬間、顔を上げた。
「ただいま」
「おつかれさま。チーズケーキを買ってきたんだけど食べる? それともお茶だけの方がいいかな」
立ち上がりかけた俺を制して始が椅子に手をかける。始にしてはやや乱暴に音を立てて俺の隣に座った。
「春、母さんに何を言わされた」
「え?」
なんのことだろう。始の言いたいことがわからなくて思わず首を傾げてしまう。
俺のメッセージを読んでおばさんに連絡したんだろうけど、何かあったのだろうか。なんとなく、ではあるけれど、おばさんにからかわれたのかなという予感がする。
深い深いため息をつきながら始が答える。
「年末に戻ってこなかったらおまえを俺の代理に立てると言われた」
「ええ!?」
叫んだ拍子に椅子が音を立てる。思わず始の方へ体ごと顔を向けた俺に、はぁ、とまた始が息を吐き出す。
やっぱりかとぼやく始の声は、どうやら俺の予感が正しかったらしい。
始の気持ちを軽くさせられるかはわからないけど、実際のところはこうだったのだと、夕方におばさんとの話を始に教える。
また始のため息が深くなった。
「おまえはお茶ひとつで懐柔されるのか」
「だっておばさん困ってたし。それに、いつも始の実家で飲ませてもらうお茶は美味しいんだもん」
「もん、じゃねえよ。…………悪かったな、巻き込んで」
始の手が伸びてきて俺の髪をくしゃりとかきまぜる。やつあたりのようでいて、言葉通りに謝罪を含んだ動きはいつもより柔らかい。
「大丈夫。始やおばさんの役に立てるなら嬉しいし、俺としては頼ってもらえるのは幸せだからね」
「そういうところは助かってるよ」
「お、始が珍しく殊勝だ」
わざとからかえば俺の髪をかきまぜていた始の指先に力がこもる。痛くなる前に慌てて逃げたら始が短く笑う。
「忙しくなる前に美味いお茶でも買いに行くか」
「やった! あ、でもそんな時間あるかな?」
「そこを調整するのがおまえの腕の見せどころだろ、はぁる?」
ほんの数時間でいいから捻り出せと始に言われて俺が嬉しくならないわけがない。了解、とうなずいて俺たち以外に誰もいないのをいいことに始の肩へ頭を乗せた。
逃げるでもなくそのまま始はじっとしてくれている。そう言えばお茶を淹れてあげればよかったと思うころにはそれなりの時間が経っていた。
「春」
「うん?」
「母さんのアレは半分脅しで半分本気だと思うぞ」
「え?」
「……いや、いい。なんでもない」
ぽふん、と始が俺の頭を優しく叩き、立ち上がる。
「寝るぞ」
「はぁーい」
俺がパソコンや資料を片づけるまで始は待っていてくれる。疲れているだろうし、眠そうな顔をしているからこれは添い寝をご希望かな。
差し出された始の手をゆるく握る。
眠そうだし少しばかり機嫌が悪そうでも、やっぱり始が好きなんだと改めて感じた。誰よりも自由にさせてくれて、安心させてくれる人。俺にとってはそれが始だ。
夕方に始のおばさんと会ったせいか、そんなことを考える。
始がここまでデレるのは、このところ俺とふたりで出かける機会がなかったのに自分の母親が偶然とはいえ俺とお茶をしたという嫉妬もあるって俺は知ってる。
そういう始が可愛くて好きなんだ。
始も知っているとは思うけどね。