【始春】あなたの指に捧げよう 鍵盤をなめらかに駆け抜けた指先が白鍵をひとつ叩いて持ち上がる。
春の奏でた音は空気に溶けて部屋を満たす。
なんの形も残らない。
けれど始の心は共鳴するように震えるのだ。
歌もそうだがピアノを弾くといっそう春の本質が見えてくる。
若葉を透かして降り注ぐ陽射しのような心地良さはいつまでもここにいたいと思うほど。
けれどふわふわしているばかりではなく、奥の奥、幾重にも張られたレースの向こう側から心臓を深く貫く光もあった。
サポートするのが好きで、得意で、後ろで静かに控えているイメージの強い男だけれど、輝く日のような強さも持っている。
弥生春は確かにアイドルなのだと知らしめる音が、すべての振動を止めて消え去った。
いつもならばためらうことなく発する呼び声すらも邪魔に感じて始は唇を閉ざしたまま春の手をとる。
軽く腰をかがめ、その美しい指先にくちづけた。
上目遣いで春を見れば、始の捧げた敬愛に惚けたような顔をしている。
どうかこのまま。
春の音楽がすべて空気に変わるまで、ひとつの声も漏らさないでと祈るように唇をふさいだ。