疵骨と骨の間に刃を入れ、棟に乗せた足に体重を掛ける。すると、ごろりと首が落ちた。
地面を転がり揺れ続けるそれと、とめどなく溢れ出る血には蒼天の陽光がぎらぎらと降り注いでいる。戦いの中で生きてきた家康にとってそれは見慣れた景色であり、呆気のない現実でもあった。
友であった者の首を斬り落とした家康は地面に膝を突きながら刀を傍らに置く。そして絶命の惨烈に染まった面の瞼を下ろさせ、せめてもの慰藉とする。
辺り一面に轟く歓喜の声。戦が終わった安堵と戦いに勝利した興奮。ようやく呼吸することを思い出した家康が深く息を吸うと、ばたばたと臣下達が現れた。首桶を持っているその内の一人に三成の首と遺体を任せると、残った者達に現状を報告させる。
上田からの加勢は結局無かったが、同軍である伊達や西軍離反を選んだ小早川の奮戦で思ったよりも被害は出ていないようだった。鳴り響く戦勝の鐘の音が遠くまでこだまするにつれて、戦火の狂乱も遠ざかって行く。ようやく終わったのだ、と空を見上げると、秋晴れの高い空を黒点がまるで鳶のように旋回していた。
家康の視線に気付いた忠勝が降下を始める。それをぼんやり眺めていると、不意に家康様と声を掛けられた。視線を移すと伝令ではない兵がいつの間にか片膝を立てた跪坐の状態で返事を待っていた。そのことで思いの外自分が疲労していることに気付いた家康は、それが悟られないように努めて明るい声を発する。
何か報告か?と極めて優しく問うと、ハッと短い応答の後に胸鎧から何かが取り出される。未だに警戒心が解れていない家康は一瞬身を引きかけるが、手の中にある物を見て、身じろぎの代わりに顔を顰めた。しかしながら直ぐ様表情を取り繕うと、兵の手の中にあるそれをさも自然な手付きで受け取ってみせた。
鍍金の蝶の目貫が付けられた黒紫の合口。ここまで持ってくる最中に汚れたのか、僅かに砂が付着している。しかしそれ以外はあの日のままの形を保っていた。
短刀を見つめて立ち尽くす家康に気付かないまま、兵が経緯を語る。東軍に寝返った小早川軍との激戦の最中に致命傷を負った大谷吉継は、己の首を配下に落とさせて隠した。配下を見つけ次第尋問する。一旦はその短刀を首の代わりとして納めて欲しい。言葉の終わりでようやく我に返った家康は兵の所属している隊と名前を聞くと、一旦下がらせた。そして辺りに人が少なくなったことを確認してから、一つだけ溜息を吐き出す。
やがて忠勝が地に降り立った。戦後の自分を心配して顔を覗き込もうとしてくる忠臣に、自分でも分からない何かを悟られない為に視線を外しつつ、家康は短刀を差し出した。
「忠勝。」
「――――。」
「すまないがこれを持っていてくれ。今から皆を集めて演説をする。」
「――……?」
これは何かと言外に問い掛けた忠勝に対し、家康は合口を握った手のままコンコンと胸部装甲を叩いた。
「刑部のだ。どうも首を隠したらしい。ああ、ワシの分と同じところに入れておいてくれ。」
「――……――……」
差し出された両手の平の上に短刀を置くと、僅かばかり消沈した蒸気の音が家康の耳に届く。豊臣時代に副官同士として少なからず関わりがあった相手の死を悼むその姿は、家康がこれまで見てきた忠勝の正道そのものであった。そのことに些かの救いを感じつつも、家康は忠勝に背を向けて崖先へと向かった。
背後でいくつかの排気音がした後に、背中の印籠を模した機構が火を点す轟音がして、家康の真上を通り過ぎていく。それを立ち止まって見上げた家康は、目を細めて眺める。
忠勝は立ち止まった家康を追い越し、先に崖先へ辿り着く。純黒の巨躯は崖下からでも充分見えるとみえ、大勢の者達の歓声が家康の耳にも届いた。家康はそれに困ったような笑みを顔に貼り付けると、改めて己が祀り上げられる天壇への道を歩き出した。
演説を終え、重臣達との評定の場に移った家康の前に、一人の男が進み出た。戦を勝利で終え、晴れ晴れしい顔つきの者達が大勢の中で、唯一と言っていいほどに強張った表情をしている。家康が不思議に思っていると、叔父である上官に背を押された青年はその手に持たされている首を家康に見せた。そして家康が何事かを告げる前に、自ら両膝を揃え平伏した。
お許し下さい家康様。突然の甥の行動に重臣は慌てるが、言わんとすることを理解している家康は何も言わずに青年の肩を優しく叩く。それでも首を大事そうに片手で抱え顔を上げない男に、何があったのかは大体の想像が付いた。
首の主を家康は知っていた。病を纏い宙に浮く輿に乗る奇怪な主に粛々と付き添い続けていた男だった。激戦の末に敗れた武将が今際の際に、あの狡猾ながらも絶対的な矜持を抱えて生きていた病身が最期に望むことは何であるか。他者に比べると無いに等しい交流の中でも家康はよく分かっているつもりだった。
敵副将の側近の首に重臣達がざわめく中、家康は確かめるように違う首の在処を問い掛ける。上官はそれでようやく事の重大さに気付いたようだったが、青年はより小さく身を縮ませながら僅かに頭を縦に振った。
首の主と誓った故、他言は出来ない。代わりに我が身を御処分召されよ。大手柄が一転、震えながらも凛とした声で続けられた言葉に老臣は慌てふためく。家康は参ったなと口の中だけで呟きながら、頭の後ろを掻く。そしてふと思い出した。
側近を討ち取ったのであれば、その主君のことについても何かを聞いているかも知れない。家康はほんの些細な旧懐で尋ねる。すると突然青年は起き上がり、まるで何かに急かされるような乱雑な手付きで、懐から一枚の布を取り出した。紙がありませんでしたので何卒御容赦をという言葉で、それが何かしらの筆録であることに気付く。
家康は両手に乗せられた布を手に取り文字を追う。状況が状況だった為か随分と安定しない筆跡で書かれていたのは一つの歌であった。それを読んだ家康はさも常のような声で問う。
この歌は誰が詠んだものか。青年は家康が予想した通りの答えを返す。家康にとってはそれで充分だった。
動揺を悟られないように家康は定型に沿った労いをして、功績に応じた恩賞を与えた。周囲の臣下達は驚いたような感銘の声を上げる。その感銘の意味が、自分の見せた鷹揚であるか青年の見せた至善であるかは、最早大した問題ではなかった。
ようやく立ち上がった青年の姿が陣幕の向こうに消えるまで、家康は歌がしたためられた白布を誰にも気付かれないように強く握り締めたままであった。
大坂城の中腹。天守閣に比べて低い天井を進んで行くとその部屋はあった。
頭を下げる近侍達に笑みを返しながら、家康は襖の向こうに呼び掛ける。乾いた木を擦り合わせたような返答が可であることを聞いてから戸を開く。
入口から何歩か歩いた先にある仕切りから白布の蝶の羽が揺れる。珍しく赤白の鎧を脱いでいることに気付いた家康は、ようやく今日が部屋の主の休日であることに気付いた。
「やれ何用か徳川、われは休みぞ。」
「そうみたいだな。部屋に来るまで何も言われなかったから忘れてたよ。」
いつもの癖で隣に座ろうとしたところで、はたと家康は気付く。ぎらりと輝く銀は一瞬だけこの場に居ない友のことを思い起こさせる鮮明さで、包帯巻きの手の内に潜んでいた。
家康の視線が手の中のそれにあると察した吉継はヒヒヒと機嫌良く笑うと、手首を返してその鋒を家康に向ける。丸まったフクラは普段厨で良く見るものと似ており、鞘も柄も無い今の状態ではそれ程怖いものではないと家康は感じた。
「何ぞ、われが刀を握るがそんなに珍しいか。」
「いや……いやまあ、そうだな。確かに珍しい。」
「ぬしの正直は相も変わらずの鬱陶しさよな。」
少し引っ掛かる物言いながらもその声色に他意が無いことを頭の中で反芻した家康は、僅かに愛想笑いを浮かべ、改めて吉継の左手側に片膝を立てて座る。手応えの無い同僚の反応に若干の不服さを滲ませながらも、吉継は刃文を家康からよく見えるように短刀を持ち直した。
家康は着込んでいる鎧の分だけ少し首を伸ばして刃を鑑賞する。削られた樋の他は大体がなだらかに出来ており、まるで曲尺を当てたような直線状の棟は程々の厚みしかない。淡い白の刃文の上にはざらりとした荒れが載せられ、胴に刺せば軽々と鎺まで沈んでしまいそうな程の鋭さがあった。
用途以外の概念を物に見出せない家康は素直に「よく斬れそうだな」という感想を口にする。一方で用途外の視点を持ち合わせる吉継は頭巾と包帯の間から僅かに見せている眼を半分にしてみせてから、わざとらしい溜息を長く吐き出した。
「それで三河を長きに渡り保ってきたとはついぞ信じられぬ不調法よな徳川よ。」
「うーん、ワシはそもそも戦うためのものにそこまで興味が無いからな。お前のそれも柄を変えれば良いと思ってるぞ。」
「はあ、それでは意味が無かろ。物を切ってこその刃、者を斬ってこその刀よ。」
吉継が並べたものの言い様に苦笑いを浮かべながら、家康はふと視線を下に向ける。整然と並べられた手入道具の隣には外された拵があった。まだそっちの方が分かると言わんばかりに家康は抱え込んだ右太腿ごと前のめりになる。
光の塩梅のせいか、微かに紫がかって見える鮫柄に、家康は目の霞を晴らすように瞼を指で拭う。そして再度眺めてみたが、晴れた日の中の柄には僅かながらも確かに紫紺の色が含まれていた。
刑部、と家康が声を掛け、鞘に指先を向ける。吉継は目だけで指差した先を追うと、ああ、と思い出したように呟いた。
「拵か? 見ての通り鮫紫塗柄石目塗鞘合口よ。」
「紫塗柄? それはまた珍しいな。」
「まあ豊臣ではそう珍しいものではなかろ。」
薄く笑う吉継は刃を枕代わりの布に置き、丁度家康の死角に置いていた鞘を柄の隣に置く。柄と対になるそれは細々とした傷のような石の肌目が黒で塗られていたが、下地には間違いなく紫があった。決定的なことに、鞘に巻き付いた下緒の色は家康が友としている男が持つ刀と同じ物が取り付けられていた。
家康は頭の上に疑問符を浮かべる。家康の知る限り、大谷吉継という男は所謂洒落者であった。時季に合った色目の衣を着、城下で話題の物を一通り試し、それでいて茶の湯や焼き物にも詳しい。普段の立ち振る舞いもさることながら何処か浮世離れした余裕を見せる様は、対外的な意図を感じないでも無かったが、そもそも吉継自体がそういう性質なのだろうと家康は考えていた。
もしこの黒に合わせた色が赤であれば、恐らく主である秀吉からの下賜なのだろうと見当が付いた。しかしこれでは、と家康は口を開きかけて止める。それから少し考え、思った通りの感想を吐いた。
「まるで三成の刀だな。」
「オオ、ぬしの節穴でも流石に分かるか。左様、これは三成の仕立てよ。」
呆気なく返された返答に「へえ」とだけ家康は応え、鞘を手に取る。差表に笄と返角は無く、薄いながらも数多の凹凸で覆われた表面は、握ると思いの外しっくりと手に馴染む。裏を返せば鞘と同じ色合いの上に、鍍金で二匹の蝶が描かれた小柄が挿し込まれていた。
ふと家康は思い至り、今度は柄を持ち上げて見る。合口の名の通り鍔を持たないそれのほぼ中心には、小柄同様褪せた金の色をした蝶の目貫が静かに止まっていた。裏を見れば表よりも些か翅を閉じた飛び立ち際の蝶がもう一匹居る。家康は両面の蝶を眺めるように柄を縦に持つと、目の前で何度か回した。
家康が拵に向ける視線の意味に気付かないまま、吉継は続けた。曰く、いつかの褒賞として秀吉から短刀を拝領したが、豊臣へ参じた際に居を移した上、武具全般を使わなくなって久しかった為に馴染みの鍛冶が居らず、長刀を得物とする三成に頼んだところそうなってしまったという経緯らしい。口数の少ない三成に早合点の鍛冶が合わさり、三成が持つ短刀として拵を作ってしまったので、仕方なく小柄と目貫の二所だけを取り替えて自分の物だと分かるようにしたという話を、さも愉快そうに語っている。主に三成と鍛冶の行き違いを面白可笑しく茶化しているところからして、自軍内の兵士の緊張を解く為に何度か話したことがあるのだろうなと家康は推測した。
一通り話して満足したのか、吉継は中断していた手入れを再開する。油を拭き、粉を叩き、また油を塗る。柄を右手の親指と人差し指で挟んで持ったままの家康は、立てた膝の上に顎を乗せ、その様子を見ることなく眺めていた。
「それは普段から持っているのか?」
「当然であろ。いつ何時も腹を割れと命ぜられても良いようにな。」
「縁起でもないこと言うなよ。」
「オヤ、そうではないとは言わぬのか。太閤であればわれとて腹を切らすとぬしは思うておるのか。ぬしが主であればそんなことはさせぬといつものように吠えるであろうに。」
嫌味ったらしい揚げ足取りに家康は一瞬だけ視線を吉継の目に移し、また逸らす。それが常通りの正道さの表れと見たらしい吉継は、家康の中に生じたであろう苛つきに向けて卑屈な笑い声を投げる。
「ヒヒヒ……われとて太閤の前では単なる枯木に過ぎぬ。覇の火に降りて兵禍を祝くがわれの成すべきよ。」
上機嫌に短刀の先を揺らしながら、吉継は纏わり付くような眼差しを家康に向ける。その白眼に込められた明らかな嘲りにどう反応したものかと家康は僅かに考え、曖昧な笑みを口端に載せることを選んだ。
「枯木死灰という訳か。お前は本当に分かりにくい奴だな。いや、敢えてか?」
その反応が想定外だったのか、吉継は目を丸くすると、それからまた不服そうに瞼を半分降ろす。既に肚を決めている家康はにこりと笑むと、丁寧に柄を鞘の横に並べ置いた。
「だからお前は秀吉殿にも半兵衛殿にも信頼されているのだろうな。勿論三成や左近にもだ。」
「ぬしがわれを評するか? いやはや常ながらの雲上よ、われには到底真似できぬ。」
無い眉を顰めながら、吉継は家康の手から柄を奪うようにして取り返す。機嫌の盆を反してしまった吉継に対し、家康は困ったようにこめかみの辺りを掻いた。
「いや……そうだな、何と言ったらいいのか分からないが……うん、そうだな、やはりお前はそうなんだなと思ってな。安心したよ。」
「ハァ? ぬしはそうして自分の中だけで片付けるのが悪しき癖と何度言えば分かる。ぬしも人ならば言の葉で伝えよ、人であるならな。」
「ははっ、お前はいつも手厳しいな。でもそうしない方が良いものもあるとは思わないか?」
「絆だの絆だのを掲げるぬしらしからぬ物言いよな。さすれば明日は槍か?」
「ふふふ、ワシはもう持たないがな。」
刃に切羽と鎺を掛けつつ、吉継はちらりと横目で家康を見る。笑みに目を細めた家康は、柔らかくその瞳を見返す。しばらくそうして互いの眼差しの底を探り合っていた二人であったが、やがて根負けした吉継の方が先に深々とした息を吐き出した。
柄に短刀を戻し、目釘を差しながら「ぬしは」と吉継は呼びかける。家康は立てた膝に手甲を外した腕を載せ、頬杖を突いて続きの台詞を待った。
吉継は暫し視線を短刀に向けたまま、目の内側で答えを探す。無意識ながらも無駄の無い手付きで残りの作業を終え、納刀したところでようやく口を開く。
「……そういえばぬしは何用でわざわざ此処に来た?」
家康はその一言で勘付くが、吉継の意図を察して敢えて同じようにはぐらかす。
「ん? ああ、少し顔が見たくなってな。半兵衛殿の葬式以来会っていなかっただろう。」
「われの顔など見てもどうにもならんであろ。ぬしの好きな民とやらの顔でも見ておれ。」
「そう言わないでくれよ刑部。ワシだってお前のことを」
普段と同じ笑みのまま話していた家康の表情が一瞬だけ止まる。吉継は急に止められた言葉に怪訝そうな顔を見せた後、その一瞬だけの瞳を見た。
癖というものは恐ろしいものだと家康は感じていた。既に耳目は去ったというのに、習慣としての不言がこびりついたままになっている。しかしながら先に吉継が告げた過去の自分への誨諭もあり、意を決して声を上げた。
「……ワシだってお前のことを、信用している。」
「ぬしの言葉は万に一つもマコトが無い。それを求めたわれの方が莫迦であったな。」
吉継は形が整った短刀を自らの座す前に置き、両拳を膝の上に載せる。それを見た家康も身を正して座り直す。
それからしばらく二人は紫黒の刀を見つめた。障子越しの陽光は黒の奥に潜む菫の色を白々しく照らし出す。下緒の紫は光を反射して所々に銀の瞬きが見えた。家康が身に纏う鎧と同じ色をした淡黄の蝶は、縫い留められたようにそこから動かない。
彼岸を過ぎた陽は僅かに傾き、釣瓶落としの夕暮れが迫ることをその色の重みで表している。朱が心持ち入り混じる光暈は部屋を満たし、何もかもの輪郭を曖昧にしているかようだった。
ぬしは、と再度声がして、家康は顔を上げる。いつの間にか両手を対の袖口の中に収めていた吉継は、尚も短刀から視線を外さないままで家康に言を重ねた。
「ぬしは底抜けの偽善者よ。」
「底無し、ではないのか?」
「底が無い柄杓はそれはそれとして使い道があろう。だが底が抜けた柄杓に価値は無い。いくら水を汲み上げても空のままよ。」
「一緒だろう。」
「初めから存在しえぬものと、あったものが無くなることが同じか?」
吉継の一言に今度は家康が黙り込む。その様を目だけで見た吉継はまたしばらく考え込んでから、短刀を手に取り懐に入れた。それから隅に固めていた手入道具を、今まで下に敷いていた平包の中心に置いて結び目を作る。持ち上げても物が落ちない程度に固く縛ったところで、ああ、と吐き出すような家康の声がした。
「ああ、そうだな……。同じ訳がない、同じであるべきではない。お前の言う通りだ。」
家康は力なく笑いながら足を崩す。そして次に困ったような笑みに移行しながら立てた膝を両腕で覆い込む。吉継から見れば気味の悪いその笑みは、普段の家康がよく顔に貼り付けているものと相違なかった。
「まあぬしのそれは今に始まった話ではないがな。われが出会うた時からそうであった。最早病気よビョウキ。」
「治す気はないのか?」
「何故われが治さねばならぬ。ぬし御得意の絆とやらで癒すが良かろ。」
「お前との絆でなければ癒せないと言ったら分かってくれるか?」
「分からぬ。ぬしにわれが要らぬように、われはぬしが要らぬ。匙が要るなら他所に声掛けよ。東照権現様のお声であれば何処からでも有象無象が湧き立とう。」
意を決した割には芳しくない結果に終わった家康は、目を除いて苦笑いを浮かべる。意を固めた視線を受けて、吉継は居心地の悪い表情になる。それでこそかと内心で呟いた家康はすぐに立ち上がれるように腕を解き、後ろの床に手を投げ出した。
「やっぱりお前は手強いな刑部。安心したよ。」
「ぬしの安堵は碌でもないことしか起こらぬであろ。」
「まあそう言ってくれるな。ワシだってそうしたくてしてる訳じゃないんだ。」
「ならば止めればよかろう。ぬしがやらねば起きぬことよ。」
「……それでもやらなければならないんだ、ここまで来てしまった以上。」
ふっと家康の目が細められる。悔恨とも郷愁ともつかないその眼差しに吉継は無言を選んだ。
そして最後に一度だけ「だから底抜けだと言うのよ」と言い捨てると、吉継は不自由な膝を引き摺るようにして体を背後の棚へ向ける。家康は口先だけで仄かに笑うと、立ち上がり部屋を出た。
二度の襖の開閉が終わった後に家康はふと振り返る。飾り気の無い間似合紙に映る影は人の形をしていた。懐かしいと片付けてしまうには、少々穏やか過ぎる夢だった。
薄っすら瞼を開くと、見慣れた畳が見えた。転寝をしていた自分に気付いた家康は胸に溜まった息を吐きながら、筆を持っていない左の親指と人差し指で眉間を押さえる。この半年碌に眠れていなかった夜が、ようやく迎えた平穏の昼の中で度々顔を見せている。良いことではあるんだが、と思いつつも後の会合を考えた家康は書類作業を諦め、まだ空になっていない文箱の蓋を閉じた。
最後の戦いと目した関ヶ原での戦の後も、しばらく戦は続いた。特に温情を掛けて流罪にした真田幸村が大坂城に籠った一度目の戦は、家康にとって最高の臣であり誰よりも信頼していた本多忠勝を失う結果を招いた。流石の家康もこれには相当に堪え、二度目はありとあらゆる手を尽くして城を落とした。その時既に変質している自己に気付かず、秀吉同様過去を捨てかけた自分を幸村に看破されたことは、まるで昨日のことのように思い出せる。
人は強い、強くなれる。そして、そうであることを信じて進まねばならない。力の功罪に囚われるあまり、人の強さを認められなかった自分をようやくそこで認識出来たことは、苦々しくも強烈な教訓として今も家康の胸の内に残されていた。
だが一方で他者の幸福の為に献身することが第一となってしまっている自分が居ることも家康は否定出来なかった。ようやく訪れた泰平の世を長きに渡って保つことが出来るような仕組みを整えた後は、来たるべき死に向けての猶予でしかない。己の果たした悪しき所業に悔いはなく、迎えるであろう結末に不服はない。幸村が乱世の魂全てを抱えて生き抜くことを選んだように、戦国の責全てを己が死で以って贖う決意だけは揺るがなかった。
そうでなければ自分は今まで何の為に生きてきたのか、生き残されてきたのか。三河の民を守る国主として、徳川の軍を導く総大将として、そして泰平の世を齎す東照として、これまで多くの者から守られてきた自分が果たすべき義務がそこにはあり、疑問を差し挟むことなど一度も無かった。
そう、無い筈だった。
作業に集中する為に籠っていた自室は、何処からか差し込む薄ぼんやりとした光の他はひんやりとした影の中にあった。忙しいながらも余裕の出た城内は時折遠くで兵達の掛け声が聞こえる程度で、正に安寧そのものといった雰囲気に満ち溢れている。その中で家康は文机に頬杖をつき、目を細めた。
そしてふと思い出すと、文机の下に置いた引き出しの最下段を開けた。そのまま視線を向けずに中の物を取り出し、文箱と自分の腕の間に置く。
墨の滲む白の切れ端。その中に包まれた短刀。家康は机の隅に置いた暦を確認する。気が付けばあの戦いから丁度一年が経とうとしていたことに今更ながら気が付いた。
だからこそ思い出したのだろうか。だからこそ夢に見たのだろうかと家康は考える。友の為に己の安住を投げ捨てた挙句、自らの首すらも残さずに死んだ男。絆を嘲弄しながら、他ならぬ絆の為に死んだ男。そして唯一、家康自身の欠落を肯定もせず否定もしなかった男との、最後の語らい。
思考に沈みかけた頭を左右に振ってそれを払うと、家康は短刀の鞘を抜いた。秋の長い日が作る曖昧な影の内で、直刃の白がひっそりと瞬く。間近で見れば見るほどに澄んだ色をした刀と、布に書かれた文字とを並べ、しばらく見つめる。その間にも部屋の外では時間が動き、人々がより良き明日に向けて進み続けていた。
家康は白布の文字を口に出して読む。記憶の中の言葉を辿る。それから、ああそうだったのかと今更ながらに把捉するが、最早どうすることも出来ない過去になってしまっていることも同時に自覚する。家康は俯きながら眉間に指を当て、嘆息を一つ吐き出すのが精一杯だった。
乱世で生まれた罪は、穢れは、全て自分一人で背負う。いつの頃からか家康はそう思うようになっていた。
それは織田豊臣という二つの強大な力とその行く末を見たが故の結論であり、根底には幼い頃から自分を守ってくれていた三河の兵や民、戦無き穏やかな世を望む全ての者が皆幸福の中で生きられるようにと願う家康自身の想いがあった。だからこそ己が、己一人でやり遂げなければならないと家康は考えていた。
戦国の最後の大戦たる関ヶ原において、昔馴染みの友は外海に出ていて不在だった。対等である同盟相手は何も言わなかった。肩を並べて戦ったことのある友はこの手で殺した。そして、徳川の守護たる男にはこれまで数え切れない程の重傷を負わせ続けた果てに見殺しにし、共に歩んできた男には離れがたき家との離別を命じた。
戦が終わった今、彼らに更なる艱難辛苦を与える訳にはいかなかった。彼らだけではない、自分を除くありとあらゆる人々の幸福を願う身として、その苦しみだけは誰とも分かち合う訳にはいかなかった。
それが天下人であるのだと家康は理解していた。全ての民に代わり旧き時代の穢れを背負い、新しき世の清らかな泰平を育む。例えそれが人の身では成せぬことだとしても、人の底が抜けてしまった自分であれば果たせる。それこそが秀吉を倒し、戦を起こし、三成を殺した罪を背負う己が行うべき責であった。
そしてその責こそが今の自分を生かすものでもあるとも分かっていた。悪因悪果の末を待たずとも、遅かれ早かれ人は死ぬ。ならば乱世の内に望まぬ死を臨んだ者達が再び現へ戻りし時に、同じ死に様を辿らぬ世を作らなければならない。それが例え自らの身を冥土へ落とすが如し所業であったとしても、家康は決して恐れることはなかった。自分一人の身で全ての人間が救えるのであれば、それで良かった。良い筈だった。
するすると夜の帳が降りてしまう前に、家康はとうとう予てから考えていたことを行動に移すことにした。
執務室のある城から出て庭の片隅に行くと、折れ枝と枯れ葉を集め、燧石を鳴らした。三度目にようやく灯った小さな火へ、細い枝から順番に入れていく。野戦の最中に覚えた手筈通りに進めると、あっという間に飯炊きが出来るほどの焚き火になった。
木々の節が破裂する音を聞きながら、家康は水桶の隣に置いた文箱を開く。蓋の中央に螺鈿の向かい蝶紋がある以外は特に装飾の無い漆の箱の中には、親指の高さほどに書状が積み重なっていた。
家康は一番上の書を読む。かつての領主に宛てられた、臣下からの月次の報告と労りの言葉。何処をとっても過不足の無い整然とした文章を読み終わると、火の中に入れた。
次の書信は戦に向けての兵站についての相談だった。確かこの将はこの間の夏の戦の時に戦死したなと思いつつ、読み終わるとまた火の中に入れた。
家康が書状を読む間に、前のものは燃えて灰になる。消息、往来、玉梓。燃やす紙が減るにつれて、不明瞭だった輪郭がどんどん研ぎ澄まされていく。最後、文箱の底に一枚だけ残された書を手に取った家康は、その送り主の名に一瞬目を疑った。
そして小さく笑う。これまでの中でも特に上等な椙原紙に書かれた内容は簡潔極まりなく、『主君も出席する茶会に出ないとは何事か』という問責であった。書を送った方も送った方だが、これをわざわざ私信箱の底に秘していた方も方だなと一通り笑ってから、これまでと同じように火の中へ投げ入れた。
文箱の中は空になり、火は歩けるようになった童程度の大きさになっていた。これなら大丈夫かと計りつつ、家康は懐から目当ての物を取り出す。そしてそれも火の中に入れると、きちんと燃えるよう火起こし用に取っておいた太めの枝で中心に追いやった。
飾りの蝶を失った拵が烈火の中に沈んでいく。そうして全ての物を焚き火に投げ入れた家康は座り込んだまま、一歩身を引き、燃え盛る炎の中を見つめていた。そして歌うように口遊む。
契りあらば、六の巷にまてしばし。幾度となく爆ぜる榾火の向こうに冥土の陽炎を眼差しながら、家康は想う。
最期まで人であろうとしたお前ならば、きっと冥土の果てでも逢えるだろう。天下人という為政者に相応しくない夢想を灰燼に換えながら、家康は朴の木が焼け尽きるまでただ黙って見つめ続けていた。
火が消えたのは結局、一番星が瞬いた後であった。
小声で語らう入館者達のさざめきが、まるで本物の波のように押しては引いていく。他の展示物を見ていた男は左から右に流れる人々の間をどうにか横断して、反対側の展示ケースの前に移動した。
いくつかの展示品が収められているケースの前には何人かの男女がいくつかの塊となって立っており、その組み合わせが全て変わってしまっても尚微動だにしない背に、男は小さく声を掛けた。
「……何ぞぬしか。向こう側はもう良いのか?」
少しの間があった後、赤のセルフレーム眼鏡を掛けた焦茶のジャケットの男が振り返る。声を掛けた揃いの黒の眼鏡の主はにっこりと微笑みながら返答する。
「ああ。まあ元々蔵にあったものだしな、今更見ても仕方ないというか……。」
「ぬしは相も変わらず情緒に欠ける男よ。少しは研究熱心な客に倣うが良かろ。」
前世からの無遠慮に苦笑いを浮かべつつも、男は声を掛けた青年の背を追って出口に向けて歩き出す。
「どうだった? ワシの言う通りだっただろう?」
「どうもこうも無かろ。まあわれの記憶よりもぬしの非情さが知れてマコト良き展示であった。」
「またそれは皮肉だな。折角残ったのに。」
竹を割ったような返答に、黒眼鏡の男は微かに笑う。それを赤い眼鏡の男は鼻で笑いながら、二人揃って人でごった返す展示室から一旦出た。廊下の数少ない窓の向こうには隣の庭園に生い茂る木々が鮮やかな陽の元に照らし出されている。
「流転こそ万物の基礎であろ。われはぬしと比べ、此岸に未練を残した覚えは無いが。」
「さあ、それはどうだろうか。ワシも未練を残した覚えはないが、お前は覚えていないだけで、何か後悔が残っていたのかも知れないぞ?」
わざと茶化すような口調をすれば、数センチだけ低い赤縁眼鏡の黒目が不服さを表した。それを真正面から受けた男は、受付で受け取ったパンフレットをニットベストの下にあるシャツの胸ポケットに収めながら、ふふふと笑ってみせた。
「まあ何にせよ、ある程度の踏ん切りは付いたわ。」
「あれ、そうだったのか?」
「当たり前であろ。われはぬしと違ってマトモゆえな。アレの存在を以って、ぬしの世とわれの世が同じであったと認めよ。」
「お前は相変わらず疑り深いな。」
苦笑混じりに男が笑うと、隣に並ぶ男も機嫌を直したらしくいつもの意地の悪そうな笑みを口端に載せる。その反応に黒縁眼鏡の男が内心で胸を撫で下ろしていると、あ、と言う声が耳に届いた。
「しかし一つだけ分からぬことがある。」
「何だ?」
外の日差しと中の蛍光灯の光を交互に浴びる赤の縁の中の瞳が左上に逸れ、ジャケットの男が首を傾げた。ベストの男は続いた言葉を聞き、気付かれないよう密やかに笑った。
「われが持っていた頃のアレの刃に、あんな疵は確か無かった。場所が場所だけに戦で付くようなものでは無い気もするが……。」
黒縁眼鏡の男は笑みの浮かぶ口元を隠しながら、何でもない声色で「何でだろうな」とだけ答える。冥土の果ての現世は、男にとって満ち足りた幸福の世界であった。