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    しおり
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    しおり
    妬め、嫉め、滅に順え

    すい、と空気が動く音がして、首だけを右に向ける。懐かしい木目とふよふよと宙に遊ぶ紙垂しでから視線を上げると、半分以上が面頬と錣で隠れた横顔が見えた。
    「この期に及んでわれを呼び出すとは良い度胸よな徳川。」
    「すまないな刑部、忙しいだろうに。」
    「おお、オオ、東軍総大将殿に慮られるとはこれまた畏れ多きことよ、ヒヒッ。」
    「こちらこそ、西軍の中核たる軍師殿にお越し頂けるとは思ってもみなかった。」
    蝶を模した白赤の兜を被った大谷吉継は、空にゆらりと浮かぶ御輿の上から丘の下を指差す。両腕を体の前に組んだ徳川家康はそれに沿って体の向きを正面に戻した。
    吉継が指し示した先には一段と濃い土煙が噴き起こっていた。何か大きな爆発でもあったのかと思わんばかりの範囲と高さがあるその中で、まるで真夏の霹靂のような閃光が絶え間なく迸っている。
    「手筈通り、三成は本多と相まみえておる。毛利と長曾我部は前田と雑賀が。大友……いや立花と島津は暗と北の者どもと鉢合わせておるな、真田もその近くに居る筈だが……。」
    「真田なら巫殿と北条殿に手間取ってるみたいだな。戦いにくそうにしている。」
    「ああ、あの猪武者には向いておらなんだ相手よ。加えてさしもの猿めも伝説の風とやらは苦手と見える。」
    くくくと楽しげに喉で笑う吉継を家康は目を細めて見る。別れたのはほんの数月前だというのに、もう何年も会っていなかったかのように思えた。
    吉継が家康の視線に気付き、目を合わせる。隙間無く包帯が巻き付いた顔から察せる感情は少なく、無味乾燥そのものだった。だが家康はその涸れきって見える面の奥にある、不思議なほどに凪いだ熱を見つめていた。
    「して、何用よ。ぬしとわれの逢瀬を誰かが気付こうものなら二つに重ねて八つ裂きは固いカタイ。」
    「フフフ、それだけで誰が怒っているのかが分かるな。」
    「茶化すな茶化すな、あれが気付く前にわれは下へ戻りたいのよ。一応これでも西軍の指揮を代わりに務めているゆえな。」
    「刑部、その事なんだが―――」
    家康の瞳が真っ直ぐに吉継を見据える。おや、と口の中だけで呟いた吉継はそれを見返す。

    「―――今更だが、東軍へ来ないか?」

    ぱたりと会話が止まる。なお二人の眼下では十万を超える大軍があれもこれもと入り乱れて混戦模様が広がっている。
    人払いがてら西軍を裏切る覚悟を内々に伝えてきた小早川を助けに行くように指示している側近達の隊の旗印が家康の目の端に映る。進軍速度は遅くない。家康は意識を吉継に戻す。
    一方の吉継は一瞬だけ呆気に取られた顔をした後、ヒヒヒといつもの笑い声を上げる。愉快ユカイ、ぬしはまっことわれを笑わせてくれる。それから背の後ろで飛んでいた珠を一つ手に取り、しゅるしゅると指先に乗せて回し始めた。
    「天下分け目の大戦の、文字通りの真っ只中の只中で、それも敵軍総大将付きの軍師を望むとは……やれぬしの貪欲も底知らずよな。」
    「お前なら密書を送った時点で気付いていると思ったが。」
    「気付いておっても本気には出来ぬであろ、われとぬしは今や不倶戴天の敵同士ぞ。」
    「そうしたのはお前だろう刑部。お前が挙兵をしなければ、ここまでの大軍にはならなかった筈だ。」
    「はてさて何の事やら……豊臣の御旗に集いし亡き太閤と賢人への義をさもわれが仕組んだとでも言いたい様子さな。」
    「秀吉公へも半兵衛殿へも恩義はあるんだろうが、それだけでお前がここまでやるとは思わない。第一、ここまでやると却って豊臣軍が無くなってしまうことぐらいお前ならよく分かっている筈だろう。」
    「負けねば良いことよ、負けねば。」
    「勝つ気も無いのに負けないのか? 相変わらずだなお前は。」
    しばらく回転する念珠を眺めていた吉継は指を鳴らすようにそれを跳ね上げると、背中側へ戻した。そして改めて家康から距離を取ると、両腕を広げて交戦の構えを見せる。
    「先の誘いは聞かなかったことにしよ。」
    「せめて聞いてることにしてくれよ。」
    「われがぬしより先にあれに殺されても良いならばそうするが。」
    「三成が? いや、三成はお前を殺さないさ。ワシには分かる。」
    「それが『絆』だとでも言うつもりか?」
    「フフフ……お前は嫌うだろうがな。」
    「アアぬしの言葉は本当に腹立たしいことこの上ない! 何もかもが瓜二つよ!」
    嗄れた声を張り上げつつも、吉継の口元には笑みがあった。吉継の心中を察している家康も釣られたように笑い、両拳を胸の前に並べる。それから一つ間を置いて、吉継の念珠と家康の籠手が真正面から激突した。
    次々と放たれる珠を正拳突きで払いながら距離を詰める。五つ目の珠を押し出すように殴ったところで、家康の眼前に吉継が迫る。咄嗟に右拳を鳩尾に入れようとしたが、光の壁によって遮られる。
    吉継は家康の打撃の勢いを利用して後ろへ下がる。そして両手で手綱を握るように空を掴むと、左右に回す。神通力によって紐状に連なった珠は手の動きに合わせ、家康の横っ面を張り飛ばすように持ち上がり振り下ろされる。家康は顔の前で両の腕貫を揃えてそれを受ける。吉継が次の攻撃の為に念珠を引いたところで、今度は家康が距離を取った。
    「ぬしの言葉はまさしくからよ。虚ろな正しさほど掲げるに容易いものなど無い。」
    「ふふっ、お前がそう言うとは重いな!」
    「われがか? われの掲げるくうからに見えてか? ぬしの目はまこと節穴よな!」
    「これでも人を見る目ぐらいはあると思ったんだがな!」
    両腕を開いた吉継が結界を展開する。家康は近くの岩を駆け上り、呪印が点る前に吉継の元まで飛ぶつもりだったが、一足遅く捉えられる。空中に居た家康の胸に向かい蝶紋が浮かぶ。
    吉継が握った右手を引くと、それに併せて家康の体が引き寄せられる。流石に足場も何も無い空中では抵抗できず、家康はそのまま吉継の制空権に無防備のまま突進する。無論吉継がそのまま受ける訳が無く、車輪のように高速回転する念輪を二つその胴体に打ち当てる。防具があるとは言え、露骨に晒された強烈な打撃は受け身を取る暇すら与えず家康を駆け上ったばかりの岩場に叩き付けた。
    ぐっとくぐもった呻きを一つ吐き、どうにか持ちこたえようとするが足に力が入らない。また胸の蝶紋が光を灯す。反射的に家康は胸の前に腕を並べて珠を弾く。一つ、二つ、三つとでたらめに弾き返したところで、眩しい光が自分目掛けて突っ込んでくる。接近戦を挑まない吉継の、思いもよらない攻め手に対し家康は反応することが出来なかった。
    守るものが無い家康の首元を骨が掴む。肉が削げ骨と筋ばかりとなった吉継の両手が家康の首を締める。病持ちとは終ぞ思えないその膂力は、武士としての吉継が持つ矜持そのもののように思えた。
    「あれはからの虚ろの中に不幸を燃やしておる。太閤への痛哭とぬしへの憎悪を焚き木として燃え盛るそれは地獄の如き燧星ひうちぼしよ! われはあれが齎すその炎が、不幸が何より見たい!」
    「そ……うか……お前が……楽しそうで……何よりだ……」
    「楽しい? ああ……楽しいのかわれは……ぬしをこの手で殺せることが、この世全てに不幸が降り注ぐことが!」
    「ああ……良かった、本当に……良かった……。」
    首を締められるままになっていた家康は不意に吉継の左小指を掴む。そしてそのまま力の限り関節とは逆方向へ押し曲げる。どうにか耐えようとしていた吉継だったが、流石に本能には逆らえず、関節が外れる寸前で手を離す。
    家康の余裕を見て取った吉継は呼吸を整え、手を離す寸前の震えに優位を悟った家康は大きく息を吸い込んで右拳を強く握り込む。両者が間合いを計りながら、躙り寄っていた、その時だった。

    家康さあんと聞き覚えのある遠くの声に思わず吉継が振り向いてしまう。白兵戦が体に染みついている家康はその気を逃さず、一気に距離を詰め、力を込めた右の拳を振り抜く。
    衝撃が吉継の脆い肢体を砕くように抜ける。二人を中心に、波のように周辺の地面と空気が震える。遅れてきた音を認識する前にがたりと吉継の輿と数珠が落ちた。
    蹲り血を吐く吉継を見下ろした後、家康は丘に続く坂道を上から覗く。すると幾つかの兵の合間から見慣れた甲虫の角が見えた。
    いえやすさあああああんたすけてえええええええええ。合流直前に思わぬ混戦へ巻き込まれて、泣き声とも叫び声とも分からない濁った声で自分を呼んでいるその姿に家康は少し笑ってしまう。見つかる前にと家康は丘の下を見るのを止め、吉継の元に戻る。
    尚も血を吐き続ける吉継に困った家康は自分も座り込み、返答を待った。その内に自分が与えたであろう損傷以上に弱っている吉継に気付き、ああ、と無意識に嘆きの息を漏らした。
    「もう一度だけ聞こう。東軍に……いや、ワシに下るつもりはないか刑部。」
    「……ぬし、も……しつ、こい…………おとこ、よ……な……」
    「ああ、ワシはお前を死なせるのが惜しい。ワシと共に生きてくれないか。」
    真摯に発せられた家康の言葉を嘲笑うように吉継の喉奥が音を立てる。そして弱々しい指先は否定するかの如く戦場へ向けられた。
    「…………あれ、が……ゆる、せば………な………」
    そしてけたたましい高笑いが聞こえた。赤く濡れた口元が包帯の上からでも分かるほどに笑みで歪む。一通り笑い終えた後、どさりと吉継の体が落ちる。力を失った体は輿から流れ出し、篝火に焼かれた蛾のように見えた。
    家康は何も考えないまましばらくそれを眺めてから、吉継の腕を取って首の後ろに回す。それから脇の下から背中を受けるように右腕にもたれさせ、左腕を膝の下に通す。そうして横抱きにして持ち上げると蝶飾りの分だけ重い兜を被った頭がこつりと腕の外にはみ出す。常人よりも熱の籠もりやすい肉体はまだ暖かく、垂れ下がった右腕すらもまだ生としての重みがあった。

    近付く喚き声が次第に丘の上の岩場に反響する。家康は吉継を抱き上げたまま振り返る。いえやすさんいえやすさんと器用に泣きながら駆けてくる小早川は、家康の腕の中に収まる吉継を見て立ち止まった。
    「はあ……はあ、いえやすさ」
    「よく決意してくれたな、金吾。さあ、決着と行こう。」
    「そ……その、あの、それ、は」
    「ん? ああ、心配することはない。少なくともこの戦が終わるまでは目を覚まさないさ。」
    おろおろと右往左往するばかりの小早川に微笑みを向けてから、家康は丘の入り口の対角にある岩場に吉継を座らせておく。儀式めいたその行動を終えると、困惑の面持ちのまま立ち尽くしていた小早川に同行していた隊に戻り、雑賀の砦に向かうように伝える。戦場に戻りたくない小早川は些かの難色を示すが、砦の内では最も丘に近く、火薬が集約されていることから守りがより堅固であり、尚且つ三成がいつ来るとも知れないこの場所に居るよりも安全だと告げると、若干の青白い顔を見せつつも家康の言葉に従った。
    小早川を見送るついでに戦況を眺める。どこもかしこも膠着しているようで、改めて家康は吉継の炯眼けいがんに感心する。陣図を書いた密書が、朱の添削を入れただけでそのまま返ってきた時は流石に驚いたが、こうして配してみると中々に巧妙な結果となっている。やはり惜しかったな、と考えながら、家康は大きく息を吸い込む。
    忠勝、と不自然に人垣の空いた遠くの戦地に向かって叫んでみれば、黒い塊が煙を上げて戦線を移動する。その瞬間、自分を打ち抜かんばかりに膨れ上がった殺気が胸に突き刺さった。十町は優に離れているというのにその殺気は微塵も衰えることが無い。自分の顔に張り付いた笑みの意味が間違っていることに気付かない家康は、三成の到着を見つめる。
    抑止から解き放たれた三成は稲妻と見紛うばかりの速さで目の前の兵を、味方を斬り倒し、乱れに乱れた戦線を一直線に裂いて走る。いっそ気持ちが良いまでの強攻振りに参ったなと呟いて、家康は上空を旋回する忠勝を見上げる。そして一度頷くと、鉄の巨体は東軍戦力の要である伊達軍の陣近くへ降りていく。いくら戦に慣れた伊達軍と土壇場の底力だけは何処よりも強い黒田軍であっても、戦国にその名を轟かせる大友島津の双璧によって戦線をかなり後方にまで追い込まれている。忠勝を向かわせる理は適っており、且つ戦国最強が手加減不要で戦えるだけの場はどうにか整えられた。
    そうこうしている間に三成によって断ち切られた戦線はまた元に戻り、紫色の疾風はすぐ足元にまでやってきていた。家康は服に付いた頭巾を被り、後ろに置いた吉継を見る。人智を超えた速度で慟哭が近付く。足音が近付く。そして、ぴたりとその全ての音が止まった。

    家康が首だけで振り返ると、総大将を名乗るには些か足りない程に呆然とした三成がそこに立っていた。
    僅かに開いた唇が震えるように動く。それが今の今まで叫び続けていた自らの名前で無いことを知っている家康は無意識の内に眉を顰め、口元を苦々しい笑みに歪めた。
    ふらりと三成が足を振り出す。俯いた頭が不安定に揺れる。陽を受けた銀糸の髪は土と血に塗れていてくすんでいる。家康、と声が聞こえる。家康、家康家康、名を呼ぶ毎に膨らんでいく間違いの無い負の感情が三成の正しさそのものを表しているようで、思わず家康は目を細める。
    地響きが鳴る。家康は後ろへ飛び、目にも留まらぬ速さで翳された刃を紙一重で避ける。瞬間に距離を詰めた三成の右手首が翻ったことを確認してから、家康は脳天を突き刺そうとしたきっさきを両手で挟んで押しとどめる。
    今にも折れんばかりの痩身からこれ程までの強力ごうりきが生じることが相変わらず信じられない。拮抗した力の中心地たる家康の手と三成の刀は大仰に振動し、やがて家康は片膝を折る。そこから見上げてみれば、食い縛った歯と必要以上に削げた頬と、言通り爛々と地獄の炎を点した瞳が自分へ一心に向けられていた。
    家康は一瞬脱力し右手側へ転がる。三成が地面に突き刺さった刀を引き抜く間に立ち上がり、距離を取った。居合の為に刃を鞘へ戻した姿を見て、家康は構えていた腕を下ろした。
    私が、と怒りに震える声が聞こえる。家康は頭巾を目深に被ったまま続きを待った。
    「私が……私が貴様に一体何をしたと言う……何故貴様は私の全てを奪っていく!?」
    「三成……。」
    「許さない……例えこの世の全てが貴様を許そうとも、私はこの目で見ている……貴様の罪を! 決して許しはしないッ!!」
    三成が体勢を低くして鯉口を切る。そして音を置き去りにした抜刀の煌めきが目の前に降り注ぐ。出鱈目なまでに多重に閃く太刀筋が、家康の顔の前に構えた籠手を、腕貫を、素肌を斬り刻んでいく。だが家康は冷ややかな眼差しで間合いを計り、振り上げた刃の先を肩口に刺さんと三成が空中で柄を逆手に持ち直した瞬間を見切った。
    左手で三成の右手首を宙に置かせたまま、右足の裏で思い切り膝を横から踏み付ける。逆手に刀は握れたものの足元を崩した三成は脊髄反射的に倒れまいと下半身に神経を集中させる。三成の意識が己から自身の体に向けられたことで、家康はほぼ全力で以って右の拳を胴に打ち付けることが出来た。
    金属の鈍い音が響いて三成が後退る。鎧すら易々と貫通する家康の打撃は細身の三成には中々に堪えたらしく、危うく両膝を突く寸前だった。
    「罪、か。確かにワシはお前の絆を奪った。それは紛れも無い事実だ。」
    「ならば何故貴様は絆を説く! 私から絆を奪った貴様が、何故絆の何たるかを説ける!?」
    「では聞くが、お前は絆を説けるのか三成?」
    「何故私が説かねばならない! 貴様の宣う絆と、私が奪われた絆が同じものであるとでも思っているのか!?」
    「そう、そういうことなんだ三成。ワシとお前の『絆』は違うんだ。それに気付くまで、お互い随分と遠回りをしてきたものだ。」
    「黙れ……黙れ家康ゥッ! 怖気が立つその笑みごと十六に斬り刻んでくれる!!」
    痛みを堪えきった三成が支えにしていた刀を持ち、地を摺るように振り上げる。刃から発せられた衝撃波は乾いた土埃を巻き上げながら家康に向かって走る。家康は三成に視線を向けたまま背後へ回避するが、それを読んでいた三成は斬波と共に前へ飛び出していた。
    振りかぶっていた三成の無名刀が、守りの薄い家康の脚を切る。喉奥で呻きながら家康は地面を転がり、すんでの所で両足を広げて勢いのまま立ち上がる。その間に三成は再度脚下を蹴って家康の目の前に現れる。そして天に向かって足を蹴り上げるように背を向けて退避する動作の途中で、家康の体を下から撫で切り上げた。
    不安定な姿勢では流石に多重の太刀筋も一重二重程度になるが、それでも拳で戦う機動性の為に防具を最小限にしていた足腰への損傷は少なくない。ぐ、と呻き声を零し、家康は片膝を突く。
    皮膚と肉の何枚かが切れ、じわりと血が滲み始める感覚があった。切り口に沿って湧き出る熱と疼痛がじわじわと家康の脳裡を蝕む。それでも堪えて立ち上がり、胸の前に両腕を構えて迎撃の体勢を取った。
    家康は呼吸を整えながら、三成を見る。尚も目の前に滾る不幸の炎は澱みのない燦々きらきらしさを湛えている。なんと哀しく、美しい色だろうか。何処までも正しさを貫く三成を美しいと思う反面、不可解なことに家康は、自分の中にあった何かの糸がぷつりと裁ち切れた音を聞いた。
    その時突如自分の中に生じた感情に家康は一瞬躊躇いを持つ。しかしながらそれを好機と見て取った三成は再び斬撃の嵐を家康に見舞う。家康は奥歯を噛み締めてそれを耐えつつ右手に力を集中させる。刀の鋒が、刃先が、鎬が容赦なく叩き付けられ、家康の傷や痣が増えていく。耐えろ耐えろ耐え凌げと自らに向かって唱え続ける間に、家康はようやく自分の中に生じた感情の名前に思いが到った。
    三成の横一閃に家康の体が浮き上がる。渾身の一撃を繰り出そうと三成が納刀した瞬間を狙い、溜め込んでいた右手の力を打ち出す。拳の型の波動は咄嗟に刀を盾にした三成の体ごと突き放す。戦に特化した体質である三成は感覚で以って直ぐさま体勢を整え、十何間かの足の跡を長く着けながらも岩壁の寸前で留まってみせた。家康は突きの残心をしばらく保ってから、両腕を下ろした。
    「三成……ワシは世の太平の為に秀吉殿を討った。」
    「黙れと言っている! 貴様の詭弁も釈明も疾うの昔に聞き飽きた!」
    尚も血気に逸る三成は何度目かの突撃を行う。それを俯いたまま身捌きだけで避け、家康は少しずつ後退する。
    「では何故刑部を討ったと思う? ワシはお前を憎いとは決して思っていない。」
    「私に問うな! 貴様の心情など考えたくも聞きたくも無い!! 今すぐその姦しい口を噤み私に即刻首を刎ねられろ!!」
    「そうして考えないのはお前の悪い癖だぞ三成。」
    「この期に及んで尚私を観するか家康ゥ……!! 貴様のその慢心が、横柄が……貴様の死因だ……!!」
    みしりと地面が沈んだ刹那、十匁筒から放たれた弾丸の如き速さと重みが眼前に交差させた腕に圧し掛かる。鉄と鉄が甲高く不快な音を上げながら軋む。鎬を削りながらも強引に押し込もうとする三成に、家康はぎりりと奥歯を鳴らす。
    突然、三成の視界から家康が消える。同時に地を踏み締めていた感覚が無くなる。意図に反して浮き上がった両脚に思考が間に合わず、刀を持つ両手の首を片手でまとめて掴まれる。通常のものより幾分か長い刃は何かを斬ったという感覚だけを三成に残し、持主よりも先に跳ね飛ばされて何処かへと突き刺さった。
    鍔迫り合いの為に懐深くに入り込んできた三成の胴下を持ち上げる形で投げ上げた家康だったが、三成の刀の長さを見誤っていた。陽光を模した羊歯の歯模様から被っていた頭巾の途中までの背が袈裟に斬られる。しかしながら刃先は内に着込んでいた鎧の表面を這うだけに留まり、傷を負うことは無かった。
    得物が手から離れた三成は追撃を警戒して、より地に近く構える。まるで四つ足の獣だと思ってしまった家康は自分の中に渦を巻く数多の感情に向かって溜息を吐き、落とした刀が三成よりも後ろにあることを確認した。
    家康は被っていた頭巾を取る。それから少々俯いたまま向けるべき顔について悩んだところではたと気付き、そのまま顔を上げた。三成がそれを見て、歯を見せてまで威嚇したことで家康はようやく自分の表情がこの場に似付かわしくないものであることを認識した。
    「何故だ……何故貴様はここまで忌むべき裏切りを重ねておきながら、まだ笑みを浮かべられる……よもや私との間にも貴様が嘯く絆を見出したとでも言いたいのか……!!」
    「いいや、これは絆などでは無いさ。」
    家康が間髪入れずに答えると、三成は一瞬呆けた顔を見せ、それから狂ったように高く笑って見せた。
    「ハッ……ハハハハハハハハ! 遂に大義名分すらも捨てたか家康ゥ!! それでこそ私が斬り伏せるに相応しい罪だ、斬り捨てるべき咎人だ! 最早貴様に許しなど必要無い……自らの罪過に叫喚しながら惨たらしく絶命しろォッ!!」
    「ああ、そうだな。全てお前の言う通りだ。」
    身を起こした三成を見た家康はゆっくりと歩み寄る。横目で刀の位置を確かめた三成はじりじりと迫る家康との距離を測りながら、機を窺う。
    やがて家康は駆け出す。それが最高速度に至る前に三成は刀を手に取り、飛び込んでくる家康を迎える。三成の予想通り刀の間合いの一歩外から大きく踏み込んで飛び上がった家康の右腕に光が集約していく。対する三成も地面を爪先で粉砕しながら、空へと舞い上がる。
    三成は瞬きの内に斬撃を重ね、家康はそれを甘んじて受ける。そして目の前の姿が消えたのを視認したと同時に家康は強引に身を裏返し、背後に回った三成の右腕を掴む。行動を完全に読まれた三成は反射的に左手の鞘で受け流そうとするが、その前に家康の拳が顔面に捻じ込まれる。皮膚の向こうの骨が幾つか割れ、三成は背中を岩壁へしたたかに打ち付けてずるずると横向けに落ちる。家康は呼吸する前に駆け、首の前に構えた三成の刃先を革足袋の裏で押さえ付けながらその顔を覗き込んだ。
    鼻と歯が折れたのか、口元から顎下までを真っ赤に染め上げたまま、三成は尚憤怒に滾る瞳を家康に向ける。家康はその狂気すら感じさせる純粋な怒りを他人事のように眺めながら膝の上に腕を置き、より体重を掛ける。足袋底には薄い鉄を入れている為、刃先が岩に食い込み振り抜けない現状では被害は無い。むしろ刀と鞘を交差させて首を守っていた筈の三成の方が、家康の足で押さえ付けられた峰が徐々に降りてくることによって身動き一つ取れない状態へ追い込まれていた。
    三成、と家康が呼ぶ。その言葉の柔らかさと自らを足蹴にして追い詰めている様が合致せず、三成は怒りから一転して怪訝な表情になる。家康は天を仰いで深呼吸をすると、努めて自然に笑んでみせた。そのあまりの不自然さに三成は思わず口を噤んだ。
    「ワシは、お前に許しを乞わない。いや……許しが得られるとは思ってもいない。」
    「っ……は……そうだ、貴様の罪は二度と濯がれない……貴様の魂は、背反という名の汚泥によって既に―――」
    「それがワシがお前の許しを必要をしないからだ。」
    三成の眉が動く。家康の言を聞き、理解し、飲み下したところで、またも形相が般若へと歪む。切歯扼腕の念に震える三成は鞘のこじりを刀の鋒の下に入れ、家康ごと持ち上げて無理矢理体を起こそうとする。その刃折れすら覚悟した様に家康は足を引き、後ろへと下がった。
    三成は上半身だけを起こし、呼吸を整える。両膝を地面に突かない程度に投げ出して座り込んだ家康は袴と腰紐の隙間に違和感を得る。背中に手を回して違和感の元を取り出すと、ふと家康は思い立ってそれを三成に向かって投げ飛ばした。
    三成の手元に丸めた切紙が当たる。何のつもりだと警戒する三成へ今度こそ齟齬のない笑みを浮かべて、家康は口を開いた。
    「ワシはな、ずっとお前が羨ましかったんだ。
     何処までも清く正しく、例え闇夜の中でも真っ直ぐ進んでいける、そんなお前が羨ましかった。
     いつかお前はワシに言っただろう、『心にもない言葉を吐けばいいのか』『貴様はそうやって生きるのか』と。……全くその通りだ。」
    自嘲を含めた忍び笑いを家康は口元に漏らす。そして何とも無いような柔らかい表情まま告げた。

    「三成……秀吉殿を討ち天下分け目の戦を仕組んだのは、ワシと刑部だ。」

    三成の目が見開かれ、顔から血の気が引く。家康は胸の前に並べた膝の上で頬杖を突き、尚も優しい声で続ける。
    「もっとも、秀吉殿の件については事前に豊臣を離れることを伝えただけだったんだが、アイツは特に止めもしなかったからな。お前からすれば裏切りに当たるかどうかは分からないが、この戦については……」
    視線を三成の手元の書状に送り、開けるように促す。三成は先程までとは異なる理由で震える手で紙を拾い、開くかどうかの逡巡を見せつつ握り潰した。しばらく待っていたがいつまで経っても書の封印が解かれないので、家康は諦めて内容を喋ることにする。
    「……その書状は昨日の夜にワシが刑部に宛てて送った陣図だ。開いてみれば分かるが、朱を入れて送り返してきたのが刑部だ。
     流石半兵衛殿にも認められた男だな、戦力も練度も高い東軍の面々がこうして本気でやっても追い込まれるぐらいだ。敵には回したくなかったよ。」
    三成は俯き加減で表情を隠し、尚も書を握り潰したままでいた。家康は反応を待つ。そして耳をすませて戦場の音を聞くが、変わった様子は無かった。
    すぐ真下は十万の兵同士が争う戦場でありながら、ここにはたった二人しか居ない。さっきまでお互い叫び合いながら死闘を繰り広げていたというのに、今は二人とも黙り込んで動かない。天下二分の争いにしてはひどく曖昧模糊なものだと今更ながらに家康は感じた。

    三成が呟く音がした。家康はその手が震えているのを見た。怒りか悲しみか、それとも、と推し量ろうとしたところで、紙が真二つに裂かれる様を見た。真二つどころではない。四つに八に、終いには歯で噛み千切ってまで、密通の痕跡は跡形も無く散り散りになる。これには流石の家康も目を見開いて驚いた。
    貴様など、貴様の言葉など、そこらの畜生の骨にも劣る、耳を貸す余地すら無い。罵倒と言うにはあまりにも小さい声で三成は延々と繰り返す。立ち上がり背を曲げたまま刀を引きずり歩く三成が澱みのない動きで抜刀の姿勢を取る。それを見逃さず、家康は立ち上がり身構える。
    「……信じないなら、別にそれでいい。刑部が死んだ今、ワシも死ねば、証明できる者は誰も居ない。お前は最後まで正しく在れる。」
    自分でも信じられないほどに冷めた声が出たことに家康は皮肉めいて笑う他無かった。
    三成の反応は無い。聞こえているのかいないのか分からないその態度に家康は、先立ってようやく名前が付いた自分の感情が臓腑の底で蠢く様を感じた。ああ、なるほど、そうか、と妙に合点が行った。
    ようやく今自分は三成と同じ地平に立った、ようやく今自分は三成と同じものを見ている。そうか、確かにこれは、抑え難い。

    家康と三成が同時に踏み込む。瞬殺の居合を左手で流し、電光石火に返された手首を左腕を盾にして防ぐ。そして空いた右手で再度顔面を狙う。無論察している三成は左手の鞘を振り上げて、逆に家康の顔を殴り付ける。しかし家康は怯まずそのまま腕を伸ばして、手を広げた。
    殴打だけに警戒していた三成は、唐突に無防備な首元を掴まれたことで混乱する。離せ、と家康の腕ごと斬り落とそうとするが、長い刃で取り回しが効かない。ならばとこちらも無防備に晒している脇腹に横から深々と埋めてみれば、苦痛に歪む声に不釣り合いな勢いで押し倒される。地面に肘が打ち付けられた拍子に握力が薄れていた手から刀が離れ、血飛沫が顔に降りかかった。
    三成は真上にある家康の顔を見た。家康は尚も笑っている。否、引き攣った口端がそう見せているだけで、瞳に籠もった光は間違いの無い殺意だった。これまで見たことも感じたこともない家康の感情に三成は狼狽え、容赦なく気道を締め上げる両手を取り除くことしか考えられなかった。
    仰向けになった三成の上に馬乗りになり、更に腕を両膝で押さえ込んだままの家康は「三成、ワシはな、本当にお前が憎い訳では無いんだ。ただ、本当に、羨ましいだけなんだ」と重ねて呟く。その間にも脈動を握り潰さんばかりに両指は狭められ、顎下に食い込む親指に体重が掛けられる。呼吸を求めて三成の血塗れの口が開くと、それを見た家康はより正気を廃した笑顔になった。
    「なあ三成。お前は正しい、正しいからこそ秀吉殿の左腕に成り得たのだろう。
     だがな、この世にはお前にも思い至らないほど歪みきった人間が居る。そういう人間はお前には斬れない。そういう人間はお前の周囲の人々を歪め、お前を戦場に立たせることなく殺すからだ。
     かつての豊臣の中にもそのような者が居た。それでもお前は死ななかった、殺されることは無かった。今回の戦でもそうだ。お前は死ぬことも殺されることも無く、西軍の総大将として立てている。それが何故だか分かるか?」
    答えを返せない状況に持ち込みながら問い掛けをする家康に対し、三成は歯を食いしばり残った意識を右腕に向ける。そして親指を立て、大指の鉄板ごと脇腹の深傷に突き刺す。爪が全て隠れるまで一気に押し込んでみれば、痛みに喘ぐ声と共に手の力が弱まり、呼吸が戻る。三成は右腕を大きく振るって家康の顎を掴み、顔の皮を剥がさんばかりに指を食い込ませる。押し込まれた刀傷の痛みに肩を上下させながら、家康は膝で三成の右肘の内側を蹴り、左右それぞれの手を今度は両手で地面へ縫い付ける。鼻先が触れ合う距離にまで顔を近付け、家康は捲し立て続ける。
    「それはお前が刑部に守られているからだ。お前の正しさを守る為に刑部は歪んだ、いや、歪んでいたからこそお前を守れたんだ。お前はそれを理解しているのか?」
    「黙れ黙れ黙れッ! 刑部を誹謗することは許さない、刑部の何が歪んでいる!!」
    「はは、お前にとってはそうなんだろうな。自分と同じ思いで、豊臣の為に共に立っている。お前はそう信じている。」
    笑いながら家康は額を三成のそれに強く打ち付ける。そして三成の視界が揺らいでいる間に、血液が流れ出ている傷口を左手で庇いながら立ち上がり、無名刀を拾い上げた。
    「だがな三成。刑部は豊臣の、ましてや半兵衛殿や秀吉殿の為になどとはこれっぽっちも考えてもいないと思うぞ?
     確かにあの二人へ幾らかの恩義はあるだろう。だがそれでもあの病身を省みれば、無理をして挙兵するより世の流れに従った方が良いに決まっている。
     だがそれでも、刑部はここまでの、天下を二分する軍勢を作り、動かし、戦わせている。それは、」
    右手で柄を握った家康は鋒を三成の顎下に向ける。

    「全部、お前の為なんだ。三成。」

    三成の目が再度この場に現れた時のように呆然とする。家康はそれを見て、おかしくておかしくて耐え切れないと言うように声を上げて笑う。
    「ああ、羨ましい、羨ましいな三成! お前を守る為に、お前の正しさの為に、身を捧げてくれる者が居るなんて! ああ、羨ましい、羨ましくて仕方が無い……!」
    家康が右手を振り上げる。大袈裟な動作に一瞬目眩ましを疑うが、三成はそのまま真っ直ぐに刃が振り下ろされる初動を見切る。
    その直線の軌道を右腕で受け止めて払い上げ、鉄の足袋裏で腹を蹴り飛ばす。よろめいた家康は刀を地面に突き刺して支えにする。
    「何だ……何だその眼差しは……。
     何故! 何もかもを持つ貴様が! 皆無に噎ぶ私を! そのような浅ましい眼差しで羨望するッ!?」
    「ああそうだ、ワシは皆が望むものを持っている。家も力も絆も、全部全部持っている。だから今までこんな感情を持たなかった、いや、持つ訳が無かったんだ。」
    ふふふと家康は忍び笑いを浮かべる。ようやく身を起こせた三成は荒い呼吸のまま、家康を睨み付ける。その視線に気付いた家康は鬱然とした瞳で三成を眺めた。
    「幼い頃から常に傍らには忠勝が居てくれて、徳川の名を慕ってくれる者が居てくれて……頼れる友にも尊敬できる師にも競うべき好敵手にも出会えた。この戦国の世でそうした絆を得られたワシは、紛れも無い幸福に恵まれている。」
    「ならば何故!!」
    「だがそれはワシが正しい道を歩んでいる限りだ。ワシは『正しくなければ幸せではない』んだ。」
    家康の言をまるで理解できないと三成の表情が困惑に歪む。その反応が分かりきっていた家康は血液不足の立ち眩みと脂汗を籠手布で拭いながら、また右手に刀を持つ。
    「ワシは三河十万を統べる主として、この戦乱を命懸けで生き抜いてきた一人の人間として、人々が織り成す暖かい絆こそが、争いの無い穏やかな日々こそが、人として生きる上での正しい道だと信じている。
     それを導かんとするならば、ワシは誰よりも正しい人間であらねばならない。正しくない者が正しい道を説いたところで一体誰が耳を貸す?」
    慣れない長刀の先で線を引きつつ、一歩ずつ三成に近付く。常軌を逸したように映る家康の状況に却って冷静になった三成は中腰に構え、甲冑術の手を頭の中で浚う。
    有効範囲に入ったところで家康が刀の頭を見せる形で刃を持ち上げる。それを見た三成は直ぐさま瞬歩で懐に体ごと入れ、右掌底で縁頭を塞ぐ。下段から抜き払おうとした家康は思惑とは逆に掛けられた力に反応できず、刀は反発したように落とされる。三成は踵で柄を押し込むように蹴り飛ばしてから、前方へ飛び込み得物を取り戻す。
    だが、戦闘の序盤から蓄積された内臓への損傷が今更ながらに痛みを訴え始めていた。三成が口の中に溜まった赤い混濁を吐き出せば、家康も似た状態らしく左の腰回りから余分な血液を取って落とす。距離を取り合いながら、いつまでも整わない呼吸に対し互いに苦悶の表情になる。しかし家康は血の代わりとばかりに言葉を吐き続ける。
    「だからワシは誰よりも清く正しいお前が羨ましかった。だがその羨ましいという感情は正しくない。だからこそワシは、いつかこうして、お前と戦う日が来るのだろうと予感していた。しかしその日までは、お前の正しさを目標として生きようと思っていた。
     だがな三成、ワシはお前と共に歩んでる最中に気付いてしまったんだ。何もかもを貫けるほどの正しさを持って生きる為には、正しさを欠片でも失うことなく生きなければならないことに。お前のことを羨ましいと思ってしまった時点でワシは、正しくないのだと。」
    言葉を切った家康は不意に微笑む。この場に似付かわしくない柔らかな視線の先に刑部が居ることを察した三成は声を張り上げる。
    「ならば私だけを殺せば良かっただろう! 何故秀吉様を殺した!!」
    「秀吉殿とワシの道は相容れない。それはワシの正しさの有無とは関係が無い、この国の在り方を決める為に必要な戦いだった。」
    「ならば何故刑部を! 私の半身に手を掛けたァッ!!」
    「半身、か。お前がそう思うように、刑部もそう思っていた。だからワシは、刑部を殺したんだ。」
    家康は両拳をぶつけて音を鳴らす。それを挑発と受け取った三成は膝も腰も落とし、顔を俯かせて三度みたび湧き上がった怒りを内に溜め込む。
    次の衝突がこの争いの決着であることを二人は自覚していた。腹部の流血が著しい家康は自らの手足が異様なまでに冷たいことを、体内からせり上がる血量が徐々に増えている三成は自分の視界の端がぼやけていることを知りながら、それでも相対していた。
    「三成……ワシが羨ましいと思っていたお前は、刑部に守られていたお前だったんだ。
     時として生じてしまう人の歪みを知り、それに苦しめられながらも、お前にはそんな苦しみを味合わせまいと、ありとあらゆる手を尽くして守り抜いてきた刑部の姿こそが、ワシが最も望んでやまなかった絆の有り様そのものだった。
     だがそれが、それが存在することは、この世に歪みが存在することを認めてしまうことになる。ワシは絆の世を導く者として、正しき道を歩むべき者として、人々を苦しめる歪みを絶たなくてはならない。」
    「もういい……もういいもういいもういい!! 貴様の正しさなど知ったことか! 貴様など、貴様の言う正しさなど、豊臣を裏切った、秀吉様を殺した時点で全て唾棄すべきものに過ぎない!!
     屈するものか……貴様だけには決して……たった一人になろうとも、死にゆくその寸前まで、貴様を許さないッ!!」
    「はははは……そうだ、それでこそお前だ……お前は正しい、お前はワシを憎んでいる、殺したいほどに……フフフ……」
    顔に張り付いた笑みを隠すこともせず家康は両の手甲を胸の前に並べる。残り少ない命を全て憤怒に投げ込んだ三成は全身を軋ませながら親指で鍔を押し上げる。

    そして静寂が訪れる。最早戦の喧噪など届きもしない。狂気と焦燥と衝動が綯い交ぜになり、渦を巻き、一直線に糸を張る。
    家康は息を吸う。三成は息を吐く。次の瞬間、どちらともない咆哮と共に閃光が走った。
    三成の刃が寸分違わず家康の首を狙う。それを家康は左手の内で掴み、手の肉を切らせて止める。流れるように半身を捌いた家康は、右手で三成の顎を下から打ち抜く。骨が折れた感触を得て、次は左手に力を集中させる。それでも意地で耐え切った三成は浮き上がる体を地に留め、家康の死角である首裏に鋒を突き刺そうとする。ばちりと家康の拳が輝き、三成の手首が翻る。

    その瞬間だった。左手が三成の胸に打ち立てられる寸前で、突如家康は吹き飛ばされた。完全に意識外の真横から唐突な打撃を頭に受け、そのまま地面を転がる。家康が現状を認識した時には既に視界の半分が闇の中にあった。
    刑部、と叫ぶ声が聞こえた。見れば岩壁にもたれさせた刑部の体がいつの間にか地を這い、自分を指差している。三成に抱きかかえられた刑部は、包帯に覆われ分からない筈のその顔は、笑っているようだった。家康は自分が伏せている地面がぐらりと大きく傾いたように感じた。
    家康は無くなった視界を隠すように左手で左目を覆う。立ち上がると一部が木端になった数珠が一つ足元に転がってくる。何が起こったかを察した家康は、自分の底にある感情が溶岩のように粘度の高い焦熱として緩慢に胃や胸へ流れ落ちてきたことを確認した。
    先程までの煩かった鼓動が嘘のように凪いでいる。秋の澄んだ空気を吸い込みながら、家康は二人に近付く。両手で刑部を抱き上げている三成は、座り込んだ手前で刀を落としている。それを拾い上げる段階で、ようやく三成は自分の傍に家康が居ることに気が付いた。

    家康は拾い上げた刀を振り上げると、刑部に向けて下ろした。空いた左肩口に刃先が埋まると、家康の手には古木を切った斧の感触が届いた。深々と刺さった刀を抜くと、もう一度同じ箇所に埋め込む。今度は思った通りの肉の感触が得られて家康は安堵する。
    家康、と今度は色の無い声がした。刀を抜きながら振り向けば、まるでこの世の絶望を見たかのような眼差しがこちらを見つめていた。
    三成、と穏やかな声で呼び返し、その首筋に刃を立てる。残っていた指の跡は吹き出した血で直ぐに見えなくなる。驚愕と恐怖の眼はやがて光を失い、ぱたりと落ちる。喘鳴の間に漏れる自分を呼ぶ声にしばらく家康は耳を傾けていたが、やがて自分の足先にまで血溜まりが広がってきたので聞くのを止めた。
    家康はしばらく天を仰いでから、強張った右手が掴んだままになっていた刀を放した。血の海に白い鎧と銀の髪はよく映えていた。重なるようにして倒れた二人をしばらく眺めてから、家康は踵を返す。
    忠勝は大丈夫だろうか。金吾は無事に砦へ辿り着いただろうか。独眼竜は、慶次は、孫市は、北条殿は、官兵衛は、巫殿は無事だろうか。東軍の面々を思い起こしながら歩けば、欠けた珠が足に触れた。それでようやく陣中に置いていた忍びのことを思い出した家康は二、三声を掛ける。そしてそのままいつもの顔に戻ると、戦を終わらせるために丘を下った。




    「……Got it、もう結構だ。」
    伊達がそう告げると、供回りの者達の緊張が解ける。家康は視線で指示をすると、残りの作業を任せて陣幕を出た。篝火の向こうはもうすっかり夜になっていた。
    逗留していた寺にて首実検を行っていた東軍だったが、総大将同士の一騎討ちで勝敗が早々に決した為数が少なく、また若年の鶴姫・傭兵の雑賀・西軍を離反した小早川・老年の北条と疲労を訴えた最上が各々の理由で座を辞し家康もそれを認めたこともあり、非常に簡略化された式になっていた。それでも元々三成に恨みを抱いていた黒田と伊達は参じていたが、流石に首のみでは恨めないのか式の間全てで複雑な面持ちを浮かべていた。
    一先ず北条方に身を寄せるとした官兵衛を見送った家康は、兜を脱いで六爪を片倉に手渡す伊達の横に立ち、胸の前で腕を組む。
    「んで? どうすんだこれからは。」
    「ああ、この戦いは三成と刑部……大谷の首を以って手打ちとする。元親と毛利の件は……」
    家康は包帯の巻かれていない右目を伏せ、あの後のことを思い起こす。

    丘を降りた後、戦鐘を鳴らすべく身の回りの兵を探そうとした家康が真っ先に出会したのは、敵軍である筈の元親の軍の兵士だった。
    自分に気が付いて集まった自軍の兵を宥めながら話を聞けば、長曾我部軍を西軍に引き入れたこと自体が毛利の謀略であり、機を見計らって三成をも裏切る予定であったことが雑賀によって暴露されたと言う。急いで毛利と元親が配された場所へ向かうと既に二人は居らず、互いの本拠である瀬戸内で決着を着けんとすることを慶次と孫市から聞かされた。友である元親の為、直ぐにでも西に向かおうとした家康だったが既に満身創痍のその体を見かねた孫市は『これは俺達の問題だ、後で腹でも何でも切ってやるから会いに行くまで待って欲しい』という内容の伝言を続け、まずは関ヶ原の戦を終わらせろと暗に示した。血の気と共に冷静さを失っていた家康はその一言で我に返り、そこでようやく天下二分の戦いは東軍の勝利で一旦の集結を見ることとなったのだった。

    伊達の為に掻い摘まんで話そうと思っては見たものの、思い出せば自分でも把握していない箇所が多く、至らぬ誤解を招くように思えた。家康はしばらく考えてから困ったような顔で溜息をつくことを選んだ。
    「……細かい話はお前と同じぐらいにしかワシも知らない。それに元親からワシの出る幕では無いと言われてしまってな、信じて待つしかない。先に残っている他の西軍の将と一人ずつ話をして、それぞれの落とし処を見極めるつもりだ。」
    「Hum……毛利と長曾我部ねぇ……。ま、その辺りはオレにゃ関係の無い話だ、東軍の総大将として好きにすりゃあいい。」
    「済まないな独眼竜。西軍が残存していることは気になるだろうが、少しだけ待っていて欲しい。」
    「気にすんな、因縁が一つ終わるかも知れねえってのに口出すほど俺も野暮じゃねえ。
     ……しっかしこう早く終わるんだったら、どさくさに紛れてあのGentlemanの一匹や二匹に釘刺しとくんだったな。」
    「ははは、それはまた向こうに帰ってからにしてくれると有り難いな。」
    伊達の軽口に気遣いを読み取った家康は若干の後ろめたさを感じつつ、柔らかく笑んでみせる。それを受けた伊達は少しの逡巡の後、寺の入口から向こうの景色を見る。家康もつられて見れば、昼には戦場だった広地には野営の明かりがぽつぽつあるのみで、ただ静かな闇の波に漂っていた。
    「……家康。アンタはオレに、石田を許さねえのかって聞いた事があったな。」
    静かに伊達が切り出す。家康は視線を隣に戻し、その横顔を眺める。三成への復讐に燃えていた剣呑さは既に無く、今宵の少し欠けた上弦の月のように澄み渡った眼差しがそこにはあった。
    「さっきの石田と大谷の首見てたらな、昔のことを思い出したんだよ。オレが今のアンタみたいに片目が見えなくなった時のことを。」
    月を見上げていた伊達の瞳が足元に落ちる。珍しく言葉を探すようなその仕草に、三成の友としての自分を慮っている様を推し量った家康は、下手なことを口走らぬように唇を噤む。
    いつの間にか周囲には誰も居らず、陣幕の内側の音だけが秋の夜空に遠く響く。やがて一つ長い息を吐いた伊達は、睫毛を伏せたまま淡々と続けた。
    「地獄ってのは、死んでから行く場所でもねえ。そこから這い上がってこれるかどうかは、周りに居る奴次第だ。
     そもそも許すだの許さないだの言えるほど、オレは石田のことを詳しくは知らねえ。ずっと一緒に居たって言う大谷って奴も知らねえ。知らねえが……もしかしたらアイツは、俺の『あり得たかも知れない未来の一つ』だったように思えた。」
    肩の筋肉を緩めるように一度竦め、伊達は首の裏を指先で掻く。それからわざと明るい声色で「まあ、この手で斬れなかったのは多少残念だったがな!」と物騒な物言いで雰囲気を戻す。同盟相手として初めて対等に並んだその言葉に家康は目を細めて「ああ」とだけ答えて微笑んで見せた。そして伊達に気付かれないように、そっと視線を逸らした。




    甲板の上に置かれた輪刀は原形を留めておらず、その後ろに土下座で控える元親を見て家康は大まかな事情を察した。
    戦の後処理を済ませ、三河の屋敷に戻ってから数日後。湾に見慣れない船が近付いていると聞かされて来てみれば、七つ酢漿草かたばみがはためく蒸気船が接岸を待っていた。家康が港に現れると、普段のものより一回りは小さいその船はいつも通りの闊達さで湧き上がった。
    元親の生存に安堵した家康は忠勝の背を借りて船に乗り込む。再会に涙を流して喜ぶ船員達の肩を叩いたり背をさすっている内に、船長である元親が艦橋から降りてきた。普段の飄々とした顔ではなく、強張った無表情であることを知ると、家康を含めた周囲に緊張が走る。
    碇槍の代わりに若紫の包みを肩に掛けていた元親は家康の目の前に座ると、それを下ろして広げる。家康の目に千々に砕けた鉄の破片が見え、中でもその特徴のある持ち手が真っ先に目に入った。
    元親、と家康が友の名を呼べば、元親はそのまま表情を見せず黙ったまま木の板にぬかづける。アニキ、と身内が狼狽えながら呼び名を呟くと、意を決したような大声が響いた。
    「許してくれ、家康……! 俺は取り返しのつかねえことをしちまった……許してくれるんなら何でもするつもりだ! だから……!」
    何処までも義理深い元親の態度に家康は思わず苦笑いを浮かべる。包帯の下の左目がずきりと痛むのを堪えながら、元親の前に膝を付き、両腕を持って体を起こそうとした。
    「ワシの方こそ、お前の事情も知らずに戦を進めてしまったことを許してくれ。あんなに豊臣を嫌っていたお前が西軍に着いたのだから、何かしらの事情があって然るべきだと推し量らねばならなかったんだ。」
    「いいや、これは俺の事情……俺の甘さのせいだ。その罪は俺が一生背負っていかなきゃならねえ。こればっかりは、あんたに分ける訳にはいかねえ。」
    力強く決心した声色が家康の耳に届く。そのただただ真っ直ぐな生き様を見つめていられない家康は全身が焼かれるような感覚の中で「そうか」と呟き、淡く微笑むことしか出来ない。
    言葉に困った家康は自分と元親の間にある鉄の欠片を一つ摘まみ上げる。かつて輪刀だったそれは、無為を完全に削ぎ落とし無欠を自負していた持ち主とは異なり、幾度とない争いによって負った傷をそのまま無骨に晒している。直接的な関わり合いは少なかったとは言え、幼い頃から見てきた毛利の変わらぬ姿の行き着く先がこの砕け散った刃であることは、敵ながらうら悲しいものだった。
    「……結局毛利はお前も三成も裏切ったのか。」
    家康の一言に、俯いたままの元親は返答を喉に詰まらせる。それから一つ深呼吸を挟み、ああ、と肯定する。
    「徳川の仕業に見せかけて四国を襲ったのは全部自分の策だ……ってな調子でな。確かにあいつはそういうことをする奴だった。石田も騙されてたんだろうよ。」
    「ああ……あいつはそういう融通のきかない男だったからな。」
    家康は三成のことを口にしつつ、元親が毛利の台詞として発した言葉を考えた。

    例え、最終的には三成を裏切るのだとしても、元親の西軍勧誘の為だけに四国壊滅などという大がかりな策を講じるとは考えにくい。万が一四国壊滅の真犯人が毛利であると中途で露呈すれば、西軍は戦う前に内部崩壊をしていた筈だ。
    四国壊滅に元親の勧誘以上の利があった、もしくは西軍の内部崩壊を引き起こさない自信があった。どちらにせよ刑部が絡んでいたことは間違いないだろうと家康は結論付ける。
    家康が記憶している刑部は、他人の策に乗った上でその可否を問わずに自らの目的を果たす、半兵衛や毛利とはまるで違う形の優れた軍師としての姿だったので、そう考える方が自然だった。

    ぱたんと家康は元親の隣に座る。見渡せばあんなに居た水兵達は何処かに隠れて自分達へ不安そうな眼差しを向けている。気が抜けないなと内心で半笑いを浮かべつつ、天を見上げながら家康は独り言のように呟く。
    「これがお前の見ていた景色だったんだなあ。」
    その言葉にようやく面を上げた元親は空を見て、それから家康の左目に掛けられた包帯に気付き、ハッと息を漏らす。やっとこちらを見たかという気持ちを込めて微笑みを送ると、家康はそのまま後ろに倒れて大の字になってみせた。
    帆柱に巻き付けられた帆、その向こうで悠々と翻る旗、秋の高い空をくるくると鳶か何かが回りながら飛んでいる。出会い、別れ、育ち、争い、終わり、それでも何一つ変わらない空がそこにはあった。
    家康は視線だけを元親の背中に向ける。元親は家康の言葉を噛み締めるように空を見上げていた。しばらくそのままで居ると「俺ぁよう、ほんの少しだけ、嬉しかったんだ」と思ってもない一言が飛んできた。
    「あの毛利が同盟を持ちかけてきた時、ほんの少しだが嬉しかったんだよ。あいつもようやく目が覚めて、この瀬戸内全体を考える気になったんだなってな。
     ……まあ、俺の思い違いに過ぎなかったんだけどな。」
    毛利と元親の間柄は決して絆と言えるような友好的な関係では無かったが、それでもこの二人の間には他者が入り込めない程に固い結び付きがあった。因縁、と伊達が言っていたことを家康は思い返す。
    しばらくしてから元親は急にわざと脳天気な声を出して、勢いよく立ち上がる。それから両手を上に伸ばして背伸びをすると、いつもの飄々とした強気の顔で家康を振り返った。
    「ま、いつまでも湿気たツラじゃ折角の鬼の名も台無しだ。改めて言うが家康、俺ぁあんたの軍に負けた西軍の、一人の将としてここに来たんだ。早く煮るなり焼くなり好きにしてくれ。」
    覚悟を決めた元親の表情は明るく、先程までの悲壮感は欠片もない。強い男だとその眼差しに眩しさを感じつつも表には出さず、代わりに家康はぽりぽりと困ったように首を掻いてみせた。
    「しかしだな元親、関ヶ原の戦についてはもう三成と刑部の首だけで収めることにして、各地に書状も送ったんだ。今更ワシがどうこうすることは出来ない。」
    「でもよお、」
    「ああ、ならこうするか元親。」
    尚も食い下がる元親に家康は胡座をかいて座り、人差し指を立てて提案する。
    「『長曾我部軍は造船技術の粋を極めた大船を作り、その運用方法を含めて徳川へ移譲する』っていうのはどうだ?」
    家康の思い付きに、元親の顔が見たことがないほどに青褪める。自分の沙汰よりも船が大事な元親との生き方の違いを改めて知った家康はハハハと声を出して笑った。
    「しっ、新造船の移譲!? いや、それは、その……」
    「勿論費用は四国持ち……としたいところだが、まだ復興の最中だろう? 開発に必要な資金や資材を多めに入れて復興にも使えるようにするから、代わりにそっちで出せる部分……まあ有り体に言えば技術やら手法だな、この辺りを全部出してもらうことにしよう。
     どうだ、お前には充分な罰だろう?」
    「ぅなっ!? あ~……あ~……う~……先立つものが確かにねえとな……まずいよな……」
    くるりと背を向けて座り込んだ元親は何やら皮算用を立てる。家康はいかにも人畜無害そうなにこにことした顔でその背中を眺める。
    二、三度の煩悶の後、ばしんと膝を叩く音がした。そして勢いよく立ち上がった元親はこれまた勢いよく振り返った。
    「男に二言はねえ……日の本史上最高にして最強の船をあんたに贈ってやろうじゃねえか家康!!」
    「おお、期待しているぞ元親!」
    家康が手を差し出す。元親はそれを取り、ぐっと引き寄せる。天下人と西海の主が力瘤を作りながら手を結べば、恐る恐る見つめていた船員達もわっと諸手を挙げて喜ぶ。
    家康は艦橋の上に立っていた忠勝に視線を向ける。その鉄面皮の下に笑みが浮かんでいることを確認すると、内心で深く長い溜息を吐いた。




    飲めや歌えやの大宴会も丑三つ時を過ぎれば、空けた酒瓶と雑魚寝の男達で足の踏み場も無くなってしまう。途中酒に酔って部屋の隅で寝入ってしまった家康は、ほぼ全員が眠ってしまったところで目を覚ました。
    むくりと上体を起こしてみれば近くで飲んでいた筈の元親は何故か大広間の中央の机の上で高鼾をかいて眠っている。重たい体を澄み切った意識でどうにか引きずりながら、家康は灯りを消して回り、静かに部屋を出た。
    月の薄い光が降る廊を歩いて寝所に入れば、枕元の消えかかった油皿だけが迎える。襖を後ろ手に閉めて一つ息を吐き、それから布団に向かいながら、家康は頭の後ろに手を回し結び目を解く。
    用意された布団と寝着は柔らかく、その傍には真新しい包帯も置いてあった。巻き取ったそれを隣に置いて封していた左目を開くが、目の前の景色は変わらない。一つの灯りが寝床の一部だけを重い柑子の色に染めているだけだった。
    家康は油皿の隣にある小箪笥の一番大きな抽斗を開ける。右の持ち手の内側にあった一尺四方の蒔絵が施された箱を手に取り蓋を開ける。そして中に入っている物を取り出してから寝着の上に寝そべった。
    家康は片手でそれを顔の上に翳す。じっとそれを見つめた後に両手で挟むように持ち直すと、こつんと額に当てて目を閉じた。

    刑部、と限りなく小さな声で囁き、目を開ける。少しだけ離した手の中にある頭蓋骨は歯が無く節々も欠けており、とても完全とは言い難いものだった。
    家康は目を細め、まるで愛撫するかの如き優渥さで髑髏の後頭部を撫でる。刑部と再度名前を呼ぶと、横向きになり隣へそれを置いた。
    「今日は約束通り元親が来てくれたんだ。あの後四国で毛利と戦い、燃える富嶽と共に沈む毛利を見送ったそうだ。」
    骨は何も答えず家康を見つめる。家康は尚も心を許した微笑みのまま話し続ける。
    「元親はこれから四国の復興と中国の統治でしばらく海には出られないだろう。それは心苦しいが、きっとあいつのことだ。ワシの目を盗んでは外海に出て、何か大きなものを持って帰るに違いない。」
    そうそう、と言葉を繋ぐ。
    「元親には長曾我部水軍が誇る技術と才を惜しみなく投入した最新鋭の船を作るように頼んでおいた。出来上がったら時間の許す限り一緒に海へ出よう。」
    家康は骨の主の在りし日を思い出す。豪奢な城の奥で溢れかえる文の中で整然と筆を進める姿を。山城の竹の森の中で普請の指示を出すその姿を。豊臣では見られなかった景色を見せてやりたいと思っていた。
    眠る子に母がそうするように家康は隣に並ぶ頭だけの骸を撫でる。しばらくして体を起こした家康は、両手で持ち上げた髑髏に口付け、幸せそうに両目を閉じて笑ってみせた。
    そして二、三ことと囁き、胸の中に抱きかかえる。薄く開いた家康の左目は白黒が反転し、尚も光を失い続けていた。


    蓑虫@諸々準備中 Link Message Mute
    2018/09/19 2:38:11

    妬め、嫉め、滅に順え

    ※病み権現 ※各種描写注意(主に暴力・流血・欠損) ※推しの不登場・ナレ死・展開キメラ注意
    家→吉(→)三で3軸関ヶ原 伊達・長曾我部もちょっと出ます

    3軸で『もし家康が元々刑部と仲良かったら』ってことで書き始めたんですけど、書いてる内に家→吉(→)三の片想いを拗らせすぎた感じになってしまいました マジゴメン家康
    裏テーマは地味に『信長・秀吉と同じことをする家康』です 俺の関ヶ原はこれや(火炎瓶を投げながら)

    #戦国BASARA  #BSR  #家吉  #徳川家康  #大谷吉継  #石田三成

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    • 逸るか添うか 幸か不幸か※4家康ドラマルート準拠 ※欠損他暴力描写 ※豊臣・徳川以外の滅亡 ※刑部の経歴捏造
      好きなルートに好きなものブチ込んだ結果です。達成感が凄い。家吉かと言われると難しいけど家吉です(いつもの)
      2/3追記:この話の小ネタとか書いてる最中のあれこれまとめ→https://privatter.net/p/4225799

      2/3(日)ComicCity福岡48に参加します。この話を含めたWeb再録3本+書き下ろしの小説本と学バサの突発コピー本です。詳しくは→https://galleria.emotionflow.com/69491/480839.html

      #戦国BASARA #家吉 #大谷吉継 #徳川家康 #石田三成 #島左近
      蓑虫@諸々準備中
    • 卯の花腐し※4小説・西凶丁半編ED後前提 ※家康がお化け ※CP未満の筈
      ネタバレして申し訳ないんですが、刑部が生きてて家康が死んでる展開を中々見なかったので感情のままに書き殴りました
      確か西凶丁半EDって秋ぐらいだったよな……と題名考えてる最中に読み直したら、島津のじっちゃまが『夏はまだ先』って言ってるし、そもそも関ヶ原やったと思ったらやってなかった(4で言うなら小牧長久手だった)ので「もしかして初夏ぐらい……??」となってこの題名になりました 「うのはなくたし」と読みます
      #戦国BASARA #BSR #大谷吉継 #徳川家康
      蓑虫@諸々準備中
    • 悔恨、それから※3三成青ED後前提 ※欠損表現注意 ※推しのナレ死・展開キメラ注意 ※伊達がちょっと格好悪いかも知れない注意
      『三成と忠勝の話書きたいな〜』と思ってたら何か壮大な話になってしまったみが凄い ぶっちゃけ最初と最後が書きたかったってのは秘密やぞ
      書いてて思ったんですけど私が考える三成ちょっと薄情すぎやしないか……後なんか筆頭が被害者過ぎて申し訳無い……この後何だかんだ言って三成と距離保ちつつ良い仲になると思う……ラスパの逆版みたいな感じで……

      #戦国BASARA #石田三成 #本多忠勝 #長曾我部元親 #伊達政宗 #真田幸村 #片倉小十郎
      蓑虫@諸々準備中
    • 牽強付会学バサ:家(→)吉(→三)
      刑部が三成を好き(Like)な事を知ってて本人に警告する家康と、意味が全く分からない刑部の話。学バサの家康はサイコパスなんだかまともなんだか分かんないのヤバいっすね……今後この二人の絡みがあるかどうか分かりませんけど……無いな多分……。
      3か4話で刑部が家康にあっさり話し掛けたのと、伊達や真田には選挙活動するのに刑部にはやらなかったなっていうのが捻じ曲がった形でくっついた結果だったりします。
      #学園BASARA #家吉 #大谷吉継 #徳川家康 #学バサ #戦国BASARA #BSR
      蓑虫@諸々準備中
    • 或る秋の日BSR:CP未満の家吉
      これ本当は豊臣天下統一後の薄暗い家吉になる筈だったんですけど、咎狂(舞バサ咎狂わし絆)があまりにもしんどかったので普通に傘下期で仲良くしてる家康と刑部の話になりました。CP味は無いつもりだけど念の為タグ入れ。
      咎狂マジしんどい……しんどいけど家吉担的には超絶燃料なのでみんな見て……家康対刑部戦大体いつも私が言ってる家吉像を5000倍ヤバくした奴なんで是非見て……BSR君裾野広過ぎかよ……
      #戦国BASARA #BSR #家吉 #吉家 #徳川家康 #大谷吉継 #石田三成
      蓑虫@諸々準備中
    • 風下る いちしの花は いなのみのBSR:バトパ想定家+吉
      バトパ絵巻家康編で三成を『救いたかった』って言う家康は、じゃあ刑部に対してどうだったのかという想定に想定を重ねた謎話 一番難しかったのは題名(何故なのか)
      関ヶ原ストではまだ言ってない(言わない?)ので今後どうなるか楽しみです って言うか関ヶ原スト追加あんのかな……(現在イベ2戦目開催中)

      #戦国BASARA #大谷吉継 #徳川家康 #BSR
      蓑虫@諸々準備中
    • 小指を断つ/繋ぐ※損傷・欠損注意 家康が豊臣に帰順したばかりの時期かつ原作ではない世界線
      というか家康の小指が吹っ飛んだ世界線で刑部がどうだったかという題名そのままの話。ただの趣味です。
      ぶっちゃけ最後まで読んで頂けると分かるんですけど、これで家吉のつもりなんですよ私……エピローグ完全に三吉じゃんとは自分でも思います。でも家吉です(圧)
      何て言うんすか……刑部身内激甘男なんで滅茶苦茶優しい(完全無意識)のに、所詮豊臣の常識に過ぎない優しさだから家康が微塵も分かんない(どころか受け入れがたいぐらいに思われてる)みたいな感じなんすよ……半兵衛は家康が嫌いだから嫌がらせに甘やかしてると思ってて、三成は作中通り秀吉様の臣だからで片付けてる……刑部が家康に複雑怪奇な感情抱いてるのは公式だと思ってるんですが、家康が刑部に複雑な感情を抱いててもいいと思う……個人的な願望です……。

      #戦国BASARA #家吉 #大谷吉継 #徳川家康 #石田三成 #竹中半兵衛
      蓑虫@諸々準備中
    • 無明の黒点※黒権現(ゴリラ解釈)注意 ※相変わらずの殺傷沙汰注意
      新年あけましておめでとうございます。成長と共に完全に精神を摩耗しきって人々の幸せの為のシステムとしての生き方を自ら望むようになった家康と、そんな家康が齎す世の中を不幸だと理解して秘密裡に手伝うけど自分の三成への感情を知っているのでその辺だけは守ろうとする刑部の話です(一息)
      ちなみにこの後長曾我部緑展開です。書いてる本人はとても楽しかったです。今年もよろしくお願いします。
      #戦国BASARA #家吉 #徳川家康 #大谷吉継
      蓑虫@諸々準備中
    • 翹望※暴力注意
      幸村伝軸の家(→吉)+信之 タイトルの『翹望』は「首を長くして待つこと」 分かりにくいけど刑部に永遠に片想いし続ける家康の話(分かりにくいせやな)
      個人的に信之は家康自身を見てないことに家康も気付いてる奴が好きなのでその辺もブチ込んでます お前で言えば刑部のような者……

      #戦国BASARA #家吉 #徳川家康 #真田信之 #大谷吉継
      蓑虫@諸々準備中
    • 沼るな天津甕星※病み権現 ※各種描写注意(主に死亡・欠損・損壊) ※3軸関ヶ原家康勝利
      3軸(左近と信之が居ない)世界線でもし家康が刑部を慕っていたらな離反話と、関ヶ原後の家康の様子のダブルパック

      地味に以前書いた『妬め、嫉め、滅に順え』(https://galleria.emotionflow.com/69491/463325.html)の前日譚と後日談が一緒になった奴だったり 離反話のくだりは前作『帰すな熒惑』(https://galleria.emotionflow.com/69491/504839.html)の家康視点でもあります 前2作読んでなくても読めるようには書いたつもり……つもり……

      #戦国BASARA #家吉 #徳川家康 #大谷吉継 #雑賀孫市
      蓑虫@諸々準備中
    • 52019.2.3(日)ComicCity福岡48 お品書き2/3のCC福岡に参加します! スペースはO53bです!
      温度差の激しい家吉本と既刊のテニプリ8937中心本を持って行きます(無配ペーパーもある予定)
      小説本は4本中3本がWeb再録ですが加筆修正しまくったので大分話の輪郭が違うものもあるようなないような……暗さが増しただけかも知れない……

      以下サンプルページ
      [或る秋の日]https://galleria.emotionflow.com/69491/468426.html
      [落日]https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9941729
      [逸るか添うか 幸か不幸か]https://galleria.emotionflow.com/69491/480837.html

      #戦国BASARA #BSR #家吉 #大谷吉継 #徳川家康
      #テニスの王子様 #テニプリ #8937 #柳生真 #柳生比呂士 #真田弦一郎 #柳仁 #幸赤
      蓑虫@諸々準備中
    • 常の通り※4半兵衛D後豊臣天下統一 ※豊臣以外の滅亡 ※病み気味家康で家(→)吉
      かつて自分が欲しかったものを全部くれる刑部に人知れずずぶずぶと溺れていく家康と、それをせせら笑いながら都合が良いのでそのままにしてる刑部の話 メッチャ短いけど気に入ったので
      地味に[落日](https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9941729)の前日譚イメージだったり

      #戦国BASARA #家吉 #徳川家康 #大谷吉継
      蓑虫@諸々準備中
    • ※幸村伝ベース史実ネタ入り ※損壊注意 ※現パロオチ
      刑部の持ってた短刀が某美術館にあると知り、色々確認したところ諸々の事情で私が爆発した結果の話 刑部が死んだ後に病む家康が好き過ぎないか私

      #戦国BASARA #家吉 #徳川家康 #大谷吉継
      蓑虫@諸々準備中
    • 帰すな熒惑BSR:家(→)吉 刑部視点
      もし家康が傘下期時代に刑部と仲良くなってたらな離反前話 ちなみに題名の読みは「きすなけいこく」です

      #戦国BASARA #大谷吉継 #徳川家康 #BSR
      蓑虫@諸々準備中
    • 一知半解BSR:4半兵衛D後家吉+三
      それぞれ少しずつ見てるものが違うことに気付かないまま無為を過ごす星月日の話 視差はいいぞ
      #戦国BASARA #家吉 #徳川家康 #大谷吉継 #石田三成
      蓑虫@諸々準備中
    • 無の目※咎狂後 ※余計な設定付加

      支部に上げた『有の目』(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=11059748)の家康・伊達間の好感度が高かった場合の話 原作3刑部第一みある話になってしまったのは私が家吉担だからです(謎アピ)
      というか書いてて思ったんですけど、咎狂家康にとって伊達ってワンチャン豊臣の系譜で言う友ポジ(自分の進むべき道を時に糺すことの出来る存在)に成り得るんじゃないかなって……まあ全部妄想なんですけど……
      途中まで暗かったんですけど伊達が最後ハッピーな形でまとめてくれたのでホンマ苦労かけるな……って感じでした 私は幸せな家康が見たいです(地獄に落としてるのお前定期)

      #戦国BASARA #政家 #伊達政宗 #徳川家康
      蓑虫@諸々準備中
    • 蝶様借景※病み権現注意 ※4半兵衛D後家康豊臣帰参かつ豊臣天下統一の世界線

      刑部へある贈り物をする家康の話。書き始めた時はただのヤンデレ想定だったのに、何だかミステリーとかホラーみたいなことになってしまった……家康の歪みは乱世が終わってから分かるものだと面白いなという気持ちも無きにしもあらず

      #戦国BASARA #家吉 #大谷吉継 #徳川家康
      蓑虫@諸々準備中
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