帰すな熒惑
ひらひらと視界の端で何かが揺れる。壁に接して置かれた文机で外交書状をしたためていた吉継は無視しようとするが、その何かは少し止まった後に勢いをつけてまた揺れ始めたので呆れてやめる。筆を置き、溜息をつき、正座のまま体をそちらの方向へ向けた。
「何用か徳川。」
「特に用と言う訳ではないんだがな、ちょっと匿ってくれ。」
よっという掛け声と共にひらりと芥子の裾が翻る。部屋の空気を入れ換える為に開けていた大窓から軽快な動作で入り込んできた『狸』に、吉継はフンと鼻を鳴らして応える。
この男はいつもそうだった。いつも勝手にやってきては勝手に居座る。この大坂城内に宛がわれた吉継の居室だけでなく、三成の佐和山本丸でも同様だと聞くのでよっぽど暇なのだろうと吉継は考えていた。
三河十万と言えど、下々の者達が田畑のあれこれで忙しい秋口に戦は無い。ならば内政に努めよとは思うものの、三河に余計な知恵を齎したくない豊臣方は国主たるこの男を中々国へ帰そうとしない。何かと理由を付けては留めているが、かといって軍内での影響力が強まるのは良くない。
故に長くても昼過ぎには終わる業務だけを抱えた何とも宙ぶらりんな状態に『狸』はあった。季節と共に早くなる夕暮れは陽射しに僅かな朱を垂らしているが、一日を終えるにはまだまだ時間がある。この度の暇潰しはわれか、と些か面倒な気持ちで吉継は再度筆を執る。
「見ての通りわれは忙しい。ぬしに構う暇は無い。」
「ああ、分かってるよ。だから今日はこれを持ってきた。」
隣に座ってきた男が背中から何かを取り出す。見覚えのある藍の表紙に吉継は特に驚く様子も見せない。
「和剤か、やれ熱心なことよな。」
「怪我に関する薬は諳んじられるぐらい読み込んでるんだが、病の方はまだでな。こんな時期でもなければゆっくり読めないだろうし。」
「そんなもの匙に任せておけば良かろ。ぬしが読まねばならぬのは太閤殿下のゴキゲンよ。」
「それこそワシが読むものでもないだろう。」
半兵衛殿も三成も居ることだし、と眉を下げながら笑う腹は白か黒か。まあどちらでもわれには関係の無い話よ、と口に出さず吉継は会話を切って書状に目を落とす。流し読みしただけでも意図の伝わる文章は如何にも稚拙で、さてどう舐ってやったものかと楽しげな気分になった。
予定していた書類の処理が無事に終わり、吉継は背伸びをして肩を回す。いつの間にやら日は傾いており、部屋の隅々が濃橙の帯の中に沈んでいた。
硯箱を片付けてから、ようやく放っていた来客を思い出した吉継はいつもの場所に居る男を振り返る。部屋の隅、時折必要になる本や物を納めた箪笥に寄りかかって本を読んでいた家康は、吉継の視線に気付くとすぐに顔を上げて笑顔を作った。
「おっ、今日の分は終わったみたいだな。」
家康は吉継が完全に書類を片付けるまでその場を動かない。書状を見ただの見ていないだのといった煩わしさを拒んでのものだろうが、吉継からすればそもそも自室にやってくること自体が疚しいとは思わないのかと考えていた。
豊臣次代の中枢たる三成とその副官である自分にやたらと馴れ馴れしい家康について、現に恨み辛みを吐く旧臣達が居ることを把握している。『狸』とはその時に聞いた蔑称であったが、言われてみれば髪色や服装がそう見えないこともない。言い得て妙なものよなと実際の狸の姿を頭に思い浮かべながら、吉継は墨を乾燥させる為に設けている書棚に紙を置いていき、覆いの布を被せた。
吉継の片付けを見届けたところで家康が立ち上がる。そして常通り隣に座り、何ともない会話を始める。日が沈んでから夜になるまでの短い時間の話は、大体が近隣国の近況や城下の様子、互いの数少ない共通点である調薬程度のものであった。それでも家康は楽しそうに笑い、吉継はその呑気さに呆れながらも話に付き合ってやっていた。
夏には長かった陽も、稲刈り頃になればあっという間に暮れていく。明暗が不明瞭な吉継には夕と夜の境目が分からないが、恐らく顔が見れなくなった程度で帰るのだろうということぐらいは分かっていた。
「ああ、もうこんな時間か。そろそろ屋敷に戻るとしよう。」
「そういえばぬし、今日は『匿え』と来たが、それの用件は良かったのか? とばっちりを受けるのは御免被りたいが。」
「へ? んん、ああ……そうだったな。いや、そんな大したものではないんだが……。」
「子から媼翁、果てはけものにも慕われるぬしをわれが縄ったと思われることだけは心外ゆえな。」
「ははは、確かにお前はワシを放っておくだけしかしてないからな。大丈夫だ、別に何かに追われて来た訳じゃない。誰かが探しに城へ上がってきたら匿って貰おうと思って言っただけだ。」
何とも意味の通らない説明であったが、吉継はちらりと横目で家康を見るだけに済ませる。無駄と無意味を嫌う半兵衛や三成と違い、吉継は興味が無いものに対してもある程度の寛容さがあった。
実際初回の対応で早々に放置を決め込んだ吉継に対し、家康はその慇懃な扱いに怒るどころかこうして何かしらの理由を付けては度々部屋にやってくるようになった。吉継自身が何をするでもなく勝手に居着くところを見れば、餌が無い分狸より容易いとすら思える。
「じゃあまた明日な、刑部。」
「明日は三河に戻るのではなかったのか?」
「いや、明後日になった。ちょっと半兵衛殿から頼まれたことがあってな。」
「左様か。ならば明後日は一つ月見酒と洒落こむか、鬱陶しい狸が一先ず不在になる前祝いよ。」
「相変わらずだな、お前は。」
好意とはついぞ取れない言葉を吐けば、家康はまた困ったように笑う。それが狸なりの処世術から来るものなのか、自身の性質から来るものなのか分からなかったが、吉継は家康に興味が無かったのでどうでも良かった。
来た時とは逆に大窓の枠の上に足を載せた家康は吉継を振り返る。落ちた朱が端に映る以外に日の無い空に、薄い家康の微笑みが見える。わざとらしい名残惜しさを灯す瞳に、やれ巧いものよな以外の感想を持たないまま、吉継は屋根へ飛び降りるその背中をただ黙って眺めていただけだった。
「ワシは豊臣を出て行こうと思う。」
珍しく発せられた言葉に吉継の手が止まる。危うく書き損じるところであったが、小さな墨溜まりが出来た程度に留められた。
筆先を宙に浮かせたまま吉継は今し方耳にした言葉と声色をもう一度頭の中で反芻させる。それから、なるべく自然に見えるような余裕ある動作を心掛けながら筆を置き、さも書き終えたようにふうと息を吐いてみせた。
「聞き間違えとするなら今の内よ。」
「ワシは豊臣を出て行くと言ったんだ。」
「ぬしの堪忍袋の緒がそこまで短いとは知らなんだ。」
「そうか? むしろ今では時を掛け過ぎたとまで思っているが。」
「否、今こそ好機であろ。既に豊臣の治世は悪しきものと民らが思いつつある。ぬしに賛同するかは分からぬが、東はまだまだ余力がある。」
「お前は結局どっちの味方なんだ刑部……。」
ははは、と呆れたように笑う声には明らかに疲労が見えた。吉継は座したまま身を後ろに向ける。家康は両膝を立てて座ったまま、いつものように箪笥に寄りかかって目を閉じていた。
「われのは傍目の痴れ言よ。ぬしこそ何の、何処の、誰の味方よ。」
「ワシは今も昔も力無き者達の味方だ。」
「はて。現況に至る元凶はぬしにも責があるというに、それでもなお自身は民の味方と宣うか?」
家康が目を開く。まるで目覚めたばかりのような薄ぼんやりした瞳は、立春の僅かな間に注ぐ陽光を浴び、金色に瞬いていた。病により目で受ける光量を調整できない吉継は、その眩しさに思わず顔を顰める。
「ああ。だからこそワシがやらねばならないんだ。」
「何ゆえぬしがやらねばならぬ?」
「ワシでなければ出来ないからだ。戦無き世を望み、泰平の次代を作れるのはワシしかいない。」
「何とも拙い自画自賛よな。今のぬしなら画餅も食せよう。」
「ワシが何でお前や三成の居室に入り浸っていたのか分かるか?」
家康の言に吉継の返答が止まる。取り繕えないその間を見た家康はふふふと音だけで笑い、足を胡座に組み直した。
「アレは知らぬが、われがぬしに授けたものなど何も無かったであろ?」
「ああ、お前はその辺り厳しかったな。ワシがここから一つでも動こうものなら、即座に振り向いて何事か確認した。三成のように度々呼ばれて席を外すことも無い。ワシに出来たのは精々本を読む程度のことだ。」
「ナルホド。領主まで間者の真似事とせねばならぬとは、三河とは余程臣に貧しておるとみえる。」
「ははは、一応ここは大坂城だからな。忍びが裏から入るより、ワシが正面から入った方が余程動きやすい。」
「ぬしのその判断がぬしの好きな民を殺すことにならねば良いが。」
吉継は今し方聞いた言葉を覚えつつも信じてはいなかった。悪人とは往々として口が軽いものであり、またそこで述べたことが事実であるとは限らない。吉継が問題としていたのは、それを自分に話しているという動機の部分であった。
家康はうっすらと笑いながら、伏せた目で板目を見つめる。吉継は黙ったままで居た。家康は会話の空白を恐れている節があり、吉継が黙るといつも何かに圧されるように話し始めることが度々あった。
雪が積もり白く反射する空気の中で、吉継は家康を見つめた。纏うように振りかかっている煌々とした光に反して、場の温度は著しく低く、二巻きほど余計に巻いた指先の白布は冷たく重い。家康は俯いたまま胡座に組んだ脚を落ち着きなく擦っている。やれ根比べかと長期戦を覚悟した吉継が袴のよれを直そうと腰を上げかけた瞬間、「刑部」と呼ぶ声が届いた。
「お前は……お前は、誰の、何処の、何の味方なんだ?」
一旦外した視線を吉継は家康へ向けた。家康は真っ直ぐ吉継を見つめている。その懇願の瞳に数多の既視感がある吉継は相手の機嫌を損ねないように、普段の態度を崩さずに返す。
「ぬしの味方にだけはならぬ。」
口元を笑みに歪め、吉継は言外に家康を嘲る。家康は一瞬だけ強張った顔を見せてから、直ぐ様いつもの諦めたような微笑みで覆う。その一瞬だけがあれば、吉継には充分だった。
吉継は指を動かし、家康が居る場所から一歩の距離に置いてある茶器の揃いを浮かせる。家康はびくりと身を動かすが、神通力で浮いたそれらはかちゃかちゃと間の抜けた音を立てながら吉継の前に静かに到着する。埃除けの布を脇に避けながら、吉継は常と変わらぬ声で「徳川」と呼んだ。
「湯を持ってこせ。ぬしの離反を賀して茶を立ててやろ。」
「毒でも入れる気か?」
「人聞きの悪いことよ。まあわれの立てる茶が毒であるならばそうであろうな。」
「まさか。いつも三成から聞かされて羨ましいと思っていたぐらいだ。」
「ぬしはほんに調子の良い。狸とはまさにぬしのことよな。」
「狸は茶なんて飲まないだろ。」
「そうよな、狸は釜に化けて火にかけられるが定の目よ。」
ヒッヒッヒと吉継が笑うと、家康は何とも不明瞭な笑みを浮かべて立ち上がる。そして「湯を取ってくる」と告げると、そのまま部屋を出た。
閉められた襖を確認した吉継は、ようやく呼吸が出来たとばかりに深く長い息を吐く。吸い込んだ代わりの息は凍っている。吉継は折り曲げた人差し指の根で鼻先を擦りながら、はぁと暖を取る息を右手に吹きかけた。
半兵衛が亡くなって丁度一年。職務の分担として外交を執り行っていたのは主に腹芸と算盤の出来る吉継であり、紙という証拠になる形で三成に齎される情報の殆どは家康でも把握しているような内政事情に限られていた。外様といえど重臣の扱いを受けている家康がそれを知らない筈がない。そうなると随分と安い挑発をされたものだと吉継は考えるが、そもそもそういうことをしない性質であったかと思い直す。
嘘が『苦手』だとは言っていたが、『嫌い』とは言っていない。なるほどそれは『嘘ではない』なと、妙に感心した気分にすらさせられる。茶道具を揃えながら、吉継は無軌道な思考を走らせる。
さて手を組むなら何処か。昔馴染みの長曾我部と傭兵の雑賀は固い。甲斐武田とも伝手があるとは当人の言。奥州の伊達は小田原の一件から豊臣を大層恨んでいると聞く。そこまで来れば精強たる豊臣であっても勝ち進むのは難しいだろう。
いや、半兵衛死後から豊臣の連帯は徐々に崩れ始めている。元より力を第一に尊ぶ集団が、強固な連帯を示すことは無い。
力の真理は数である。有象無象が十か百居たところで何も成せぬは自明の理だが、十万百万とあればどうだろうか。それだけ居れば自分のような搦手を投じる者も少なくない。やれ面倒ばかり増やしてくれるものよと吉継は考えたが、それでも家康を引き止めようなどという選択肢はついぞ出てこなかった。
豊臣に家康ならびに徳川は必要であるが、逆はそうではないと他ならぬ家康自身が考えている。そして力を掲げる豊臣が力によって征されるならば、それは正当である。この二つの事象を眼前に突きつけられて、それでもあの男の温情に縋るというのであれば、それこそ吉継が、ひいては豊臣が否定してきた『弱さ』そのものであるだろう。そうは考えつつも、半兵衛が健在であればその辺りを衝くことを全く厭わなかったであろうとも思い、ふと笑ってしまう。
その場面で丁度家康が部屋に戻ってきた。上機嫌に一人で笑う吉継に首を傾げつつも、隅に置かれていた風炉の上に持ってきた茶釜を乗せる。そして風炉ごと吉継の前に置き、自分はその向こうに身を正して座った。
「随分機嫌が良いな。そんなにワシが出て行くのが嬉しいのか?」
「嬉しいウレシイ、大層嬉しい。この脚が損ねておらねば今にも城中を駆け回りながら喧伝したい程よ。」
「それは流石に勘弁してくれ。まだ毒の方がマシだ。」
「ホウ、ならば入れてやるか。やれ箪笥の右上を開けよ。附子か冶葛か選ばせてやろ。」
「言わなきゃ入れたかも知れないのにな。」
小野原の碗に擂った茶を入れ、湯を注ぐ。ぶわりと浮き上がった湯気が顔に巻いた包帯を湿らせる。茶筅を手にする前に吉継はちらりと家康を見る。吉継の手並みを眺めていたであろう家康は目が合うと、いつものように何の気も無い顔でにこりと目を閉じて笑った。
「では次の機会には是非そうしよ。」
「ああ、そうしてくれ。」
次などある筈も無いとお互いが理解しながら笑うこの場を、あの男は一生理解出来まいと吉継は思った。