或る秋の日
大坂城の中腹よりも何段か高い階の奥まった書室の前に控える小姓に声を掛ける。すると、そちらの反応より先に中から名前を呼ばれた。面を上げたばかりの少年と目を合わせると、失礼との囁きの後に襖が開き、家康は中に入る。
板と畳を分けるように置かれた衝立障子と棚の間からひょっこりと顔を見せた男は、包帯越しにでも分かるほどのわざとらしい満面の笑みを見せる。そしてもう一度棚の陰に隠れてから、ずるずると衝立の向こうに移動した。
家康はどうしたものかとしばらく待っていたが、その内に何事かの物音が立ち始めたので遠慮無く中に入る。背後で音無く襖が閉められるのと、家康が衝立の裏を覗いたのは殆ど同時だった。
山の赤土をそのまま焼いたような大海の茶入の蓋が開くと、ほんのりと甘い香りが鼻元にまで届く。部屋の主は手拍きを二回してから、器を挟んで向かいに座れと家康へ指先を動かしてみせた。では、と指示を理解した旨を一言に持たせ、家康は指し示された通り藺草で編まれた丸の敷へ端座する。
「茶か? にしては妙に甘い匂いだな。」
「ヒッヒッヒッ、ぬしは察しが良くてタノシイことよ。」
珍しく上機嫌な様を隠さない豊臣屈指の策謀家は、蓋を開けたままの茶入をそのまま家康に差し向ける。家康は口造りと鼻の間を手で覆い匂いを嗅ぐ。すると、微睡みを誘うような濃く重い心地良さの中に、僅かながらも爽やかな茶の葉の香りがあった。目の前の当人の反応も見る限りでは茶で間違いは無いのであろうが、少なくとも家康がよく知るそれでは無かった。
「これはな、桂花茶よ。」
茶入に鼻先を向けたまま、その黒橡の瞳を目だけで見上げると、家康の疑問を把握している吉継は楽しげに回答する。薬用方面での草木には詳しい自信のあった家康だったが、聞いた事があるかないかぐらい程度にしか知らない名前だった。
「茶ではあるのか。何かに効くのか?」
「気が早いことよ。まあこれを見やれ。」
両手を引いた吉継は茶入の中身を茶器の傍らに置いていた小皿に出す。てっきり抹茶が出て来ると思っていた家康は、限りなく細かくされた木の枝とも葉ともつかないものが親指程度の山になったことに意表を突かれる。
手甲が着いたままの手を広げて床に貼り付けてまで身を乗り出した家康に機嫌を良くした吉継は指先で小皿の山を崩し、とくとくと語り始める。
「これは大陸からの伝来品とかでな、ホレ、この色の違うのが分かるか、これが桂花と言うものらし。芳香はこれが元よ。」
巻いた包帯に纏わり付く木端を器用に親指で選り分けながら、吉継はいくつかの粒を人差し指に載せて見せる。枸橘の色をしたそれを家康が見たのを確認すると、葉を払った親指が今度は粒を押し潰す。布でようやく人と同じ厚みになった人差し指の側面へ僅かに色が付き、先程よりも鮮明な香りが漂い始めた。
「桂花か、聞いた事は無いが本で見たかも知れないな。」
「ヒヒッ、調薬好きの三河殿をしてそれならよっぽどの物よな。」
「ワシはその辺にあるものしか詳しくないからな。霊薬よりも膏薬だ。」
「やれ健全なことよ。われは方にしか頼れぬゆえな。」
襖が開く音がしたので家康が衝立の上から顔を覗かせてみれば、さっきの小姓が湯気の立った薬鑵を持ってきていた。吉継は一言労りの言葉を掛けて、置いた小皿の隣に置くように視線を向ける。
吉継の意図通りに一度座してから薬鑵を皿の横に並べた小姓は深々と一礼して颯爽と去って行った。一切の無駄が無い動作に家康は感心しつつもあることが気になった。
「しかしどうやって飲むんだ? これでは湯に溶けないだろう。煎じて飲むんじゃないのか?」
薬鑵の中身が単なる白湯であることを匂いで察した家康は腕を組み、体ごと首を傾げる。ふむと一息吐いた吉継は右の袖を左手で掴んでから残った手で、茶の葉が載った皿を持ち上げる。
そして「われにもよく分からぬがこうやるらしい」と言うと、引き出し黒の茶碗へ皿の中身を全て空けてしまった。茶と言えば煎じて飲むか立てて飲むかしか知らない家康は思わず目を見開いて驚く。
「売り付けてきた商人に聞いた通り取り敢えずは淹れてみようと思うてな。ぬしは毒見よドクミ。」
「ああ、だからワシだったのか。」
茶葉の入った茶器に湯を注ぎながら宣った吉継の言葉に家康は納得する。舶来品とは言え不作法な淹れ方が必要な茶を、主である秀吉や半兵衛へ出す訳にはいかない。同等の立場である三成へは淹れられても、桂花なる植物がどのような薬効を持っているのかが分からないので、万が一の事態を引き起こさない為にも飲ませられない。そこで生薬に詳しく、豊臣軍内でも中央からは一歩離れている自分に白羽の矢が立ったのだと家康は理解した。
われはぬしがキライゆえな、と吉継は笑いながら事もあろうに茶杓で茶碗の中をかき混ぜる。自分の事を嫌っているというのは常日頃からの言ではあれども、今回は頗る機嫌が良い状態で歌うように言うので、普段の重々しい拒絶から鑑みると随分マシだと感じてしまった自身に家康は苦笑いをせざるを得なかった。
先程までの丁寧な説明は何処へやら、茶杓の先の水滴を雑に振るって落とし薬鑵の蓋に渡らせると、吉継は三日月に曲げた瞳を斜めに傾けて家康を覗き込む。じゃあとそれに倣って足を崩した家康は、まずは一口口に含んだ。
「……薄いな。」
「ウスイ。」
「まあ抹茶は茶の葉をそのまま飲むようなものだからなあ、当たり前と言えば当たり前だが……。」
まずは単純な味の評を感じたまま伝えてみれば、包帯越しの吉継の顔が明らかに落胆する。ばつが悪い家康は眉根を下げつつ、もう一口二口と飲み込んだ。
「ああでも逆に言うなら飲みやすいぞ、香りも甘いのは珍しいし……。」
「もうよいヨイ。具合がどうかだけ後に報せよ。」
どうにか家康は追い縋るが、吉継は眉間を右の親指と人差し指で押さえてしまい視線を外す。
「そう言うなよ刑部。あ、あれだったら桂花が何か調べてこよう。大陸で出回っているならワシの本にも何かあるかも知れないしな。」
「ああそうか、足労かけるな。」
口では労ってはいるが意識は既に残された茶に向けられている。相変わらずの無関心に最早呆れることすら浮かばない家康は、笑いながらも当てつけに深い溜息をついて立ち上がる。
部屋の襖を開けて閉める。その際にひらひらと気怠くたなびく包帯が視界の端に入った家康が困ったように笑うと、足元に控えていた小姓が不思議そうに見上げてきた。家康は少年の目と自分の目を合わせ、何でもないよと小さく呟いてその場から離れた。
自室に戻り、普段読んでいる調薬書を何冊か漁るが桂花なる文字は中々出てこない。どれだったかなと独り言を呟きながら板間に座ったまま紙を捲っていると、聞き慣れた無遠慮な引き戸の音が耳に届いた。
家康が本から顔を起こすと、思っていた通りの長身と目が合った。若苗色の瞳はいつもの通り鋭く端から見れば突き刺さりそうな程だったが、慣れている家康はそれが常であることを知っているので今更何も思うことは無かった。
何だ三成、と声を掛けると当人は無言のまま綴じ纏められた書を両手で持つ家康を見つめた。しばらく無意味に見つめ合っていた二人だったが、先に根負けした家康が読みかけの書に指を差し込んで立ち上がると三成はそれで良いという風に鼻を鳴らしてみせた。
「手が空いているようなら貴様を連れて来いと半兵衛様より承った。先の戦の後処理に関して―――」
書物を読んでいるあの状況では手が空いているのかどうか分からなかった。気の短い三成がわざわざさっきのような回りくどい行動をとった理由を察した家康は、気を遣わせてしまったかと些か困った気持ちで余った手で首の裏を掻いた。
しかし三成は中途半端に言葉を切ったかと思えば立ち止まり、突然家康の眼前に顔を近付ける。あまりにも唐突な出来事に家康も足を止め、思わず身を後ろに仰け反らせる。
「な、何だ三成? いきなりどうした?」
「……嗅いだことの無い匂いがする、毒か薬か? 半兵衛様に危険を及ぼさないか?」
「お前はワシを何だと思っているんだ三成……。」
まるで動物のように警戒しながら体中に鼻先を向けて匂いを確認する三成の様子に家康は苦笑する。確かに表立って薬を扱っているのは自分であるが、どちらかと言えばそういう分野は刑部の得意ではないかと思いつつも、三成の中ではそのような発想すら無いのだとすれば二人の間にある関係が如何ばかりのものであることかは知り合って日が少ない家康にも察することが出来た。
「さっき刑部から大陸からの茶を飲ませて貰ったんだ。何でも生薬が入っているんだが、どういう効き目かは刑部も知らないらしい。」
「刑部が貴様に茶を供したのか?」
「そんな大層なものじゃないぞ、淹れ方も何というか……雑だったしな。」
「それだけ貴様に心を許していると言う事だろう。刑部は公務以外では気に入った相手にしか茶を淹れん。私や秀吉様方以外では毛利しか知らん。」
「毛利と一緒なのか……。」
忠勝と共に戦場を転々としていた少年の頃に出会った冷ややかな瞳の安芸の主を思い出し、家康は自分でもよく分からない微妙な気分になる。気を取り直した家康は自分が片手に持っている書にようやく気付き、匂いの理由が分かり満足して先を進む三成を呼び止める。
「ああ三成、刑部に後で戻ると伝えたんだった。半兵衛殿には後ほど伺うと言ってくれないか。」
「どのぐらい後だ。」
「うーん、刑部に茶の礼を言うだけだからそんなに時間は掛からないな。」
「そうか。あまり半兵衛様をお待たせすることがないようにしろ。」
「分かっているよ。」
二つほど上の階にある半兵衛の執務室に向かう三成が足早に階段を上り始めたのに次いで、家康もゆっくりと段差を上がっていく。
一階上の一番奥まった部屋が吉継の居室だった。そこに向かって歩きながら家康は考える。
しかしあれは茶を淹れて貰った扱いで良いのだろうか、刑部自体も毒見と言っていたし……。そう思いながらもそこまで悪い気はしていない自分自身を安易だなと笑いつつ、家康は身に染み込んだ甘い香りを忘れないように深く吸い込んだ。