翹望
首を絞めていた。
両の親指の根を上下に重ね、五指を押し出す。みしりみしりと軋む音は肉なのか骨なのか見分けが付かなかった。
強く握り締める指には薄い皮膚と衰えた脂の感触だけがあった。その一つ向こうにある骨に行き着くには、また一息力を入れる必要があった。
鎖籠手の厚みが無い地肌はぬるく、節々が拉げた手では所々に隙間があったが、そこから伝わる感触には不思議とそつがなかった。全ての指がこの首を絞めるという行為を慣れ親しんでいるかの如く、綺麗に収まっていた。
この手が握っているものは何だと認識しようとしたところで、その首が地黒の枯木だということを知る。西海の漁民達よりも南海の武士達よりも黒くくすんだ色は見覚えがあり見覚えが無い。ああ、と認識すると、ようやくその首が誰の物であるのかが理解出来た。
息を吐き、指に力を籠める。ぎしぎしと軋む音がする。押さえ付けた肌が、その下の筋が、その下の骨が、自分の手の平に収まっていく手応えがある。
不思議なことだと家康は思った。自分は人の首を一度たりとも絞めたことが無いというのに。この手の感触が間違いなくそうであることを、家康は確信していた。
襖が開き、閉まる。家康はその音と板間の軋む音で、今し方入ってきた人物が己の側近であることをようやく認識する。
「家康、国許から確認の書状が―――どうした?」
入ってすぐ見える文机ではなく、片側だけ開いた障子戸の縁に座っている自分に気付いた信之に、家康は視線だけを向けて答える。信之はその視線を受け、手にしていたいくつかの書を机に置き、家康の傍にまで歩み寄る。
「いや、何てことはないさ。ただ空を見ていただけだ。」
家康はそう言って目を三日月にして微笑む。信之は「失礼」と一言断りを入れた上で家康が背を齎せている窓から空を見上げた。確かに色濃く澄み切った秋の空と比較的形が明確な雲がそこにはあった。
「そうだな。良い天気だ。」
「ああ。」
言葉に反して家康は顔を伏せると、じっと手を見た。その傷まみれの手を家康同様に信之も眺めながら、ふと口を開く。
「痛むか。」
「いや。まだ大丈夫だ。」
家康は右手を握り込みながら曖昧に笑う。それが聞いている自分だけではなく、己自身にも言い聞かせている言葉だと信之は理解していた。
「……家康、俺はお前が進む道を共に歩もう。俺に迷いなど無い。俺は、」
「『お前の為なら国も親兄弟も捨てよう』か? やめてくれ信之、ワシはお前にそんなことを言わせる為に共に来てくれと言った訳じゃない。」
参ったなと言わんばかりの苦笑いで耳の横を掻きながら、それでも家康は否定を強調しつつ告げる。続く言葉を先んじられた信之はぴくりと片眉を動かしてから、一息だけ溜息を吐いた。
「お前であればワシの道を共に来てくれる、ワシの背を押してくれる。例えワシが立ち上がれないほどに疲れ果てたとしても、お前であれば共に歩んでくれる。それはお前が国や家族を捨てずとも出来ることだ。」
「それは」
「ああ、分かってる分かってる。その位の覚悟がある、って言いたいんだろう? 勿論その気持ちは有り難く受け取っておくさ。だが実際がどうなるかは、蓋を開けねば分からんだろう。その時にお前がどんな道を選ぶか、そのことについて余計なことを考えなくとも良いと言いたいんだワシは。」
なあ、と向き直った家康は信之に笑みを向ける。その笑みの底にある深謀遠慮に気付いた信之は一歩身を引きつつも、強い視線を返す。
「家康、お前は……俺に対しても逃げ道を残すというのか。」
「それは逃げ道とは言わん。あれはお前の絆だ。ワシがそれを絶つ謂われは無い。」
「……それは違う。父子の情でどうにかなる者達では無い。」
「はは、その位はワシでも分かるさ。だがしかし、それとこれとは別問題だ。ワシはお前がどう立ち回ろうと、それについての責をお前自身が持つのであれば、何があってもワシは許そう。」
「俺の身は既に東軍総大将たる徳川家康に預けている。それを覆すことは何よりも俺の義が許さぬ。勿論それはお前が覆すこともだ家康。」
「……お前は本当に頑固だな信之。」
はは、と諦めたように呆れたように笑う家康は床に足を降ろすと、一息吐く。そしてゆっくりと瞼を開けて腹を据えると、文机の端に置いていた礼紙の包みを手に取った。
「ではこの書を持って、急ぎ上田に向かってくれ信之。書の中身は道中で確認してくれ。」
「……相分かった。」
「ワシはかねての予定通り西へ行く。その後がどうなるかは……お前次第だ信之。」
「ああ。この真田信之、お前の歩みを上田にて守ろう。足を止めぬお前に俺が出来ることは、それしかあるまい。」
「……そうだな、頼んだぞ。」
家康が左手を差し出すと信之も同じく左手を重ねる。そしてしばしの握手の後、信之は部屋を辞した。その力強い足跡が遠ざかる様を聞きながら、家康は再度開け放った窓の枠に座った。
そしてまた右手を見た。朗らかな秋の陽は夏のそれよりも穏やかながら、明らかな陰翳を作る。伸びた影の向こうは誰も居ない部屋であった。
家康はしばらく空を見上げながら誰も来る気配が無いことを察すると、床に降ろしていた片足も窓枠の上に乗せた。部屋の戸より二回りは小さいそこは家康が両膝を山にして曲げると丁度良く収まった。
家康は膝の上に重ねた両手に額を当てる。蹲った目に見えるのは己が作り出した影だけだった。家康はそのことに対して口元だけで笑うと、上に重ねている右手の親指と人指し指をすりと撫で合わせる。
不思議なものだと家康は思った。あれは夢だったというのにまだ指先には感触が残っていた。衰え罅割れた病身の、枯木の首を手折る感触が。触れたどころか見た覚えも無いのに、今でもしっかりと思い出せる。
家康は顔を上げると、顎を左手の甲に乗せて右手を翳し見た。擦り合わせた指の根、親指と人指し指の湾曲が煌々と陽の元に照らし出される。その裏にある影のさやけさに家康は感嘆の息を一つ漏らした。
光の裏には影があり、影があるからこそに光に意味が出来る。あいつはワシの背を押すことも立ち上がらせることも無いだろうと、小さく思い出し笑いをする。もう既に望むべくもない感情が、今朝の夢へと至らしめたのだろうか。家康は祈るように目を閉じてから、祈ること無く瞼を上げた。
何故ならばあの夢が正夢になることなど決して無いと、家康は知っているからだった。己があの男を殺す、ましてや縊死せしめることなど無いと分かりきっていた。だからこそ夢に見たのだということも家康は理解していた。
砂埃が舞うばかりの荒地を家康は右手の向こうに見る。ありとあらゆる戦場で己と他の者の死を忌避し続けた身でありながら、最後の最後で死を望んでしまう自分自身に、家康は嗤った。そして右手を握り締め、とうとうその首をへし折ったのであった。