メイド善 炭善♀洋館の一日はいつも決まった時間にスズメの鳴き声で始まる。
朝を告げるスズメの鳴き声は同じ鳴き声である。当たり前だ。毎日同じスズメが鳴いているのだから。
「ん……チュンたろぉ、もうちょっと待って……」
この頃どうもスッキリ起きられなくなってきた俺は、ベッドの中で少しむずかる。するとスズメはチュン!とひときわ大きく鳴いた。仕方ない起きよう。観念して起床しようとすると、廊下から足音が聞こえてきて俺は焦る。こんな時は決まっている。俺の“主人”が起こしに来たのだ。
「おはよう善逸! チュン太郎! 夜は明けてないが良い朝だ!」
「ッッあーーもおおお!!」
道着姿の炭治郎に俺は枕を投げつける。炭治郎は余裕でよけられるはずだが敢えて顔面で受け止めた。
「善逸? どうした?」
「少し待って!」
「!? な、なんて格好してるんだ!」
「だから少し待ってってば!」
俺は寝間着を着ていない。スリップだけを着てる下着姿だった。昨夜疲れて着替えるのが億劫でそのまま寝たのがいけなかった。これでも使用人の身分なのに、主人よりだらしない格好をしてるなんて。
慌てて炭治郎が扉の外に出ると俺は急いで浴衣を着る。帯も雑に締めただけだが、廊下にいる炭治郎に一言言わないと気が済まない。
「もう! 主人のお前が使用人の俺を起こしに来るなって言ってんだろ! ってか俺より早く起きるな! 俺の立場がないだろ!?」
自分のだらしなさを棚に上げて炭治郎に喚く。
「すまん、冨岡さんと走り込みに行ってたから……」
「だから! 早起きするなら言ってって! 何のために俺がここに居ると思ってんの!」
「大丈夫だ俺は起こしてもらわなくても起きられる。善逸に無理させては申し訳ないし……」
「もおおおお」
「善逸」
「な、何」
急に神妙な面持ちになる。炭治郎が続けようとしている言葉を俺は予想できてしまう。
「今日も綺麗だ」
「っ!!」
「結婚してくれ」
もはや挨拶のように言われる言葉。
「やだ!!!」
そして俺は挨拶のように返す。
今日も朝一から拒絶された、今年十八になった美丈夫の青年は苦笑いしながら耳飾りを揺らす。
十八は俺がこの子と出会った時と同じ歳だ。
俺はかれこれ十年近く、毎日この男に求婚されている。
捨て子で浮浪児だった俺が、運に恵まれていないのだと思わなくなったのは十三歳くらいの時からだ。
今になってよく考えれば運が良かった方だったのかもしれない。栄養失調で病気にかかり死にかけてたけど、少なくとも性病に苦しんではいなかったし、何より他の誰にも女の大事な部分を暴かれたりしていなかった。性別を隠していたというのもあるけど。
その程度の事で幸運だと言われるくらい”路上暮らしの子供達”という存在は過酷な環境に置かれている。
いわゆるストレートチルドレンと呼ばれる貧しい子供達はこの国のそこらじゅうに居て、俺はその何千人の一人という数字でしかなかった。
そんな俺は今、飢えることもなく綺麗な着物とエプロンを着て立派な洋館で使用人として働いている。
転機が訪れたのは五年前。俺はとうとう女であることを隠し通し切れなくなり、ある時男として働いていた奉公先にばれた。すぐに辞めさせられた上、花売りを斡旋している連中に売られそうになる。
俺は命からがらなんとか逃げた。残り少ない体力を振り絞り、普段は寄り付かない表通りに走った。追ってくるのは明るい場所で堂々と顔を上げて歩けるような連中ではないので、人目につく場所に逃げ込めれば助かる可能性が高いと思った。そしてそれは確かに当たった。
そこでじいちゃんこと桑島先生に助けてもらったことが、俺の運が動き始めた瞬間だったんだろう。
じいちゃんは俺を助けてくれた上、家に連れて帰って世話を焼いてくれた。さらに、何でか俺を気に入ったのはわからないけど養女にしたいと申し出たのだ。
浮浪児に養女や養子にしてやるなんて言葉で誘い込み、死ぬまで働かせ使い潰したり、金持ちの玩具にしたりなんてことは日常茶飯事なので俺は少し警戒した。
だけどじいちゃんからはやましい“音”はなく俺の事を心から気遣ってくれているのが分かった。
そして俺は桑島善逸という名前になる。
暫くは二人で暮らしていて、剣道の先生であるじいちゃんに読み書きを教わったりした。
だけど一年くらいしてその静かな暮らしは突然終わった。じいちゃんが病気で倒れ、長期的な療養生活が必要になったからだ。
俺は働き口を探す事にした。じいちゃんは女の身で働く事なんてしなくて良いと言うが、これ以上恩人に迷惑はかけられないし、じいちゃんの治療にもお金が必要だ。
俺がそう主張するとじいちゃんは一筆したためどこかに便りを出した。そして俺はじいちゃんの知り合いである産屋敷様のお邸で住み込みで働く事になった。
産屋敷一族の主である耀也様はとても優しく穏やかでじいちゃんが入院しているので、世話しに行く時間を与えてほしいという俺のわがままも笑顔で了承してくれた。その上じいちゃんの治療費も負担してくれると。
「桑島先生には私も大変世話になったからね」
そう仰る旦那様はどこか人間離れした幽玄な雰囲気を纏っていて、お姿はとても若々しいのにまるで何百年も生きている生き仏様のように見えた。傍らに寄り添う奥方様も、俺が見てきた誰よりも美しい天女のような女性だった。
旦那様と奥方様は本当に優しくて何度かお二人の前で粗相をしたのに一度もお二人に怒られた事はない。五人のお子様達も俺にとっても優しかった。
代わりに先輩女中の皆さんや女中頭はめちゃくちゃ厳しかった。何をさせても不器用な俺は何度も何度も叱られた。だけどここに来る前に比べればなんてことは無い。以前の奉公先や働き先では殴る蹴るは当たり前。理不尽に罵られ蔑まれまるで人間扱いされてないのが殆どだった。
先輩達はみんな俺をひとりの人間として扱ってくれる。同い年だけど俺が来る数年前からここで働いているアオイちゃんは武家の出らしく、礼義作法に物凄く厳しくて根気よく注意してくれた。元浮浪児の俺が人並みの常識を身につけられたのは、彼女のお陰だと言っても過言はない。
働いて何年かして仕事に慣れてくると粗相をやらかす事も少なくなり、すると先輩達の態度も優しく親しげになった。元から穏やかで育ちの良い人達なのだ。
産屋敷邸はとにかく広大で敷地内に母屋以外の建物が何棟もある。長い事働いていてきっちりした性格のアオイちゃんですら、全ての部屋数は把握してないというから驚いた。
俺はある頃から東屋の一つである洋館で働くことになった。そこでは旦那様のお母様である大奥様が隠居して暮らされている。
旦那様と同じように穏やかで優しい方だが、女学校を出ているためかハイカラなものがお好きで、隠居したら洋館に住むのが夢だったらしい。俺やアオイちゃん達は母屋の女中とは違い、袴にエプロンとヘッドドレスを着けて働いている。こんなフリフリのレェスがついたエプロンやヘッドドレスは最初は恥ずかしかったがもう慣れた。女中にメイドのような格好をさせるのは大奥様たっての希望なので拒否は出来ないし。
この屋敷で働きだしてから四年。俺は十八になっていた。
いつもの通りアオイちゃんと大奥様の朝のお支度をしていると母屋から奥様が来て呼び出された。
何かやらかしたのかと思って身構えていたら、奥様は俺に頼みたい事があると告げた。
「実は旦那様がまた孤児を引き取りたいと申されまして。その子達のお世話を善逸さんにお願いしたいのです」
「えっ!?」
あまね様の説明はこうだった。
孤児は8歳と7歳の兄妹。奥多摩の山村の炭焼き小屋で暮らしていた。本当はもっと兄弟が居て父は失くしているものの母と兄弟と静かに暮らしていた。だが、突然不幸に見舞われる。
「先日、大きな脱線事故があったのを覚えていますか?」
「ええ、覚えています。列車が横転してたくさんの犠牲者が出た……あ、まさか……」
「そう。そのまさかです。兄妹の家族はその列車に乗っていて、その二人だけが生き残ったそうです。二人は幸い怪我もほとんどなく事故の数日後には目を覚ましたけれど、二人きりになってしまった。他に身寄りがなく、故郷の村の誰かが引き取る事になったのですが、貧しい村ですので皆嫌がって押し付け合いに発展したそうです」
「そんな……」
「そんな折にたまたま村を訪れていた冨岡君が事情を把握し、業を煮やして二人を連れて帰ってきたそうなのです」
「冨岡様……」
冨岡さんは旦那様の会社で働く青年だ。ものすごく無口で寡黙で、お友達の錆兎さんや真菰さんが促してくれないと返事もしてくれない時すらある。(ちなみに無視してるのではなくただ単純にぼうっとして気づいてないだけらしい)
そんな朴念仁な印象のある彼だが、一方で直情的な部分もあって数年に一度くらいの周期で何かしでかす。らしい。俺も詳しくはない。
「つまり、冨岡様が子供達を連れて帰ってきたもののご自身はお独り身でいらっしゃるので、面倒を見るのが難しく旦那様に相談され、旦那様はこちらで引き取ると申し出されたと」
「お話が早くて助かります。全くその通りです」
俺の飲み込みが早いのはおかしな事ではない。初めてのことではないからだ。
「旦那様にも困ったものです」
そう憂いてため息をつく奥方様はやはりお美しい。吐いた息さえ麗しく感じる。
旦那様は困窮している子供や女性を見ると放っておけない性分だ。現在も多くの子供や寡婦や孤児院に金銭援助をしたり引き取って育てたりしている。
部下の一人である不死川さんは流行病で親と兄弟を亡くしており、弟の玄弥とこの屋敷に引き取られた。玄弥は母屋で働いていて俺の友達だ。ちょうど一年前には同じく両親を亡くした杣夫の子の有一郎・無一郎の双子の兄弟を連れてきた。二人は幼く体が弱いので、旦那様が運営しているサナトリウムで育てられている。
そして、今度は炭焼きの子の兄妹。
言ってしまえば俺も同じようなものだ。じいちゃんに紹介されてきたわけだけど。
さらに言うと同じ考えの人が集まるらしく、前述の錆兎さんと真菰さんは先代の頃からお仕えしていたご隠居の鱗滝様が拾ってきたらしい。鱗滝様は俺のじいちゃんの同僚だった。
目の前の困っている弱者を放っておけず、また分け隔てなく接する旦那様はあらゆる者から慕われている。
とは言え、仕事で多忙を極める旦那様が拾った子供の面倒を直接見れるわけがない。もっぱらご細君であるあまね様が手を動かす事になる。
そのせいか、奥方様は最近お疲れ気味のように見える。少しやつれたかもしれない。
「とはいえ、一度引き受けたからにはおざなりには出来ません。その兄妹は当家で責任を持って育てます。そこで、善逸さんにお任せしたいのですよ」
前言撤回。奥様はいつも凛々しくてお美しい。
「で、でも私のような者にそのような重大なお役目が果たせるでしょうか。その、お子様の面倒を一人で見るのは初めてですし」
そう、人間の子供は。
この屋敷にはたくさんの動物がいる。全て輝利也様はじめお子様方が拾ってきた、怪我をしてたり病気にかかっていた動物達だ。どうも産屋敷一族は何でも拾う癖があるらしい。野良の犬猫はもちろん、野良兎や怪我した小鳥、牛やら馬やらまで。
最近、怪我をした雀の雛の世話を頼まれた。俺に懐いてしまい野生に返せないので洋館で飼っている。
しかし、人間の子供は初めてだ。それに動物とは全く違う。愛玩用ではないし、一人前に育てるまでに責任が伴う。それに、突然家族を亡くした孤児達だと言う。そんな子達の面倒を俺が見切れるのだろうか。
俺が不安そうにしていると、奥様はふわりと笑う。俺の心臓が飛び跳ねた。
「大丈夫。善逸さんならきっとやり遂げられます」
「あ……」
「その子達は突然家族を亡くして大変憔悴しています。事故にあった日、子供達は初めて列車に乗ったそうです。楽しい旅になるはずだったのに理不尽に命が奪われてしまった。大変傷ついています。だけど、善逸さんは人の心に寄り添うことが出来る方です。私と旦那様で相談して善逸さんが適任であると判断しました。……お願い、出来ないでしょうか?」
奥様にそこまで言われ、旦那様に太鼓判まで押されていたのなら俺には断る手段がない。
奥様の説明通り、数日後幼い兄妹は洋館で暮すことになった。俺はその専属女中になる。
「竈門炭治郎と申します! 本日よりこちらでおせわいただく事になりました! フツツカ者ですがよろしくお願いいたします!」
変声期前の甲高い少年の声が館の部屋いっぱいに響き渡り、人より耳が良い俺は鼓膜が裂けるかと思った。
「こ、こちらこそよろしくお願いします。桑島善逸と言います。炭治郎さんと禰豆子さんのお世話をする事になりました」
「よろしくお願いいたします、桑島さん!」
「善逸で良いですよ……」
「はいっ! 善逸さん!」
「あはは……」
いちいち溌剌と返事をするこの少年こそ、今日からここに住む事になった孤児の少年だ。かなり純朴そうで山育ちというのが頷ける。八歳との事でまだまだ幼い顔つきでまん丸の瞳がとても可愛らしい。あどけない顔をしている割にかなりしっかりしている性格らしく、そしてアオイちゃんくらい礼儀正しかった。幼いのに立派だなあと呑気な感動を抱く。
そしてなんというか、意外だった。
不謹慎かもしれないがもっと落ち込んでいると想像していた。しかし当然だろう、突然家族を失ったのだから。
だけど炭治郎君にはそんな様子は無く、姿勢正しく家の者達にもハキハキと受け答えしている。
一方で、妹の方には完全に事故の後遺症が残っているらしい。
「ほら、禰豆子も挨拶しろ」
「………」
ずっと炭治郎君の後ろにぴったりと張り付いていた女の子を、兄である炭治郎君が促す。しかし禰豆子ちゃんは一言も発しないし、俺に目も合わせようとしなかった。
「禰豆子」
「炭治郎さん、無理はさせないであげて下さい」
「……すみません」
小さな女の子は母と弟達を喪った巨大な悲しみを、受け止めきれなかったらしい。
禰豆子ちゃんは事件後失語症を患い、心を閉ざしてしまった。一言も発せず、兄以外の者に触れようともしない。奥様からも妹との接し方には充分注意するよう仰せつかっていた。
「禰豆子? ちゃんと立って!」
すると急に禰豆子ちゃんは炭治郎君に寄りかかるように脱力しだした。失神というわけではないが、明らかに眠そうだ。彼女は事故当時炭治郎君が庇ったためほとんど怪我などはなかったが、心の病のせいか眠気が強く最近は一日中寝て過ごしているらしい。
「眠くなってしまったんですね。寝床にお連れしましょうか。禰豆子さん、抱っこして平気ですか?」
しきりに目をこする禰豆子ちゃんに触って良いか許可を求める。心に傷を負った子にうかつに触れてはならない。屋敷専属の医師からそう言われていたからだった。
禰豆子ちゃんは少し考えてはみたものの、眠気に抗えないのか俺に手を伸ばしてきた。俺は安堵し、その小さな体を抱き上げる。かなり小さく軽い。炭治郎君が「すみません」とわざわざ言うがこれが俺の仕事なのだから当然だ。俺は応接室から二人の寝室に連れて行き、彼女用のベッドに寝かせた。
禰豆子ちゃんが深く寝入ったのを見届けると、応接室に戻った。炭治郎君がカウチソファで一人で座っている。項垂れているようにも見えるその後ろ姿は、先ほどの第一印象よりずっとずっと小さく感じた。俺は胸の中かが握り締められたかのような痛みを覚える。
しかし彼を不安がらせてはいけないと思い、無理矢理にでも笑顔を作ってソファを覗き込んだ。
「炭治郎さん」
「あっ」
「禰豆子ちゃんはとてもおりこうにして眠りましたよ。炭治郎さんもお疲れでしょう? 少し休んではどうですか?」
「いえあの、だ、大丈夫です」
「そうですか……とにかくお部屋に案内しますね」
俺がそう言って立ち上がろうとすると、くい、と袴が引っ張られて行く手を阻まれた。首を傾げて振り返ると、炭治郎君が俺の袴の裾を掴んでいる。
「? 炭治郎さん?」
「禰豆子は、本当はあんなやつじゃないんです」
炭治郎君はぽつり、と誰に言うでもないような呟き方で語りだした。
「………」
「本当はあんな……ぼぉっとしたやつじゃなくって。おれよりもずっとしっかりした妹だったし、明るくてやさしくてえがおが似合うやつだった! でも、でもあんな事が……あ、あって……あんな事さえなければ、今もわらってたのに……!」
それは必死の訴えだった。“誰に”訴えているわけではないのだろう。あえていうなら“自分”をどうにか納得させようとしている。
俺は出来るだけ優しくするように、少しかがんで炭治郎君の頭を撫でた。すると予想もしていなかったのか、はっと我に返って俺の顔を見る。そして頬が真っ赤に染まった。
「大丈夫、わかってますよ」
その言葉が最適だったのかはわからない。でも、炭治郎君はほっとしたような顔をした。
「すみません、おれわけのわからない事を……」
「良いんですよ。本当に大変だったんですから。もっともっと弱音を吐いたっていいんですよ」
それは俺も今まで散々言われてきた言葉だった。耐える必要はない、辛い事は辛いと言っていいのだと。だから、俺も目の前の少年に同じ事を言う。
だけど、炭治郎君は首を振った。
「いいえ、いいえ……。おれは長男ですから。禰豆子のたった一人の兄ちゃんなんです。禰豆子を守ってやれるのはもうおれしかいない」
幼さがたっぷり残ったまん丸の顔でまん丸の瞳で、そんな事を言う。小さな体で、腕だって枝のように細く俺でさえ容易に折ってしまえそうなくらい。
それでも彼は、たった一人で妹を守る決意をし、人一人の命の重さを背負おうとしている。
「だからおれは泣きごとを言ってちゃだめなんだ」
考える前に体が動いて、森の薫りがする炭治郎君の体を抱きしめていた。
「………………………………へっ!?」
炭治郎君は当然困惑している。そりゃそうだ。初対面の年上の女に急に抱きしめられたのだから。
だけど俺にそんな事をかまっている余裕は無かった。
「あのね、炭治郎君」
「は。はいっ!」
「一人で背負おうなんてしちゃ駄目だ。妹を守りたいのなら尚更」
「…………え?」
俺が伝えたい事は、ただそれだけ。
「で、でも俺は長男で兄ちゃんで」
「そうだね。だから禰豆子ちゃんを守ってあげるのはとっても偉いよ。それは応援する。だけどね、一人だけで守ろうなんて思わなくていいんだよ。思ったらだめだ。誰にも頼らずに生きて禰豆子ちゃんを守ろうとしても、もし死んでしまったりしたらどうするの? 禰豆子ちゃんは一人ぽっちで遺されるんだよ」
炭治郎君の息を呑む音が聞こえた。
“自分がいつ死ぬかなんて誰にもわからない。それは明日かもしれないし五十年後かもしれない”
ごくごく当たり前の事だが、子供には想像しにくい事実だろう。
八歳の男の子に酷な事を伝えているかもしれない。
だけど、耳障りの良い言葉で誤魔化したり嘘をつくのは、真摯に生きようとしているこの子にとって余りにも不誠実だと俺は思った。
しかし、ただ真実を告げて子供を打ちのめす事しかしないのは高慢な自己満足でしかない。これはじいちゃんの受け売りだ。じいちゃんは言葉を尽くして行動でも示す人なので、説得力があり俺の心に深く刻まれている。
だから、俺もそうするんだ。
「怖い事を言ってごめんね。でもただ脅しているだけじゃないんだよ。もっともっと人を頼って、大人を信頼して助けを求めてもいいんだ。この世界は、二人を不幸にする為にあるんじゃない。二人を幸せにする為にあるんだよ。そして、この世界には俺達がいる。俺や冨岡さんや旦那様と奥方様、炭治郎君達の事を助けたいと思ってる人達がいる。だから感情を押し殺したりしないで。禰豆子ちゃんの前ではできないかもしれないけど、今は泣いたっていいんだよ」
そこまで語りかけた後、矢継ぎ早にまくし立てた事を反省する。
抱きしめているので肩に押し付けている炭治郎君の顔は見えない。困惑しているだろう。
しかし、にわかに体が小さく震えだし、しゃくり上げる声が聴こえだした。
「………うっうぇっ………ふ、うぇ、え………」
「炭治郎君……」
それは泣くに泣けなかった少年が、ようやく感情を表に出せた音だった。
俺は炭治郎君の体を抱き上げて、ソファに座る。あやすように大事に抱きしめて。きっと彼の母親も、彼がもっと幼い頃には同じ事をしたんだろう。
「……な、なんで、なんで、みんな死んじゃったんだよぉ……おれ、おれとねずこだけおいて……うえ、ふ、うう……」
「……………」
あまりにも震えが止まらないので背中をさすってやったが、却ってそれが余計に彼を泣かせる事になった。
「う、うえ、ひどいよ、ひどい……あ、あんまりだ……竹雄は、れっしゃに乗るのずぅっと楽しみにして、いっとう楽しみにしてたのに……! 花子は、もりおかでおまつりが見られるって、楽しみにしてて……茂は、れっしゃにのるのが少し怖そうだったけど、がんばってガマンしてえらかったのに……! ろ、六太、六太は正月に生まれたばっかりだったんだ。なのに、半年しか生きられなかったなんて……! あんまりだ、ひどいよ、なんで、なんで、母ちゃん……母ちゃん!」
母の手と温もりを求めて縋ってくる少年を、俺は更にきつく抱きしめてやるしかなかった。
俺にこの子の痛みはわからない。
それらは俺には最初から無かったものだからだ。
だけど、逆に言えば俺には“大事なものを失う恐怖”も用意されていなかったという事になる。背負うものが最初から無いというのは案外気楽なものだったんだ。
なのに俺は今までずっと、家族の存在に幻想を抱いて勝手に僻んでいた。失う痛みの方がずっと辛いと言うのに。
ふと気づくと、胸の中の嗚咽が規則的な寝息に変わっている事に気づく。
炭治郎君は眠ってしまっていた。
やはりかなり疲れていたのだろう。泣き腫らしたせいもあるが、顔つきがやけにぐったりしていて眠りが深い。
俺は先程禰豆子ちゃんを寝かしつけたのと同じように寝室に連れていき、上着を脱がしてから彼のベッドに寝かす。起きるまで寝かしてやろうと思った。
寝室を出る前に炭治郎君の頭を撫でる。
「おやすみ……」
どうかこの子の未来が安らかで輝かしいものでありますように。
俺はそんな祈りを胸に懐きながら寝室を出た。
炭治郎君が寝たのは昼頃で、夕方の日が沈む頃に起き出してきた。俺はアオイちゃんや他の女中と夕飯の準備をしていた。炭治郎君達は暫くは産屋敷の方達とは食事は別にしていいと指示を頂いている。それでも俺はあくまで大奥様付きの女中なので、そこらへんの仕事もちゃんとしなければ。
「あ…………の…………」
炭治郎君が厨房にひょっこり顔を出してきたので、一旦手を止めて駆け寄った。
「お、起きましたね」
「起きました。あの、すみません」
長々と昼寝をしてしまったのが恥ずかしいのか、それとも寝る前の事を思い出して気まずいのか、妙にもじもじとしている。俺はあえて寝る前の事は触れないでおくことにした。
「もう少しでお夕飯が出来るから少し待って下さいね。禰豆子ちゃんは起きましたか?」
「いえ、まだ。それに起きてもろくに食べないと思います……」
「そうですか。でもちゃんと食べさせないと。お粥でも作って……何か果物の方がいいかな」
事故後は食がかなり細くなったという禰豆子ちゃんに何とか食べさせようと、俺は持てる料理技術を駆使すべく考えを巡らせた。
「あ、あの!!!」
が、炭治郎君がなにか言いたいらしい。
「ん? どうかしましたか?」
夕飯の献立の事でも言いたいのだろうか。そんな呑気な考えが、炭治郎君の一言で全て吹っ飛ぶ。
「善逸さん! お、俺が大きくなったら結婚してください!!!」
「…………………………………………んっ???」
それが、炭治郎の一番最初の求婚だった。
その日から、炭治郎の猛攻が続いた。毎日毎日飽きもせずに結婚してと言ってくるのだ。
俺を頼ってくれとは言ったが娶れとは言っていない。この子、俺が想像していた以上に斜め上の考え方をするらしい。
その頃の俺は大して大事に捉えず、うっかり「炭治郎君が立派な紳士になったらしてあげますよ」とか適当な事を抜かしてしまった。あの時の俺を今からぶん殴りに行きたい。
そして光陰矢の如く月日は流れる。
あの後、炭治郎は旦那様の配慮で学校に通う事になった。もともと真面目で勤勉で働き者の彼は、勉強は少し苦手そうでもそう悪くはない成績を収めたし、旦那様の部下の煉獄様のすすめで始めた剣道ではめきめきと力をつけていった。友達もたくさんできて、教師からの信頼も厚く産屋敷の皆様からも一目置かれている。
俺を頼って、なんて本当におこがましい事を言ったのかもしれない。
でも、彼は毎日かかさず一日一回、多い日は十回「結婚してくれ」と俺に言ってきた。
女生徒から羨望の眼差しで見られるようになっても、それには目もくれず。
どうかしてるでしょ!
禰豆子ちゃんは相変わらず心の病が重いままだったが、炭治郎が根気強く語りかけ寄り添ったおかげで徐々に言葉を取り戻し、一年後には炭治郎と同じく学校に通えるまで回復していた。
炭治郎と同じく真面目で賢い彼女は素晴らしい成績を収め、得意だった刺繍を極めて国の偉い人にまで表彰された。明るくて優しい性格を取り戻した彼女はやはり人望が厚い。また美人なので大変もてた。
そんな彼女が一番尊敬している人は俺だと言われて、雷が落ちたかのような衝撃を食らった。いや、本当に昔食らった事があるんだけど。
そして、炭治郎は中等学校を卒業すると旦那様の元で働くようになる。そこでも勤勉さと高い能力が評価され、邸内でも一目置かれる存在になっていく。旦那様からの信頼も厚く、十年前に母や兄弟を亡くして小さく震えていた姿が嘘のようだった。
同じころに大奥様がご卒去された。
二人を孫のようにかわいがっていた大奥様は、ご自身が亡くなった後も二人に館に住んでいてほしいと遺されたので旦那様はそれを遵守し洋館の主は炭治郎になった。
俺は“旦那様”になった炭治郎に今でも仕えている。
そして求婚されている。
「はぁああああああ………」
「また朝から熱烈なプロポーズされてたわね」
「アオイちゃん聞いてるんなら止めてよお」
「止められるならね。出来ない事はしません」
「冷たぁい……」
すでに人妻になっている彼女も、住み込みは止めたが通いで女中を続けている。旦那は、彼女の幼馴染である嘴平伊之助という人だ。仕事で産屋敷に縁があるらしく、邸によく来て俺と炭治郎や禰豆子ちゃんとも仲がいい。
「もう諦めて受け入れたらどうかしら」
「他人事だと思って!」
あんなにカタブツ……もとい礼儀を重んじる子だったのに、結婚して少し丸くなったのか投げやりな事を言うようにもなった。これが既婚者の余裕なのだろうか。
翌日も朝食の支度をする俺に、炭治郎は「おはよう!良い匂いだな!結婚してくれ!!」とついでと言わんばかりに求婚してきた。雑になってんだろどう考えても。
「炭治郎、いえ旦那様」
「何だ、急にかしこまって?」
「いい加減諦めて頂けませんか?」
「何をだ?」
「私を毎日毎日口説こうとするのをです」
「どういう事だ?」
「だから! 俺に求婚するのやめろつってんの!」
「断る!」
「判断が早いんだよ! もう少し考えろ!」
すると炭治郎は心外だ!と言わんばかりに顔を迫らせてくる。
「ちょ、近い」
「俺はすごく考えて言っている。すごーーーーく考えてから言っている。すごくすごくすごーーーく考えた上で善逸と結婚したいと思っているんだ」
わかった。わかったから顔が近い。
この距離で男前が眼前にあるのはは心臓に悪い。いくら子供の頃から知っているとしてもだ。
しかし、俺も引き下がれない。
「大体なぜ諦めろと言う」
「あのなあ、俺もう二十八だぞ。とっくに適齢期なんて逃してんの。アオイちゃんが赤ちゃん三人も産んだのに俺には一人もいないのが証拠だろ。でも炭治郎はまだ十八。俺なんかと一緒になるべきじゃないって。不幸になるだけだよ」
全て本当の事だ。
歳が十も離れている。それだけが俺を躊躇させる理由で、それがあるからこそ炭治郎の求婚は受け入れられなかった。
が、この男はどうしてもそう思わないらしい。
「…………………………言いたい事はそれだけか?」
「へっ?」
まるでダイナマイトで発破をかけたような音が炭治郎から鳴り響く。いや俺ダイナマイトの爆発音なんて聞いたことないけど。
「年の差程度で俺を諦めさせられると思ってるなら、ぬるいぞ」
「ぬっぬるい……!?」
「俺は! お前が俺を嫌いだとはっきり言うまで絶対に諦めない! むしろなぜ諦めると思うんだ? そんな生半可な気持ちなら十年も言い続けたりしない。俺もそんな馬鹿ではない」
「あ、う………」
炭治郎の顔がいよいよ近い。吐息さえ顔にかかってしまう程だ。
「なあ、俺が嫌いか? 俺は善逸が大好きだ。誰よりも愛してる。俺に、この世界は俺を幸せにする為にあるのだと教えてくれた時から。でも、それはお前なしじゃ成り立たないんだ」
「あ…………」
俺はその時、彼に言った言葉の重みを今更実感した。
炭治郎はもう何も言わず顔を近づけてくる。拘束はされていないので逃げようとすればすぐにでも逃げられる。だけど逃げられない。どうしても。
小さな男の子だったのに。俺の胸の中でわなないて泣いていた、あの小さな男の子はもう―――――どこにも居ない。
「んっ………んん」
炭治郎の舌が俺の口内に侵入してくる。遠慮会釈もなく。
側頭部に手を添えて、指を髪に差し込んでかき回してきた昔から好きだと言ってくれた俺の髪は今彼の手で乱されている。ヘッドドレスが外れてぽとりと床に落ちた。
「ぜんいつ………」
「ん、あ……………ま、待って」
俺は全身の力が抜けているが、何とか腕を上げて炭治郎を押し止める。ここに来てまで弱腰の俺に、悲しみを通り越して怒っているような表情だ。思わず涙が溢れ出す。
「あっ………」
止まらない俺のそれを見て、炭治郎もようやく頭に登った血が少し収まったらしい。
俺は情けない事に、ぐずぐずと泣いてばかりだった。
「ご、ごめっ……お願い、あと少し。あと少しだけでいいの……待って、お願い……」
どうしても気持ちの整理がつけたかった。酷い女だと自覚している。炭治郎が優しいのを知っていて、こんな事を言うのだから。
「………わかった。事を急いですまなかった。待てと言うならいくらでも待つ。嫌いだと言わないのなら……」
諦めないから。
そう言い放って炭治郎は部屋を出ていった。悲しみと怒りと、ほんの少しの期待の音をさせながら。
炭治郎が出ていって取り残された俺はその場にへたりこんだ。
涙が止まらない。
どう嘆いてもあがいても、俺は二十八歳で、彼は十八歳。それだけは絶対に変わらないのだ。
だけどもう逃げてはいられない。
覚悟を決めなければならない。
“大事なものを失う事への恐怖”と戦う事を。
それが彼より早く生まれた俺の、彼の世界に対する責任なのだから。
彼の世界を幸せにする為に。
自分の世界が彼の役に立てるように。
あの日と同じように、部屋の窓から夕焼けあの紅が差し込んでいる。
もうすぐ日が沈むだろう。
俺はほんの少しだけ、夜の闇に紛れて心のざわめきを落ち着かせるよう目を閉じた。