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    空白 


     普通になった夢を見た──。


     
     
     ん? と彼が目を覚ましたところ。
    「アンディ! 大丈夫、アンディ?」
     上から覗き込むくりくりとした緋色の瞳は、彼女の背から差し込む日差しによって影が作られてややモノトーンに映っていた。どうやら天気は快晴。薄く流れる白い雲が僅かに泳ぐ青空は至極心地良い。
     昼寝をするには最適だ。しかしただ休んでいたわけでも無さそうな様子で彼女はアンディを見ている。
     いつまでも寝ていては彼女も不服だろうと彼が起き上がろうとした矢先。
    「イデっ」
     遅れて届く鈍い痛みが頭に響いた。
    「あ、ゆっくり動いて。打ちどころが悪かったかもしれない」
     ああ、何かにぶつかったようだ。よく見ると周りには老若の幾人かがまた不安げに彼へ視線を投げかけている。そこに野球グローブをはめている姿もあり、お陰で何が起きたのかはすぐに思い出せた。
     河川敷の遊歩道を散歩している最中に、簡易で整備された草野球場から飛んできた硬式球が頭に当たったのだ。その瞬間、スローモーションで動くボールの軌道を読めていたのに、避けてしまえば彼女に当たってしまうから敢えてぶつかることに甘んじた。彼の方が彼女より随分背が高いことが大いに役立ったケース。
    「もう……心配しちゃった」
    「気にやるなよ。死なねえんだから」
     何故そう言い切れる?
    「またそんなこと言って! 確かに野球ボールはそんな事故にならないようにできているかもしれないけど、現に今だって一瞬気を失ってたじゃない」
     だから当ててしまった当事者の人たちも大事になっていないか見守っていたのだろう。
    「悪い。でも大丈夫だ。見た目通り、体は頑丈だしな」
     アンディにとって死なないというのは、怪我をしても治りが早いとする意味合いだ。過去にも色々負傷したが、幸いにして今も元気に生きている。
     その様子を確認した草野球チームの団員たちはようやく固唾を下げた。それから改めてアンディへ平謝りを繰り返す。
    「本当に、すみませんでした」
    「いいよ、別に大したことじゃない。ま、俺は良かったけど他の人には当たらないように頑張って練習してくれ」
     長く引きずるつもりもない。アンディは全く何でもないと言った風に振る舞い、彼らを安心させていた。
     そうして去り際に帽子を外して深々と謝罪の意思を伝える礼を見せる一団に、二人も挨拶代わりに手を振って別れを告げた。
     その時胸元辺りまで上げられた彼女の手にふと意識を向ける。何かが足りない。
    「あれ? 風子、手袋……」
    「へ? 手袋?」
     付けていたはずでは?
    「あ、何かそんな気がしたけど、あり得ないよな、こんな春日和に」
    「もう……。やっぱりどっか変なところに当たったんじゃあ……」
     それも一理ある。ほんの僅かな時間とは言え、気を失っていたくらいだから少し呆けが入ったのかもしれない。
    「大丈夫だって。ったく……風子は心配性だから」
     言いながら、白く小さな手を取った。
    「詫びで甘いもんでも買って帰るか?」
     そう提案すれば、眉間に寄った皺も収まるだろうと予想する。それだけアンディは彼女のことをよく知っていた。
    「賛成! 今日は和菓子の気分だなぁ。アンディは? フルーツ大福とか!」
     これは彼女のためであり、彼が是非を決めるわけにはいかないのだが、一緒に食べること自体が心配をかけた反省の印でもある。
    「いいね」
     彼女の幸せな笑顔を引き出せたことにアンディの中で自尊心が湧き出す。
     そうして二人はお店に行く道中、きゅっと手を繋いで遊歩道を行く足を続けた。



     玄関へ入る前に郵便受けの中を確認する。特に毎日手紙が届くわけでないが、夕刊新聞も購読しているため、夕方以降に帰宅する時は必ず一度は中を見る習慣が付いていた。今の時刻は十七時を回ったばかり。案の定既に届けられていた新聞と、水道料金の伝票が一枚入っていたのでそれらを中から取り出す。これは殿を務める者の仕事。
     そして先に扉に行った風子が施錠を外す。ドアがガチャリと開いて、それを上から腕を伸ばして支え、彼女を先に中へ入れるのが決まった手順だった。
    「お茶とコーヒー、どっちで食べる?」
     靴を脱いで上がればその足でリビングへ向かう。食卓の上に持ち帰ったものを置き、いつもの習慣でまずは手洗いから。その手をキッチンの水栓で洗いながら風子はアンディに尋ねた。
    「和洋折衷だからコーヒーも悪かねえな」
     せっかくだから来客用のカップで夕食前の甘味を楽しもう。いつもより高い場所に置いてあるから、それを下すのはアンディの役だった。
     白い磁器に青色で描かれた模様。コーヒーが出来上がるまでそれらを風子に預け、次に別の小さな漆器に買ってきた大福を開けていく。
    「お前、苺か?」
    「えーっと、そうだなぁ、今日はメロンからにしようかな」
    「じゃあお供え分に苺置くぞ」
    「うん!」
     デザートを買うときはいつも一つずつではなく二つずつだった。一つは今食べる用。もう一つは、今はなき家族に供えるため。アンディは二人が明日食べる分を一つの皿に載せて簡易に仕立ててある仏前代わりの写真立ての横に置いた。
    「もう八年か……」
     アンディは写真を眺めながら感慨深く息を吐き出す。その脳裏に浮かぶのは、初めて彼女と出会った日の光景。残念ながら彼女の両親とは生のある状態で会うことは叶わなかった。
    「早いような、短いような、だね」
     竹材でできた角形のお盆にコーヒーを載せて風子が食卓へ戻ってくる。零さないように気を付けてそれぞれの席に置き、次いで彼女も簡素な仏前で彼と並んだ。
     まだ少し寂しい気もする──。そんな様子で風子はアンディの胸に頭を預ける。こうしてほぼ毎日、何かと口実を付けて向き合っているのにその都度センチメンタルな気分が訪れた。もちろんそれだけでなく、今では楽しかった思い出を振り返って自然と笑顔になれるのだが。
     誰も腹を痛めて産んでくれた親の代わりにはなれないだろう。しかしいつかは独り立ちして、己の半身を見つけ、また自分たちだけの新しい道を作る。それに彼女は強い。幼き日に起こった悲劇にただ打ちひしがれるだけでなく、先だった両親のためにも生き延びることを選択した。
     アンディはそんな小さな彼女の肩に腕を回し、支えるようにその手を取る。重ね合わせた大小の手に光る同じデザインの指輪。それはここまで起きた波乱を耐えしのいだ勲章でもあり、前向きな生を行く希望の象徴でもあった。
     いつからだろう、この何気ない幸福の有り難みをひしひしと感じるようになったのは。何事も二人で挑めば解決出来る。数多の困難があろうとも、時々口論をしても、離れた方が良いとは決して思わない。



     一つのベッドに二つの枕。気が付けばこうして並んで寝ることになっていた。
     照明を消して暫く経つと、目が慣れてくると同時に差し込む街灯や月明かりで暗くても周りの形を伺える。
     横ですっかり寝入っている姿。薄く合わさった唇を見て、この無垢が己の物なのだと認めた時は優越感が湧いた。
     それから姿勢を変え、仰向けになって入眠を試みるため頭を空っぽにしてみる。だがそうやってぼーっとしてみるほど頭が冴えてしまうのもよくあることだった。
     閉じていた目をもう一度開いてみたりして眠気を確認する。その時、天井に吊るされたライトと真っ白なはずなのに経年で溜まった汚れで微かな陰影が映る表面に目が留まった。それらの影が何を模しているのか、なんて雑念が混じる。
     そんな特に意味のない思考は実に浮気症で、些細なキーワードをきっかけにころころと思い付くことを変化させた。
     そこへ辿り着いた理由はわからないが、ぼーっ焦点を漂わせている中、蘇るのはこれまでの軌跡。
     あの頃の風子はまだあどけなかった。
     今にも瓦解しようとしている建物の中、煙のせいで一寸先も見えない場所で響いていたいるはずの両親を呼ぶ声。
     今逃げればまだ間に合う。それ以上奥へ進んでしまうと引き返せなくなる恐れがあった。
     刹那にアンディは考える。もし彼女の両親があの先にいたとすれば、十中八九もう助かりはしないだろう。それなら少女は一人になる可能性が高い。孤独に生きる方がいいのか、それとも共に行かせるのが善か。
     残される幼い命にとって最適の道が何であったかの答えは未来が教えてくれる。
     当時はただ見捨ててしまったという悪い後味を舐めたくなかっただけなのだと思い込んでいた。外へ出て、誰かに引き渡してしまえばそれでお仕舞い。その後に彼女がどう生きるかはまさに神のみぞ知るところ。
     だが握っていた小さな手を離そうとした時、果たして神にこの幼子を無事導くことが出来るのかと、言い得ない不安が込み上がってくる。それでも一度は手放した。離したはずなのに、何度も、何度も戻ってきてしまう。
     その後結局彼女の祖父母が迎えに来て、遺骨もない形式だけの両親と共に国へ帰る日がやってきた。
     空港での別れ際、愛する父母のために流した涙もようやく乾いてきた頃だったのに、丸く大きな瞳が再び波に揺れている。
    『また、逢える?』
    『ああ、逢いに行くよ』
     その約束はアンディの生にも目的を作った。



     ──続いてのニュースは⬛︎⬛︎の大学構内で起きた無差別銃撃の続報です。
     ──⬛︎⬛︎で飛行機の事故です。死傷者の数は現時点で二十人以上と確認されています。
     ──……犯人は被害者殺害の理由を『恨みがあった。心無い被害者は死んでも当然と思う』などと供述しており……
     ──今年の失業率は高い水準で……
     ──スポーツ選手である⬛︎⬛︎さんが難病を告白……
     
     流れてくるニュースはどれも暗いものばかり。気の晴れる情報はないかと探してみても、留まるのはせいぜいエンターテイナーたちの乾いた笑い声で、それさえも心底に憎悪が溜まったような話を種としている。世界はどうにも不安定な模様だ。
     辛気臭い空気を作るテレビは害悪だと思える。ソファに腰を掛けてそれらを見ていたアンディも二人の会話を奪う冷めた報道に嫌気が差し、背を起こして手にしたリモコンでスイッチを切った。
     そして隣で曇った表情を見せている風子を抱き寄せ、黒い髪に隠れた額へ口付けを落とす。
    「悲しいニュースばかりだね……」
     それには同調せざるを得ない。
    「そうだな」
     だが暗い顔をしていては幸運も逃げてしまう。
    「でもね、これらの裏ではきっと誰かが幸せになっている、って思うんだ」
     そうだといいが。
    「私ね、時々……私が幸せだから、周りが不幸になってるって考えるの」
     不思議な話だ。しかしアンディは黙って風子の話に耳を傾ける。
    「この世界は神様がシーソーの上に置いてバランスを取っているから。誰かが幸せになったら、誰かが悲しい思いをする。本当はみんな一緒で何気なく生きているのが一番なのに、ある人がそれを破ってしまったら、他の人がその差を穴埋めしなきゃいけない」
     そう持論を出す風子の瞳は未来と過去を同時に見据えているような色を含んでいた。
    「私は、両親を失ってあなたと出逢った。あなたと一緒に居る時間と引き換えにパパとママとはお別れをした。今の私はとても幸せ。あなたと居られて本当に嬉しい。だからそのためにパパとママは一緒に居られなかった」
     複雑な感情が巡る。風子は後悔すらも滲ませていない。だからと言ってそれでよかったわけでもなく、アンディはただ聞き入るに務めていた。
     神──この存在をアンディはどこか信じられないでいる。もし風子の言う通りなら、神は人間を助けるのではなく、単に世界が在ることだけを目的とし、循環を永遠に繰り返させている傍観者だ。人が怪我をして、病気になって、死の淵で喘いで「神の加護を」と祈っても、手を差し伸べたりはしない。
    「もしそれが神の仕業なら、それは神様じゃなくて悪魔じゃないか」
     罪のない人から何かを奪うなんて行為が是であるはずもない。
    「アンディは、昔から神様が嫌いだよね」
     風子だって特別信心深いわけではなく、慣習的な願掛けをする程度。反対にアンディは何かにつけて神を否定する。これはただの傾向であり、それが二人の諍いになりはしない。
    「神様のせいで誰かが不幸になるなんて、納得できないからな」
     


     怪我をすることはアンディにとって日常茶飯事だった。外を歩けば棒に当たるの理論で、出血を伴うものから、痣だけで済むもの、骨に響くもの、火傷など、程度は様々ながら一週間で少なくとも一回は負傷する。痛みにもすっかり慣れてしまい、お陰で危機意識が無いと風子から怒られる始末。
     もちろんそれは、例え命に別条がなくても、大切な人が傷つくのを黙って見ていられないが故。彼女と出逢う前の話だが、かつては「死にたがり」なんて異名も付けられたくらいだ。それだけ生に無頓着だった。
     それも今では自分だけではないとする自覚が芽生え、かなり注意するようになった方だと言える。元々自殺願望があったわけではない。困っている人を放っておけない性分があり、それが生死を分ける窮地に置かれた時に、自分のことを顧みずに衝動で助けに行く節があった。結果としてその過程で大怪我をしてしまい、周りからは「自分が死んだら元も子もないのに」と呆れ返られる。
     幸いにしてあの日まで生き延びた。だから現在こうして彼女と共に居る。
     それでもまだ少し気を緩めると、怪我が勝手に引き寄せられるようにアンディへ纏わり付いていた。
    「す、す、す、すみませんっ!」
     公園を散歩している最中、そこに整備された野外のコートでバスケットボールをしていた高校生くらいと思える少年たちが二人の元へ駆け寄ってくる。気の知れた仲間たちなのだろう。多少ふざけていたのか誰かがリングボードに向かって強くボールを投げ、回転のせいか角度が変わった軌道は仕切られたフェンスを上手く越えてまたアンディに向かって飛んでくる。
     少年たちが叫んだため、何事かと上を向いたことで、見事に正面から顔でボールを受け止める形となった。勢いがあまり弱まっていなかったから、ガツンとした衝撃の後、じんわり鼻が痺れる感覚。
    「お……おう」
    「またぁ……」
     風子も心配はすれど、あまりに怪我をする回数が多いので、毎年厄年だと冗談を言うくらいにはなっていた。
    「大丈夫ですかっ?」
     そんな日常を知らない当事者の少年たちは相当に慌てふためいている。彼らは一般の通行人に迷惑をかけるつもりなど皆無だったからまさかの事態だ。
     もし悪意があったのならまだしも、ただ無邪気さが仇になっただけの少年たちを責める気など毛頭なく。
    「いいって、気にするな」
     とは言ったものの、鼻筋に湿ったものを感じる。
    「アンディ、鼻血が……」
     そう言うと風子はすぐにティッシュペーパーを取り出した。それに甘えるべく、アンディも腰を屈めて彼女が届く位置へ顔を寄せる。
    「んっ……わりぃ」
     風子は良い看護師になれる、などと軽口を発すれば少し強めに鼻を摘ままれた。
    「イダッ!」
    「患者様は大人しくされてくださいな」
     こんな惚気たやり取りを見せられて、少年たちも安心したようだ。相変わらず平謝りをしているが、デートの方が重要だから二人で居させてくれと頼めば、大の大人の恥ずかしげもない主張に彼らも自然と笑みが漏れた。
    「次からは注意してやれよ」
     いつもの台詞で締めくくる。
     


     アンディはベンチに腰を掛けて、風子に鼻の様子を見てもらっていた。どうも出血は止まったらしい。骨も触ってみるが幸い折れた徴候もなかった。
    「どうする? 詰め物しとく?」
    「うーん……かっこ悪いよなぁ」
     見た目に拘るところではない。それでもそこに引っ掛かるのは、やはり彼が如何に傷病に対して関心が薄いかということ。
    「私は別に気にしないよ」
     むしろ血が付いて服を汚す方が気になるだろう。それは理に適っている。
    「もうちょっと安静にしとけば良いだろうから。だったら上になって休む」
     だから風子がベンチの端に座るのを待ち、そうして作られた膝枕に頭を休めて仰向けになる。長身のせいで足は完全にはみ出していてもお構いなし。
     彼女も慣れたもので、すぐに甘えたがる大男の顔を上から覗き込み、片手を彼の胸に置きながら、反対側で崩れた髪を撫でていた。
     春先の陽気と好きな人に包まれる心地。アンディも気分が穏やかになり、つい寝てしまいそうになる。何も急ぐことはない。
     そうして目を閉じている中、風子の指が滑っている感触を悟る。ばらけて額に掛かった髪を避け、薄い眉の形を辿る指先。頬を撫でられ、親指は唇の上を這った。
     好奇心でやってきた小魚を食べる捕食者の如く、アンディはその指をぱくりと口に含む。
    「起こしちゃった?」
    「……ずっと起きてるよ。旨そうだから食べた」
     片目だけを開けて、悪びれなく答える。そして甘噛みし、ちょっとだけ子供のように指の先端を吸った。
     こうした時に見せる彼女の柔らかい表情には、変化のない生を続けるのも悪くないと絆されてしまう。このまま永遠に時が止まればいいのに……彼女と一緒ならば。
     風子のもう一方の手は引き続き頭に触れ、髪を梳くように前髪から手櫛を入れてかき上げた。何度かそれを繰り返すと、髪はその通りに癖が付く。そうやって開かれた額を見て、彼女は左目の上にある傷口を指で象った。
     中心よりやや左寄り、生え際の上から走る傷は未だに消えていない。目を閉じれば瞼にも映り、微かながら目の下まで続いている。そこで折り返してもう一つの端はこめかみの近くへ到達した。風子の手であれば拳大くらいはあり、傍から見てもよく目立つ特徴だ。
     それを眺める風子の視線は憂いを含む。
    「私が付けた傷……」
     アンディはその手を取って口付けた。
    「お前のせいじゃない。瓦礫が当たっただけだ」
     あの日、彼女を外へ連れ出す道中。倒壊の危険を孕む中、火災もあって砂塵の混ざった煙が視界を塞いでいた。微かに見える目印を頼りに出口を探す。
     小さな体は傷つかぬように胸の内に仕舞いこんでいた。既に死の概念を理解していた少女はその道が両親のある方でないと理解して、それでも従順に青年と行くことを選んだ。
     この時点で二人が助かる見込みは未知数。出口に障害があり、閉じ込められている可能性も否めない。だから最短の道を探して進む。
     階下の梁が歪み、重心が変わって建物自体が支えきれなくなって、コンクリート片がぼろぼろと崩れ落ちていた。そのため足場もなく、大きな瓦礫は退けていかなくてはならない。しかし触ればさらに崩れていく。
     体中に無数の傷が付いていただろうが、命を懸けた場面ではそんなことを気にする余裕はなどなかった。
     ただ一つ、まだその先がやっとの出口と分からずの地点で、近くで起こった小規模の爆発が吹き飛ばした破片が左の前頭部を掻き切った時、さすがのアンディも一旦膝を付くほどに痛みを感じた。血が流れ落ち、片目を赤く染めていく。
     常人であればきっと意識を失ってもおかしくない。彼も一人であったのなら間違いなく匙を投げていただろう。
     彼の足を進めたのは神への疑念と少女の鼓動だった。この手は神に託せない。執念に近い意識が今日へと繋がる結果となる。
     風子がこの傷を自身の責だと考えているのは、もし彼女を助けずに彼だけで脱していれば、あのような大怪我をすることはなかったはずだと仮定しているせいだ。しかしあの時がなければ彼自身も今の幸福を得られなかった。
     これは勲章であり、呪い。見るたびに思い出す、あの日のことを。
     


    「よく似合ってる」
     その言葉に嘘偽りはなかった。
     漆黒の髪に乳白の肌が合わさり、大きく丸い緋色の瞳が印象的なはっきりとした顔立ちの風子には、陰影によってボルドーが混ざる赤いドレスがよく映える。輪郭も丸みが付いていて、年の割にはそれよりも若く見えてしまうが、こうしてフォーマルな装いをすると、愛らしさと妖艶さを同胞させる魅力を醸し出していた。短い髪は逆に首筋をすっきりと見せ、大人びた雰囲気を作っている。
    「あなたのスーツも素敵」
     薄く化粧を施した雪玉の頬に浮かぶ桜色。
     彼女が指摘した通り、アンディもかっちりと髪を整え、ベストの付いたスリーピースを着込んでいた。彼女の真紅に合わせて胸元のポケットチーフも赤色。右手には革の手袋を持ちながら、彼女の手を取るために左手を差し出す。
    「さあ、行こう」
     二人が向かったのは迎賓館に付随しているレセプションホール。そこで開かれる縁のある人の結婚式に招待されていた。
     中に入ると披露宴の真っ只中。控えめな室内楽がアンビエントを演出し、参加者たちはそれを背景に談笑していたり、パートナーとダンスに興じている。
     彼らが到着したばかりだと気付いたウェイターがカクテルを勧めてきたので、アンディはアンバーの色味が掛かったものを一つ取って先に風子へ渡し、次いで無色に近い透明にオリーブが入ったグラスを自分用にと受け取った。
     その足で空いているテーブルを探す。体よく見つけた場所で、席に着く前にそれぞれが一口ずつカクテルを含んだ。
    「美味しい……、甘いのにすっきり」
     風子の好みを見分けるなんていうのはアンディにとって初歩の一手だ。
    「お気に召したなら何よりで」
     微笑みそう返す彼の分は、ジンとベルモットだけのドライなもの。アルコール度数も高く、風子へはまだきつい味だろうが、アンディには最初の気つけとして丁度いい塩梅だった。
    「せっかくだから……。手始めに一つお付き合い頂けますかな? 白雪の君」
     場所柄、わざと畏まって誇張した物言いをしてみたくなる。アンディは腰を低くして出来る限り視線を真っ直ぐ水平に風子へ合わせると、もう一度左手で、ドレスと同じ色で覆われた手を引く仕草で誘い文句を投げかけた。
    「これはこれは。こんなに素敵な殿方のお願いとありましたら全く断れませんわね」
     無邪気な笑みを浮かべた彼女も敢えて口調を揃えて答える。
     それに釣られてアンディは白い歯を覗かせながら目を細めた。
     あれは一体誰の結婚式だったのか。
     


     鐘が鳴る──そして沈黙が訪れる。
     十年前の今日、多くの人が自己の運命に向き合った。犠牲者の数は今でも正確に把握されておらず、遺体を回収出来た場合や遺族の申告で現場にいたと推測され、そこから音信が途絶えた行方不明者を除いては、その生死すら確認できていない。
     ここへ戻ってきたのはあの時以来、今日が初めてだった。テレビで式典を見ることもあり、いつかは行かねばならないと言い聞かせてきたが、結局これまで風子もあの日と向かい合う勇気がなかったから先送りにしていたのだ。
     話し合って、いよいよ将来の誓いを取り交わす日を決めた時に二人で決めたこと。
    「何も言わずにはちょっと不義理な気がする」
     アンディがそう言った理由は、弔いたいはずなのにどうしても現実から目を逸らしているような風子に口実を作るため。トラウマになってもおかしくない惨劇だったから、当然未だに恐怖心もあっただろう。死を理解していても、まだその先に御伽噺の世界が混ざっている年頃だったせいもあって、何処か夢現で追々も引きずることはなかった。あるいは少なくともそうは見えなかった。
     しかし心底では思い出したくないと記憶に蓋をする、若しくは脚色して望む過去と挿げ替えてしまうのも無理はない。それでもここを乗り越えてこそ、ようやく二人で歩き出せるのだとアンディは信じていた。
     喪服に身を包んだ彼女の横で、彼もまたかつての制服だった礼服を着用し、共に黙祷を捧げる。六十秒ほどの間。その緊張が解けると同時に、周囲から啜り泣きから咽び泣く人々の声が湧き始めた。
     風子の涙も涸れてはいないが、もう情緒を乱すことはない。いや、なぜか彼女は以前からこの件に関して感情を顕に泣き尽くすことはなかったと記憶している。
     それは彼女が強いからなのか。
     だがアンディはそれに疑問も持たず、薄い透明の筋を頬に引く風子の肩を抱くだけ。
     式を主催のする市警の号令で関係者一同は姿勢を正し、顔を上げる。そして殉職した仲間と犠牲になった全ての命に敬礼を捧げた。
     草木を揺さぶる回風で舞い散っていた葉は、まるで死者の魂のように参列者の間を吹雪いていく。



     東風が頬を撫でる心地良さ。その中で彼女の膝枕に寛ぐことは贅沢だとさえ感じていた。
     周りとは距離があるのか、草花が擦り合う音の方が際立つほど、人々のはしゃぐ声を遠くに聞き取る。
     天気がいいのは間違いない。お陰で太陽の眩しさゆえにずっと目を閉じていた。
     相変わらず一定リズムで髪を梳く小さな手。この手を引いて、守っていくと彼は誓った。なのに、不思議とこの手に包まれ、守られているのは自分ではないかと錯覚する。
     こんなに小さいのに、何にも代え難いくらい強く、優しい。
    「お疲れ様、アンディ」
     頭上から柔らかな囁きが降ってきた。
    「今はゆっくり休んでね」
     ああ、出来るならずっとこうしていたい。
    「また……ね」
     
     
     
     ────
     
     
     
     目が覚めた時、アンディは目尻から溢れていた雫の跡を感じた。
    (逢いたい……)
     二〇二〇年十二月半ばの朝。
     
     
    【了】
    ぴー子[UDUL] Link Message Mute
    2022/01/06 15:23:21

    空白

    人気作品アーカイブ入り (2022/01/07)

    ##パラレル


    夢の中の話。
    夢なので脈絡なかったりぼやっとした感じに構成してみました。あの夢を見る時の虚無感やふわっとしつつも起き抜けにぎゅっと胸が詰まる感覚を考えながら書きました。

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