香りを繋ぐ
「だ、大丈夫か、テラー!」
耳鳴りがする。ベースにしていた場所に榴弾が飛び込んでいたのだ。頭を打ったのか、意識もはっきりしない。
「衛生兵! 早く!」
視界が定まってくるとそこには数名の仲間の姿があった。
「……な、にが……」
「喋るな! じっとしてろ。ドック! こっちだ。テラーが……」
朦朧とする中、別の仲間が処置を始めた。
全治一か月。出血が多かったものの幸いにして致命傷にはならず、医療担当者の腕も良かったおかげで、爆発の衝撃によって吹き飛んできた鉄筋が刺さった脚は主要な血管を傷つけていなかったため、暫しの戦線離脱のみで済むとの診断だった。
「見た目の割に、お前は意外とタフだよな」
そう声を掛けたのは出身国の違う、目鼻立ちが非常にはっきりした彼と同じくらいの歳と背格好をした男。
「なんだよ、見た目の割にって」
通信兵という肩書のせいか、衛生兵と同様どうにも後方支援の立場で見られがちだった。しかし武器の扱いにも慣れているし、肉弾戦にも対応できるよう普段から体も鍛えている。参入前のトレーニングでも前線に立つ仲間に匹敵するかそれ以上の成果を出したくらい準備を欠かさない。
「まあとにかく、死ななくてよかった」
それは誰にでも言えることであるはずだが、如何せん死と隣り合わせの日々を送る部隊だ。仲間が死んでも前を向き続けなければならないほど過酷な環境で、一人でも多くの仲間に生き残って欲しいと思うのは当然だろう。
同僚が安堵の表情で彼が生き延びたことに喜びを感じてくれているとわかり、彼もはにかみながら微かな笑顔で答えた。
そこへ衛生兵がやってくる。回診の時間。他にも負傷者はいるため全くついでではあるが、こまめに様子を見なければすぐ戦線に帰りたがって無理をすると見越していると言われれば、先ほどの笑顔は一転苦笑いに変わり、同僚もくくっと肩を揺らして笑っていた。
「どうだ、テラー。痛みは?」
「ああ、だいぶマシになった」
彼はあっさり答えたが、この時点で件の攻撃から僅か二十四時間後。普通であれば縫合の痛みなどもまだ残る頃で、ドクターは呆れた顔を浮かべている。
「言っとくが、ちょっとやそっとの痛みは我慢できるだろうけどな、内部組織の再生には時間が掛かるんだ。早く完治させたかったら無理な動きは控えてくれ」
言いながらドクターは数か所にできた彼の傷口を確認し、また同僚の補助を受けながらガーゼの交換を行った。その時に、わざとらしくその辺りを強く押す。
「っつ──!」
「ほらな。やせ我慢はするなよ。まずは治療に専念しろ」
やや乱暴であるが、彼が頑固であるのは仲間たちもよくわかっていた。だからこそのお灸。
処置が終わるとドクターは次があると告げて、別の療養者へとその場を後にした。
そして彼もその意見が的を得ていることは重々にわかっている。半端な状態で戦線に戻っても仲間の足を引っ張ったりするのがせいぜい。目算では一週間ほどで大まかな組織は回復し、翌一週間で深いところも治癒していく。二週を過ぎたあたりから負荷をかけたリハビリを行い、一か月で復帰するスケジュールは確かに現実的だった。
ただ日々戦局が荒れる状況で、他の仲間たちの動向も気になる。
「そっちは俺が見といてやるから、ドクターが言ったみたいにお前は百パーセント治すことに集中してろよ。お前が寝てる間に隊長も来てそう言ってたぜ」
都度報告は入れてやるから、とも同僚は付け加えた。
「ああ、今回ばっかりは大人しくするしかなさそうだ」
彼だって聞き分けのない子供ではない。ましてや長の指示とあれば無視するわけにも行かず、素直にその言葉を受け入れた。
それでいい、と同僚は大げさに口角を吊り上げて笑顔を見せると、上着の胸ポケットを弄って小さな巾着袋を取り出して見せた。その中には石のようなものが。
「こいつはさ、鎮痛作用とリラックス効果があるんだ。結構高価な珍品として外国にも出てるらしい。味はお世辞にも旨いってことはないけど、ガムみたいに噛めば気分が落ち着いて、回復も早くなると思うぜ」
言われて彼は一つ手に取り口に含む。ガムというにはぼそぼそした屑を食べているように感じたが、何度か噛んでいくうちに一つにまとまって本当にガムのようになっていった。
「本当に不味いな」
まるで木を齧っている気分。それが本音でも同僚の気遣いに感謝し、これだけ不快な味をしているとやる気も削げて休むしかないと皮肉を言えば、相手も声を出して笑っていた。
その後その同僚は戦線に復帰するも、テラーが戻る前に戦死したと知らされる。
誕生日が来ると思い出す──悲しく、辛い、神の悪戯。
「じゃーん! 今日のロングケーキバーはナポレオンだよ。どうかな? タチアナ」
幾枚にも重なったパイ生地のケーキだ。中には彼女の大好きな苺も入れてみたという。パクっと一口齧ればバターの風味が漂う甘いカスタードクリームが味覚いっぱいに広がった。
「とってもおいしいわ! ビリー様、ありがとう!」
化学班特製のブラックメタル装甲も食事の時は扉を開けていられる。ただしこれも彼にしか許せない動作だった。なぜならタチアナは服を着ることが出来ないから、中を見ても良い人物は限られる。
そんな乙女心を掬って、目の見えないビリーは真っ先に彼女の食事係に立候補した。
「それはよかった。ここのところ任務で忙しかったからなかなかケーキをお願いする時間もなかったものでね」
その日には絶対に間に合わせたかった──という気持ちは口に出さずとも滲み出てしまったのか、あるいは多感な年ごろである少女の直感が冴えていたからか。
「ありがとう……ビリー様、本当に……。この日にやっと苺のケーキが食べられた」
タチアナの声は決して悲しみだけに囚われてはいない。しかしやはりまだ感情のコントロールは困難だろう。
そう、この日は彼女の誕生日。幸せを約束されたはずの一家に突如訪れた悲劇は全く誰の責任でもなく、偏に絶対なる存在の気まぐれに過ぎない。
数年前の今日、タチアナは否定者に選ばれた。決して名誉なことでもなく、永遠に償いきれない罪を負って生きる道。否、行き場のない怒りや悲しみで情緒が乱れた人間は死ぬことも選択肢とする。神はその葛藤を見て嘲笑っているだけなのだ。
彼女にはそんな理不尽な意思に屈してほしくない。だからこそビリーはあえて苺のケーキを選んだ。
「君が……喜んでくれたのなら、良かった」
その声はタチアナに優しく響く。そしてそれは後ろを向いてばかりではいられないメッセージでもあった。
「ねえ、ビリー様……」
「なんだい、タチアナ?」
「こんなプレゼントをもらってそれだけでももちろんすごく嬉しいんだけど、もう一つだけお願いしてもいい?」
彼ならそれを聞いてくれると思っていたから。
彼もそれを二つ返事で快諾した。
翌日、調査と命を受けて二人はロシアの地にやってきた。
ビリーの話を聞いたジュイスはすぐにスタッフの情報を確認し、近そうな任務を指定する。それでも優先順位は低いからと、寄り道することも肯定されていた。
街から外れた農村。あの日以来『謎の失踪』に巻き込まれた一家の記憶は組織によって周囲の人々から抹消されたらしい。彼女が僅か五歳の時に破壊した残骸は跡形もなく撤去されており、唯一不可触エリアの圧力で出来た不思議な紋様が地面に残っているだけだった。
何もない。目の見えぬビリーも空気や音の反響からかそれを理解している。
『もし……あの日がなかったら……』
否定者になった人であればきっと誰しもが一度は考えること。
何がどういう仕組みでそうなるのかは文字通り神のみぞ知るところ。ただ足掻いても、藻掻いても、何度死んでも、何度生きても、その運命には抗えないのだと、漠然とながらビリーはわかっていた。それならば何故に──彼女──なのか。
それすらも、全ては神の御心のままに。
タチアナがぽつりと感慨に耽っている横で、ビリーはゴソゴソとジャケットのポケットから何かを取り出した。その中身を誰かが捨てて行ったであろうスチールの空き缶に入れてから手持ちのマッチを擦って火をくべる。缶に入れられるときに、それは石ころのようにカランコロンと音を立てた。一見堅そうな粒は火が灯されても暫く燻ぶった様子でいる。
それは一体何なのか。タチアナが尋ねようとした矢先、缶の中から煙が上がり、また木々のような独特の香りを漂わせ始めた。
『ビリー様、それは?』
「これかい? これはね、乳香と言って、この地域の人々が死者の魂を清めるために振る舞うお香だよ」
君の両親がいつまでも安らかに眠っていられるように──。
その気持ちだけでもタチアナは後悔とは異なる想いに胸を締め付けられそうだった。
『ビリー様は物知りね』
「古い友人がね、分けてくれたものだったんだけど、君とここに来る時にはってずっと考えていたんだ」
彼女の両親は絶対に彼女を恨んだりなどはしていない。いつか彼女がこうした伝統を語り継ぐ日が来て、彼女自身が十分な生を全うした後に同じ煙で空に導かれることを望んでいる。
ビリーはそこまでを口にすることはなかった。それを叶えるためには、誰かがやるしか、そして、誰かが犠牲になるしかない。
タチアナはその薫りをもっと感じたいと、装甲の扉を開けて、周囲の空気と共に煙に混ざる香のエッセンスを取り入れていた。
立ち寄りたい場所があると風子が言ったから、アンディはせっかくの機会だと提案を受け入れた。
都会の中にあって、自然に囲まれた厳かな土地。湿っぽさが残る空気が漂う。
この世に『出雲風子』という存在はいないことになっているが、故人に対する記憶まではどうやら消さずに置いておいてくれたらしい。
堂々と佇む石碑を前に風子は複雑な表情でいる。
──出雲家之墓──
彼女の両親もまた、娘の身に起きた不可思議な強制によって命を落としたのだ。今年はいよいよここで一緒に眠れるかと思っていたのに、共に歩く男によってその計画は先延ばしとなる。
「ほら、これ。さっき買っといた」
「あ、うん、ありがとう」
「それからライターな。一人で大丈夫か?」
「うん! いってきますも、言ってなかったから……」
風子は差し出された線香の束とライターを預かり受けると、着火してから香台に置き、墓前で改めて両の手を合わせて目を閉じた。
祖父が亡くなるのまでの間に教わった習慣。お香の匂いに紛れ死者の国へと続く扉が薄ら開かれるという迷信は、今ならなんとなく真実のような気もする。元々香木には空気を浄化する効果があると言われ、世俗にある身を清め、神聖な存在になった故人と対話するために用いたと伝わっていた。
もし再び両親と話せるチャンスがあるとしたら。風子が心に抱えていたのは三つ。
命をくれたことへの感謝、命を奪ったことへの謝罪、そしてもう少しだけ生きることを許して欲しいとの願い。
香に精神が導かれていたのか、風子は言葉には出さずそれを祈る。
丸まった小さな背中を眺めていたアンディも、それとなく彼女の思いを悟り、口を噤んでいた。
「俺は力に施設のこと教えてやるから」
二人は新しい仲間を迎え入れて基地へと戻り、職員が手伝ってはくれるがいきなり知らない人間とだけ行動するのは心細いだろうとアンディは男同士の誼もあって同行を申し出た。
風子もその判断に賛成だ。
「私もタチアナちゃんにお土産買ってきたから早速渡しに行ってくる!」
「おし、じゃあ後であいつの部屋に迎えに行くからな」
風子は未だに迷子になるからと、アンディは揶揄う。それに膨れっ面で返すのも最早定番で、これは二人の距離が少しずつ縮まっている証拠だ。
しかし今日はただの揶揄ではない。出発前のことがあって、彼女の居場所がここ、すなわち自分のいる所となり、そして彼女が生きる意志を表明してくれたので、これからは悲しい思いをさせたくないとする意図も含んでいた。
しんみりとはしない。風子も風子で夜明けを迎えたように心がスッキリ晴れ渡る気分だった。そうした軽い足取りで友人の部屋をノックする。
「タチアナちゃーん、戻ったよー」
『お帰りなさい風子! 入って!』
その声に従って、風子は遠慮なく扉を開けて中へお邪魔した。
『チカラの勧誘は成功したんだって?』
「そうなの。タチアナちゃんも力くんは見どころあるってジュイスさんに推してくれてたし、本当に良かったよ。あ、これ、お土産! パンパンダシリーズ日本限定品アンパンパンダ!」
『きゃー! これこれ! 欲しかったのよねー。齧られた頭がかわいいの。ありがとう、風子!』
「どういたしまして! この間もらったお礼だよ」
まだ十代である少女達は世界の状況を理解しているも、年頃らしい会話に花が咲く。そんな彼女らを危機感がないと咎めたりするような者は当然ながらここにはいない。
それからアンディが来るまで、二人は漫画やゲームのこと、最近の食事やラボの変わった研究についてなど、時間を忘れるくらいに話を弾ませていた。その最中のこと。
『あれ? 風子、今日は何か違う匂いがするわね』
「えぇっ⁉︎ ヤダ、まだお風呂入ってないから汗の匂いかな?」
タチアナの一言を受けて、風子は言いながら自身の腕の周りやシャツの襟などをクンクンと嗅いでみる。
『違うわ。これは……前に匂ったことがあるの。お香で……』
「乳香か?」
その声はアンディのもの。
『ちょっと! ゾンビ! レディの部屋よ、ノックくらいしてちょうだい!』
言い終えるよりも前に、タチアナは思わずそこに居た不死の男へ鉄拳を打ち入れていた。
おかげで部屋の外へと強制退出させられた彼は、すぐに身を再生させて反論を述べる。
「しただろうが! お前らが盛り上がって返事もしないからって中に入ったのに全然俺に気付かず喋り続けてたんじゃねえか」
全く……と愚痴を溢しながら大袈裟に埃を払う仕草。共にぐしゃりと潰されてしまったクロもとんだ災難だと目に涙を浮かべていた。
「でもアンディ、乳香って?」
風子は戻ってきたアンディに質問を投げかける。
「あれだよ、さっきの線香に入ってる材料」
「あ!」
言われて風子は、彼女がユニオンに入るきっかけとなった人の形見であるジャケットを外して鼻を近づけてみると、確かにその布地には先程捧げた香の芳りがしっかりと染み付いていた。
『そうだわ、これ』
「お前の国じゃあパニヒダに使われる匂いだ」
『アンタも、知ってるの?』
「昔、あの辺で仕事してたことがあってな」
タチアナのセリフから、アンディはその背景を読み取る。そして彼女に死者の弔い方を教えた人物もまた、身近に死が溢れた過酷な環境を生きていたのだろうとも推測した。
死と無縁。アンディは己を振り返ると同時にここに居る二人の少女について考える。
風子もタチアナも、科された否定の力で両親と死別することになった。幼い少女達に訪れた突然の別れ。意味も分からずに見送ったことだろう。
彼女達が改めて死という概念を知った時、愛する家族の居場所を見つけ、そこへ行きたいと願ったのはごく当たり前だったのかもしれない。だから殺して欲しいと懇願し、自殺を試みた。
それでも今こうして二人が笑っていられる瞬間、これこそが彼女達の両親が望んでいるものではないか。それが神に負けない希望。
「まあ慣習とか迷信はそれなりに科学的根拠があって、香の原料には殺菌したり痛み止めの効果があるから、怪我や病気を治すって目的でも使われている歴史がある。だから生者にとっては死から遠ざかるって意味もあって、それを薫くのは『お前らはまだ生きろよ』ってことだ」
アンディも、ビリーもきっとそれを願っている。
「どうりでアンディと同じ匂いだなって思った」
「は?」
意表を突かれた顔でいるアンディに、風子は近寄ってシャツに鼻先を寄せた。そしてくんくんと一嗅ぎ。
「ほら、この匂い。今日のお線香ってどっかで匂ったなぁって思ったんだよね」
「? ……あ! って風子、お前犬か? 鼻が利くな」
その答えはまた風子とアンディが二人きりになった時にわかる。
なぜなら『これ以上は暑苦しくて敵わないからさっさと部屋に戻りなさい』とタチアナに追い出されてしまったから。
【了】