過去著まとめ目次補足
『あなたがくれたもの』20200915著
スポイル戦後の風子さんお目覚めまでの間の話。風子さん視点とアンディさん視点。
『DEAD END』20201010著
アンディさんの独白。色々過去捏造。
『諱 ──イミナ──』20210515著
名前の力。名前があるって意味は大きいよね。
『あなたがくれたもの』
無我夢中だった。大きく抉られた地形の崖を滑りながら彼がいるその場所へと降りていく。
自分の能力は『不運』と呼ばれているけど、運が悪いで命を奪ってしまうなんて、それこそ神様の意地悪じゃないか。
彼の肉体は傷口が焼かれているほど回復が遅い。運が悪いからそうやって治りにくい負傷が起きてしまう。
それでもこの日ばかりはそのおかげであの怖い存在を止めることができた。彼が言っていたように上手く使えば力になる。ただ誰にも触れてもらえない、触れさせられない自分の能力は恨めしい。
そんな自分に触れてくれた彼のため、手を差し伸べてくれた人のために風子は息もからがら、カードを手に彼の肉塊へ駆け寄った。
「お願い! 帰ってきて!!」
そう強く願って例のカードを元あった彼の左目の上に射し込んだ。
その瞬間、背後から大きな影が迫ってくる。隕石の衝突の反動で迫り上がった海水だ。それが大きな波となって風子と彼がいるクレーターの中に流れ込もうとしていた。
「あ……っ」
すでに手遅れだった。彼女が声を上げる間もなく、大量の海水が容赦なく降りかかる。打ち付ける水の衝撃は相当痛かったはず。しかしそれを正しく自覚する余裕はなく、あまりの痛みによってか、あるいは溺れて水を飲んでしまったからか、波が風子の体を拐って別のところへ引き込んで行った時、すでに彼女の意識はなかった。
──真っ暗な闇の中を彷徨っているような気分だった。
私は一体どこへ行くの? 何をしてたんだろう。
思い出すのはあの日のこと。パパとママがいなくなって、たくさんの人も亡くなった。
どうして? どうしてパパとママは死んじゃったの?
そのあと学校に行ったら、みんなが慰めてくれたな。でも傷ついた心はなかなか元に戻らなくて、なんとか空元気を振り撒いてもずっと影を負ったままだった。
中学校へ上がる前に担任の先生が卒業の準備をしようと家まで来てくれたんだ。優しかったなぁ、先生。その日の帰り道に事故で亡くなってしまったけれど……。
なんで私の大事な人は死んでしまうの?
誰かが言った。確か、同じ学年の子だった気がする。
「風子ちゃんの周りは、よく人が死ぬよね。呪われてるのかな」
まさか? 私のせいなの? 私のせいで、パパも、ママも、よくしてくれた先生も死んじゃったの?
いやだ! もう誰も傷つけたくない!
私が家でじっと大人しくしていればいいのかな。外へ出るのが怖い。また私の周りで誰かが死んじゃうかもしれない。神様! お願い、私を助けて!
人が死んだ? 大怪我? あぁ、きっとまた私のせいだ。どうしてだろう。
そうだ、この間あの人に触れた。偶然だった。いつも親しげに話しかけてくれる近所の優しいお兄さん。その人がバイクの事故で亡くなった。
私は呪われている。例えほんのわずかでも私に触れると何か悪いことが起こる。服を着ていると大丈夫みたい。でも髪の毛に触れるのもダメ。全身を包み隠そう。誰にも触れないでいよう。
こんな生活、ちっとも楽しくない。寂しい。誰もいない。
あぁ、この漫画はいいなぁ。こんな素敵な恋が……したかった。でも誰も私に触れられない。ううん、触れてほしい。でも触れたらその人は死んでしまうの。大好きな人がいなくなるってすごく辛いよ。
来月にはいよいよ最終巻が発表される。もうこの恋物語も終わるんだな。
そうだ、私も終わりにしよう。
死ぬのは怖い。でも他の人が死ぬのはもっと怖い。私だけいなくなればいいんだ。この世界から拒絶された私だけが……。
わっ! 眩しいっ!
誰? 誰かが私を外へ連れ出した。
アンディ!
待って! 私を一緒に連れて行って! あなたのこと、何も知らない。でもあなただけが私に触れてくれる。呪われた私に。
外にこんな世界があるなんて知らなかった! ご飯が美味しい! 一緒に食べるとこんなに美味しいんだね。いつぶりだろう、誰かとご飯を食べるのは。
どこにも行かないで、アンディ。ずっと一緒にいて。一人にしないで。お願いだよ。
貴方は誰!? 知らない人!
アンディ? どこにいるの?
アンディはもういない?
いやだ! 信じない! また私は一人になるの?
いやだ! 絶対にいや! アンディを返して!
「アンディ!」
「おう」
目覚めた風子はガバっと起きあがってすぐ、ベッドの側で椅子に座っているその人を見た。ずいぶん長いこと寝ていたようで、彼は101巻もある風子のお気に入りの漫画を全部読み切ってしまったという。
夢に見ていたのは、あの日の光景。彼の顔をした、彼ではない何かがが、彼はもういないと言った。でも彼は今目の前にいる。
風子は込み上げる感情のまま、それでも不運を起こさないために直接触れない手段として枕を投げて彼を殴る。殴ると言っても先程まで昏睡していた体に力はなく、彼にはただ普通に触れている程度にしか感じてはいなかったが。
風子は涙を流して抗議する。
「勝手なことして! 帰ってこれなかったらどうする気だったの!」
彼は無言で聞いていた。
「……私、また……一人になるよ……」
もう孤独はたくさん。しかし自分の思いよりもずっと、自分に触れてくれた大切な人が死んでしまうという辛さの方が風子にとって何よりも苦しい。
過去を回顧しながら悲愴を表す風子の姿を見つめながら彼は、俯いて大粒の涙をボロボロと零す風子の頭の優しく手を置いた。
(しまった! 帽子が……)
触れられた直後、風子は初めまた不運が起こってしまうとギョッとしたが、死をものともしない男がくれるその温もりに今し方見ていた悪夢も掻き消されるようで、心が安息を取り戻していく。
(この手はどこにも行かない)
あなたを信じている……。
────────
熱によって回復を阻害されていた再生機能は、水で冷やされたおかげかようやく本来の速度に戻っていく。カードが刺さった瞬間、自分の意識がやっと日の元へ帰ったとわかり、かろうじて動いた腕で海水が体を拐う直前に彼女の体を掴んでいた。
(離すかっ!!)
波の力は思ったよりも強い。まだ完全ではない筋肉では抗えきれなくなりそうだったが、全神経を腕に集中させ、彼女の小さな体が流されていかないようにしがみつく。
徐々に復元される身体。神経が戻り、筋肉が繋がる。皮膚もほとんど同時に修復されていった。それから両腕両脚の自由が効くようになると、彼女の体を抱えて水面を目指す。
──プハァッ!
やっとあり付けた空気から不足していた酸素を取り込む。彼女の顔も同時に水面上へ出したが、ロシアの道中と同じく意識を失っていて、頭はぐったりと項垂れていた。
早く蘇生させないと──。
「おい、拷問官っ! 引き揚げてやってくれ!」
アンディは浮遊する球体に乗った目の下に隈を蓄えた男を見て叫んだ。彼は少しめんどくさそうな表情を浮かべ、それでも機械のアームで溺れた少女の体を掴むとすぐさまに地上へ引き揚げると待機していた医療チームにその体を託した。
「てめぇは自分で上がれるだろ」
その言葉にアンディは黙って頷き、もう少しだけ体力の回復を待ってから自らの脚で地上へ戻っていった。
医療チームの報告によると、彼女の状態は心肺停止。大量の水を飲み込んでいたためまずはそれを吐き出させる。ドクターニコが開発した人工呼吸器で、体には直接触れない手法で心臓マッサージを試みる。ドクターはこんな時なのに「無意識下で不運が起こるか実験しよう」と好奇心を優先すべき言ったが、ボスに止められて渋々諦めていたらしい。二回目の電気ショックで脈は取り戻したがまだ意識は戻らずの中、療養用の個室へ移されてそこで回復を待つことになった。
あれからどれほどの時間が経過しただろう。全く目覚める気配のない彼女の側でアンディは漫画本を読んでいた。医療チームからは付き添いがなくとも監視システムを置くと提案されたが、それは断り、自ら付き添いすることを決めた。所用の場合を除き、一時たりともその場を離れないように努めている。
──とんとん
軽く鳴るドアの音。訪問者のおおよその目処は付いていたため、アンディは特に返事はせずすぐにドアを開けた。
「アンディ様、風子様の様子はいかがですか?」
ご飯を持って参りましたと言いながら、その女性は不安そうな表情を浮かべている。
「いつも悪いな。……あいつは、まだ起きちゃないが」
「そうですか……。でも、風子様もお強いですから、もうすぐ目が覚めますよ! 起きたらぜひ、お粥を作りますから教えてくださいね」
そう言うと、彼女は小さなテーブルに配膳し、ついでと言わんばかりに暖かく湿らしたタオルで眠っている少女の顔を拭った。肌に直接触れないよう、長めのゴム手袋をして。
「ありがとな、ムイ」
つい数日前までは主の手を煩わせるほど剛活だった男が、年相応にも写る落ち着きの中静かに礼を伝える。彼女は一瞬驚いたもの、それが自分の仕事だからと微笑みで謙遜し、後でお膳を下げに来ると伝えて退室した。
それからまたしばらくして、またトントン、とドアがノックされる。ウトウトしていたアンディはその音にハッとして、ドアへ振り返った。
ムイがもう戻ってきたのかと思ったが、規則正しい彼女はいつも決まった時間に訪れると知っていた。そうなると彼女ではない誰か。疑問はあれどもう基地の中でそこまで警戒することもないだろうと、彼は取り敢えずドアを開けて訪問客を出迎える。
「ゾンビくーん、フーたんの様子はどう?」
舌ったらずに喋るのはドクターの助手のミコだった。意外だと感じはしたがふと目にした先、手に見舞いを持っていると気づいてその目的を察し、アンディは彼女を部屋に入れた。
「フゥたーん、早く元気になってね」
まだ意識のない少女に話し掛けながら、彼女は見舞いの品として持ってきたキャンディでできたブーケをベッドの横に置く。しかしそれはなぜかアンディに違和感を与えた。
「おい、なんだそれ?」
「へ? ただのキャンディブーケでございますよ?」
「上はな。下の台に何を入れてる?」
「ドキッ!」
少し慌ててそう言うと彼女は素直に白状した。
「キャンディはアティシが準備してたんだよ。そしたらパピィが『無意識下に触ったら不運が起こるかモニターする』ってこの『スーパー全方位カメラくん』を一緒に置いてこいっていうから……」
それを聞いたアンディは全く苦い表情であの憎らしいドクターの顔を思い浮かべた。
(悪趣味なジジィめ……)
だが彼女自身が風子を心配して先に見舞いを計画していたのは本心だろう、とそう思いたい。一瞬戸惑ったが、好きにしろ、と言ってまた椅子に腰を落とした。
ミコはドクターの依頼を正しく遂行できたと喜んで部屋を出た。
それから一時間も経たない頃。またドアがノックされる。今日はいやに訪問があるな、とまた応えずそのままドアを開けた。そこには丸い装甲に覆われたタチアナがいた。
『ゾンビ……風子は起きた?』
見た目は機械だがその本体は恐らく風子よりも年下であろう少女。不安げな声のタチアナに気づき、アンディは何も言わずにそのまま彼女を迎え入れた。
タチアナは手にしていた人形を眠る少女の枕元に置く。
『これで寂しくないわ、風子。早く起きて、また遊びましょう』
俺がいるんだがな……と一瞬苦い顔になりそうだったが、ここで反論するのも大人気なく、ましてや彼女、タチアナとは因縁があったのでアンディは無言でそれを見守っていた。
タチアナが出て行って程なく、またドアが小突かれる音が鳴る。流石にこうも続くと何かあるのか。アンディ訝しげに思いつつも扉を開けようと立ち上がった時、訪問者はすでに部屋の中に入っていた。それはこの基地内ではどこへでも自由に立ち入る権限を有する組織のボス。原則プライベートは尊重するが、やはり加入したばかりでそれも否定者とは言え訓練も受けていないただの少女が負傷したとあって、責任者として心配してくれているのか、断りなくですまないと短く謝罪した後ベッドへと近寄る。
「顔色は良さそうだ」
「ああ、まだ起きないけどな」
そう言ってアンディも目線をベッドへとやる。ボス、ジュイスはその姿を確認すると、よく眠っている、と微笑ましげに呟いた。
「すまなかったな、アンディ。彼女も否定者の一人だがよもや一般人に近い。初めての任務でこれほど消耗させてしまうとは」
「……いや、俺だよ、こいつを連れて行ったのは。俺の責任だ」
初対面であれだけ攻撃的だった男が塩らしいことを言う、とジュイスは口角を上げて話す。
「不思議な子だ。あの状態の君にいきなり飛びついて。普通だったら竦んでしまってあんな無茶はできないものだ。いや、君とだけじゃない。タチアナともそう、トップも言っていた。とても覚悟のある子だ。彼女の能力は確かに危険だし、分別なく使えばより多くの人を殺しかねない。それでも彼女なら……その力を正しく使ってくれると思える。
きっと彼女の境遇に因るんだろうな。哀れむだけなら多くの人ができる。しかし彼女は、風子は愛を与えることができる。これは簡単そうで意外と難しいものだよ。彼女にとっては、もしかしたらそれは彼女自身の率直な感性なのかもしれないが、そんな実直な姿はとても暖かい」
ジュイスの言葉に心当たりはあった。記憶をなくして何年が経っただろう、とアンディは振り返る。彼の人生には数え切れない出会いと別れがあった。しかしその記憶に留めているのは果たしてどれくらいあるだろう。そして彼らの誰しもが『アンディ』をこう呼ぶ、『アンデッド』と。
──アンデッドだから、アンディね。
頭に過るのは、そう言って名前をくれた彼女の顔。最初は自身のことだと気がつかなかったがそれも何度か呼ばれる間に自然と自分のものになる。
──アンディ! 私に触れて!
誰とも触れ合うことができない彼女の願い。暗闇に呑まれるアンディにはっきりと聞こえた声がそう叫んでいた。
本当はあのまま『もう一人』の中で消えてしまっても良かったのかもしれない。呑まれる恐怖はあったからずっとその傷を開かずにいたけれど、あれに身体を譲り、思考を止めることでこの終わりのない人生からようやく上がれるなら、それが目的だと思っていたのだから願ってもない機会だったはず。
しかし閉じ込められた闇の中でアンディに浮かんだのはそれとは真逆の考え。
(名前ができたばっかりだ。人生これからじゃねぇか。それに、まだ彼女の名前も呼んでねぇ)
生きる希望ができた時だった。
ジュイスは言い終えると、失礼、と小さく発して部屋を後にした。
また二人きりになって、アンディは寛ぐために引いていた椅子をもう少しベッドへ寄せてから今一度腰を掛ける。そして風子の吐息が聞こえるところまで軽く腰を屈めて顔を近づけた。
よく眠る少女を眺めていると、確かに随分と血色が良くなってきているのがわかって安堵の息が漏れる。この調子ならもうすぐ目を覚ますだろう。
「早く起きろよ。ちゃんと名前も呼んでないだろ、風子。俺を、一人置いて行くなよ」
その言葉のあと、まさか聴こえていたのか風子は小さくうぅっと蠢いた。少し顰めた表情まで見せたがどうもまだ無意識下にある。寝つきが悪そうにほんのりと汗が滲み出ていたがアンディにはそれが良い兆候であるとわかっていた。なぜなら夢を見るということは意識が動いているからである。もしそれが怖い夢であったなら、起きてすぐ誰もいなくて不安を感じてしまわないように、このまま彼女の横に付いていよう。
唸りは次第に落ち着いて、眉間も緊張を解くと風子は引き続き寝息を立て始める。それを確認してから、アンディは残された数冊の漫画を読み進めた。
この想いを君に伝えるために。
【END】
『DEAD END』
争いしかない時代を生きてきた。血で血を洗い、人間がまるで消費材にように死んでいく。特権階級はいつだって高みの見物だ。科学技術は兵器へ応用され、哲学はアジテーターに利用される。目覚ましい文化の発展は、屍の礎によるものだった。
初めて気づいた時のことも、もうよく覚えてはいない。ただひたすらに火薬と鉄の臭いに塗れていた。隣で話していた奴は次の瞬間血を流して倒れている。夢を語った奴は狂乱の中姿を消した。知り合う奴らの名前と顔が一致しなくなって久しい。覚えたところですぐに別れが来る。俺は死ねるのか? それだけが生き甲斐だった。戦場を彷徨い死に場所を探した。
パワーゲームは一世紀経っても終わる様子を見せない。最悪と言われる亜細亜の戦場にやってきたのも、早くこんな世界からおさらばしたいと思ったからだ。周りの連中は気が良くて、アイツらが尊厳もなしに殺されていく中、それを見届けるのに疲れ果てた時だった。
どこで噂を聞いたのか。死なない男がいる。どんな過酷な戦場に行っても生きて帰ってくる。突然現れた女に頭を持っていかれたのが始まりだった。
不死者(アンデッド)。額に赤いスカーフを巻いて、目を隈に覆われた男がガラスの向こうに立ち、俺を死を否定する者と呼んだ。そいつは俺がどうやったら死ぬのか見つけてやると宣言する。そいつは楽しみだ。
痛覚はあったが地獄を見てきたせいか、それはただのノイズになっていた。頭痛がする毎日。十年も付き合ってやったのに、誰も俺を殺せない。このまま飼い殺しだけは勘弁してくれ。退屈になって、ある日そこから脱走した。
外は相変わらずの様相だった。だが、少しずつ、生が尊重されるようになっていった。そこから二十年ほどはまた戦争ごっこに明け暮れていたが、茶番ながら世界が手を取り合っていくという風潮のおかげで、俺の生き場は減っていった。
どうやったら死ぬ? アイツらに追われないように放浪する日々。気が向いたら自死を試してみるが、それ以外はしばらく普通に過ごすことにした。
傭兵時代に蓄えた金のお陰で不自由はしない。各地を転々としたせいで、どこに行っても会話はできた。こだわりが強かったからか、時間があったからか、適当な技術職をかじってみては、それを程よくこなした。
そんな男が謎めいて、好奇心を駆り立てたのだろう。それが必要だったかはともかく、女には不自由しなかった。それでもそいつらの名前も顔も覚えてはいない。一夜限り、あるいは週単位で関係が続いたとしても、俺は放浪を続け、それに付いてくるヤツはいなかった。
俺にとっては果たしなく長い、それでも普通の奴にとっては、変化が起こるに充分な歳月だったのか。わずか十年ほどで、人間は前世紀の陰惨さを忘れてしまったようだった。テクノロジーは生活を便利にさせていくが、その反面民衆は堕落していく。平和すぎて退屈になった奴らは、それでも血を探して彷徨っていた。
暇潰しがてら久しぶりに自殺をしていたら、気に入ったのかそいつらが生きる闇市場に招待してくれた。そこで見た変な生き物や、否定者と呼ばれた人間。別にそいつを不憫に思ったわけでもないが、昔の血が騒いでそこにいた奴らの生を否定した。あまり派手に暴れてはまたアイツらが来るかもしれない。しかしそこは住み分けがなされているのか、特に追われることもなかった。
日本に着いたのはそれから数年後。物珍しい流行物に溢れ、なかなか楽しい時間を過ごした。関わると慣れ親しいが、関わらなかったらそれこそそこに存在しないくらい無視してくれる。その距離感は意外と生きやすかった。
いつものように街を歩いていたとき、鉄道の上を跨ぐ高架の辺りが何やら騒がしいと気づく。退屈凌ぎだと思って野次馬に混ざってみれば、女が一人、自殺しようとしてるとのこと。
死ねる奴はいいな。そう思っていたら、女は言った。
「私に触れると、えっと、不治の病になって、死ぬ!」
触れただけで死ぬ。俺もそれで死ねるか? よく聞いているとその理由はわからない。前にもそんなことがあった。理由がなく、何かが起こる。何かを否定しているからだ。直感が知らせる、あの女は調べる価値があると。
あいつと過ごしたほんの僅かな時間は思いのほか楽しかった。だからアイツらの事をすっかり忘れていた。流石に騒ぎすぎて足がついてしまう。せっかくのデートの最中に水を差しやがって。
平和な顔をしたこの地球で、世界に見放されたと感じている女。俺が付いててやらないとすぐ死んでしまいそうだ。それでもアイツらのところに送られるよりは幾分マシか。俺も死んだらお前に会いにいくよ。そう思っていたのに、お前自身が生きる事を諦めなかった。
いいね、最高だ。
決められたルールに抗う力。やるじゃないか。
「ただ、いいなって。何も気にせず、触れ合えるってさぁ!」
あまりにも大きく、重く、そして熱いキスの結果。アイツらにもバレた。だったらそうさせた俺が責任を取るべきだろう。呆れるくらい長い人生でまさか初めての体験が出来るとは思ってもいなかったが、それは所詮オマケだ。
「アンディ! アンデッドだから」
「待って、アンディ!」
名前なんて、今まで無意味だと思っていた。どうせ皆先に逝くから。しかしこれでまた、楽しめそうだ。それが本当の名前だったかどうかは関係ない。頭に響くノイズが消えていくようだった。だからお前を口説いて、惚れさせて、この世界がどう変わるのか見届けてやる。
そうだ、俺はなぜ死にたかった? 時々自分でいなくなる時がある。暗闇の中、何も聞こえない、生臭い記憶だけが流れてくる。名前も顔も見えず、誰が誰なのかすら覚えていない。別に恨み節を言うでもなく、ただひたすらに果てていく命。目が覚めているのに夢を見ているようだった。
しかしあの日以来悪夢は姿を変えた。死なないことが初めて意味を持った。
お前は世間知らずで、漫画で見た世界が外にもあると思っていた節がある。何もかもが新鮮で輝くように見えると眼を煌めかせていた。俺といれば、お前はこれまで出来なかった体験ができる。俺はお前といて、これまで感じなかったものを得た。
人との距離感が掴めず、極度に避けるか、思ったままのことをそのまま口にするか。気にせず触れられるとなると、防備はしているものの、身を寄せていないと不安な様子だ。俺もすっかりそれに慣れ、むしろ腕に加重がないとこっちが心配になる。死ぬことを恐れていない無鉄砲さが出ると、あの頭痛じゃない別の場所でノイズが走った。
いつからか、側にいることが当たり前になっていた。離れている時間の方が一日の中で短いくらいに、顔を見ない時が二十四時間以上になることは滅多にない。奇妙な話だが視覚、聴覚、触覚だけではなく、嗅覚と時に味覚でも、そこにいるかいないかがわかるようになった。
ふとした時に、この感情が、もしも神の手の上で操作されている事であったならと考える。何もかもが仕組まれていたことだと。アルコールには酔わなくなったが、それでもたまにズキズキと鳴る痛みと共に過去の断片が見えると、自分の存在自体を自問してしまう。
「アンディ? 大丈夫?」
「悪りぃな。起こしたか?」
「ううん。何か手伝えることある?」
「いや、もう終わるから……」
記録することの意味。ずっと生きているなら必要ないと思っていた。前も後ろも見えない暗闇の中を当てもなく歩き続けるだけの日々だったが、お前と出会って、進む道には光が灯った気がする。始めは負ぶって、手を引いていたのに、いつの間にか横に並んで、時々俺の手を引っ張るくらいになった。
もし神が俺たちの運命にも因果を与えているとしたら、見えない道をひたすら歩いていた時は確かに神の言いなりになっていた気がするが、今は違う。二人で選んで、どの道を進むのか決めている。俺たちはもう神の敷いたレールの上にはいない。たまにその軌跡に印をつけていく。思い出という記録。刹那に思いを馳せることは、生を実感させた。
椅子に座っていると、立っている相手とほぼ同じ視線になる。少しだけ体を屈めて、胸元に顔を埋めた。脈打つ心臓の鼓動。長袖と手袋に覆われた腕が俺の頭を抱きしめる。
もう頭痛は止んだ。このまま死の終着駅まで、風子、お前と一緒にいたい。
【END】
『諱』
いつから名前を呼ぶのが怖くなったのか。
自分に名前が無くて、誰からも名前で呼ばれない。皆死んだら自分のことなど覚えていないのだから別に己の名前はどうでもよかった。ただ相手に対しては名前がある以上敬意を払う。先に死んでいくとわかっているから、それがせめてもの餞。
「アンディってジーナさんやジョシュさんのことは最初からちゃんと名前で呼んでいたのに、私に対してはなかなか名前で呼んでくれなかったから寂しかったな」
自分に名前をくれた女──呼ばなかったのではなくて呼べなかった。
出逢ったのは歯車の妙。名前とは人格でそれを認めてしまったら彼女との別離が辛くなるどころか失ったが最後、全身を貫く痛みに耐えられず不死の身体を呪い永劫の哀しみに暮れただろう。
護るだけでは足りない、時が流れる限り。
暗闇の中で何度も繰り返される存在しないはずの名前が、置いて行かれる恐怖に怯えた悲痛の声に載って鳴り響く。ああ、これでようやく自分が見送られる立場になれた。
それから彼女はどうなる? 残される苦しみと絶望を知っていながら大切な女に同じ思いを味わせるのか?
駄目だ、そんなことは──一度も名前を呼ばずに、この想いを伝えられずには逝けない。
神がいる限りいつか奪われてしまう。しかし神を殺せば死は否定されなくなり、死が二人を別つまで、或いは死んでもなお同じ墓穴の中で共に朽ちて土へと還る。その時墓石に二人の名前を刻む。
風子──
それまでは自分だけ生き残るのに疲れて恒久の死を願った。今は彼女と共にある限り生きることを望む。
「……なあ」
「ん? どうしたの、アンディ?」
「お前が呼ぶとき、他のやつらには敬称を付けるのになんで俺には付けないんだ?」
「なんでって……なんでだろう? そういえば初めからそうだね」
もちろん付けて呼んで欲しいわけではない。むしろ無いことによって自分だけ特別な存在であると実感し、自尊心が満たされる。それが無自覚であればあるほど彼女の心を独占しているとすら過信する。
「だってアンディはアンディだから」
希求する完璧な答え。記憶がある限りの百数十年間、悠然とする一方、何も残さず業だけを背負いながらいつか辿り着く地獄へ向かって死人のように生きてきた。そんな存在に名が付いたことで固有の性格や特徴が与えられ、人格が形成される。新たな生の降誕。
神が奪った運命を取り戻してくれたのは彼女──風子だ。
「風子……」
「なぁに? アンディ」
もう失くさない、名前も、運命も、大切な人も。そして生の摂理を奪い返す。
だから神を殺す。
【END】