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    For Whom The World Moves

     
     風子は自身の身体が宙に浮いていることを自覚していた。

    「フウコ!」

     タチアナのものと思われる声が彼女の名前を呼ぶ。しかしその声、正しくはその発音は、どこかこれまで親しんできたものと異なるようだった。
    「──!」
     タチアナだけではない。他の仲間の台詞も皆同様で、風子にはその内容を理解できていなかった。異国の言葉──忘れられていた概念が戻ってくるよう。
     少しずつ人から遠ざかっていく身体。手を伸ばしてもその流れを変えることはできない。そんな中で意識的に彼を探す。
    (どこに……?)
     バラバラに離れていく各人の身体へ目を向ける。ジャージを着た男子。スーツ姿の男性。長い髪が漂う長身の女性。見慣れたはずである彼らの姿なのに、何故だかその特徴と名前がまるで一致しない。頭がぼんやりとして、意識が薄くなっていくようだ。
     右へ左へ、上へ下へ、隈無く視線を巡らせていき、対角線上下方にようやく探していたオールバックの男性の姿を見つけた。いつものように戦いが終わった後は上半身にほとんど服が残らない。

    ──いつものように?

     そうだ、と風子は朧げに思い出した。この世界の理を定める【神】と呼ばれる存在が消えていこうとしている瞬間。しかし理を司っていた存在がいなくなるなら、この世界は一体どうなってしまうのだろうか。
     そう、現に彼の服は再生していない。いつもなら身体の再生を繰り返す度に失われる布地だが、いつからかUMAクローゼスが彼の服を担い、戦いの後少し間を置けばすぐにUMAのおかげで服は元に戻っていた。その服が戻らないということは、UMAが持っていた理の力は【神】の消失とともに消えていったのだろうか。

    「風子!──」

     彼も風子の姿を捉えてその名前を叫ぶ。しかし彼は風子が流され行く方向とは真逆に飛ばされ、徐々に距離が開いていった。どれだけ腕を伸ばそうとも決して届きそうにない。
     次第に視界がぼやけていき、思考が出来なくなっていると実感していた。伸ばした腕は肌が顕になり、自分の服も無くなっていっていく。
    ──やっぱり服の理が消えて、服の概念が失われている!?
     薄れゆく意識の中で、風子は事の重大さに気付いた。
     【神】がいなくなるということ。すなわち理不尽なルールはもう存在しない。否定者の力もこれでなくなるはず。しかしあるべき理も同時になくなってしまったのか。
     時間が経過すること、モノが燃えること、凍ること、腐ること、ヒトがいること、食べること、言葉を話すこと、老いること、病むこと、死ぬこと、同じヒトに違いがあること、性があること───
     これらが全てなくなった世界とは。
    ──ヒトは存在する? それはヒトとして? 私はこれからどこに行くの? ここはまるで宇宙のようで、周りは真っ暗。私は、私たちは一体どうなるの?

     もうほとんど人影が見えなくなった。風子は最後の力を振り絞って、僅かに捉える彼の名前を呼ぶ。

    「アンディーッ!!」

     それが届いたのか、彼の口が微かに動いた風に見える。けれども、もう声は聞こえない。そしてだんだんと小さくなる彼の姿。風子は繰り返し彼の名前を呼んでいたが、いつからか意識がなくなり、暗闇に微睡んで溶けていった。
     彼女の耳に届かなかったその言葉は──

    『必ず見つける』


    ─────


    「風子や、風子」
     少女はその名前を呼ばれて、車の中で目が覚めた。
    「おじいちゃん?」
    「さぁもう空港に着いたよ」
     まだ開ききらない目元を擦りながら、少女は体を起こす。そんな彼女へ優しい声が届いた。
    「すっかり眠っていたね、風子」
    「しばらく会えなくなるからって、昨日夜更かししたせいじゃないかしら?」

     そうだ──少女は思い出した。

     今日から彼女の両親は出張のため海外へ旅立つことになっていた。一カ月も留守にするというので、寂しくならないようと前日はいろんなビデオを見たり、本を読んだり、海外のことを教えてもらったりと遅くまで一緒に過ごしていたのだ。それでも不安があったのか、一度寝落ちしたもの、朝に出発準備の音が鳴り始めると、風子はぱっちりと目を覚ます。
     玄関先では予め手配されていたタクシーが待機していた。スーツケースをトランクへ積み込む父と祖父。徐々に近づく別れを感じ取った風子は当初家で祖父と両親を見送るはずだったが、やっぱり空港まで着いていきたいとわがままを言ってみる。
    「私も行っていい?」
    「うーん、しょうがないなぁ。父さん、いいかい?」
    「ああ、じゃあ風子、パパとママと一緒に空港まで行こう」
     それを聞いていた母が急いで彼女を着替えさせた。
     その道中で、揺れに誘われてすっかり眠っていたのだ。

     ロビーに入ると両親はカウンターでチェックイン手続きを始めた。彼女は祖父と手を繋いでそれが終わるのを大人しく待っている。
     その間僅かに十分ほどだが、少女には途方もなく長く、また決して来て欲しくない時間。しかしそうもいかない。両親は荷物を預け終えて戻ってくる。 
    「しばらく一緒にご飯食べられないから、出発までレストランで待とう。今日は風子の好きなものを食べようか。風子、何がいい?」
    「うーん、なにがいいかなぁ……あ、ハンバーグ!」
     彼女がそう言ったあと、両親と祖父は優しい笑顔を見せ、一家は彼女の好きなものがあるレストランへと向かった。

     楽しい時間は逆にあっという間に過ぎていく。空港内のアナウンスで彼女の両親が旅立つ便の治安検査がもうすぐ締め切りになることが告げられると、父親が先に会計を済ませ、一家はレストランを後にした。
     検査ゲートの前まで来た瞬間、少女はここから先には付いていけず、両親と離れなければならないことを悟る。
    「パパ、ママ、いってらっしゃい……」
    「そんな顔しないで、風子。ママとパパも寂しくなるわ。あなたは強い子。一か月なんてあっという間だから、おじいちゃんと一緒にお家でお利口にしていてね。向こうに着いたら毎日風子が寝る前に電話をするわ」
    「そうだよ。ちゃんとお土産も買ってくるから、いい子にしていてね。父さん、風子をよろしく。普段はあまり甘やかさないでって言ってるけど、今回は特別にしてあげてくれよ」
     父親がそういうと、祖父はにこにこと笑顔を見せて頷いた。
    「いってらっしゃいのキスする!」
     少女は両手を広げて挨拶を強請る。この愛らしい頼み事を断るすべはない。父と母は彼女へ合わせるように姿勢を低くして小さな娘を抱き締めた。そして彼女はそれぞれの頬に口づけをする。
    「早く帰ってきてね!」
     手を振る少女に見送られて、両親はゲートの中へと消えていった。


    ─────


     それから十年の月日が流れたある日。

    「風子、あんた進路どうすんの?」
     隣を歩く同じ歳の少女に声をかけられ、風子は「進路?」と聞き返した。寝耳に水、とまではいかなくとも、今そんなことを考えていなかったから、うーんと一瞬言葉を詰まらせる。
    「わかんないけど、両親みたいに海外を飛び回るのが面白そうかなって」
    「なにそれ? もうあたしたち高三よ? 夏休み明けたら行く大学絞って試験の準備しなきゃだよ? 相変わらず危機感ないねぇ、あんた」
     友人は呆れた様子で続ける。
    「だいたい、海外飛び回るって、あんた英語の成績どうなのよ? 英文科行けるだけの点取れてんの?」
    「さぁね。海外は行ったことあるけどいつも両親と一緒だし、パパとママが話せるんだから娘の私もそのうち話せるようになるでしょ?」
     その言葉に友人はハーッと大袈裟にため息を吐いて頭を抱える仕草を見せた。

     今日は二〇二〇年八月一日。彼女、出雲風子とその友人は夏休みの中ショッピングモールへ涼みがてら遊びに来ていた。待ち合わせの後そんな会話をしながら、流行りのタピオカカフェへ立ち寄る。それぞれ好きな味を買って、適当に空いている席を見つけて腰を下ろした。
     ざっくばらんに切り出された話題は多岐に渡る。進路の話、学校の話、ほかの友達たちの話、好きな服の話、はては恋愛の話に至り、ガールズトークは終わる気配が見えない。
    「そういえば今日『君つた』の最終巻が出るんだった!」
     会話の最中、ふとしたことから思い出したようにあとで本屋に寄らなきゃと息を巻く風子。それに対して友人は、マンガばっかり読んでても肝心のリアルな恋愛はどうなのよ、と問いかける。風子はその問いに少しギョッとした顔をしつつ、いつか『君つた』のような恋愛ができる時が来るから大丈夫とまるで自分へ言い聞かせるように答えた。
    「『運命の王子様』を待つってわけ? いつかそんなラッキーが落ちてくるって?」
    「うーん……、でも運頼りじゃないよ。ちゃんといい人と知り合って、時間を重ねてお互いを理解して……」
    「ってじゃあまずは出会いを探さないとね。風子って服とかいつもボーイッシュじゃん。基本ショートボブだし。思い切ってガーリースタイルにしてみれば?」
     この日の風子は無地のタンクトップに中学の時に使っていたジャージを半袖にしたものを羽織っている。頭には彼女が愛用している赤いサマーニットのキャップ。ボトムはデニムのショートパンツにやや履き古したスニーカー。
    「いいの! ガーリーなんて、私の柄じゃないから。それにいい男は見た目じゃなくて中身で勝負させてくれるし」
     風子がそう言い切ると、友人はハイハイと二度返事をし、彼女自身の恋愛観、男性のタイプを語り、風子もそれに載って話を続けた。

     ただ涼みに来ただけなのに、結局カフェで長時間話尽くした頃には辺りがすっかり暗くなりかけていた。そろそろ家に帰らねば。カフェを出たところで、風子は本屋に立ち寄るからと友人に別れを告げてショッピングモールに残った。
     彼女が帰路に着く頃にはすっかり日も暮れかけている。これだけ遅くなっては両親も心配するだろうと思い、モールを出る前に一度電話をかけ、予定している電車の到着時間を告げた。決まり文句のように気をつけて帰りなさいよ、いう母親に、はーいと聞いているのかおざなりに返事。それから携帯電話を鞄に仕舞って電車へ乗り込んだ。
     最寄り駅へ付いたのは二十一時過ぎ。それでも駅の周辺は明るく、自宅までは徒歩でせいぜい十五分。頻度は少なくともこんな時間に歩くのは初めてではない。歩き慣れた道でもあるため駅に着いた時点でわざわざ両親へ知らせることもしなかった。
     毎日何も変わらないいつものルーチン。そこに非日常が隠れているなんて、少なくとも、風子の想像力はその先を見据えていなかった。

     駅前を過ぎて住宅街に入ると、繁華街のイルミネーションが途絶え、街灯のみが辺りを照らしている。そうなれば自ずと死角が増えるもの。富裕層の集まる住宅街は、一つ通りを入ればもう商店すらない。人通りも少ないが、それでも風子にとってはいつものことだった。
     しかしここ最近で彼女が夜道を歩いていないことを、本人も軽視していた節がある。普段通っていながら日中は意識せずいる場所。それは駅前から一つ入った路地の途中に改修している建屋だった。
     そこは元々近所に住む弁護士が所有している事務所ビルのようなもので、地区の不動産価格が高騰している機会に少し大きくし、一部賃貸に出す予定だとされている。そんな事情など、高校生の風子にとっては何ら関係のないこと。ただの工事現場に過ぎない。
     もし人々が皆善良な市民であれば、それだけで済んだ話。しかし不運は突如として訪れる。
     そのビルの前を通り過ぎる最中、背後から急に体を掴まれた。風子は驚いてとっさに声を上げようとするが、未知の手によって羽交い絞めにされた挙句、口を塞ぐように布切れを充てられる。抵抗しようにもどうやら相手は男らしく、並みの少女の力では到底振り解けない。
     いきなりの出来事にパニックになっていると、自分の体が改修中の建屋に引きずり込まれようとしていることに気がついた。
    (待って……っ、これって!?)
     風子は最大限に抵抗してみせるが、異性に抗えるには至らず。
     引きずられるがまま屋内に連れ込まれたところ、中にはもう一人別の影が見えた。己がしている行為が犯罪であると自覚しているためか、半ば顔は隠しているその男。暗がりで部分的な表情も見えない。
    「電車で見てたけど、やっぱり胸デケェし、それでショートパンツとかエロいよな」
     突如と聞こえる卑猥な言葉。後ろから彼女の体を押さえている男も薄笑いを混ぜてそれに同調した。
    「この辺りは近所の目があるからあんまり事件にしてくれないらしいぜ」
     言いながら男は彼女へ近づいてくる。吐き出された台詞からも彼らの目的が何なのかは察しが付いた。
    「いっ……ッ!! ヤメッ!!」
     風子に護身術の心得などない。かと言って恐怖に竦んで大人しくする彼女でもなかった。何もしないよりは、とがむしゃらに足を動かす。すると正面から来る男の脛につま先が当たった。
    「痛ッ!」
     男は痛みを感じて一瞬体を引く。それに後ろの男も驚いたのか風子の口を押さえていた手が僅かに緩んだ。隙を感じ取った風子は咄嗟にその手に噛みつく。
    「うわっ!!」
     それは功を奏し、男は一度完全に腕を離した。
     本能が体を突き動かす。風子は身を捩って後ろの男から逃れると、出口を目指して駆け出そうとした。
     だが相手は二人。もう一人の男は体勢を立て直すと、風子の腕を掴む。そしてそのまま彼女の体を引き倒した。
     風子は投げ捨てられるように地面に叩きつけられる。彼女がその痛みを理解する間もなく、男がその上に馬乗りのように被さると、少女の頬を平手で打った。
    ──っっ!?
     顔に痛みが走ったと同時に、頭が真っ白になる。
     生まれてこの方風子は男から手を上げられるような経験などなかった。否、男性どころか女性からですらない。一人っ子の彼女はまさに箱入りという表現がふさわしいほどに大切にされてきた。暴力を伴う喧嘩などは一切したことがなく、思春期には両親とも口論をしたことはあったが、きつい言葉すらお互いに発さず、どちらかと言えばあくまでも意見を交わし合い妥協点を探す討論に近い。
     そんな彼女は初めて他人に暴力を振るわれ、痛みだけでなく精神的な混乱に見舞われていた。
    「やっと大人しくなったか。手こずらせやがって……。そうやって初めから大人しく犯されてりゃいいんだよ」
     男はそう吐き捨て、彼女の衣服に手を掛ける。

     まさにその瞬間、彼女の上で馬乗りになっていた男の身体が横に弾かれるよう吹き飛ばされていった。それに驚いたもう一人の男が手元にあった鉄筋の棒を取る。
     ところがカチャリと金属が引っかかる音が鳴ると、武器を持った男はまるで凍ったようにその場へ止まった。半分しか覗いていない顔からは冷や汗が溢れるように流れ、身体は恐怖に震えている。
    「じ……っ、じ、銃っ!?」
     恐らく実物を見たことがなかったのだろう。己の方へと向けられた、一発で人を殺傷できる武器。平和な住宅街にはおおよそ相応しくない。
    「十秒くれてやる。その間にそこで伸びてるヤツを連れてさっさと失せろ」
     拳銃と思しきものを片手に構えた男がそう言うと、相手は殴られた時に頭を打ったのか気を失っている連れの男を肩に抱え、足早に現場から立ち去っていった。
     それを見届けたのか、男は武器を腰裏にあるホルダーへ武器を仕舞い、彼女の方へ振り返る。
    「大丈夫か?」
    ──風子。
     半ばショックが残り茫然としている。風子は緊張した表情を動かさず視線だけを相手に向けた。
    「……、あの……、あ、ありがとう、ございます……」
     細い声が発せられる最中、男は膝を床へ着けて視線の高さを合わせるようにしゃがみ込む。そしてそっと彼女の打たれた頬に手を寄せた。
     風子は少しビクッとしたが、なぜかその手が自分を傷つけないと感じる。
    「痛むか? 血が出るほどじゃなかったか……」
     男は頬へ寄せた手を少し下げ、顎に軽く沿わせて固定し、傷の様子を見る。不幸中の幸いか口を切るようなこともなく、彼女の頬が少し赤らんでいるだけであった。
     その体勢から男はゆっくりと片腕を彼女の背にやり、優しく包み込むようその腕を回した。
    「大丈夫か? 立てるか?」
     風子はか細く、はい、と答えると差し出されたもう一つの手を掴む。それを確認し、男は背を抱えたまま少し手を強く引き、彼女が立ち上がるのを手伝った。
     まだ虚ろいでいる風子の頭。その様子を見て男は彼女の背に回した腕をそのままに、もう一方を彼女の膝裏に合わせると、そのまま少し弾みをつけて、彼女の体を抱え上げた。
     地に付いていない自分に一瞬動揺する。そんな彼女を安心させるためか、男は少し微笑んで、家まですぐだろ? と声を掛けた。そして彼女の返事を待つでもなく、男はそのまま足を進めて外へと向かう。
     通りに出た時、夏の夜に吹く穏やかな風が肌に触れて、ようやく落ち着きが戻ってきた。と同時に状況を振り返る。
    「あ、あの…」
     そう切り出す彼女に男は視線を移した。
    「あなたは?」
     一体誰なのか。その問いに、彼はもう一度柔らかく笑みを浮かべて答える。
    「俺の名前は、アンディだ」
    ──お前がくれた。
     最後の部分はその時の風子の頭には入ってこなかった。ただ風子はその名前を聞いて、外国の人? と自問した。それもそのはず、男は長身で髪は色素が特に薄いブロンド。瞳の色も風子や彼女の周りにいる人たちとは異なるもの。どちらかと言うと彼女が外国で出会った人たちに近いと考えていた。なのにその割には日本語が流暢であることが彼女に疑問を与え、それは固まっていた思考を動かすのに役立った。

     気が付けば、風子の実家が目の前に現れる。塀の間にある玄関前へ近づくと、娘の遅い戻りを心配した父親が、動揺した面持ちで彼女の名前を呼んだ。
    「風子っ!」
     一体何が?
     父親は娘を抱えた男の方を見やる。彼は父親へ向かって軽く頭を下げると、次いで風子の体をそっと地面に近づけて地へ足を着かせた。まだ腰が引けているのか覚束ない彼女を支えながら、父親へ事情を説明する。そして自分は『偶然』そこに居合わせただけであると告げた。
     彼が言い終えるころ、外の音聞きつけた母親が勢いよく家の中から駆けつけてくる。母親はそのまま彼女を抱き締め、娘を連れてきた男に無言で感謝のお辞儀を向ける。
    「事情は分かりました。この度は本当にありがとうございました」
     父親は涙を堪えるような声で丁寧に礼を述べる。
     母親に促されるまま玄関を通る直前、入る少し手前で風子は振り返って男を見た。父親の重ねる謝意に謙遜している中、視線に気づいたのか彼も彼女を見やる。すると彼はまた優しく微笑んで軽く手を上げて風子を見送る仕草を見せた。その口元は「またな」と紡いだ風に映る。まだ笑顔を作る余裕はないものの風子はそれに対して頷くように頭を動かすと、再び家の中へと歩みを進めた。
     父親は風子と母親が家に入った後も男への感謝を繰り返し、お返しができればと散々彼に謝礼の提案を行なったが、彼は全てを断り、適当な頃合いで電話が入ったと言ってその場を去って行った。

     嵐のように過ぎ去った出来事。母親の勧めもあって、風子はそのまま浴室へと向かう。心配そうな母は彼女に一人で大丈夫かと尋ねたが、この言葉でようやく少し落ち着きを取り戻し、大丈夫だよ、と口角を上げてやや明るいトーンに戻った声で返した。それでも好意に甘えて着替えの準備だけはお願いする。
     扉を閉め、着古したジャージを洗濯機に入れようとした時、ポケットに紙が入っていることに気がついた。ガサガサとポケットからそれを取り出す。きれいに畳まれた紙片はどこで受け取ったものか。
     中を開くとペンで書かれたメッセージが現れる。
    『できる時に連絡をくれ。話したいことがある──』
    その文の後に電話番号が書いていた。そしてUN-DIEという署名。
    (アンダイ? アンディ? そういえばあの人、名前をアンディって言ってたような……)
     ならば彼が残したのだろうと考えながら、とりあえずメモを濡れない場所へ移し、まずは自分の気持ちを整えることに専念しようと浴室に入った。
     まずシャワーで体を濯ぐ。恐らく地面に投げられた時に擦った箇所。そこへ掛かった湯が染みた。
     嫌なことが思い出される前に、その思考を流すべく、頭から水を浴びる。ついでにシャンプーを済ませ、続けてボディシャンプーで傷に触れないよう体を洗った。
     よく石鹸を濯いだ後、浴槽へ体を浸す。やっと日常に戻ったと思った矢先、ふと前に伸ばした腕に目をやると、そこに映る手首に赤みが浮かんでいるのが見えた。男に強く掴まれていた場所。体が暖められたおかげで痣が色濃くなる。
    ──もしあの時、あの人が来てくれなかったら……。
     そう考えるとぞっとし、風子は少し顔を浴槽へ沈めた。しかし彼のことを思い出し、それが起こり得なかったもしもを消し去っていく。
    ──あの人はあそこで何をしてたんだろう。それに、私の名前を呼んだ?
    『大丈夫か、風子?』
     確かにそう聞こえた気がした。パニックになっていて記憶があやふやになっているのかも知れないが、なにより彼の姿を見た時、初めからなぜか自分を助けに来てくれた人だとわかっているようだった。それ以前に会った記憶はないのに。
     もしかしたら暴漢の仲間か、あるいは獲物を奪いに来た狼よろしく、彼がいい人である可能性もゼロではなかっただろう。それでも風子は直感で『この人は守ってくれる』と信じていた。
     不思議な感覚。それを踏まえて風子はもう一度メモの内容を思い出す。
    『話したいことがある──』
     まるで風子のことを知っているような口調。彼女が覚えていないだけで、彼からの面識はあると言うのか。
     そうして彼についての憶測を広げていく。彼女の思考はもはや暴漢ではなく、ヒーローの青年によって埋められていた。そうなればメモのことが余計に気になり始め、もっと調べなくてはと思い立ったが吉日、急ぎ足で水滴を拭って浴室を後にした。
     メモが濡れないように、髪を乾かしてから着替えを済ませる。この謎を解き明かさなくては──そんな使命感に駆られた風子は両親にはもう大丈夫であることを伝えて、自室へと足を向けた。
     部屋に入った風子はベッドへ腰を掛ける。それから一息吐いて、メモを片手に彼のことを考えた。
     外国人のような風貌。けれども日本語を流暢に話す。銃を持っているなんて日本では何か特殊な職種に就いていなければまず入手することはできない。やはり外国から来たのだろうか。でもどうやって持ち込むことが出来たのか。日本でも特殊な任務に就いているのかもしれない。しかしなぜ自分を知ったような素振りだったのか。
     そんな憶測を巡らせながら、再びメモに目を移す。
     UN DIE、アンダイ、死なない。
     名前のアンディならAndyと書くはず。高校の英語の教師で同じ名前を使っている人は後者の綴りを使っていた。この書き方自体に意味があるのだろうか。話したいこととは一体。
     いろいろ考えていると、ついに眠気が風子を襲い始めた。メモを手にしたまま、彼女は無意識に目を閉じて深い眠りへと落ちていった。


     風子がその連絡先に電話するのは数日とかからなかった。
     翌日はとても外出する気分にはならず、丸一日を家で過ごす。その間にも彼のことが頭を占めて止まない。あれから一晩が明けて、より冷静に事件を振り返ることができるようになると、改めて彼の印象的な容姿や優しい仕草までが思い出された。
     どこかで会ったことがあるのかもと辿ってみるも、やはりそんな覚えはない。あれほどの人と出会っていながら記憶に残らないということがあるだろうか。第一に彼は一体何者なのか。
     両親にはメモについて特に何も言わず、また見覚えのある人かという確認もせず。その夕刻、風子の好奇心が限界を超え、居ても立ってもいられず携帯電話からメモにあった番号へ発信した。
     四回ほど呼び出し音が繰り返される。これ以上鳴れば今は忙しいと言うこと。切るか切らないかの間際。呼び出しは通話へと変わった。
    ──もしもし。
     彼の声だ。風子が少し動揺して第一声を詰まらせていると、それに感づいた相手はすぐに言葉を続けた。
    「もう元気になったか?」
    ─風子。
     やはり名前を、自分のことを知っていると悟った風子は、一度深く呼吸をしてからそれに答えた。
    「……あの、この間はありがとう、ございました。お陰様で怪我も擦り傷程度で……」
     言いかけて、相手は少し慌てた様子で割って入る。
    「怪我をしてたのか!? 傷は? 大丈夫か?」
     不思議なほどに狼狽る男。それに少し面食らった風子は相手に見えないところで目を丸めながらも安心させようと事実を伝えた。
    「あ、だ、大丈夫! 擦り傷と、掴まれた腕がちょっと痛かっただけで…、でも! 擦り傷も別に血なんて出てないし、腕も一晩で痛みは引いたし!」
     彼女がそう言うと、彼は電話越しにでもわかるくらいのため息を漏らし、よかった、と一言加えた。
     その後にできた間を見計らって、風子は一番疑問に思っていることを単刀直入に問う。
    「あのっ! 話したいことって……、もしかして、あなたは私のことを知ってるんですか?」
     彼はその質問を短く肯定すると、さらに言葉を付け加えた。
    「あぁそうだ。俺はお前を知っている。それからお前が俺を知らないでいることも。だからお前を探していた。会って、話をするために」
     風子はその発言に驚いたが、漠然となり彼の言っていることが全くの創作であるような気はしなかった。理由はわからない。しかし彼が自分を知っているのは事実だろう。どこでどうやって知ったのか。恐らくそれが話したい内容なのだと推測した。そしてそれは電話越しで伝えられると思っていた風子は、続けられる言葉に感情の起伏が戻っていった。
    「でも詳しい話はまた別の日だ。そりゃあそうと、パスポートは持ってるな?」
    「え? パスポート? う、うん…っ! でもなんで?」
    「決まってるだろ、パスポートの使い道なんて。ちょうど夏休みだしな。今回は一週間だけだが」
    「はぁっ!?」
    「出発は来週な。宿題終わってなかったらまずいから最後の一週間は外してやったぜ。もう一人はお前より真面目だから終わらせてくるだろうけど」
    「え!? な、何言って……っ!? 一週間? もう一人って!?」
    「落ち着け。行くのはチャーター機だ。いいか、もう少しまとめて言うから。次の日曜日にある場所へ行く。目的地は察した通り海外だ。本当は諸国の不干渉エリアだから別にパスポートがなくてもいいんだが、まぁ途中で観光でもするかもしれねぇし、念のためにな。詳細は今は言えねぇ。規約なもんでな。日本にもう一人俺たちと縁のあるヤツがいる。せっかくだからアイツも連れて行くことにした。お前のところからはチャーター機に出る空港まで3時間くらいだから、日曜日の朝八時に迎えに行く。着替えはちゃんと持って来いよ」
     あまりに急過ぎはしないか。風子にとってあまりにも非現実的な話。なのにその口調に飲まれ、最後は律儀に「ハイッ」と答えていた。
     彼はその返事を聞いて満足そうに、「じゃあな。日曜日に」と残して電話を切った。


     来週海外へ行く。それもチャーター機で?

     風子はその展開に付いて行けず、はい、と肯定の返事をしたものの、急な海外なんて、親にはなんと言えばいいのかと考え始めた。
     日曜日に迎えに来ると言った。根拠はなくても本当に来るだろうから準備はしておかないければ。
     しかし一週間も留守にするとなれば流石に両親へ行き先を告げ必要がある。そこまで過保護ではないが、それでも確かに愛してくれる優しい父と母。しかもあのようなことがあった数日後に、あの時出会ったばかりの相手と海外へ行くと言って不安がないわけがない。
     どのような反応を返してくるか。少なくともより詳しい内容を聞いてくるだろうが、彼女自身に知らないことの方が多すぎて、下手をすれば出発自体を止められるかもしれない。
     あらゆるシチュエーションを想像して頭がいっぱいになっていた。気付くと時間は父親が帰宅する頃。案の定階下から「ご飯よー」と風子を呼ぶ声が聞こえる。彼女は「はーい」と返事をして、足早に食堂へと降りていった。
     父親はすでに自身の場所を確保しており、風子は父へお帰りなさいと挨拶を告げる。そして並べられた食事のある席に座ると、母親もエプロンを外し、食卓へ着席した。
    (あのことをどうやって伝えよう……)
     すぐに切り出すわけにもいかず、両親との何気ない会話の中で、それはしばらく形を潜めた。
     まばらに残っているおかずを一つずつ片付けていく。すると先に食べ終えて食後の熱いお茶を嗜んでいた父親が口を開いた。
    「そういえば、風子、お前、来週海外に行くんだって?」
    「えぇっ!? パ、パパッ!? なんでそれ……っ!?」
    「あぁ、今日この間の彼から電話があって、夏休み前に出してた就労体験の申し込みが受理されたとかで、急だけど次の日曜日に出発しなきゃいけないって。知らなかったよ、彼、受け入れ先企業のコーディネーターだったんだな。お前の申し込み書を見て、一応身辺調査を兼ねて家の近くに来ていたところを偶然通りかかってお前を助けてくれたみたいなんだ。でも頼り甲斐のありそうな人が引率だから、急だけど安心するよ」
     母親も驚いていたが、何よりその父親の話に面食らっていたのは風子自身であった。
     なぜなら彼女は就労体験の申し込みなどしていないからだ。学校に問い合わせればすぐにバレるような内容なのに。そう考えた矢先、父の言葉にさらに驚愕する。
    「その後学校の先生からも連絡が来て、お前のパスポートと保険証のコピー、送っといたよ」
    (は!? 先生が!?)
     風子の頭はすでに処理能力を超えていた。しかし一方で表面上は親のお墨付きを得たと言える。
     自身の動揺を、実は自分も今日知ったばかりと言って誤魔化し、一部のことはまだ連絡が来てないから明日また確認するとだけ説明した。それでもこれ以上は整合性に綻びが出る可能性もある。ならば過言は無用。風子は残ったものを流し込むように食すと、空いた食器は忘れずに運んで洗浄機に置き、また早足で自室へと上がっていった。
    (アイツ……何者ッ!?)
     次に会ったらきちんと説明してもらうから!
     そう考え、風子は一週間かけて出発の準備を行った。


     いよいよ当日。約束の時間より少し前に、玄関先で用事をしていた母親が「風子、もう来られてるわよ」と声を掛ける。彼女は短く返事をし、手持ちのリュックを担ぐと、階段を駆け下りた。
     すでに降ろしていたスーツケースは父親が迎えの車のトランクに載せているところ。何もかもが図られたように進んでいく。
    「気をつけていってらっしゃい」
     両親に見送られ、風子は彼らとそれぞれ抱擁を交わす。それを待っていた男は彼女を助手席へ座るように促した。それから彼女が座席に収まることを確認し、ゆっくりとドアを閉める。そして風子の両親と改めて挨拶の握手をし、運転席へ回った。
     その間に風子は後部座席にもう一人いることに気がつく。
     この人が彼の言っていた『もう一人』? 歳はほとんど同じくらい。
    「あ、あの、はじめまして……」
     風子の乗車を見ていた少年が先に口を開く。風子も振り返り、挨拶を返した。
    「こちらこそ、はじめまして。私は出雲風子って言います」
    「あ、僕はチカラ、重野力って言います。高三です」
    「高三? 私と一緒!」
     それを聞くと少年は少し安心した様子で嬉しさを表現した。
     運転席に座った男はその様子を微笑ましく眺めている。
     出発の準備も整った様子。男は発車前に一度窓を開けて、風子の両親へ再び挨拶をした。
    「じゃあ、パパ、ママ、行ってきまーす」
     そして彼らが見えなくなるくらいまで風子は窓から手を振り続けた。
     車は最初の角を曲がり、さらに進んで大通りに出る。その頃に窓が閉められ、いよいよ速度を上げていく雰囲気になったところで風子は静かな車内で開口した。
    「って、あなた!」
    「アンディ」
    「ッ! アンディッ! 行くんだから何が起こってるのか説明してくれるよね?」
     彼女の言葉に後部にいる力も身を乗り出す。それは彼も大した説明を受けていない証拠。
    「まぁ、待て。ちゃんと話すから。空港に着いたらな」
     アンディはそう言うと、それはそうと、と前置きしながら、力に夏休みの宿題の話を振った。
     その話題の威力たるや。一瞬たじろぎながらも力が旅に出る前に終わらせたと答えると、やっぱり、と言った表情でアンディは風子へ視線を移す。その含みを察し、風子は彼の電話での言葉を思い出した。彼は何もかもお見通し。
    「わ…っ、私だって! 少しやったけど、旅行の準備に時間取られて、まだ終わってないだけでっ! っていうか、普通女子の方が旅支度に時間取るでしょ!?」
     それが苦しい言い分であることを自覚している。ということを赤った上で、アンディがフッと鼻で笑ったのが聞こえた。その態度に風子は更にむきになって言い分を並べる。
     そんなやり取りに力は険悪な空気を換えようと慌てて別の質問をした。風子の学校について。彼女はそれに答えつつ、次いで反対に力の学校について尋ねる。
     友達の話、進路の話、家族の話。同世代ならではの話題で若者二人はすっかり打ち解けていた。
     時々アンディも話に混じりつつ、そうこうしている間、いつの間にか車は空港の『ような』場所へ到着する。要はここへ来るまで二人の関心を削いでいたのだ。
     まんまと彼の掌で踊っていた──また文句を言おうとした瞬間、目の前に現れた数メートルはある塀の威圧感に風子も言葉を飲み込んだ。それまで賑やかなだった車内を静寂が包む。
     まだ閉まっている厳重なゲート。その前に停まった車を見て守衛が一人近づいてくると、アンディは自分のいる運転席の窓を下げて守衛に挨拶をした。
    「よお」
    「お疲れ様です。一応識別を取ります」
    「ああ」
     守衛が何らかの機械を取り出して、アンディの目に当てる。風子たちは無言でその様子を見つめていた。
    「そちらのお二人は?」
    「『元』否定者だ」
     それだけで守衛は納得簡単に納得した。
    (否定者?) 
     風子に新たな疑問が生まれる。しかしそれが言葉になる直前、アンディは再びアクセルを踏んで、開かれた門の中へと入っていった。
    「ここって……、基地とか何か軍の施設?」
     聞きたいことは山ほどある。その中でも一番簡単そうなところからアンディへ投げかける。
    「近いがな、正確には軍の施設でも基地でもねぇ」
     相変わらずあやふやに答えるアンディ。謎が消えないまま、風子も力も少し緊張した面持ちで不思議そうに車外の風景を見回した。
     この敷地は広く見える。しかし建物らしいものは見えない。
     ただ遠くに一機の航空機が映る。飛行機があるなら空港で間違いないのだろうか。
     三人が乗る車両はだんだんと機体へ近づいていく。すると少しずつ全体像が明らかになった。
     何もない一帯に据え置かれた機体。その近くに数台の車が停車してあり、周囲にはスーツを着た数人の男女が立っていた。
    「さぁ着いた」
     アンディはそれらの車両が並んでいる付近で同じように駐車すると、一番最初に車から降りて先に力が降りられるように後部のドアを開ける。次に反対に回って助手席の扉へ手をかけ、片手を風子へ差し伸べた。
     風子と力は戸惑いながらも恐る恐る外へ出る。二人が地に足を付けたことを確認すると、アンディはすでにトランクからスーツケースを取り出す手伝いをしている人たちへ近づいて声を掛けた。その後すぐに呆然と立ち尽くしている二人の側へ戻る。
    「忘れ物はないか?」
    「え? え?」
    「多分……ない、です……」
     頼りのない返事。アンディはそれも仕方がないことだとわかっている様子。
    「まあなんか忘れてもあっちで買えるし、あとで持ってきてもらえばいいからな。別に何が必要ってわけでもねえし」
     そう言うと早速飛行機へ搭乗するよう促した。
    「レディファーストだ」
     言いながらアンディは風子の手を取ってやや勾配の高い機内へ続く階段を昇っていく。力はその後に続いた。
     機内へ入ると待機していた乗務員が座席へと案内してくれる。そこはまるで大統領専用機のような室内。見慣れたシートの配置ではなく、ファーストクラスに匹敵する大型の座席がゆったりと置かれていた。
     彼らが陣取った座席は前後の二席ずつそれぞれが向かい合う形になっていて、間には細いながらもテーブルがある。風子と力はそれぞれ窓際の座席を取り、アンディは風子の横に座った。あたかもそれが定位置ように。
     着席後、乗務員が日本語で機内での安全について説明する。風子も力もその時は緊張した面持ちできちんと聞き入っていた。それが終わるとまた湧き出した新たな疑問をアンディへぶつける。
    「アンディ、あの人さぁ、日本人っぽくないのにめちゃくちゃ流暢に話してたんだけど。あなたもそうだし、これは何なの? あなたはどんな仕事をしてるの?」
     風子の質問に力も同じく乗り出して答えを待っていた。
    「あいつらは飛行機の乗務員だよ。飛行機っつったらいろんな国に行くんだ。いくつの言葉を話しても不思議はないだろ? ……とはいえ、あいつらが他言語使えんのはアレのお陰だけどな。俺の場合は人生がちょっと長い分いろんなとこに行ったから勝手に覚えた」
     このアンディの返事は全く核心を突いていない。
     引き続きはぐらかさていると感じた風子はもういいだろうと本題へ移った。
    「そう言えば、アンディ、飛行機に着いたらもっと詳しいこと教えてくれるって……」
     風子が始めたと同時に、飛行機のエンジン音が高まる。離陸へ向かっているのだ。
    「まあ、慌てんな。少し待ってろ」
     アンディはそう言うと、慣れない飛行機に緊張しすぎている力の方を向いて声を掛ける。
    「力、大丈夫か?」
    「だ、だ、大丈夫です!」
    「心配すんな。落ちねえよ」
     その台詞を言う時、アンディは風子を見ていた。

     三人の搭乗する飛行機は滑走路を走り出し、徐々に機体浮かせていく。完全に陸から離れて十分ほどでそれは安定した空路に入った。
     それから乗務員が飲食物を提供しに戻ってくる。日本の国内法で未成年に当たる二人はジュースを、アンディは瓶に入ったビールが出された。一緒に置かれたお菓子たちに、風子と力は遠足へ行く子供のように目を輝かせている。
    「わお! 修学旅行みたい!」
    「僕は海外初めてなんですけど、中学では飛行機で行きました!」
     いつだって旅行のお供にお菓子は必須。それらのものをひとしきり飲み食べした後、風子と力はまたアンディの方へ注視した。
     さぁこれで、やっと話を聞くぞ。そう言わんばかりの二人にアンディは口角を上げて見せると、わかったわかった、と言って、「初めは信じられないと思うがな」と前置きを加え、話し始めた。
    「俺たちは、今いる場所と並行したもう一つの世界で一緒に【神】と戦っていた」
     その第一声に、二人はキョトンとした表情を浮かべる。それも想定済みと言わんばかりに笑ったままアンディは続ける。

    ── 彼曰く

     今自分たちがいるのは、別の場所で【神】を倒したことで生まれた世界。その【神】は別の場所で何度も人類に課題を課し、それが出来ないとペナルティを付け加えた。与えられる課題は無制限だが失敗を百回重ねると、【神】はラグナロクという世界の終末を宣告し、世界を破壊する。その後また世界を作り直して課題をスタートさせていた。
     それが何度か繰り返されていることは、初めは誰も気がつかなかった。だが【神】は人類へのヒントとして古代遺物と呼ばれるものを世界の各地に残し始める。これは次の世界へ記憶を引き継ぎ、課題を熟す糧となった。
     課題に挑むのは否定者と呼ばれる者たち。彼らは人類にありながら、【神】が作った理を否定する力を持つ。初めは否定者たちもなぜ自分たちにこのような力があるのか理解ができなかった。もちろん皆【神】の存在なんて知らない。否定者の中には生きづらくなる者も少なからずいた。
     しかし一部の否定者は自身の力を認識し、そしてUMAや古代遺物との接触を経て、【神】の存在を知ることになる。
     【神】は古代遺物の一つ、アポカリプスと呼ばれる本を自身の仲介媒体として、否定者たちが【神】に立ち向かうよう仕向けた。
     それでもその後に何度ラグナロクが起きたことか。今の世界ができる一つ前の世界で、人類はついに【神】を撃ち倒すことに成功する。そのきっかけは、【死】の否定者と【運】の否定者が出会ったことに発した。
     この【運】という理は【神】の意思さえも通じない全く未知の力となる。ただし【運】の力は誰にもコントロールができず、常に危険であったため、それを武器とするには人類へのリスクが大きすぎた。それが【死】を否定する者と出会うまで。
     【死】の否定者は、否定された【運】、すなわち『不運』を自身で受けることで、【神】の意思をも凌駕した。そしてこれが【神】の存在を否定することに繋がった。
     【神】は消えゆく間際、【否定】という意思を持ち、理から外れて自立し行く人類に最後の報酬を与えた。
    「それが【神】のいないこの世界」
     しかし再生された人類は前回のループで培った記憶を引き継がなかった。古代遺物はその力をほとんど失い、【否定者】もいなくなった世界で、人類は全く新しい歴史をスタートさせた。もうラグナロクは起こらない。これが正真正銘最後の世界。
    「だからお前らは前の記憶がないんだよ」
     黙って話を聞いていた風子も力も、全く信じられないという面食らった様子でいる。それでもなぜか二人は彼の話すことが嘘だとも考えられなかった。
    「で、でも、じゃあなんでアンディは覚えてるの?」
     アンディが飲みものを口に含み一間置いているところに、風子は質問を向けた。
    「いい質問だ」
     そう言ってアンディは再び話し始めた。

     前の世界で彼は初めて生まれた。どうやらこれも繰り返す並行世界で起こったバグの一つと理解している。肉体の無かった彼は【死】の否定者に入り込んだ。
     【神】が消え、世界が生まれ変わる時、当然ながら余剰の魂となった彼の器は存在しない。彼は死にたかったのだから、それは本望ではないか。ただ彼には心残りが出来ていた。
     愛する人の存在──。
     一瞬でも生に執着した時、これまで経験が走馬灯のように蘇る。
     出会ったときのこと、初めてのクエスト、彼女がくれた言葉、笑顔、仕草……。
     あたかも【死】へ向かうことを示唆するような回顧に、アンディは憤りすら感じていた。
    「クソっ! こんな時に……最期の最期に生きたいと思うなんて……。クソヤローがいなくなったら、お前たちは普通の体になるのか? そりゃあ願ったり叶ったりなんだがな。それならお前にもっと触れられるのに。お前は俺のことを、覚えているのか? それともジュイスが言ってたみたいに、生まれ変わったら記憶が無くなっちまうのか? 俺のことを忘れて、他の男と付き合うのか? ああ、女々しいなあ、俺は。お前には幸せになって欲しいはずなのに、俺以外の男に任せるとか、ムカついちまう。なあ、風子、俺以外の男は否定してくれよ」
    『そう思うなら、お前が否定してみろ。否定の力はそれを理解すればするほど強くなる。【神】の理が無くなる前に、それを否定しろ』
     突如頭の中に響く声。
    ──否定しろ。
     そうだ、とアンディは再び風子の方を見た。
     俺は否定する。お前と俺が出会わない世界を。全部否定する。だから───
    「風子ーっ! 必ず見つけるから、待ってろ!」
     それが彼の前の世界での最後だった。

     それを聞いていた風子と力は言葉に詰まる。突拍子もない話に聞こえるが、なにより嘘とは思えない。しかし風子はそこに二つの側面があることに気がついた。
     世界のからくり、そして、アンディと彼女の関係。
    「って…! わ、私…、あなたと!?」
     アンディにとっては見慣れたもので、風子は顔を真っ赤に変えて言葉を詰まらせながら狼狽る態度に、笑って一言付け加えた。
    「まだだ。だってヤルことヤってない」
     その言葉に風子はますます動揺した。
    「続きは後だ。もう着く」
     そう言うとちょうど乗務員が見回りにやってきた。彼の言う通り、着陸前だからとシートベルトの装着を促す。二人は口を黙み、大人しく指示に従った。

     激しくなるエンジン音。何もないとわかっていてもこれだけ大きな機体が地面へ向かって降りて行っているのだ。それ故緊張している二人を横目に、アンディは窓に映る風子の横顔を眺めながらこれまでの時間を振り返っていた。

     彼が目覚めたのは記憶にないアパートのような廃墟の中だった。
    (生きて……?)
     彼にはすべての記憶が残っていた。だからこそ、肉体があることに違和感を覚える。
    (俺は……俺、だよな?)
     微睡すらなく晴れ渡る思考。彼はすぐ起き上がって、ふと目に付いた鏡を覗き込んだ。
     容姿は記憶にあるものと一致する。唯一は顔に刺さっていた破片がなくなっていたこと。身体の年齢もあの時より若い気がする。
    (今、何年だ?)
     彼は暦がわかるもの探して辺りを見回した。目に留まったのは古いラジオ。動くかは怪しいほどに痛んで見えたが、それを手に取って適当に弄ってみるとノイズが聞こえ始めた。
     これならば何か情報が得られる。そう期待を掛けて周波数を調整するダイヤルを回しながら一致する放送局を探した。次第にはっきりしてくる音声は、英語で話すニュースレポーターの声。
    『それでは引き続き、二〇一〇年──月──日のニュースをお伝えします』
     アンディは覚えていた。その日は、風子に初めて【アンラック】の力が移った、すなわち、彼女の両親が大勢の旅客とともに亡くなった日。
     あれだけの事故だ。例え違う国でも話題にはなるだろう。
     そう思ってアンディはラジオのニュースにひたすら耳を傾けていたが、日本で飛行機事故が起こったという事実はなく、少ない日本のニュースは全て平和な内容ばかりであった。
    (もう否定の力は消えた……)
     その事実に彼は安堵すると同時に、ある決意を抱き、動き始める。
     アンディという個人は元々存在していなかったのに、それでも何らかの事情で再びこの世界へ生まれることが出来た。しかも本来彼の記憶が始まった一五〇年前ではなく、二〇一〇年という自分自身のこと以上に重要な年。
     彼の望みは叶い、願い通り風子のいる時間軸へ辿り着いた。ただし彼女と出逢うのは十年後。今会いに行ったところでまだ十にもならない子供でいるはず。世界の話なんてしても理解できるとは思えない。
     一つの希望は、もし同じように愛する人の記憶を引き継いでいたいと願った仲間がいれば、断片的にも覚えている奴がいるのではないか。そう考えアンディは十年後に彼女に会いに行くべく、まずは『彼ら』を探し出すことにした。


    ────


     飛行機が静止すると、再び乗務員がやってきて三人を出口へと案内する。数時間ぶりに触れる外界。そこは、やはり辺りに建物すらなく、彼らが出発した場所と酷似していた。異なる点といえば、塀が無さそうなことくらいか。
     地上へ降りて少し歩くと、他の人と同じようなスーツを着た男が一人ぽつんと立っている地点が見える。向かう場所はどうやらあそこ。アンディの後に続いて、風子と力も男の方へ近づいていく。
     すれ違いざま、アンディは一言、二言その男と言葉を交わしたかと思うと、急に目の前の地面が迫り上がってきた。
    「なッ……!? ナニッ!?」
     映画かと見紛う光景に、年少の二人は驚いて言葉を失っていた。
    「そんなにビビんなよ。ただのエレベーターだ」 
     アンディがそう呼んだ物。そこに現れたのは確かにそうとも取れる扉が付いている。
    「降りんぞ」
     彼の言葉と同時にそれは彼らを迎え入れようと口を開けた。アンディは先に中へ入ると、大きな荷物の搬送はあいつらがやってくれるからと言って、風子と力へ早く来るように急かす。
    「別に取って食われねえよ」
     アンディは驚いている二人の反応を楽しんでいるようだった。
     恐る恐る乗り込む風子と力。体がしっかりと収まったところで扉が閉ざされる。すると一瞬体が浮かび上がったような感覚が襲ってきた。
    「な…っ!? なにッ? これっ……!?」
    「だからエレベーターだって」
     下降をしているから。アンディは慌てる二人の間で両方の肩に腕を回し、少し落ち着けと宥めた。
     その体勢はどこかで経験したような。風子も力もどこか懐かしいものを感じる。
     暫くして目的の階に着いたのか、徐々に加重が少なって、揺れも無くなっていった。そしてモーターの音が完全に聞こえなくなった時、ゆっくりと扉が開かれる。
     三人の眼前に現れたのは大きな円卓とそこに座っている複数の男女。年齢はもちろんのこと、国籍までバラバラのようだ。
     当然ながら風子と力は全く状況が理解できていない。二人は呆気に取られて口を開いたまま辺りを見回している。
    「あ、あのぉ……ここは?」
     風子はアンディの腕に掴まって身を縮めながら彼に尋ねた。
    「どこかで見た光景だな」
     そう発したのは、円卓を挟んだ正面に座っていた女性。彼女はアンディへ「ご苦労」と声を掛けると、穏やかに微笑んで他の二人へ視線を移した。
    「ようこそ。■■■財団へ」
     



    to the begining of the next world
    ぴー子[UDUL] Link Message Mute
    2022/05/09 13:03:13

    For Whom The World Moves

    ##パラレル #再掲

    本編地獄の展開で耐えられなくなったオタクはかつて書いた平和になってやり直しだコノヤロー時空を焼き直すのだった。

    more...
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