プシュケの小庭 角砂糖は一つ、自分の緑茶にも同じ量の角砂糖を。リースは食にこだわりはない、それでも同じ味の緑茶を頼むのはどうしようもなく知りたいと欲する相手を知るためであった。フィンチとリースの間に強い信頼関係はできつつある、けれどフィンチがもつ秘密という一枚の、されど分厚く鍵がまだ見つからない門戸が二人の間に一線を引いていた。
廃図書館に進む足はかなり癒えており、走れば痛むことはあるが無視できる程度の痛みだ。フィンチはもう少し休みを取れと言っていたが、マシンは一時も待ってはくれない。それに、それにと続く思考がとっくに明瞭になっていることにリースは苦笑した。初恋にそわつく生娘でもないだろうに、と言葉として発されることなく心中で滞留する感情がだんだんと大きくなってゆくことも自覚しながら、リースはそれに関しては口を噤む。生まれ変わらせてくれた恩人、彼に表すべきものはそれだけであるべきだとリースは思考する。
彼の心底をリースは知らない。彼がなぜ人を救いたいとおもったのか、マシンの存在の真偽すらリースは把握できていない。フィンチというブラックボックスの中にリースの求める答えが秘められているが、不用意に暴けば築き上げた何もかもが壊れ消え失せる。
自分は怖いのだろうか、リースはそう考えながら廃図書館の階段を上がりモニターを監視して作業をしているフィンチの机に緑茶を置く。フィンチは手短に感謝を述べ、傷が癒え切っていないところすまないがと前置いて印刷されたばかりの対象者の顔写真をいつものボードに張り付けた。
◇◇◇
対象者の名前はクローデット・バルト、16歳。「両親の仕事の都合」で五年前にノルマンディーから移住。そうなっている。そうなっている、というのは一部は正しく一部は虚偽で真実がぼかされているからだ。クローデットの環境は同年齢の少年少女とは全く違う、簡単にいえば彼女は両親が興した新興宗教のご神体だった。心を読む聖女、と呼ばれる少女はつい最近までは頻繁に信者の前に姿を表していたが、ここ最近は礼拝の時間にしか姿を現さず、信者の前で奇跡を発揮することもない。この団体の厄介なところは、家を財産を寄進させた信者に武装をさせて外部の情報を遮断する、非常に閉鎖的なコミュニティーであることだ。リースはフィンチに用意してもらった大金の入ったアタッシュケースを手に、信者を住まわせている教団の戸を叩くために手入れされた庭園を歩いていた。
建物を覆うイングリッシュガーデン、それもコテージガーデンを参考にしているらしい豪勢で広い庭は、その身を美しく誇る花々と果実をつけた木々で満ちていて、カルトの持ち物と知らなればその美を少しは素直に受け止めれていたかもしれないとリースは感じる。
ふと、草の動く音が聞こえた。リースはゆっくりとその物音のしたほうに向かう、朝露を纏ったブルーベリーの木、小さい体を縮めて、摘んだ果実を口に運んでいる少女がいた。
「ここは……プシュケ教の本拠地だと聞いたんだが……間違えたかな?」
「?! む、むむ! んぐ、そういうあなたは? 新しい信者のひと?」
「そんなところだ、君は? 誰かのお子さん?」
少女はすこしばかり迷った顔をしたが、うんと答えてあたしはアリスよと名乗った。人を呼んでくるから待ってて、と少女は信者の住む家ではなく、その奥にあるさらに豪奢な一軒家に向かっていく。
「フィンチ、クローデットと接触した」
『ああ見ていた、ブルーベリーを見つからないように食べていた。彼女は両親に大事に扱われていないのか?』
「かもしれないな。奇跡を見せないことと関係あるかも。フィンチ、容疑者は?」
『彼女の両親。それから信者の一人、幹部のサイラス・ドラモンド。サイラスは最初期から教団に入信し、会計係も一部だが任されている。信者の中でも好待遇で特別な家に済まされている。だが…』
「だが?」
『奇跡が披露されくなり、新しい信者が入らないことによってサイラスの取り分も極めて少なくなっている。クローデットが被害者だとすれば、両親が犯人にしろサイラスが犯人にしろ、金銭が絡んでいることになる』
「なるほど。それと、サイラスは白髪の男か?」
『ああ、そうだ』
「サイラスが来たようだ、身元の洗い出しを頼む。金の流れも」
わかった、という返答がされ連絡手段を絶たれないためにリースは通信機をスーツの中の、見つかりにくい位置に隠した。サイラスは怜悧、というよりはただただ冷たい印象がある。リースは入信したいといい、アタッシュケースを差し出す。サイラスは眉を跳ね上げたが、アタッシュケースの中身を改める必要があるとクローデットを残して来た道を戻っていった。
「アリス、君もここの神様を信じているのか?」
「え? ど、どうして?」
「ここの子供なんだろう? ここにいる神様は彼女にみえた心の傷をいやしてくれると聞いた」
「え、と。その、あたし、信じてない。だって、」
「だって?」
「かみさまはもうかみさまじゃないから。あたし、もう行くね。ママがおやつを作ってくれてるから……」
そういって、少女は庭を駆けてゆく。白いワンピースからのぞく足に、痛々しい綱の跡があることを、リースは見逃さなかった。
◇◇◇
大金が予想以上の効果をもたらし、リースは新参者であるため実際には権限などないが教団幹部の一人という動きやすい位置を得た。サイラスの部屋に忍び込み、彼の部屋にあるパソコンからデータを頂戴しフィンチに転送する。次いで教祖が住む部屋に忍び込む段階となり、サイラスから教祖に渡してこいという書類を受け取り、リースは彼らの住居に足を踏み入れた。
「君がエドワースくんか、ああそこに座ってくれ、妻がブルーベリーパイを焼いたんだ。そうだ紅茶はお好きかい?」
「……すみません、甘いものは得意ではなくて……水をもらえますか?」
「すまない、気が昂ってしまってね。奇跡を求める人が新しく来たのは、久しぶりだったものだから」
調度品、飾られた皿。なるほどやり手だ、児童虐待や殺人教唆の容疑で捕まるまえにフランスから逃れた後でも、今のところはうまくやれているらしい。持ち込みを許されたケータイと教祖のケータイのペアリングはもう終わっているだろう。後すべきことは、一つだ。
「聖女にお会いしたいのですが……やっぱり礼拝の時に?」
「…………いえ、あなたは特別だ。呼んできます、準備がありますで少しお待ちを。彼の水がなくなったら新しい水を、いいな」
そういって奥の部屋に消えていった教祖の目を忍ぶように、リースのグラスには氷が解けてすらないというのに、手を震わせながら教祖の妻は水を運んできた。
「奥さん?」
「貴方、聖女を信じてここに来たのではないでしょう。誰かは知らないけれど、娘を助けてお願いです。あの子を、私の娘を助けて……!」
「落ち着いて、ゆっくり聞かせてほしい」
「駄目、見られたらあの子が危ないの。私はどうなってもいい、でもあの子だけは聖女の奇跡とか、そんなことにもう纏わりつかれずにまっとうに育ってほしいの」
閉ざされた扉の奥から足音がする。追及の時間はない、リースはグラスを手に取るとわざと床に落とし、すみませんと声をあげグラスにわざと触れようとした教祖の妻を引き留めるふりをする。
「何をしているんだ! 客人の前でまた粗相を……」
「待ってください、俺が手をすべらせたんです。奥さんのせいじゃない、すみません奥さん」
床にひれ伏す彼女を心配するような仕草で、リースは彼女の背をさすって立ち上がらせる。顔をあげた彼女に教祖からは死角になる位置で、リースは「俺は彼女を助けに来た、知っていることがあれば、この番号に」と用意しておいたフィンチにつながる番号を紙を渡す。
「まったく……すまないエドワースくん、この子が聖女だ。あまり力を使うと疲れてしまう、今日はこの一度しかあわせてやれないが了承してくれ」
布で顔も体型も全て覆われた手だけが露出した少女らしい子供に、リースは手を差し出す。少し薄い手のひらは、ためらいがちにリースの手に触れた。その爪の先は、少しだけ紫で染まっている。クローデットだ、リースはそう判断する。
「恋人を、亡くしたのね。とても、悲しんだ。自分を壊すためにいきてた」
「……ああ」
「でも……ごめんなさい、疲れて……これ以上は……」
リースはその場は大人しく引き下がり、自分にあてがわれた部屋に戻った。隠しカメラや盗聴器の類はすでに外している、リースはペアリングが終わったケータイから、教祖からサイラスに向けられたメールを見る。そこには聖女の代わりを見つけようと書いてある、リースはスーツに隠した通信機を耳に入れると、フィンチに「犯人は父親とサイラスだ、クローデットの代わりを見つけて、不要になった彼女を殺す。そういう筋書きだ」と声を発した。
『ああ、こちらも裏がとれた。臓器バイヤーに彼女を売り飛ばすつもりだ、急いでくれリース君、母親の話が正しいとすれば、バイヤーが来るのは今晩だ』
◇◇◇
信者が夜に外に出るのは禁じられている。そして、ひとつ気づいたこともあると言ったフィンチの言った言葉の続きをリースは思い返す。サイラスの持っていた信者の名簿には少なくない子供の名前がのっていた。ここで結婚し出産した信者は珍しくない、けれど子供の声がすることはない。そして、臓器バイヤーと教祖は古い付き合いがある。教団が発足して、閉鎖した環境を作れるようになった時期からのそれと、信者が少なくなっても羽振りのいい生活ができていること。繋ぎ合わせれば、答えは容易に見えた。すでにフィンチが庭の陰に車を回していることを確認して、リースは建物を出た。
銃を手に、リースは裏口に車が止まっていることを確認するとそのまま裏口から建物の中へ侵入し、助けを求める叫び声の聞こえる方へ一気に走り、サイラスの足に二発、教祖の手とバイヤーの肩に残弾を食らわせる。
「こっちだ! 車で逃げるぞ!」
教祖の妻が抱きしめた我が子を抱えて必死の顔で苦し紛れに放たれた銃弾から、閉じ込められていた豪奢な監獄から駆け出してゆく。リースはフィンチが後部座席に彼女たちを乗せると、フィンチを助手席に移動させハンドルをつかむ。
「カーターに保護してもらう。臓器売買の証拠は車に残しておいてくれ」
「わかっているとも。だが、いいのかい」
「いいのかって?」
「君を……いいや、今は良い。それを議論するべき時ではないからね」
夜の人気のない車輪は滑らかに踏みつけてゆく。カルトの建物からニューヨークの雑踏にたどりつくには、そう時間はかからない。警察署の前で車を止め、リースは自分が持っていたケータイを渡すとカーターを呼ぶようにと優しく語りかけ、クローデットとその母から離れようとした。
「ま、まって!」
「どうした、アリス」
「わかってるでしょ、あたしはクローデット。ねえ、伝えたいことがあるの」
「どうした、感謝の言葉なら必要ない」
「アプローチは、ゆっくり段階を意識して進ませたほうがいいわ。今は角砂糖入りの緑茶だけだけど、警戒されずに受け取ってくれるようになってから、好きそうなお菓子でも見繕ってあげたら?」
そういって、Tシャツとジーンズ姿のクローデットはリースにウィンクして、じゃあねといった。心を読む、というのはなるほど偽りというわけではないらしい。
リースがその場を離れる前にフィンチはすでに消えていた。好きそうな菓子か、とリースは呟いて俺は彼が好きな色すら知らないんだと拗ねたような言葉を心中で吐露する。暗闇がリースを包む、追われながら誰かを救う生活にもいつか終わりは来る。終わるときフィンチとリースはどんな関係になっているのか。今のリースにはとても想像ができなかった。リースの中で滞留し身じろぐのは間違いなく恋で、恋を言葉にするなとリースの口をふさぐのも間違いなく愛だ。
変わらないものは何もない。亡き女神への愛を抱えたまま、届いてほしいのかもわからない恋をしている。ふと、一陣強い風が吹いた。あの美しいイングリッシュガーデンは新しい誰かに巡り合わないまま枯れていくのだろうか、それともその美に惹かれた誰かが家を買い取り庭を生き延びさせるのだろうか。
益体もないことを思考しているのはリースも分かっていた。けれどきっと、花が惑わしてきたせいだ。いつもの緑茶以外に何を見繕おう、好きかどうかはわからないが、ドーナッツなら外れはないのかもしれない。月を霞ませるネオンを少しだけ見つめて、リースは今日も暗闇に紛れた。